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美幸

「じゃ、もう一回頭から」
テツヤの声。
わかってるよ。わかってるけどなんで?なんであたしがセンターでギター持って立ってんの?
ギターのトモちゃんもベースのケイコもうなだれて何も答えてくれない。そしてテツヤなんでお前がそこにいる?そこはあたしの場所!
「おかーさん!」
は?あたしはあんたのおかあさんじゃない!

「ねえ、おかーさーん!ちーちゃんのカエルさんのくつしたどこー?」

幼稚園の体操服姿の娘、千里が枕元にしゃがんでいる。
「おかーさんおはよう」
夢か…
「おはよう」
まだ6時。ちーちゃんずいぶん早起きだね。
「待ってね、とってくる」
掛け布団を勢いよくはねあげて起き上がる。「もうお着替えしたんだ。えらい!」
6:30にセットしているアラームを解除する。
「おとうさんは?シャワー?」
「うん」
子ども部屋になる予定の部屋のドアを開ける。
乾いた洗濯物はこの部屋に取り付けたロープにハンガーやピンチハンガーごとぶら下げてある。ソファーの上に置いたりしたらそのままにしてどんどん散らかっていくのが目に見えてるからこの方法に落ち着いた。時間がある時にこの部屋でたたんで片付ける。
ピンチハンガーから千里のお気に入りのカーミットの靴下をはずす。
「ちーちゃんお待たせ。どうぞ。」
ソファーの上にミッフィーととらねこたいしょうと沖縄土産のパイナップルのぬいぐるみを並ばせてなにやら遊んでいる千里に靴下を渡す。
「おかーさん、きょうあさごはんたまごパン?」
「そうだよー。」
昨夜のうちに半端に余った卵をゆで卵にして刻んでマヨネーズであえてある。6個入りのパターロールを袋から出して切り込みを入れて卵をはさんでいく。
「おはよう」
バスルームから夫の大樹が出てきた。
「おはよう。パン食べる?」
「うん。2個」
「ちーちゃんはねー、いっこたべます!そしてね、トマトもたべます」
やかんを火にかける。
「はいどうぞ」
ダイニングテーブルに卵サンドとミニトマトをのせた皿を置く。
千里には牛乳の入ったマグカップも。
お湯が沸いたらごくごく雑〜にコーヒーをドリップする。おいしいコーヒー飲みたいというよりも、動作と香りで目を覚ますため。
「おかーさん、ちーちゃんはコーンスープをのみます!」
「はい、待ってね」
千里はクルトンを「このしかくいのきらいなの」と残すので、コーンの粒が入っているカップスープの素を使う。あ、もう残り一袋しかない。次の特売で買わなきゃ。
「おとーさんあのね、きょうね、たいそうがあるの。とびばこするんだよ。だからカエルさんのくつしたなの」
「そっかー。上手に跳べそうだね」
「はいスープ。熱いから気をつけてね」
大樹にはコーヒー。
洗濯機回して昨日の洗濯物たたもう。

7:30 大樹出勤
スマホで天気をチェックして洗濯物を干す。ずっと秋晴れが続いているので洗濯の心配はないけど、肌とか喉とか乾燥するのが気になる。寒さにむかう季節だから子どもが風邪ひかないように気をつけないとな。
千里はぬいぐるみを従えてソファーに座ってEテレを見ている。

残っている卵サンド無意識に3個全部食べてしまった。おいしかったからいいや。

『おかあさんといっしょ』が終わったら、幼稚園バスの乗り場、Lマンションのエントランス前へ。
年中のさくらちゃん、かずとくん、年長のまいちゃん、そして年少の千里。
8:20 バスは子どもたちを乗せて幼稚園へ。

家に戻って朝の食器を片付けてざっと掃除して身支度。今日は嫌な夢見ちゃったし、お気に入りのKIMONOSのTシャツ着ていこう。

パート先は自転車で15分のファミレス。入園前の千里を遊ばせていた公園で仲良くなった中島さんに紹介してもらった。今千里が通っている、完全給食で17時まで延長保育ありの幼稚園も中島さんが教えてくれた。
平日のランチタイムのホールのパートさんは6人いて、そのうち5人は幼稚園〜中学生のママさんだから、なにかと都合がいい。
幼稚園に通い始めたばかりの千里はたびたび熱を出していたけれど、安心して休むことができた。
お下がりもいっぱいもらった。

いらっしゃいませこんにちは
お客様4名様ですね
ご案内いたします
はい、かしこまりました
お待たせいたしました
ご注文繰り返します
失礼いたします
こちらお下げしてもよろしいですか?
ありがとうございます
またお越しくださいませ

今日は近くの市民ホールで講演会かなんかあったらしく、とっても忙しかった。お客様が多くてざわざわしていると、どうしても声を張り上げがちになって喉が痛くなる。でも仕事終わりの煙草は美味い。パートを始めてからずっとやめていた煙草をまた吸い始めてしまった。なんか区切りというか句読点が欲しいのかもしれない。

「お疲れ様です」
キッチンのバイトのコウちゃんが休憩室に入ってきた。コウちゃんとあたしは苗字が同じ田中なのでややこしくならないよう、みんなコウちゃん、美幸さん、と呼んでいる。
コウちゃんはあたしのTシャツをチラッと見て言った。
「美幸さん、ライブハウスって行きます?」
「うーん、若い時は行ってたよ。友だちのライブとか」
一応あたしもバンドやってたしね。今朝の夢がよみがえる。
「おれ、バンドやってるんですけど、興味あります?フライヤー渡してもいいですか?」
「ああ、うん。もらっとく」
コウちゃんはロッカーからフライヤーを1枚出してきた。
「…TANGLE?」
見覚えのあるバンド名。
「あ、知ってます?K県から来てくれるんすよ!ずっと呼びたくてやっと実現したんですよ!」
「大学のサークルの同期。」
「えっ、まじすか?すげー。美幸さんもバンドやってたんすね!」
ああ、やってたよ。もう二度としないつもりだけど。

バンド、楽しかったな。あんなことになるまでは。
ギターボーカルのテツヤとギターのトモちゃんが付き合い始めたまではまあよかった。いつもいっしょに練習してるからか初心者だったトモちゃんのギターはすごく上達したし。
それがなんでかテツヤがトモちゃんと別れてベースのケイコに乗り換えたんだ。まじありえんと思った。トモちゃんは病んで大学を1年間休学した。バンドは空中分解した。あたしはサークルを辞めた。テツヤとケイコは別のメンバーを入れてバンドを続けた。
あたしは就職でF県に出てきて、こっちが地元の大樹と結婚した。
バンドからは完全に足を洗ったけど、音楽は好きだからメジャーなアーティストのライブやフェスには普通に行く。
サークル関係の友だちとはほとんど縁切ったけど同期の平野君とは今でもときどきメールのやりとりをしている。TANGLEは平野君のバンドだ。

『熱々!焼肉Night!!』
アホそうなイベントだな。
「コウちゃんのバンドは?何ていうの?」
「"中落ちカルビ"っす!3ピースのパンクバンドっす!おれはドラムです。CD出すんで、そのレコ発なんすよ!激アツメンツっすよ!」

行ってみようかな、彩ちゃん誘って。

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