見出し画像

大河コラムについて思ふ事~『光る君へ』第21回~

5月下旬になりました。真夏日もありますが健やかにお過ごしでしょうか。
急に暑くなり気温や気圧の変化など、皆様健康には充分お気を付けください。
さて、光る君へ第21回。
今週も『武将ジャパン』大河ドラマコラムについて書かせていただきます。
太字が何かを見たさんの言質です。
御手隙の方に読んでいただければと思います。それでは。


・初めに

>隆家と伊周が地方へ飛ばされ、母は都へ追い返され。
長徳の変の顛末と粗筋にしてはあまりに適当すぎて中関白家兄弟がどこに配流されたのかなど、具体的な説明がなされていないと思います。
藤原伊周卿は、藤原為光卿の三の君・光子さまに懸想していました。
しかし、光子さまの妹・儼子の許に通っていた花山院を勘違いから恋敵と思い、伊周卿は不義に悲しみます。
同調した弟・隆家卿は兄の制止も聞かず、屋敷から出て来た花山院に弓矢を射掛け、従者同士の乱闘になり花山院の従者に犠牲者が出ました。
これが長徳の変の始まりとなります。
さらに、伊周卿は女院・詮子さまの自室に呪符を仕込んだ呪詛の疑い、朝廷のみで行う秘術である大元帥法(たいげんのほう)を私的に修して道長卿を呪詛した疑いで検非違使別当・藤原実資卿から一条帝に伝わり、帝は厳罰をお求めになりました。
中関白家兄弟の母・貴子さまは息子たちの罪が重くならない様、蔵人頭・藤原斉信卿に帝への口添えを頼みました。
伊周卿も道長卿に口添えを頼み、中宮定子さまは謹慎中の身ながら帝に減刑を願い出ました。
本来なら謀反は死罪であるところ、罪一等を減じられ伊周卿は『大宰権帥』、隆家卿は『出雲権守』として遠流に処されました。
しかし、伊周卿と隆家卿が処分を受け入れず、二条第に立て籠もったため、検非違使が二条第を取り囲み、定子さまは自らの髪を切り落とし落飾してしまいました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>藤原伊周の捕縛が迫る中、二条第の庭に隠れ潜んでいたまひろと清少納言。
>二人は藤原定子が髪を切る姿を見てしまいました。
処罰に納得せず逃げ隠れた中関白家兄弟を連行するため、別当・藤原実資卿率いる検非違使が中関白家の邸宅・二条第に踏み込みました。
庶民の様な小袖姿で庭に身を隠したまひろさんとききょうさんが成り行きを固唾を呑み見守る中、検非違使による伊周卿の捕縛が始まります。
実資卿は出てきた定子さまを牛車に移した後に屋敷の中を改めようとしましたが、定子さまは従おうとせず検非違使から短刀を取り上げると止める実資卿を無視し、自らの黒髪を一房切り落としてしまいました。

『光る君へ』より

髪が床にぽとりと落ち、定子さまは「出家いたします」と言います。
あまりの事に母・貴子さまが悲鳴をあげました。
庭ではききょうさんが啞然とし、今にも飛び出しそうな彼女をまひろさんが止めています。
ききょうさんは「どうして…中宮さま…」と嘆きます。
定子さまは自ら髪を切り落とし、落飾してしまったのでした。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

『小右記』長徳二年(996年) 五月一日条には、『中宮(藤原定子)に於いて捕獲して、配所に遣わした。網代車に乗せた。病を称したことによるものである」「権帥(伊周卿)と出雲権守(隆家卿)は、共に中宮の御所に籠っていて、出すことができなかった」「そこで宣旨を下して、夜大殿の戸を破り壊した。そこでその責に堪えず、隆家は出て来た」「権帥伊周は逃げ隠れた。宮司に御在所及び所々を捜させたが、すでにその身はなかった』とあります。
また、『小右記』長徳二年(996年) 五月ニ日条には『中宮権大夫(源)扶義が(中略)云ったことには『后は昨日、出家された』と云うことです。事は頗る事実のようです」ということだ。』とあります。

『小右記』長徳二年(996年) 五月一日条
『小右記』長徳二年(996年) 五月ニ日条

・定子落飾の衝撃?

>帝は藤原道長から定子落飾を聞かされ、「誰も止めなかったのか!」と嘆いています。
定子さまが落飾した事が内裏に広まり、一条帝が道長卿から報告をお聞きになり「誰も止めなかったのか!」と驚きを隠せないご様子です。
道長卿の後ろに控えた検非違使別当・実資卿は「この身が至らぬゆえの事でございます。お詫びの申し上げようとてございませぬ」と頭を下げ不備を謝罪します。
帝は「お前を責めておるのではない」と仰いました。
しかし、帝は「中宮が自ら髪を下ろしたのか…中宮は朕に腹を立て髪を下ろしたのだろう」と苦悩なさっています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

道長卿はまだ捕縛されていない伊周卿について、「必ず捕らえます」と申し上げました。
帝は「朝廷の権威を踏み躙った伊周の行為は許さぬ。事の重大さもわきまえずいきなり髪を下ろし朕の政に異を唱えた中宮も伊周と同罪である。」と大層お怒りになっています。
帝のお心を慮った実資卿と蔵人頭・藤原行成卿は下がって行きます。
残った道長卿の前で帝はよろめきながら「愚かであった…。中宮はもう朕には会わぬ覚悟なのか…。」と定子さまへの本心を打ち明けられます。
そして「あーーー!」と悲しみ叫ばれました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>混乱した様子で、唐玄宗と立場が重なってきているようにも思えてきます。
>最愛の楊貴妃が、乱れた政治の原因だと処断を迫られ、玄宗はそれに応じてしまった。
>誰が最愛の相手を殺すのか? 
帝が定子さまについて、「事の重大さもわきまえずいきなり髪を下ろし朕の政に異を唱えた」とお怒りになったのは、玄宗皇帝の寵妃・楊貴妃の様に皇帝の寵愛を受け、政務を疎かにさせ国を乱す様な事をしているからではありません
身内の不祥事が原因とはいえ、中宮が事実上の俗世との別離である落飾を許可無くし帝に一切会わぬ覚悟をした事以上に、定子さまが仏門に入る事は宮中の神事(公務)を司る妃がいなくなった事を意味しました。
色恋や情の問題だけでなく、政権の公務執行上の問題となり一大事であり、建前上すぐに次の后をとなってしまうのです。
白居易の『長恨歌』を引用していますが。
玄宗皇帝の場合は楊貴妃に惚れ込み国政を疎かにしたため節度使・安禄山が謀反を起こしました。唐の兵士たちにより楊氏一族は滅ぼされ、楊貴妃自身の処刑を要求したため楊貴妃は皇帝から死を賜ります。
一条帝の場合は国政に積極的に関与し、刑罰や検非違使の捜査の指示をなさっています。
また、帝に謀反人として罰せられるのは定子さまの兄弟である伊周卿・隆家卿です。
定子さまは伊周卿の失脚に際し、自ら落飾し俗世を捨ててしまい、帝は公務が滞りかねない勝手をした定子さまも政に異を唱えた者として同罪と仰っていたのです。
しかし、まだ定子さまに情のある帝は思い悩まれているのです。

