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あいかもしれない

こんばんは。
演劇企画Iかもしれないvol.1 「シーソーゲーム」先週無事終演しました。

せっかくなのでラフイユの裏話的なものを書こうと思います。

今回のラフイユは普段の僕の作風とはちょっと違う感じの作品でした。
まあ何でかって言うと理由は二つあって、

・自分が演出しないから、どう演出するかをガン無視して出てきたものをそのまま書いた
・シンプルに書くとき病みまくっていた

一人でやらないことを前提にして、演出の新明さんや役者さんに解釈を託す空白多めの作品になりました。
実際役者さんにも「初見で言いたいことがわからなかった」とか「解釈がいっぱいあって難しい」って言われました。その通りだと思います。
何なら僕も小屋入りして、何が書きたかったのかとか物語の全貌が見えてきて面白いなと感じていました。
作品にしてくれたラフイユ班の皆さんには感謝しかないです。

とはいえ何も考えずに書いてたわけでもないので、書きながら考えていたことを少しだけ。

ラフイユはフランス語のla feuilleから。
la feuilleは一枚の葉と言う意味です。
僕は既存の文学作品を物語の種にしたりするのですが、今回はO.ヘンリーの『最後の一葉』が種でした。だから一枚の葉。あらすじがうろ覚えだったので本編とは全然違う話になりましたが。

何が書きたかったのかと聞かれると分裂と崩壊なのですが、メッセージ性があったかって言われるとそんなことはないです。ただ人が壊れていく形を描きたかった。

元は多重人格の人の内部の性格の話をインサイド・ヘッドみたいな書き方をしようとしていたのですが、書き上がって実際に上演を見ていると、一人の人間が環境の変化で性格が変わっていく話なのかなと思ったりしました。もともとの性格と変化して生まれた新しい性格。登場人物は真生以外名前に共通の文字が入っていて2グループに分けられるんですけど、実が元の性格、空が新しい性格です。何のこっちゃわからないと思うので台本買ってください。(おい)

もともと彼らには「人柄、感情、知識、倫理」っていう役割みたいなのがあったんです。一人の人間のこう言う部分を抽出してます、みたいな。最終的に完本した頃には薄味になっていたし、完本した本にもちょっとしか残っていないのですが。なんかもう少し差別化できた気もするけれど結局全部一人の人間だからまあいっかと言う感じ。


家と記憶の話。
なんかわざわざ説明することはない気がしますけど。セリフにも出てくるし。記憶には上書きと整理があってどんどん入れ替わっていく。記憶の整理と真生の崩壊に直接の因果関係があったの?と聞かれると、僕もよくわからないですが記憶の整理によって真生が崩壊したと言うより、真生の崩壊によって記憶が整理されたって方かな。
入れ替えたら上書きされる、片付けたら埋もれる。

もともとの命題は「今を生きる、過去を生きる、未来を生きる」冒頭にみんなが言っていた言葉です。
流れる時間の中で、何を大事にし、どこにフォーカスして、どう生きるのか。某アオサギの映画みたいなことを言っていますが、僕が描く物語も割と毎回そんなお話だと思います。
命題とストーリーは繋がったようで繋がっていない気もしますが、それくらいふわっとしている方がこの作品っぽいかなとか思ったり。

あとゲネ中に思った感想。作者病んでんなって。
実際大学の公演を降板した前後にこの作品を書いているのでめちゃくちゃ病んだ状態で書いてます。病んでいる感情の吐露、整理のつかない思考、自分にかけて欲しい言葉。意外とそう言うセリフがたくさんあって、ああぁって思いました。

ざっくりこんな感じです。
長く書いたようで意外と短いし、もっともっともっといろんなことを考えながら書いた気がします。
とっ散らかった僕の思考がいつかまとまって表現できるようになれたらいいな。

台本をnoteで販売してみてます。
もしよかったら買ってみてください。

https://note.com/taketopan/n/nb70092006ec3

最後に
こう言うタイプの粗さの本は今後書かない気がします。わかんないけど。
人に演出を全投げする前提じゃないとこう言うの書けないので、もしかしたらそんな機会があるかもしれないけど。ここまでよくわからない作品を作品として生きさせてくれてありがとうございます。
これからもひろなかは脚本を書くので気にかけていただけると嬉しいです。

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