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【大人の流儀 伊集院 静 心に響く言葉】 Vol.36

大人の流儀

 伊集院 静さんの『大人の流儀』から心に響く言葉をご紹介します。私は現在『大人の流儀』1~10巻を持っています。このうちの第1巻から心に響く言葉を毎回3件ずつご紹介していこうと考えています。全巻を同様に扱います。

 時には、厳しい言葉で私たちを叱咤激励することがあります。反発する気持ちをぐっと堪え、なぜ伊集院さんはこのように言ったのだろうか、と考えてみてください。しばらく考えたあとで、腑に落ちることが多いと感じるはずです。

 帯には「あなたのこころの奥にある勇気と覚悟に出会える。『本物の大人』になりたいあなたへ、」(『続・大人の流儀』)と書かれています。

 ご存知のように、伊集院さんは小説家ですが、『大人の流儀』のような辛口エッセーも書いています。



「相撲取りに社会常識を求めるな」から

伊集院 静の言葉 1 (106)

 
 私は相撲取りが苦手である。
 一度、ハワイ行きの飛行機で周囲が全員力士と関係者の時があった。
 ともかく大きい。声もでっかい。飛行機が飛び発ち、彼等が話をはじめた。この内容がスゴイ。漫画の話、キャバレー、風俗の女の子の話。ギャンブルの話。タニマチと行った飯屋の話……。ともかく聞いていて(聞こえてくるから仕方がない)、呆きれるくらい馬鹿話を到着までしていた。よくまあこれだけ意味のない話をできるものだと思った。
------馬鹿もここまでくると清々しかった。
 最初はおとなしかったのにと思ったら、それは飯を喰っていたからだった。
 以来、私は力士に社会常識を求めることは象に空を飛べというに等しいと確信した。

大人の流儀 2 伊集院 静                               




「人生の伴侶を失うということ」から

伊集院 静の言葉 2 (107)

 
 私の好きな女性作家が小文で書いていたが、長くともに暮らしていた猫が亡くなった後、深夜、水か何かを飲もうと台所に行き冷蔵庫を開ける時(閉める時かもしれないが)、冷蔵庫のドアを一瞬止めるというか、静かに開閉する動きを自分がしていて、それは愛猫が足下からあらわれるので、その動きが日常になっており、その瞬間に、そうか猫はいないのだと気付く、というような文章を読んだことがある(正確ではない。もっときちんと書かれてあっただろうが)、近しいものの不在をこれほど端的に書いたものはそうそうない。読んだ時、口の中に苦いものがあふれた。

大人の流儀 2 伊集院 静                               



「人生の伴侶を失うということ」から

伊集院 静の言葉 3 (108)

 
 少年の時、レンガが足に落ちて来て足の親指の爪を割ってしまった。父と病院に行き、爪を抜いた方がいいと診断した医者に、父は麻酔はなしで抜爪してくれと言った。
 医師も看護婦も、何より私が驚いた。
 今でもその痛みを覚えているからかなりのものだった。病院の帰り道に父に言われた。
「ぼんやり歩いているからそんなものが足に落ちてくるんだ。その痛みを忘れるな」
 以来、落下物の犠牲になっていないし、少々の痛みは耐えられるようになった。
 変わった教えではあったが、今となっては有難い。
 子供が腹が空いた、というのを口にするのも父は叱った。
 訊きたいことが亡くなってからいろいろと出てくる。妙なものだ。
 何より母を見ていると父への想いが言いようのない感情となって募る。
 この原稿を書き終えた途端、母から連絡が入った。
「高倉健さんから線香が届きました。しっかりお礼を申し上げて下さいね」
 有難いことだ。父が生きている時に届けば、さぞ喜んだろう。そういうわけにはいかないナ。

大人の流儀 2 伊集院 静                               



出典元

『大人の流儀 2』(書籍の表紙は「続・大人の流儀」)
2011年12月12日第1刷発行
講談社



✒ 編集後記

『大人の流儀』は手元に1~10巻あります。今後も出版されることでしょう。出版されればまた入手します。

伊集院静氏は2020年1月にくも膜下出血で入院され大変心配されましたが、リハビリがうまくいき、その後退院し、執筆を再開しています。

伊集院氏は作家にして随筆家でもあるので、我々一般人とは異なり、物事を少し遠くから眺め、「物事の本質はここにあり」と見抜き、それに相応しい言葉を紡いでいます。

🔷 「冷蔵庫のドアを一瞬止めるというか、静かに開閉する動きを自分がしていて、それは愛猫が足下からあらわれるので、その動きが日常になっており、その瞬間に、そうか猫はいないのだと気付く」

この文章は愛猫に関する女性作家の描写の一部です。
大切な人が亡くなった後で、ふっと「もういないのか」と感じる瞬間があります。

私は、最愛の妻を7年前(2015年8月)にがんで亡くしました。
その後、城山三郎さんの『そうか、もう君はいないのか』という本を読み、とても共感しました。

「最愛の伴侶はんりょの死を目前にして、そんな悲しみの極みに、残された者は何ができるのか。私は容子の手を握って、その時が少しでも遅れるようにと、ただただ祈るばかりであった」

「四歳年上の夫としては、まさか容子が先に逝くなどとは、思いもしなかった。もちろん、容子の死を受け入れるしかない、とは思うものの、彼女はもういないのかと、ときおり不思議な気分に襲われる。容子がいなくなってしまった状態に、私はうまく慣れることができない。ふと、容子に話しかけようとして、われに返り、『そうか、もう君はいないのか』と、なおも容子に話しかけようとする」

下記の回想録に掲載しています。



🔶 伊集院静氏の言葉は、軽妙にして本質を見抜いたものです。随筆家としても小説家としても一流であることを示していると私は考えています。


<著者略歴 『大人の流儀』から>

1950年山口県防府市生まれ。72年立教大学文学部卒業。

91年『乳房』で第12回吉川英治文学新人賞、92年『受け月』で第107回直木賞、94年『機関車先生』で第7回柴田錬三郎賞、2002年『ごろごろ』で第36回吉川英治文学賞をそれぞれ受賞。

作詞家として『ギンギラギンにさりげなく』『愚か者』などを手がけている。







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