>藤原宣孝は、まひろから二条第での目撃談を聞いていました。 
>利に聡いタイプの宣孝は、伊周の逃亡先を聞き出そうとします
>実資にでも告げたら良い“貸し”になるでしょう。
宣孝公が伊周卿の行方を聞いたのはまひろさんが二条第の庭に潜み、一部始終を見ていたと聞き、少し下世話な噂や世間話に興味を持ち、まひろさんに詳細を聞いてみただけかと思います。
まひろさんから伊周卿の行方を聞き出し実資卿に取り入りたいならば、そのままタレコミに行けばよく、わざわざ誰が一番得したか、右大臣と女院の利害一致などをまひろさんに話さなくともよいと思います。
まひろさんは宣孝公に二条第での捕物と中宮・定子さまの落飾の一部始終を話しています。
宣孝公が「あの場に居ったのか?!」と驚き、まひろさんは「庭に潜んで居りました。」と答えます。
宣孝公はまひろさんに「ならば伊周が逃げるところも見ておろう」と行方を尋ねましたが、まひろさんは「色々なことが同時に起き、逃げるところは見ていない」と答えます。
宣孝公は「中宮様のお顔を存じ上げぬがあれだけ帝のお心を惹きつけられるのじゃ。すこぶる良いおなごなのであろう。女を捨てるにはもったいないのう」と軽口を叩きます。
まひろさんが「おやめください。下品な興味でぺらぺらと…どうぞそういうお話は別の所で」と嗜めると宣孝公は「お前が二条第におったと言うから、話しておる。」と言い返します。
「分かった。大きにご無礼つかまつった」と大仰に頭を下げます。
さらに宣孝公は「下品な興味を抱かぬ者なぞ、この世にはおらぬと思うがな」と言います。

>下品な趣味をぺらぺらしゃべらないで、と呆れるまひろ。
>宣孝は「下品な趣味を抱かぬ者はいない」と開き直ります。
宣孝公の「中宮様のお顔を存じ上げぬがあれだけ帝のお心を惹きつけられるのじゃ。すこぶる良いおなごなのであろう。女を捨てるにはもったいないのう」という軽口を受けて、まひろさんは「おやめください。下品な興味でぺらぺらと…」と窘めています。
その後、宣孝公は「下品な興味を抱かぬ者なぞ、この世にはおらぬと思うがな」と言います。
『趣味』ではなく『興味』です。
あと『抱かぬ者はいない』ではいかにも断定的に見えます。
宣孝公は『この世にはおらぬと思う』と自分の考えとして述べています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>そして宣孝は、見方を変えると宣言しながら、「この騒動で一番得をした者は誰か?」と囁く。宣孝公は見方を変えると言い、「この騒動で得をしたのは誰であろうか?」とまひろさんに尋ねました。
無言になるまひろさん。
宣孝公は「この騒動で得をしたのは右大臣(道長卿)であろうか。花山院との小競り合いを殊更大事にしたのは右大臣だ。右大臣は女院と手を結び伊周を追い落とした。先のそのまた先の関白の嫡男で、中宮の兄である伊周を失脚させれば右大臣は無敵だ。さらに、女院詮子も、子も宿さぬのに帝の心をとらえて離さない中宮が気に入らない。これは右大臣と女院のはかりごとやもしれぬ。こういう真面目な話ならいいだろう?」と持論を展開しました。
まひろさんが硬い表情でそれを聞いています。
「如何したか」と宣孝公に訊かれ、まひろさんは「…なるほどとも思いました」と妙に納得しています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>まひろはどうしてこうも猜疑心旺盛なのでしょうか。
>あれほど惚れているなら「そんなわけありません!」と返した方が可愛げというのものがある。
好奇心ならともかく猜疑心旺盛とは言わないのではないでしょうか。
『猜疑心が強いのでしょうか』の方が良いと思います。
宣孝公の語る道長卿像は凡そパブリックイメージの道長卿でした。
まひろさんは宣孝公の持論を聞いて中関白家兄弟失脚で一番得する人物を考えてみると政敵である道長卿と定子さまを嫌う女院・詮子さまが上がるわけで、『道長さまの人となりを知らない人ならばそう考えても仕方ないだろう』という考えに至り納得したのではないでしょうか。
まひろさんは道長卿に惚れているか否か関係無く、状況をきちんと分析して冷静にものを解釈できる人だと分かります。

宣孝は、越前守になることでいくら稼げるか、そればかり考えていそうです。
>為時が儲ければ、まひろの価値も上がりますけど。
そこへ、式部省や大学の知り合いに挨拶に行っていた為時公が戻ってきました。
為時公は「皆、中宮の出家の話で持ちきりで、相手にされなかった」とこぼします。
「間が悪かったな」と宣孝公は為時公をなぐさめ、「装束が見違える様に立派になったのう」と褒めました。
「早速右大臣さまからお手当てが出た故」と為時公が答えます。
そのやり取りを聞いていたまひろさんの表情はやはり硬いままです。
国司は中央へ確実に租税を上納する代わり租税収取や軍事などの権限を大幅に委譲され、強大な権限を得たため、莫大な蓄財を行うことも可能でした。
宣孝公の様に異国との貿易や商売での仲介をするのも交易港のある国の国司の蓄財計画でしょう。
貴族の中には巨額の富を得るため、国司に任命してもらおうと人事権に強い影響のあった摂関家へ取り入る者もいました。
しかし、為時公は学者であり道長卿は彼の漢籍の才を見込んで松原客館に留め置いた宋人との対応のために越前守に任命しました。
商売でのマージンや蓄財に貪欲だった宣孝公はともかく、欲のあまり無い為時公が任国で儲けようとしているとは限らないでしょう。
また為時公が儲ける事で上がるまひろさんの価値とは何でしょうか。
為時公は富を得るため越前に赴くわけではないと思います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

・清少納言は中宮の側に戻る?

>髪をおろした定子のもとに、清少納言が来たと報告されます。
二条第の簀子縁では、落飾した定子さまが袈裟を纏っています。
ききょうさんが来訪しますが、定子さまは「追い返せ」と命じます。
しかしききょうさんは「帰りませぬ。あの時里に下がったのは間違いでございました」と言い、再びお側に仕える許可を求めました。
しかし定子さまは「ならぬ。私は生きながらに死んだ身である」と拒否します。
それでもききょうさんは「私は覚悟を決めて参りました。命ある限り私は中宮さまのお側をを離れません。御命とあれば私も髪を下ろします」と言います。
定子さまは「ならぬ、下がれ」と言いました。
しかしその場に倒れてしまい、ききょうさんは定子さまを抱きしめます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

何見氏は白居易の『長恨歌』の下記部分を引用し、寵愛を受けた女性が倒れ従者に支えられる姿の艶かしさを言いたかったのでしょうが、定子さまの様子と比較するなら、下記部分の解説を具体的にして下さい。
この詩の引用部分の前後は『温泉水滑洗凝脂 侍児扶起嬌無力 始是新承恩沢時(温泉の水は滑らかに玉の肌を洗った。侍女が助け起こせば、艶かしく、力無い様子。まさにこの日、はじめて楊貴妃は天子(玄宗皇帝)の恩寵を賜ったのだ。)』となります。
定子さまの場合は、関白だった父はすでに亡く兄弟たちも不祥事で配流になり後ろ楯を無くし、自身は全てを捨てる様に落飾し隠棲しています。
最も信任のおけるききょうさんの側に仕えたい旨を断った矢先に倒れてしまった(この後おそらくききょうさんが定子さまご懐妊を察している)という場面で、皇帝の寵愛を賜り関係を持った後の艶かしい姿の楊貴妃とは全く状況が違います。

侍児扶起嬌無力

書き下し文:
侍児(じじ) 扶(たす)け起こせば嬌(きょう)として力無し

意訳:
侍女が助け起こせば、艶かしく、力無い様子。

白居易 『長恨歌』

・検非違使別当・実資により伊周捕縛?

