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暁子

行きつけの角打ちのテラス席(とわたしは呼んでいる、ビールケースの椅子とでっかい糸巻きみたいなやつが置いてあるだけ)に彼はいた。日サロ焼けとも、夏休みの小学生とも違う肌の色。お世辞にもきれいとは言えない服装。足元に大きなバックパック。あきらかにどこか海外、おそらく東南アジア帰りのバックパッカー。彼があんまりおいしそうに缶ビールを飲んでいるので、思わず声をかけた。
「ねえ、おごるから一杯つきあってよ。生でいい?」
彼はわたしを見るときれいな歯を見せて笑った。その笑顔がまぶしくてまぶしくて、わたしはもう彼を好きになっていた。

彼の名前は真。「真実の真でまこと」少し恥ずかしそうに彼は言った。歳はわたしの三つ下。3か月日本で働いて1か月海外に行く生活をかれこれ2年続けていて、今日タイから帰ってきたばかりだと言う。
「今日はどうするの?泊まるとこあんの?よかったらうち来なよ!空いてる部屋あるし。」
わたしが住んでいるのはもともとは伯父の家だ。従兄の健一くんが東京に進学して就職して伯父が亡くなり、伯母は健一くんが奥さんと子どもと暮らす神奈川のマンションに引っ越すことになり、空き家になるよりはと、わたしが住むことになったのだ。
「え、じゃあお言葉に甘えて」
でっかい荷物を背負って、真はわたしのあとをトコトコついてきた。

その日からわたしと真の共同生活が始まった。
リビングやわたしの部屋は多少家具を入れ替えたりしているけど、ほとんど手を加えていない元・健一くんの部屋に真は落ち着いた。そう、彗が「お父さんの部屋」と呼んでいるこの部屋。
朝8時台に家を出て、夜7時頃帰宅するわたしと、深夜の工場バイトの真。すれ違いだし、お互い自分のことは自分でするのでたまに家で会うと少しびっくりするけど悪い気はしない。ひとりでいてもひとりじゃないような、ふたりでいるけどわずらわしくない、絶妙な距離感。たぶん彼はしばらくしたらまた旅に出ていくだろうけど、またここに帰ってきてくれたらいい。なんだったらこのままずっとここにいてくれたらいいのに。

あの日は確か金曜日だった。帰ると真が部屋にいる気配がしたのでノックしてドアを開けた。
テレビの画面にカイル・マクラクラン。真は『ツインピークス』を観ていた。
「おかえり。」
「ただいま。懐かしいのみてるね。」
「うん、たまたま見つけたから。」
わたしは真のとなりに座っていっしょに見始めた。
「なんかさ、俺はさ、こういうの謎は謎のままで全然平気なんだ。考察、とか、伏線回収、とかそういうの必要ない。わからなくてもわからないまま愛せる。」
えっ。
わたしは思わず真の正面にまわって抱きついた。
わたしも同じこと思ってた。
「わたしも!わたしも同じ!同じこと思ってた!」

それから1か月。いつのまにかわたしと真がはじめて会ってから3か月たっていた。郵便受けの中に茶封筒。手にした瞬間にわかった。彼は出て行った。茶封筒の中身は合鍵だ。


「それから?」
彗が訊いた。
「それっきりだよ。彼から連絡はないし、わたしも彼を探すことはしなかった。
それからしばらくして彗がお腹にいることがわかったの。」
「そっかー…よかった。
僕ね、もしかしたら、お母さんがお父さんを殺したんじゃないかな、って思ってたの。」
「は?あんたばあちゃんといっつも2時間サスペンスばっかみてるから!」
「うん、僕もそう思う。サスペンスドラマ見過ぎ。
でもそのくらいうちではお父さんの話はタブー中のタブーでしょ。」
まあね。そんなふうに考えてもおかしくないね。
「でも僕、わかったよ。お母さんはお父さんとの思い出が大事すぎて、誰にも話したくなかったんでしょ?違う?」
違わない!そのとおりだわ!
「だからうれしい。僕に話してくれて。」

真、会いたいよ。彗を会わせたいよ。そしていつか作ってくれたスパイスがいっぱい入っててなんかよくわからないけどおいしいあの豆の煮込みが食べたい。


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