残余

 「100日後に死ぬワニ」という作品は、当時大きな注目を浴びていた。生物である以上確約されている生死という概念を、期限を見せるというだけで第三者的に注目したくなるものになるのだなと感じた。

 学生としてのおれの余命は残り30日を切っている。そして、3月31日に死亡することを考えると、最後の100日間の始点は12月21日に(多分)なる。実はこれは今計算したのではなくて、10月くらいにふと思いついてカレンダーに記録した。自分の余命をメタ的に見つめることで、画面の中の自分ではなくコントローラーを持ってる側の自分が楽しめると考えた。セルフ100ワニ。100日後というのは意外と実感はなく、全体像としては捉えづらかった。なんか知らん人に会ったりおもろいことしたいな〜くらい。しかし、3月に入り、いよいよ残りが個々に明確に捉えられるようになってきて、やっと本当にやっておかなければならないことが見えてきた。「週に予定は3つまで」というメンタルとの約束は破り、とにかく鬼のスケジューリングをし始めた。「翌朝予定ある日は飲み入れない」「予定は一日一個まで」という、4年間で学んだ教訓も全て捨て、次の日に旅行があろうが大会があろうが詰め込みまくっている。

 もはや食事すら考え込んでしまう。残り食事回数90回程だとして、食べておかなければいけないものってなんだ!学生のおれが支払う金額は今月末のクレカ4万だけでいい為、お金のことも気にしない。服も少し買い足した。いつもならギリギリ我慢するラインの服をいくつか買い、誰にも会わない日でもおにゅーの服で、1人で運転してららぽーとに向かう。そこでもまた服を買い、おそらく最後になるであろうポケモンセンターで2時間程連れて帰る子を悩み、ふと気になった韓国料理屋で2000円のランチを食い、帰宅の渋滞に捕まりながら車内カラオケをしていたところで気付いた。めちゃくちゃ楽しい。さっきの例で考えるならば、ゲーム画面の中の俺ではなくてプレイしている側のおれが楽しんでいる。コントローラーをほっぽって画面すら見ていない。常に、来年生き残るために今年を嫌な思いしてでも頑張って、来年になれば再来年生き残る為に…というのをもうやらなくて良いのだと落とし込まれた瞬間にメタ認知とかよくわかんないものは消失した。なんだ、今の現実が楽しいなら良いって凄く単純で、最高で、いかに今までそれができてなかったのかを実感している。

 さて、では何故3月31日に死ぬのか。それはおれにもよくわからない。超嘘。くっきりはっきりわかるんだけども、それを説明するには少なくとも16年掛かるから説明できない。何か本当に決定的で瞬間的な理由があるのならば説明できたかもしれないけど、そういうものは本当に無い。多分突然死ぬ人というのは、でっかい絶望が瞬間的にキャパオーバーして、それでそうなるのだろうな。もしくは、少しづつ少しづつ小さい絶望を丁寧に積み重ねていって、崩れない程がっちり絶望タワーが出来上がったところで、あとはジャンプするだけだったのかもしれない。おれは喰い断を狙っていたのに、何かの拍子にオタ風をポンしてしまった。もう上がれないから降りて凌ぐしかないと思っていたら下家の親にリーチをかけられて安全牌もなく、修正もできなく、詰んでいるみたいな状況になってしまったのかもしれない。

 4月からニューゲームが始まるかもしれないが、始めるか(始まるか)どうかは今のおれにはまだわからない。少なくとも、データを引き継いだまま始めてしまうと下家に12000点払ったところから始めなくてはならないので、ロードはしない。以前自殺未遂があった時に、生か死かのファイナルアンサーのタイミングがあった。そして、天啓的に生を選んだ。あの日のことは少しづつ薄まっていくのだけれど、酸素が生存可能ラインを下回るギリギリのところでの閃きの瞬間のことだけはずっと強く残っていて、一生忘れることはないのではないかと思うこともある。あの時みたいな、絶対的な選択のタイミングが月末にもう一度来る気がする。天啓がまたもらえるかもしれない。だから、まだ今現在の時点では、それ以降は決めないというか、決められないのだ。

メタ認知云々の話に若干触れたが、それも本当にそうだったのか疑問が残る。それが明確に発生したタイミングは、自殺未遂があったタイミングだ。第三者的に自身を見つめることで、死ぬほど絶望的な事実を「画面内の自分」に押し付けた。そうして本物の自分は暗い部屋に隠れて効いていないフリをしている。となると、それはただの自己防衛でしかない。メタ認知というよりは、解離的な逃避行動か。実際にメタ認知的な側面も兼ね備えていたことと、何よりも「メタ認知」というものが社会的に良いものとされているから願望的に自身の状態を誤認してしまっていたのではないか。そして、体裁とか将来とかを考えさせている画面内の俺を動かすが、生存の期限が決まったことでその必要性が無くなったから、やっと「おれ」が暗い部屋のドアを開けたのかもしれない。だが、そうなったことで逆に、画面内の俺に背負わせていた絶望的な事実たちも、おれ自身がまた引き受けなければいけない。

この100日間は、絶望を引き受けたおれが、これからも本当に生きていけるのかを真剣に考える期間なのではないだろうか。絶望をこれから打ち消せる算段があるのか、それともまた画面内に分身を作るのか、完全なニューゲームを始めるのか、それとも、というところだ。現状の中間報告的結論は言わないとして、まあ、とりあえず、星乃珈琲店でカツカレーを食べたいと思う。

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