>藤原実資が、妻の婉子女王からマッサージを受けています
藤原
実資卿が自邸で、妻の婉子さまに体を揉んで貰っています。
彼の腰を揉む婉子さまが甘ったるい声で「コチコチにこざいます」と言う様に連日連夜の探索で疲れが溜まっている様です。
婉子さまは「もう科人の行方探しなどおやめなされ。博識な貴方のおやりになる事ではありません」と言っています。
実資卿も「全くだ」と言います。
そして「逃げた伊周を見付けなければ、検非違使別当は辞められない。見付かれば配流先に送って別当を辞める」と明言しました。
婉子さまは最近夫が自分の相手をしてくれず「殿はお帰りになると疲れた疲れたとすぐお休みになってしまうんですもの」と拗ねています。
婉子さまに戯れに腹を揉まれつつも、実資卿は「今少し待て。今少し待て。今少しじゃ…」と繰り返し、婉子さまだけでなく自身にも言い聞かせている様でした。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>身体をマッサージさせながら何気なく語る実資ですが、健康マニアらしい発言にも思えます。
実資卿が健康マニアである論拠や出典を出して下さい。
余談ですが、長和3年(1014年)6月25日条には『病にかかっている小児(藤原千古=実資卿の娘)を治す生虫(なまむし)の薬を持ってきた。私は大宋国の医僧(恵清)の許にある薬を送ってきてもらうよう願い求めていたのだ。』とあり、舶来の薬を求め取り寄せている記述があります。
因みに按察納言(あぜちなごん)とは藤原隆家卿の事で『医師(恵清)のもとへ遣わし、目を治す薬を交易させた』とあります。

小右記 長和三年(1014年) 六月二十五日条

>相手がいかにかわいらしい妻であっても、実資は自己抑制ができている。
>かつて宣孝から贈られたスケスケ衣装美女の春画を喜んでいた実資は、色好みでもあります。
婉子さまは検非違使別当に就任した実資卿が長徳の変の取り調べや捜査で多忙を極め自身が構って貰えない事を愚痴り、実資卿の健康維持のために体を揉む事でスキンシップを図っています。
実資卿も妻の気持ちを慮り「(伊周卿の捕縛が済んだら検非違使別当を辞めるつもりなので)今少し待て」と言っているのであって下の自己抑制ではありません。
実資卿が色好みだったという記述の出典を書いてください。
堅物で故実に精通し筋を通す実資卿。
彼が好色だったという逸話が『古事談』という説話集に残っています。

実資卿は小野宮(京都市中京区)に邸宅を構えその向かいに美味しい水が出る井戸がありました。
その井戸には、近くの下女が水を汲みに来ていました。
実資はその中に好みの女性を見つけると、自邸に連れ込んで情を通わせていました。
それをを知った藤原頼通卿(道長卿の子)は一計を案じ、自邸の侍所の雑仕女の中からもっとも美しい下女に水汲みに行かせ、『もし実資が手を出したら逃げよ』と命じたのでした。
予想通り実資卿が手を出したので、下女は水桶を捨てて逃げました。
その後、実資卿が頼通卿の邸を訪ね、公事(政務)について相談したところ、頼通卿から「ところで先日の侍所の水桶を返してほしいのですが」と言われて赤面したという事です。

『古事談』

『古事談』には上記以外にも
実資卿と藤原教通卿(藤原頼通卿の弟)とが遊女・香炉をめぐって鞘当てをした話も伝わっているとの事です。

実資卿には数人の女性がいましたが、彼の正妻と認められたのは源惟正卿の娘(作中では桐子さま)と、婉子女王さまだけだったそうです。(参照:増田繁夫『平安貴族の結婚・愛情・性愛―多妻制社会の男と女』)
子宝には恵まれずとも婉子さまとの仲は良好で彼女の死後、実資卿は正式な結婚をする事はありませんでした。

>しかし、東洋医学で寿命を縮めるものといえば「酒」と「色」。
>疲れが溜まっているときは、この二つは遠ざけるべし――そう考えていても不思議はありません。
>疲れたと言いながらエッチなコンテンツに耽溺する誰かがいたら、実資は「ありえん、命を縮めるぞ!」と呆れることでしょう。
>飲酒とエロスは健康なときに、ほどほどにしておくこと。
疲れたと言いながらエッチなコンテンツに耽溺する誰かがいたら、実資は「ありえん、命を縮めるぞ!」と呆れることでしょう。』とありますが、『疲れたと言いながらエッチなコンテンツに耽溺する誰か』はどこにいるのでしょうか。
いたとしても人に迷惑をかけない程度で本人が気晴らしできいいと思うなら他人がわざわざ言う事ではないと思います。
余談になりますが、戦国時代の医師・曲直瀬道三が書いた『黄素妙論』には男女の房中術について慎みを基本に、決して過多に陥ってはならないと説いています。
儒医、貝原益軒の『養生訓』にも限度を越えた男女の営みを戒める記述があります。

>「宇治」の地名に注目ですね。
>当時は都でも郊外で、少し離れていることが把握できます。
>『源氏物語』「宇治十帖」の舞台です。
宇治には関白・藤原基経卿が(836-891)が定めた藤原北家一門の埋骨地・宇治陵があります。
宇治陵には、伊周卿の父・道隆卿も葬られており、左遷されるに当たり伊周卿は宇治陵に向った後、北野天満宮(『栄花物語』)や春日大社(『日本紀略』)や愛宕山(『小右記』)を参詣したのだそうです。

実資卿は婉子さまに「見付かれば配流先に送って別当を辞める」と明言していました。
しかし北山から宇治まで捜しても、伊周卿の行方は分かりませんでした。
「こっそり二条第に戻っているやも知れぬ」と、道長卿は実資卿に言い「今一度くまなく捜せ」と命じます。
実資卿は「中宮のご在所ゆえ、帝のお許しを賜りたい」と答えます。
許可が下り、検非違使により再び二条第の探索が行われました。
そこへ僧形の伊周卿が現れ、「探さずともここにおる!出家したゆえ任地には赴けぬ。その旨帝にそうお伝えせよ」と言います。
伊周卿に、実資卿が「伊周殿、被り物を取られよ」と命じます。
伊周卿は「うるさーい!」と叫び逃げようとしますが放免たちに取り押さえられ、バサリと頭巾が落ちます。
出家とは嘘で伊周卿は剃髪していませんでした。
「こ、これから剃髪するゆえ、任地には赴けぬ。帝にそうお伝えせよ」と伊周卿が言います。
定子さまは「見苦しい!」と伊周卿を諫め、「帝の命に速やかに従うように」と言います。
実資卿が、「直ちに大宰府に向けてご出立を。連れて行きなされ」と伝えます。
伊周卿は地面に転がり「嫌だ嫌だ嫌だ!」と子供の様に駄々をこねます。
「ここを離れるわけには行かぬ。亡き父に自分が家を守ると誓った」と涙を流す。
貴子さまは「私が行かせる」と庭に出て、「もうよい」と伊周卿に声を掛けました。
「母も共に参るゆえ大宰府に出立いたそう」と言います。
伊周卿は貴子さまの膝に取りすがり泣きじゃくります。
それを見ていた定子さまは、気分が悪そうに喉元を押さえています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

『小右記』長徳二年(996年)五月四日条には『帥(藤原伊周)の申請した事を奏上させた。「病によって、去る朔日(さくじつ)には下向しませんでした。加えて女法師(高階貴子)を連れて下向することを免(ゆる)されたい」と云(い)うことだ。私はこれについての勅答を聞かず、退出した。』とあります。

『小右記』長徳二年(996年)五月四日条

>「母と子で太宰府へ向かおう……」
太宰府』は地名・都市の名称として使われ、『大宰府』は西の都の中心であった古代の役所を指します。
ここでは伊周卿を大宰権帥として大宰府に向かわせる場面なので『大宰府』が適切だと思います。

>話の顛末を聞いた帝は、都に留まりたいというだけでなんと愚かなことをしたのか……と呆れ果てています
道長卿の奏上をお聞きになった帝は、「都に留まるために愚かな事を」と仰います。
実資卿が「伊周は母を伴って大宰府へ行きました」と伝えると、帝は直ちに「許すまじ。母親を連れ戻せ」とお命じになりました。
出立した網代車の中で伊周卿は貴子さまに謝り、貴子さまは伊周卿に多くを背負わせてしまった事を悔いていました。
しかし二人を乗せた網代車は止められてしまいました。
そして実資卿が率いる検非違使や放免が姿を現します。

