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恵美子

わたしはゆるやかな檻の中にいる。
スクリーンの中の暴力沙汰に目を奪われていても、数時間後には家で家族の夕食の支度をし、明日の弁当のためにおかずを取り分けることも忘れない。月曜と木曜には燃えるゴミを出し、週4日時給1000円のパートに勤しむ。
50歳既婚女性という檻。妻であり母であるという檻。簡単に抜け出せそうに見えて、結局はこの中でしか生きられない。抜け出せたとしても、また別の檻に入るだけ。わたしだけじゃない。みんながみんなそれぞれの檻の中で暮らしてる。

エンドロールの文字を目で追いながら今日の夕食をシミュレーションする。
主菜、鰆の西京焼き→焼くだけ。副菜、ほうれん草のおひたし、トマトとわかめのサラダ→冷蔵庫から出して盛り付けるだけ。汁物、しめじとえのきのかきたま汁→出汁を火にかけ具材を入れて味付けたら卵をとき入れて仕上げに万能ネギを散らす。ご飯→タイマーセット済み。

劇場内が明るくなってからスマホの電源を入れる。LINEの通知。夫から「今月の売り上げ達成。打ち上げしてきます。」おっ、めでたい。スタンプで返信する。
大学生の息子は中華料理店のアルバイトの日だからまかないがある。
降って湧いたような自由時間。18時15分。さてどうしようか。

トイレで用をすませ、身支度をして出る。近日公開のポスターを眺めながら劇場をあとにする。
「あの、すみません」
振り向くと若い男。エキゾチックな美しい顔をしている。
「あの、失礼を承知でおたずねしますが、その、ストール?ショール?というのでしょうか?それは、どちらでお求めになったものでしょうか」
「ああ、これですか」
三角に折って肩に掛けたストール?ショール?の端に手をやる。
「これ、祖母の形見、というのか、話せばちょっと長くなるんですけど…
お母様かどなたかにプレゼントをお考えですか?」
「ええまあ、そんなところです。」
照れたように笑う顔がまた美しい。
「そんなわけで、ちょっとお役に立てそうにありません。ごめんなさいね。」
学生の頃亡くなった父方の祖母の形見分けでもらってから30年ほど。訊かれなければ忘れてしまうほどこのシルクの布はわたしの一部になっていた。

「あの、よければその、お祖母様の形見のお話聞かせてもらえませんか?」

ええ?
何?国際ロマンス詐欺?それともわたしがまだ知らない新手の詐欺?

いやいやいやいやいくらなんでもないないないないと思いながらもわたしは男のあとをついて歩いていた。

祖母の通夜、火葬、葬儀、繰り上げの初七日まで済み、父の姉のノブエ伯母ちゃんと父の妹のサチヨ叔母ちゃんとわたしは祖母の部屋を片付けていた。
父は4人きょうだいの第三子で次男。ノブエ伯母ちゃん、トシオ伯父ちゃん、父、サチヨ叔母ちゃん、という構成だ。それぞれ子どもが2人ずつで、わたし以外はみんな男。そんなわけで、わたしは父方の祖父母にとっては唯一の孫娘であり、おじおばにとっては唯一の姪として、ものすごく可愛がられて育った。

「ああ、お母さん、これこんなところにしまいっぱなしで、もう…せっかくプレゼントしたのに」
サチヨ叔母ちゃんがタンスの引き出しから光沢のあるレンガ色の布を引っ張り出した。四つの辺にぐるりとつや消しのビーズが施してある。
「エミちゃん、これあんたがもらいなさい。」サチヨ叔母ちゃんが正方形の布を三角に折ってわたしの肩にふわりと掛けた。
「あら、それがいい!エミちゃん、よく似合ってる!」
ノブエ伯母ちゃんがわたしを鏡台の前に立たせる。
おばあちゃん、これもらうね。大切にするからね。

男に着いて行った先は、路地裏の隠れ家のようなバーだった。男は常連らしく、マスターに目だけで合図して奥のテーブル席についた。これが詐欺ならバーのマスターもグルだろうか。やはりここはノンアルにしておくべきか。警戒しすぎも良くないか。いや、どうにも喉が渇いた。ビールだ。というわけで男とわたしはビールで乾杯した。

