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喜界島へ

まだまだ先のことだと思っていたのに、
あっという間に喜界島に行く日がきた。


今年の始めあたりから少しずつ
喜界島に行くプロジェクトについて
渋谷クロスfmの番組"竹内藍のAiTube"や、LIVEに来てくれている皆さんにはお話してきたつもりなのだけど、

自分のなかでもあんまりこれまで言語化してこなかったことと、楽しい場所を意図せず湿っぽい空気にしたくないのと、そもそも喋りで伝えることが下手すぎるという色んな要素が相まった末に

あまりよく伝わってないだろうなと思って、そうなると文章しかないということでついでに色々脱線しながらここに書いてみようと思う。



子供のころ

小学校から帰ってきて、おやつを食べてる間、母は隣で珈琲を飲みながら、島の思い出話をよくしてくれていた。

私の母は喜界島で育った。


小学校3年生になったころからだろうか、
母は入退院を繰り返すようになり、4年生の冬休みのお正月を過ぎたあとに母は死んでしまった。
その翌週に阪神・淡路大震災が起きた。
1995年のこと。


自分のルーツのひとつである喜界島という場所は、
一度も訪れることのないままただぼんやりと心のなかにある存在だった。


時は流れ、音楽をやりたいんだと言って、高校卒業して生まれ育った高知を出て上京した。

東京(というか神奈川だった)の学生寮はとても窮屈だった。
はやく一人暮らしの部屋が欲しかった。

専門学校を卒業して
ようやく念願の一人暮らしをはじめた。

最初の部屋はロフト付きの小さい部屋だった。
寝ぼけて階段から何度か落ちた後、ロフトは無駄に広い荷物置きと化した。

京王線沿いで姉と一緒に住んだ時もあった。
しかし当時の潔癖の姉とはどうにも折り合いが合わず、険悪な空気と日当たりの悪さに耐えかねて引っ越した。

そんな風に一、二年住んでは引っ越してを4回ほど繰り返したころ、家のポストに一通の手紙が届いた。

喜界島役場からだった。


人は驚くと本当に時が止まる。
開けると、地籍調査の手紙だった。


母が昔住んでいた場所らしい地図や住所が書かれていた。

ああ、本当に住んでいたんだなと思ったのと同時に、
なんで私の今の居場所まで分かるんだろうと思ったのだが
…こういう、役場の調査力って凄いみたいだ。

その手紙が届いてから約6年ほど。
母の話にでてきたリアル喜界島に行ってきます。

6月のBANDLIVEで初披露しましたが
島のイメージで歌も作りました。
ただいま絶賛レコーディング中
来年完成予定です。
出来上がったらぜひ聞いてくださいね。


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