『光る君へ』より

実資卿は「母の同行はまかりならぬと帝からの命令でござる。お出しせよ」と検非違使らに命じました。
「中宮の御母君に何をする」と伊周卿が言い、貴子さまも「定子も出家し、子は伊周しかいない」と許しを乞います。
現場に来ていた道長卿に、貴子さまが「右大臣様!」と呼びかけ、伊周卿も「右大臣殿!頼む…」と見逃してもらえる様頼みました。
実資卿は「伊周殿。この先は騎馬にて下向されるべし」と命じます。
放免によって引き離される中、伊周卿は「嫌だ!俺は病気だ!馬には乗れぬ!」と言います。
「母上!母上!」と叫び、母との別れを拒みますがついに放免たちによって貴子さまと引き裂かれてしまいました。「父、道隆の死から1年。その子どもたちは全て内裏から姿を消した」と語りが入ります。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

『小右記』長徳二年(996年)五月五日条には、『(平)倫範が云(い)ったことには、「権帥(藤原伊周)は昨夜、石作寺<長岡にある>に宿しました。(惟宗)允亮と(茜)忠宗が、今朝、山崎離宮に送りました。母氏(高階貴子)は同行させてはならないとの宣旨が下りました」と。』とあります。

『小右記』長徳二年(996年)五月五日条

>しかし、そんなことは知らず、牛車で都を離れる母と子。
伊周卿と貴子さまが乗る網代車は牛に引かせるのではなく人が引いています。

『光る君へ』より

公式HPの風俗交渉・佐多芳彦氏の『をしへて! 佐多芳彦さん』に検非違使の解説があるのにそれだけでしょうか。
一条帝の命を受け、検非違使別当・藤原実資卿率いる検非違使が藤原伊周卿・貴子さま親子を力ずくで引き離していました。
実資卿は右衛門督(えもんのかみ)と検非違使別当を兼任しており、衛門府と検非違使庁の役人を率いて親子の引き離しに来たという設定なのだそうです。
右衛門督は右衛門府の長官で武官です。
冠を被っている配下の人たちは、衛門府で働く武官の下級役人で、褐衣(かちえ)という服装をしています。
検非違使別当というのは、都の治安を守る検非違使庁の長官です。
烏帽子を被っている人たちは、検非違使庁で働く役人になります。
検非違使の役人の姿は、『伴大納言絵巻』を参考にしているそうです。
白い狩衣姿の役人は『判官』です。
判官は律令制の四等官制において第三位の官で、現場指揮官のような役割です。
赤い弓を携えた赤い狩衣姿の役人は『火長』で班のリーダー役なのだそうです。
揉烏帽子に水干姿の人たちは『放免』で検非違使の下で働く元罪人です。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
冷泉爲恭・模《伴大納言絵巻》
東京国立博物館蔵
原本:出光美術館

・中宮の失墜と女院の安堵?

>さらに追い討ちをかけるような悲劇が起こります。
>二条第から火の手があがったのです。
寝所にいた道長卿に百舌彦さんが、「二条邸が火事にございます」と伝えます。
まひろさんといとさんも、空が赤く染まるのを不安そうに見つめます。
為時公が戻り、「二条第が燃えているそうだが、ここまで火が回ることはない」と言います。
定子さまとききょうさんの安否は分かりません。炎の中で定子は座したまま動きません。
そこへききょうさんが駆けつけました。
定子さまはききょうさんに「そなたのみ逃げよ」と命じます。
定子さまは「私はここで死ぬ。生きていても虚しいだけ」と言います。
そんな定子さまにききょうさんは、「お腹のお子のため、中宮さまはお生きにならねばなりませぬ」と繰り返し説得します。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

『小右記』長徳二年(996年) 六月九日 条には『今朝、中宮(藤原定子)の御所が焼亡した。』とあります。

『小右記』長徳二年(996年) 六月九日 条

>かなり燃えていて、かつ逃げ出しにくい服装ですが、どうにかなったのでしょうか。
小右記』長徳二年(996年) 六月九日 条には「后宮、車に乗らず、侍男等に抱へられ、先づ二位法師の宅に度り給ふ」とあります。
『侍男』とあるので二条第に詰める武士に抱えられ避難したのではないでしょうか。

>藤原詮子が、兄は自分の命が短いと悟っていたのかと源倫子に語りかけています。
詮子さまは土御門殿で倫子さまに、道隆の兄上は己の命が短いことを悟っておられたのかしら?定子を中宮にするのを急ぎ、伊周らの昇進を急がれた。今日のこの哀しい有り様は、兄上の焦りから始まっているような気がする」と吐露します。
倫子さまは「一度に伊周さま、隆家さま、中宮さまを失った貴子さまは、お気の毒でございますね」と言います。
「先のことは…わからぬのう」と詮子さまは言います。
その頃、まひろさんは家で琵琶を弾いていました。

>死人に責任を押し付けるような誘導は、ちょっといかがなものでしょうか。
亡き道隆卿は中関白家を盤石なものにするため定子さまを一条帝に入内させ、寵愛を定子さまに独占させるために他の姫君の入内を許しませんでした。
結果定子さまの登華殿は知識のある貴族や女房が集まり栄華を誇りました。
そして関白として露骨な身内人事により子息の伊周卿や隆家卿は若くして昇進を重ねました。
しかし、公卿として根回しや相談など含めて帝王学を学ぶ経験が浅く、独善的になり他の公卿たちの信任を得る事が少なかったのだと思います。
道隆卿は自身の命が短くなると、焦りからか伊周卿への関白職譲渡を焦り、強引に帝の御在所の御簾を上げ押し入ったり外戚になるために定子さまに「皇子を産め」と迫るなどしました。
定子さまへの「皇子を産め」は関白どころか内覧さえ外された伊周卿も言い、定子さまを追い詰めました。
詮子さまは死者に責任を押し付けたいわけではなく、中関白家には栄華の影でじっくり腰を据えて政をできない事にも原因があったのではと思ったのでしょう。
また倫子さまは一度に我が子を失った貴子さまが気の毒だと言います。
貴子さまはその才を以て若い知識のある貴族や女房を見出し、後宮での定子さまのサロンをもり立てるなどしていたのではないでしょうか。
好きな殿御のために中関白家を支えながらもその凋落を見る事になった賢妻に倫子さまは共感したのではないでしょうか。

>伊周の一件がようやく落ち着き、帝は、実資と道長を労います。
一条帝は伊周卿の件での道長卿と実資卿の働きを「此度の騒ぎにおける働きまことに見事であった」と労われます。
実資卿は望み通り検非違使別当を辞して中納言となりました。
「一条天皇は藤原実資の望み通り検非違使の別当を免じた」と語りが入ります。
そして道長卿は正二位左大臣となりました。
しかし実資卿は、「めでたい事なのに浮かない表情でいる」と道長卿に指摘しました。
「お上の恩恵を賜ったのだ。そのような顔はしてはおらぬ」と道長卿は否定します。
実資は「左様でございますか、気のせいでございました、気のせい、気のせい」繰り返し去っていきます。
しかし実資卿は道長卿の複雑な心持ちを察知しているかの様でした。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

『小右記』長徳二年(996年)七月二十日条には『内裏(だいり)に参った。この日、任大臣の儀が行われた。・・・左大臣に正二位(藤原)道長<今日、正二位に叙された。右大臣(藤原顕光)の下﨟(げろう)となってしまうからである>。』とあります。

