見出し画像

原爆忌と終戦の日に思う

8月6日の広島原爆忌、8月9日の長崎原爆忌とソ連対日参戦の日、8月15日の終戦記念日。
そしてその前後に起きた各都市への空襲の日。

今年もまた、日本国民として決して忘れてはならない日が巡ってきましたが、今日は私個人の身の上について少しお話しようと思います。

アメリカ軍が最終的に原子爆弾を投下したのは広島市と長崎市の2都市ですが、実はこのほかにもいくつか原爆投下の候補地とされていた都市があったことはご存知の方も多いかと思います。
原爆投下の候補地に挙げられた都市のなかで有名なのは京都市、新潟市、福岡県小倉市(現北九州市小倉北区・小倉南区)ですが、このうち京都市には出征した夫の留守を守っていた母方の祖母(当時21歳)と、帝国大学の学生だった父方の祖父(当時20歳)が居住していました。

京都市に原子爆弾を投下するとした場合に投下目標とされていたのは梅小路機関区の扇型機関庫(現在の京都鉄道博物館)。
もしこの上空で原子爆弾が炸裂していた場合、爆心地となった場所から徒歩30分ほど、京都駅にほど近い場所に居住していた母方の祖母はかなりの確率で命を失っていたはずです。
父方の祖父についても爆心地からそれなりに離れた場所にいたはずですが、負傷するか相当な量の放射線を浴びるかしていた可能性は決して低くなかったと思います。

史実では戦後日本での対米感情の悪化を危惧したアメリカのヘンリー=スティムソン国務長官の鶴の一声により、京都市は原子爆弾の投下候補地から外されていますが、もしこの鶴の一声がなく京都市に原子爆弾が投下されていたら、母方の祖母が爆心地から至近距離の場所で被爆しているため、今頃私はこの世に存在していなかったでしょう。

現在の梅小路機関区扇形機関庫

さらに言うと、当時応召し鹿児島県の航空基地にいた母方の祖父(当時21歳)は福岡県の出身。
鉄道省に就職して最初の職場は小倉工場でした。
1945年8月9日、長崎市に原子爆弾を投下したB-29「ボックスカー」号は、当初小倉市に原子爆弾を投下するつもりで同市上空に到達しましたが、雲が厚く投下目標の小倉陸軍造兵廠を視認できなかったため、やむなく投下場所を第二候補の長崎市に変更したという経緯があります。
もし、母方の祖父の勤務先が1945年8月9日時点でも小倉工場で、なおかつ同日の小倉市の天候が快晴だったならば、母方の祖父は史実のように88歳で天寿を全うすることは叶わなかったかもしれません。

かつて小倉陸軍造兵廠のあった地域(現在のリバーウォーク北九州)

身の上話が長くなりましたが、私はもし原子爆弾が京都市に投下されていたらこの世に存在していなかった人間のうちの一人です。
それゆえ、広島市と長崎市への原爆投下とそれに伴う被害については決して他人事ではないと常々認識しています。
生きているのが辛くなることがないといえば嘘になりますが、危うく命を拾った人間のひとりとして、二度と核兵器が使用されない世の中が実現すること、ロシアとウクライナの間、イスラエルとパレスチナの間などで起きている戦争が一日も早く終戦することを願って結びとさせていただきます。

原爆ドーム
現在の長崎市の爆心地付近

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?