わたしの祖母の形見の話がひとしきり終わったタイミングでマスターがおかわりの注文を取りに来た。
男は何やら呪文のような言葉をごにょごにょとマスターに告げた。
わたしは季節の果物を使ったノンアルコールカクテルを注文した。
ほどなく男には何やらとても良い香りのするウィスキー、わたしには梨のノンアルコールカクテルが運ばれてきた。

男はウィスキーに口をつけると言った。
「僕がプレゼントをしようと思っている相手のことですが、実は父の妾なのです。」
は?
め か け ?
思わずお口あんぐりしていた。
そんなことお構いなしで男は憂いのある表情を浮かべながらウィスキーを口に含んでいる。
このあとの展開が全く読めない。詐欺にしてはだいぶ手がこんでる気がする。

腕時計に目をやると、20時7分。そろそろ帰らないと。
「わたしの祖母の話は済んだので帰りますね。久しぶりに祖母のことを思い出してなんだかあったかい気持ちになりました。」
今は変な汗が止まらないけれど。
テーブルの上に千円札を二枚置いて立ちあがろうとすると男がわたしの左手に右手を重ねた。
「次は僕の話を聞いてください。連絡先をお聞きしても?」
逡巡して頷く。バッグからボールペンを出し、コースターの裏にパソコンのメールアドレスを書く。少し考えてから、端に「エミ」と書き加えた。
「恵美子」と書くのが面倒で手紙なんかではいつも「エミ」とサインしているけど、コースターの裏にメールアドレスと並んだ「エミ」はなんだかホステスの源氏名みたいで居心地が悪そうだ。
「僕はイトウヒロシといいます。こちらに連絡差し上げますね、エミさん」

伊藤博はそれから毎日判で押したようにメールを送ってくる。わたしは夕食の片付けを終えてお茶を飲みながらパソコンで家計簿をつけてからメールを読む。新聞の連載小説のように朝の連続テレビ小説のように綴られた博の物語を。

資産家の次男として生まれた博。優秀な兄。優秀な妹。病弱で繊細で父から疎まれる博。優しかった母の死。絵を描くのが好きだから美大に行きたかったけど反対される博。父に妾がいることを知った博。妾(綾子)への嫌悪を募らせる博。不本意ながらも父に画廊を持たせてもらう博。親が決めた相手と結婚させられる博。綾子が妾をしている理由を知った博。やがて綾子を愛してしまう博。いつか父という檻から綾子と共に逃げ出したいと思うようになる博。韓国ドラマみたい。

これが新手の詐欺だとしたら博は綾子と駆け落ちするための資金をわたしに要求してくるのだろうか。それとも本当にただ誰かに話を聞いてほしいだけなのか。

博と初めて会ってひと月ほど経ったある日、わたしはある思いつきを試してみることにした。
わたしから博にメールを送ってみたのだ。

件名:エミです

○月○日
Kシネマ シアター1
14:35〜16:50
B-6


○月○日、14時20分。わたしはKシネマ シアター1 B-5の座席にいた。博は来るだろうか。
ブザーが鳴り、暗くなる場内。
スクリーンに映画泥棒が映し出された時、彼は静かにわたしの隣の席に腰を下ろした。
まっすぐスクリーンを見つめている。
本編が始まったとき、彼の左手がそっとわたしの右手の上に乗せられた。2時間15分の間、そのままだった。
エンドロールが終わる少し前、彼は立ち去った。わたしは後を追うことはしなかった。

その日以来彼からメールが来ることはなかった。
翌日の夕方のニュースが財界の大物の死を告げた。
その数日後の新聞の社会面には海辺の町で起きた火事で、40代の女性と30代の男性が亡くなったと小さな記事が載った。

博と綾子は檻から出て、新しい檻に入れたの?その檻の中はどんな感じ?

今でもわたしは映画の座席予約をしたら、劇場名、スクリーン番号、上映時間、わたしの席の右隣の座席番号を博にメールする。届かないとわかっているけど。



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