『小右記』長徳二年(996年)七月二十日条

>定子の出家に伴い、詮子が、次の妃探しの話を始めました。
>藤原顕光の女である元子が候補に上がると、それがいいと詮子。
>なんでも村上天皇の孫で、血筋がよいのだとか。
帝には女御の義子さまもいる」と詮子さまはこちらも血筋の良い女性として提案しています。
藤原義子さまは太政大臣・藤原公季の姫君で母方は醍醐天皇の皇子・有明親王の子女です。
定子さまの出家後、詮子さまにより次の后探しが始まりました。
「年頃の姫がおらぬのか」と詮子さまは道長卿に尋ねます。
道長卿は右大臣・藤原顕光卿の姫君、元子さまを推薦しました。
元子さまは村上天皇の孫に当たり、詮子さまは「その姫、村上天皇の御孫?よいではないか!それにしなさい」と乗り気です。
帝には女御の義子さまがいます。
「義子も元子も、それよりずーっと尊い生まれ。帝のお子を生むにはうってつけだわ」と喜色満面の詮子さまの言葉に、倫子さまが声をあげて笑います。
「おかしい事を言うたか?」との詮子さまが尋ね、「女院さまがあまりにお元気になられましたので」と倫子さまが答えます。
「もう呪詛されてはおらぬゆえ」と言う詮子さま。
倫子さまが「あの呪詛は不思議な事にございましたね。女院さまと殿のお父上は仮病が得意だったとか」とずばりと言い、詮子さまと道長卿がぎょっとした表情で見ています。
詮子さまは「産み月が近く気が立っておる、労わっておやり」と道長卿に言います。
道長卿が食い気味に「はっ」と承諾し、倫子さまはフフフと笑います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>呪詛の黒幕は詮子のようです。
>皇室しか使えぬ呪詛の様式を利用できた謎も解けました。
詮子さまが自作自演した呪詛は家人が床下から見つけた小さな壺に入った呪符と部屋の調度品に仕込まれた呪符のみです。
藤原実資卿の報告では「伊周殿は祖父である高階成忠に命じて右大臣さまと女院さまを呪詛。3月21日に法琳寺に於いて、臣下は禁じられている大元帥法(たいげんのほう)を修し、右大臣さまを呪詛したことが明らかになっております」とあり、詮子さまの自演とは別に伊周卿3月21日に法琳寺に於いて大元帥法修し、道長卿を呪詛した罪に問われています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>だからこそ、わざわざ「兄のせいでこうなったのだ」と強調するようなことを、倫子の前で語ったのでしょう。
>倫子がいつその真相に気づいたのか不明です。

呪符は中関白家を陥れたい詮子さまが自作自演したもので、花山院を射た件もあり穏便に済ませたい道長卿の意を倫子さまが汲み、内々に処理しようとしたのだと思います。
しかし、別件で伊周卿が臣下では禁じられている大元帥法を寺院で執り行い道長卿を呪詛している疑惑が出たため事が大きくなったのでしょう。

>こちらが恨んだ相手から呪詛されたら、安倍晴明にでも頼みましょう。
『こちらが恨んだ相手』が呪詛するのですか。
『恨まれた相手』『相手から恨まれて』なら分かりますが、自分が恨んでいるから相手も呪詛するに違いない論法ですか。

・悲しき中宮に捧げる『 枕草子』?

>清少納言がまひろのもとへやってきて、藤原定子の懐妊をそっと漏らします。
まひろさんの家をききょうさんが訪れ、近況報告をしています。
ききょうさんが袖で口元を隠しながらこっそりとまひろさんに定子さまの懐妊を伝えます。
まひろさんは「ご懐妊?なんという事でしょう」と驚きます。
「帝の御子ゆえ、公になれば子が呪詛されるやもしれぬと高階一族が秘密にしたがっておられまして」とききょうさんが打ち明けます。
「帝はその事をご存じなのですか?」とまひろさんが尋ねるとききょうさんは「ご存じない」と言い、まひろさんは更に驚きます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

定子さまは出家以来生きる気力を失い、食事もあまり摂らなくなっているそうです。
「それがお腹の子に影響しそうで」とききょうさんは大変心配しています。
ききょうさんは「中宮さまをお元気にするにはどうしたらいいかしら。まひろさまによいお考えはない?」と、まひろさんに助言を求めました。
簡単に答えが出るはずも無く戸惑うまひろさんに、ききょうさんは「そうよね…」と話を終わらせようとします。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

まひろさんは少し考えた後、「ききょうさま、以前、中宮さまから高価な紙を賜ったとお話してくださったでしょ?」と話題を振ります。
ききょうさんは「ええ、伊周さまが帝と中宮さまに献上された紙を。帝が司馬遷の史記を書き写されたところ、中宮さまが『私は何を書いたらいいのかしら』とお尋ねになり、『枕詞を書かれたらいかがでしょう』と申し上げました」とその時の話をします。
まひろさんは「史記が『しき(敷)物』だから『枕』ですか?」と尋ねます。
まひろさんの機転にききょうさんは驚きつつ、「よくお分かりだこと。そうしましたら、中宮さまが大層、面白がられて、その紙を私にくださったのです」と続けます。
それを聞いたまひろさんは、「でしたら、その紙に中宮さまのために何かお書きになってみたら良いのでは?」と勧めます。 
さらにまひろさんは「帝が司馬遷の史記だからききょう様は春夏秋冬の四季とか」と言い、「言葉遊びがお上手なのね」とききょうさんが感心し、二人は笑い合います。

『光る君へ』より

>確かに判明すれば、それこそ詮子ならば呪詛しかねません。
「帝の御子ゆえ、公になれば子が呪詛されるやもしれぬ」と懸念しているのは貴子さまの実家・高階家であり、『右大臣と女院を呪詛した』という罪を負っています。
状況的に詮子さまが中関白家を罠に掛けるための自作自演だった事は道長卿夫妻しか分からず、呪詛した事だけが事実としてあるわけですが、それと同様に特定して詮子様だからやりかねないとはならないのではないでしょうか。
ききょうさんや高階家の方々が懸念する様に出家後に懐妊が発覚した事で政敵から狙われる可能性はありますが。

>ここは予告の時点で、どうしたものかと思っておりました。
>清少納言の動機を、よりにもよって紫式部が提案するという誘導はいかがなものかと……。
>ただし、会話のキャッチボールで決まるのであれば、よいかもしれません。
>会話の中でアイデアが思い浮かぶことは多々あります。
ききょうさんが『中宮さまをお元気にするにはどうしたらいいか』と良案を求めたため、まひろさんは昔話題にした『伊周卿が帝と中宮さまに献上した高級な紙』の話を思い出します。
そしてききょうさんが『帝が司馬遷の史記を書き写されたので中宮さまが何を書いたらいいか尋ねたので『枕詞を書かれたらいかがでしょう』と申し上げた』と続け、まひろさんは「史記が『しき(敷)物』だから『枕』ですか?」と聞き返した訳です。
そして「中宮さまが大層、面白がられて、その紙を私にくださった」とききょうさんが言うのでまひろさんは『何かお書きになってみたら良いのでは?』と提案し、「帝が司馬遷の史記だからききょう様は春夏秋冬の四季とか」と言葉遊びを添え、後の女流作家二人の機転の効いた丁々発止により場が和んだのですが。
作中での『枕草子』の執筆動機等については巻末の跋文にある『内大臣伊周卿が一条帝と妹の中宮定子さまに当時高価だった料紙を献上し、「帝は『史記』を書写されたが、こちらは何を書こうか」という定子の問いを受け、清少納言が、「枕にこそは侍らめ(枕はいかがでしょうか?)」と即答し、「ではおまえに与えよう」とそのまま紙を下賜された逸話によるものです。
まひろさんの機転については、歴史学者の五味文彦氏の新説によるものと思われます。(参照:『『枕草子』の歴史学』五味文彦)

・当時、唐風・唐様に対し和風・和様のものが意識されて多くの作品が生まれている事から、これは「史記=しき」を「四季」と連想し、定子に対して清少納言が「四季を枕に書きましょうか」というつもりで答えたのであり、「唐の『史記』が書写された事を踏まえ、その『しき』にあやかって四季を枕にした和の作品を書くことを宮に提案したもの」
・『枕草子』が「春はあけぼの」から始まるのは、まず最初の話題として春夏秋冬の四季を取り上げた

『『枕草子』の歴史学』

>まひろが女諸葛だと思えば、これも許容範囲でしょうか。
またここでも『女諸葛』ですか。
まひろさんは軍師になりたいわけでもききょうさんに知識マウントを取りたいわけでもないでしょう。
『枕草子』成立はまひろさんか提案していたという、賛否両論あるかと思う「光る君へ」オリジナル解釈です。
まひろさん自身、代筆や直秀たち散楽一座との交流、庶民のたねさんの手習い、さわさんの文によって文筆の悲喜こもごもを経験し、石山寺では『蜻蛉日記』の作者右大将道綱母・藤原寧子さまと出会います。
寧子さまから「私は日記を書くことで、己の哀しみを救いました」と聞いた事も『書くこと』による癒やしの力や誰かのために思いを綴り残す事のきっかけになったのではないでしょうか。
そして今回は「中宮さまをお元気にしたい」と言うききょうさんに「何かお書きになってみたら良いのでは?」と提案したのではないでしょうか。

