白衣の天使

コロナの爆発的感染拡大が何とか抑えられていることについて、医療従事者、特に感染の危険に直面する看護師の献身的な働きが称賛されている。
50年以上も前になる。大学入学直後の4月に父が脳出血で倒れた。国立松本病院に検査入院中のことだ。血圧がすごく高いのに早いスピードの点滴がされ、ベッドの上で脳出血を起こしたのだから今でいえば医療事故だ。しかし当時は医療のあり方に声を上げるなどということは考えられず、ただ諦めるしかなかった。

父は重症で最初からほとんど意識がなかった。そのころの病院は完全看護ではなく、入院患者の世話をするため家族の付き添いが求められた。母は折り畳み式の簡易ベッドを持ち込んで泊まり込み、近くに住む兄弟が弁当を届けるなどしていたが、夜もゆっくり眠ることもできず、夏になって母は体調を崩してしまった。

そこで夏休みの僕が代わりに泊まり込み看護をした。父親のおむつも取り替えて手洗いした。症状が少し改善した時には、まだ動いた手で名前を書こうとする父の手助けをした。外出もできず、小型テレビやSNSもない頃だから、本を読んだり小型ラジオで音楽を聴いて時間を過ごした。海へ山へと出かける同級生たちは別世界に行ってしまったように感じた。

担当医が時々回ってきて様子を見る。多分研修中の医師だったのだろうが、ほとんど言葉を発することもなかった。担当の看護婦は2人いた。20歳前後で、多分准看護婦だったろう。交代で来て、血圧測定や点滴をして、ベッド際にしゃがんで、ほとんど反応を示さない父になにかと話しかける。

深夜になってうつらうつらしていると病室に影のように入ってきて、父の様子を確認すると、小声で「お休みなさい」と僕に笑顔で言って身を翻すように暗い廊下に消えていった。父の回復は望めず、自分の将来の見通しも立たず、重苦しい気持ちの続いたあのころ、彼女たちの笑顔だけが救いだった。白い制服姿の彼女たちの姿は今も心に残る。

母は植物状態となった父を自宅で看護することにした。その年の暮れの30日に、義理の兄が28歳で2歳の長男を残してすい臓がんで亡くなった。そして翌年の正月3日、5人の子供がそろった時に父は息を引き取った。母は「子供たちが皆いてくれてよかったね」と父の遺体にすがり付いて声を上げて泣いた。母が泣くのを見たのはこの時が初めてだった。

あれから半世紀たち、看護婦(師)の任務は複雑化・高度化した。コロナ禍の中で看護師の重要性が改めて認識されている。日本の看護水準の高さを反映して、保健師や助産師(いずれも看護師資格を要する)が国連職員になるケースも出てきた。

しかし、どんなに専門化しても、不安で心細い患者や家族に寄り添い、同じ高さの目線で話しかける姿は変わらないのだろう。傍らにいるだけで人に安らぎを与える彼女たちは白衣の天使だ。

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