>早速、清少納言は墨を擦り、筆を執ります。
そしてききょうさんは筆を執り、定子さまから拝領した紙に文章を綴ります。
筆が流れるように運ばれききょうさんの口元から笑みが溢れます。
書き上げたききょうさんは定子さまの寝所へと書を持って行きます。
月明かりに照らされた『春はあけぼの』の書の上に花弁が散っています。

春はあけぼの。やうやう しろくなりゆく山ぎは すこしあかりて 紫だちたる雲のほそくたなびきたる

意訳:
春は明け方に一番趣がある。
だんだんと白くなってゆく山際の空が、少し明るくなって、紫がかった雲が、細くたなびいている(のがいい)。

『枕草子』春はあけぼの
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

ききょうさんは定子さまのためにさらに紙に文章を書き続けていました。夏の夜、ききょうさんがふと気付くと部屋にも外にも蛍が舞っていました。そして彼女の目の前でも幻想的に蛍が舞います。 
蛍は定子さまの許にも飛び交い、定子さまは起き上がります。

夏は、夜。月のころは、さらなり。闇もなほ。螢のおほく飛びちがひたる、また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くも、をかし。
雨など降るも、をかし。

意訳:
夏は、夜(がいい)。
月の(明るい=満月の)ころは、言うまでもない。闇もやはり(またいい)。
蛍が多く乱れ飛んでいるのや、また、ほんの一匹二匹と、ほのかに光って飛んでいるのも、趣がある。
雨が降っているときも、趣がある。

『枕草子』春はあけぼの
『光る君へ』より
『光る君へ』より

ききょうさんは四季折々の事を書き、定子の寝所に届け定子さまはそれに目を通します。
紅葉深くなったある日、定子さまに薬湯を持って行こうとしたききょうさんは、定子さまが自分が書いた物を読んでいるのを目にしました。 
「春はあけぼの、やうやうしろくなりゆきやまぎは。すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる」
定子さまの独白が流れます。
ききょうさんは嗚咽を抑え震えて廊下に立ち尽くしています。
そして、何事もない様に定子さまの許に来たききょうさんは、起き上がった定子さまに深々と礼をします。
「たった一人の悲しき中宮のため、『枕草子』は書き始められた」と語りが入ります。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>根本先生の指導を受けたファーストサマーウイカさんの所作が見事ですね。
ききょうさんを演じるファーストサマーウイカさんのXでのポストによると、『枕草子のシーンは紙と細筆に向き合い何時間も稽古しました。』との事です。
また、10年習字習われていたのだそうです。

ところで何見氏は『どうする家康』レビューで『持ち方すら再現できない大河ドラマとは何なのでしょう。』と言っていましたが、『どうする家康』も『らんまん』も『光る君へ』も筆の持ち方は鉛筆の持ち方のような単鉤法を採用しています。

『どうする家康』より
『光る君へ』より
『らんまん』より
参照:
https://web-japan.org/kidsweb/ja/virtual/shodo/shodo02.html
大河コラムについて思ふ事~
『どうする家康』第30回~

>たった一人の悲しき中宮のために『枕草子』は書き始められた。
>なるほど、こうきたのか、と腑に落ちました。>『枕草子』の様々な内容が、今回と重なって見えます。
(中略)
>けれども『長恨歌』にはこうあります。

『たった一人の悲しき中宮のため、枕草子は書き始められた』という語りの前に『夏は夜』部分を思わせる場面や定子さまが起き上がり『枕草子』の冒頭に目を通し、ききょうさんが涙する場面が何シーンか抜けていますが情緒のある場面なのに何も解説は無いのですか。
下記スクショ後半部分は作中の内容から外れ、『長恨歌』を引用し漢籍マウントを取り、書きたい事を書きたい様に書いているだけで『枕草子』の余韻が失われます。

・宋人の狙いを見極めよ?

>藤原為時が藤原道長のもとへ挨拶に来ています
為時公は「越前について話したい事がある」と左大臣・道長卿から呼び出され参内しました。
道長卿から「支度は整ったか」と尋ねられ、為時公は「同行する娘が一生懸命やってくれております」と答えます。
道長卿が越前について説明します。
道長卿曰く、宋との商いは「彼らに開かれた港は(筑前の)博多津に於いてのみ」で行われていました。
「朝廷は越前に新たな商いの場を作る気はない」とも言います。
道長卿は「その前年(長徳元年(995年)9月)に、若狭に宋人70名が来着し、新たな商いを求めて来た。若狭には大湊も異国人を入れる館も無いため越前の松原客館に留め置いておる」と述べます。
為時公もその事は承知しており「彼らは都とのじかの商いを求めております」と言います。
そして道長卿は「越前と都は近い。都に乗り込む足掛かりとなることも考えられる。彼らは商人などと言っておるが証拠がない。70人もまとまってやって来るのも妙である。彼らが商人は偽りで官人。いや官人どころか戦人かもしれぬ。彼らを穏便に宋に返すことが越前守の一番の仕事である。彼らに開かれた港は博多の津のみ。…と了見させ、穏便に宋に帰す。これが越前守のもっとも大きな仕事と心得よ」と為時に命じました。 
為時公は「知恵の限りを尽くし、一心にその任に当たります」と答えます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>道長も為時も、もっと『孫子』でも読んでください!
>本気で攻め込むつもりなら、さすがに70人は無理があるでしょう。
>大湊がない場所にはそもそも狙って漂着するとも思えない。
>越前は中国大陸に近く、風や潮の流れのせいで偶然流されたと考えた方がしっくりきます。
>いくら都に近かろうが、大型軍船が往来できる航路が確実に確保できなければ、日本に侵攻なんてできやしない。
>道長は作中でも頭が切れるほうには属していないし、都の貴族は兵法を学ぶつもりが全くないと見た。
『本気で攻め込むつもりなら、70人は無理!
航路が確実に確保できなければ日本に侵攻なんてできやしない!都の貴族は兵法を学ぶつもりが無い!』
正常バイアスでしょうか。
『孫子』を学ぶ前に当時の大陸との交易や政情を学んでください。
長徳元年(995年)9月に若狭に宋人70名が流れ着きますが、若狭では異国人を受け入れる施設が無いため、渤海の使節を受けいれる迎賓のための施設(松原客館)のある越前に移しました。

『権記』長徳元年(995年)九月二十四日条

宋人70名が留め置かれた松原客館は、越前国敦賀津(現在の気比神宮の辺り)に置かれた渤海国(ぼっかい)の使節団(渤海使)を迎えるための迎賓・宿泊施設でした。

926年に渤海が滅亡するまで渤海国とは敦賀で交易していました。
出港地、航路は明確なコースは不明ながら、直接日本海を横断し主として季節風を利用して冬は渤海から日本へ来航し、夏にその逆のコースを取ったそうです。
航路は必ずしも安全ではなく多くが漂流し、日本海側各地に漂着していたのだそうです。
長徳元年の宋人たちも航路から何かしらの理由で外れ漂流し若狭に流れ着いたのでしょう。

参照
渤海/渤海国/海東の盛国

新羅の国内の混乱もあり、平安初期の800年代から新羅南部の沿海の流民あるいは海賊とみられる者たちが度々対馬や北九州に渡り襲っており、中には組織的な大集団や国家または強大な豪族の関与が疑われるものも多かった様です。
なお平安中期まで日本では『高麗』といえば渤海国(東丹国)を指したため、高麗が935年に朝鮮統一を果たしますが、朝鮮半島の高麗成立以後も11世紀半ば過ぎまでこれを区分するために『新羅(の賊)』という称も用いられました。

『日本紀略』『扶桑略記』によると、寛平6年(894年)、唐人も交えた新羅の船大小100艘に乗った2500人にのぼる新羅の賊の大軍が襲来し、対馬に侵攻してきたそうです。(寛平の韓寇)
また作中時系列では後の事ですが、長徳三年(997年)に高麗人が、対馬、肥前、壱岐、肥後、薩摩、大隅など九州全域を襲い、民家が焼かれ、財産を収奪し、男女300名が拐われたそうです。
これは『南蛮の入寇』ともいわれ、奄美の住人も賊に参加していたといわれます。(長徳の入寇)

『小右記』長徳三年(997年) 十月一日条

この様な政情も含め、道長卿は『度重なる異国の海賊行為を踏まえ、官人や戦人である可能性を鑑み、越前の松原客館に留め置いた商いを望む宋人70余名に博多以外では交易には応じないことを言い含め、彼らを穏便に帰国させる』事を為時公に命じたのではないでしょうか。

>外交的に引きこもっていないで、以前から遣宋使でも派遣していれば、こんなマヌケなことは言い出さないはずです。
>宋は、北の遼や契丹へ軍事力を割かねばならず、日本に攻め込む余裕などありません。
道長卿曰く、宋との商いは「彼らに開かれた港は(筑前の)博多津に於いてのみ」となっており、筑前の鴻臚館にて迎賓し商売を行っています。 
前筑前守だった藤原宣孝公が宋人との交流で儲け、科挙制度の情報を持ち込んだのもそのためです。

朝廷内の懸念は『宋』との交易ではなく、新羅南部の沿海の流民あるいは海賊とみられる者たちの度重なる海賊行為です。
組織的に頻繁に対馬や北九州などを襲われており、対外政策として交易を制限しているのです。

>貶すなとは言いません。
>ただ、そうするにせよ、中国史や思想をもっと学ぶ必要もあるのではないでしょうか。
>話を戻します、道長の宋脅威論はトンデモ、当時の朝廷の外交がお粗末だったと示していると思えます。
>そんなことだから、平清盛が日宋貿易に開眼したら、あっけなく政治の実権を握られてしまったのでは?
>インフラ整備を輸入に頼っているのに、まともな外交をしないのでは限界に到達して当然でしょう。
何度も言いますが。
筑紫の鴻臚館での通商を官営で行っており、商船の到着が大宰府に通達され、大宰府から朝廷へ急使が向かい、朝廷から唐物使いの役人が派遣され経巻や仏像・仏具・薬品・香料など宮中や貴族から依頼された商品を優先的に買い上げ、残った商品を地方豪族や有力寺社が購入する方法が取られていました。(鴻臚館貿易)
海賊などの対策のために交易港を制限しているだけです。

刀伊の入寇の頃から大宰府の機能低下で日宋間の正式の外交貿易は行われなくなり、博多や薩摩坊津、越前敦賀での私貿易になります。
平清盛公は大宰大弐に就任し(赴任せず)日宋貿易に目を付け福原・大輪田泊を整備して私貿易をして栄華を誇ります。

>今回の道長の見解からは、もう一つ、日本史のイヤな一面が凝縮している要素もあります。
>それは兵站補給の把握が雑であること。
>70人を派遣したところで、兵站が整っていなければどうしようもない。
>道長はそこをすっ飛ばしているように見える。>迎える側がそうだと、ただの過剰な心配性で終わります。
道長卿は「越前と都は近い。都に乗り込む足掛かりとなることも考えられる。彼らは商人などと言っておるが証拠がない。70人もまとまってやって来るのも妙である。彼らが商人は偽りで官人。いや官人どころか戦人かもしれぬ。彼らを穏便に宋に返すことが越前守の一番の仕事である。彼らに開かれた港は博多の津のみ。…と了見させ、穏便に宋に帰す」と言っているのですが。
道長卿は流れ着いた70人が全員と考えておらず、越前から都に攻め込むための足掛かり(商人を装った工作)と見ているのではないでしょうか。
日本側の宋との正式な交易港は博多の津であり、穏便に帰ってもらう様、漢籍に詳しい為時公に白羽の矢が立ったのですがなぜ『兵站補給の把握』と戦う前提なのでしょうか。
NHKで放映中の『三ヶ月でマスターする世界史』を引用していますが、元のフビライ・ハンの武力行使を盾にした朝貢の要求と違い、平安時代の朝廷と宋は国交があるのですが。

>だいたい道長の命令はふわっとしていて具体性に乏しいんですよね。
『度重なる異国の海賊行為を踏まえ、官人や戦人である可能性を鑑み、越前の松原客館に留め置いた商いを望む宋人70余名に博多以外では交易には応じないことを言い含め、彼らを穏便に帰国させる』という命令のどこが具体性に乏しいでしょうか。
 
為時が、そんな苦労を背負い込んでいる最中、宣孝は儲け話に夢中でした。
為時公の家では越前出立の宴が開かれています。
しかし、難題を命じられた為時公は浮かない表情です。
まひろさんは招かれた宣孝公の酌をしながら「出発日が近づいて気が重くなったのか顔色が冴えませぬ」と言います。
しかし宣孝公は「行ってしまえば国司は楽な仕事よ。土地の者どもと仲良くやれば懐も膨らむ一方だ。行けば治る」と哄笑しています。
心配顔のまひろさんに宣孝公は「私腹を肥やせるぞ」呑気に返し、まひろさんは「また、そのような軽薄な…」と呆れます。
「まひろに叱られた」などと言いながらも、悪びれない宣孝公に「出立前から懐を肥やせと人聞きの悪い。父はそういうことが誰よりも苦手。宣孝様が一番よくご存知ですのに…」と苦言を呈します。
宣孝公は「またご無礼つかまつった」とやや大げさに頭を下げ、「いつからまひろに叱られるようになったかのう」と言います。
そんな宣孝公に、「叱られる時、宣孝様はいつも嬉しそうに見えますが」といとさんが不思議そうに言います。
いとさんは男女の仲については真実を突く発言が多い様です。
そしてまひろさんは「私も父と越前に行きますので、あちらで宋人に会うのが楽しみでございます」と言います。
さらに「宋人のよき殿御を見つけ、宋の国に渡ってしまうやもしれません」と冗談とも本気ともつかない事を言うまひろさんに宣孝公は「それもいっそ良いかもしれんな。もう叱られないかと思うとさみしいがのう」と呟きます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>またもや、まひろとの距離を近づけたいように思える宣孝。
>彼女はこのドラマの軍師、女諸葛ですので、道長の抜けた外交感覚とセットで、何かやらかす伏線は張り巡らせてあると言えるでしょうか。
『まひろとの距離を近づけたい』も何も宣孝公は道長×女院黒幕説も含めて当時の平均的な貴族の感覚で洞察し、大人の殿方として打てば響く様になったまひろさんの反論を軽口を叩きながら楽しんでいるのではないでしょうか。
道長卿にしても『昔の女への情』でその父を贔屓したのではなくそれをあくまでもきっかけとして、宋人の対応如何で国際問題になりかねない国難に立ち向かえる有能な人材と見込んで為時公に「彼らに開かれた港は博多の津のみと了見させ、穏便に宋に返すこと。これが越前守のもっとも大きな仕事と心得よ」と直接、打ち明けたのではないでしょうか。

>すると弟の藤原惟規が帰宅し、出立に間に合ったと嬉しそうだ。
そこへ惟規さまが帰って来ました。
惟規さまが「本日、文章生になりました!」と言い、家族や宣孝から祝福され、父からの祝杯を受けます。 
そして越前出立が間近となった日、いとさんは「殿様、越前にお供できません」と思い詰めたように為時公に別れを告げます。
文章生になり大学を終えた惟規さまが屋敷に戻るため世話をする事を伝えます。
そして「若様をお世話する人がおらねば悪い女にたぶらかされるやもしれませぬ」と都に残る事を告げました。
「四年後のお帰りお待ち申し上げております」と言ういとさんに、為時公は「お前も達者でおれ」と、彼女の健康を願います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

・二人の再会?

>越前への出立前、まひろはあの廃屋で道長と再会します。
越前出立の準備が整ったその夜。
まひろさんは道長への文をしたため、六条の廃院で会いました。
妻帯し左大臣に昇りつめた道長卿ですが、一番愛した女の呼び出しに真っ先に駆けつけた様です。
「父を越前守にしてくださり、ありがとうございました」と礼を述べるまひろさんはどこか他人行儀で左大臣としての道長卿に接しています。
道長卿は、「お前が書いた文、帝がお誉めであった。お前の学才が、父を越前守にしたのだ。俺ではない」と言います。
まひろさんが「私が書いたと分かったのですか?」と尋ねます。
どうやらまひろさんは自分の筆跡と分かるとは思っていなかった様です。
「お前の字は分かる」と道長卿。

『光る君へ』より

道長卿は「明日出立だな」と当たり障りのない話をしながらまひろさんと並び廃屋の庭を眺めます。「最後にお聞きしたいことがあり、文を差し上げました」と切り出します。
「なんだ?」と道長卿はまひろさんを見ずに答えます。
まひろさんは「中宮さまを追い詰めたのは道長さまですか?」と問いかけます。
さらにまひろさんは「小さな騒ぎを殊更、大事にし、伊周さまを追い落としたのも貴方の謀なのですか?」と硬い表情の道長卿に尋ね、道長卿は「そうだ」と答え「だから何だ?」と開き直る様に訊き返します。 
口元に薄く笑みを浮かべ、まひろさんは「つまらぬことを申しました。世間の噂に惑わされ、一時でも貴方を疑ったことを恥じます」と言いました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

そしてまひろさんは「お顔を見てわかりました。貴方はそういう人ではないと」と本質が変わらぬ道長卿に安堵し、はにかむ様な笑みを浮かべます。
まひろさんに道長は「似た様なものだ。俺の無力のせいで、誰も彼もすべて不幸になった」と自らのやった事を顧みています。
また道長卿は「お前とかわした約束は、未だ何一つ果たせておらん。」と口惜しげに言います。
さらに泣き出しそうな顔で「これからどこへ向かうべきかも見えない、おそらく遠くの国に行ってもお前を守り切れなかったであろう。お前が正しかった」と不安気です。
そんな無力を悔やむ道長卿にまひろさんは、「かの地で、貴方と共に滅びるのも良かったのやもしれません」と返します。
道長卿は話を切り替える様に「越前の冬は寒いという、身体を厭え」と言い、まひろさんも道長卿に「はい、道長さまもお健やかに」と返し、2人は抱きしめ合いました。
そしてまひろさんは「この10年、貴方を諦めたこと、後悔しながら生きて参りました」と秘めてきた後悔を吐露しました。
呆けたように口が半開きになる道長卿。
まひろさんは「妾でもよいから、貴方の側にいたいと願っていたのに、何故あのとき、己の気持ちに従わなかったのか…」と囁き目を閉じます。
「いつもいつもそのことを悔やんでおりました。いつの日も、いつの日も…」
まひろさんの思いは道長卿も同じでした。
まひろさんを道長卿はしっかり抱き締め「いつの日も、いつの日もそなたの事を…」本当は同じ想いであったと万感の思いを込めます。
まひろさんは「今度こそ、越前の地で生まれ変わりたいと願っておりまする」と晴れやかに言い、道長卿は穏やかに「そうか、身体を厭え」と言います。
そしてまひろさんは自ら道長卿を引き寄せると口を重ね、二人は唇を寄せ合いました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>別の男が吹き込んだことのせいで、疑われてしまった道長。
>そう考えると、それをわざわざ確認するまひろもなかなかの策士に思えます。
>道長が流されやすいお人よしで、感情ケアが得意な劉備タイプだとすると、やはりまひろは諸葛亮なのでしょう。
三国志マウントをいちいち取らないとまひろさんと道長卿のソウルメイト振りを語れないのですが。
二人は主従関係ではありませんし、まひろさんは策を授けたい訳ではないと思います。
まひろさんは「中宮さまを追い詰めたのは道長さまですか?」「小さな騒ぎを殊更、大事にし、伊周さまを追い落としたのも貴方の謀なのですか?」という疑惑を道長卿にぶつけました。
まひろさんはききょうさんと共に二条第での伊周卿の没落と定子さまの落飾を目撃しています。また、まひろさんに語った宣孝公の推察の様に長徳の変は道長の起こした謀だというのが世間一般の評価です。
しかし、実際の道長卿は謀として処断した事で若き帝に最愛の中宮を突き放す決断をさせ、定子さまは帝のお心と兄弟を無くし、貴子さまは最愛の我が子たちを無くすなどし、心ならずも多くの者の心を深く傷つけた事を後悔していました。
まひろさんは策でもなく10年政の中で揉まれても本質的には変わらぬ道長卿に安堵し別れを告げたのだと思います。

気が早いけれども、来年の蔦屋もなかなか悪どいといいますか。
>近年NHK大河は嫌われる勇気があるほど、良い出来だと思えます。
>つまり、来年も期待できる!
まだ主要キャストが決定しただけで何も内容が分からないのに主人公の蔦屋重三郎が吉原遊郭出身と言う事だけ殊更強調し叩き記事を挙げ、来年大河が嫌われる事に期待している様にしか思えません。

・越前へ?

>琵琶湖の上を船が進んでゆく。
為時一行は越前を目指します。 
「琵琶湖を舟で北上し越前への山道を進んだ」と語りが入ります。
都を出発して逢坂関を越え、近江・大津の打出浜から琵琶湖を舟で北上し、北端の塩津(長浜市)に。
上陸後は家人を連れ越前への山道を進みます。
輿の窓から興味深そうに外を覗くまひろさん。
峠越えの途中、水を飲みながら「慣れぬ道中疲れたであろう」と、娘を労る為時公だが、「私は楽しんでいるのでお気遣いなく」とまひろさんは答えます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

紫式部は長徳二年(996年)、越前国司に任命された父・藤原為時公に付いて越前国府へ向かいます。
『紫式部集』には越前下向についての行程や歌が記述されています。
越前への旅は逢坂山を越え大津の打出浜に出て、舟で琵琶湖西岸を北上。
塩津(しおつ)から上陸し、北陸道を進んで塩津山を越え、越前敦賀に。日本海沿いに北上し、五幡(いつはた)、杉津(すいづ)、鹿蕀山(かへるやま)を越えて、今庄(いまじょう)を経て、岡本郷の国府(現・武生(たけふ)市)に入りました。
時代考証・倉本一宏先生によると、『延喜式』には「各国までは何日」と記されており、『京都と越前の間は4日とありますが、これは国司が行き来する日程ではなく、農民が税を持ってくる日程になります。』との事です。
為時公たちの下向の場合は設えもあり10日前後はかかったかもしれないのだそうです。

Googleマップ

>指で琵琶を弾くまひろ。
まひろさんの琵琶は奏法などから『楽琵琶』だと思います。
雅楽に用いられる琵琶を、楽琵琶といいます。
楽器を水平に構え、撥(ばち)で弦を掻き下ろします。

こちらは今回の越前下向の場面ではありませんがまひろさんが弾く琵琶は普段は撥を使って弾いています。
芸能考証・友吉鶴心氏によると、『まひろさんが奏でる琵琶はほとんどオリジナル調弦で全てまひろさんの演奏で、アフレコではありません。』との事です。

『光る君へ』より

21回の琵琶湖では遠景なので分かりづらいですが、舟上に於いては指で弾いているそうです。
友吉鶴心氏によると『越前に赴くことは新たな出発となりますので、“母と一緒に”という思いがまひろの中にあったと思うんです。そこで、琵琶湖でのシーンにおいて、母・ちやはの琵琶をまひろが弾くことを提案させていただきました。楽曲を演奏するスピードは、演出の要望がありながらも、撮影当日に吹いた琵琶湖の風、起きた琵琶湖の波に合わせて決めました。まひろの心もですけれど、やはり舟に揺られれば、そのスピードが最も心地良くなるはずですからね。また舟の上でまひろが突然「琵琶を弾きたい」と思い立ったということを表現するため、このシーンではあえて撥(ばち)で弾かず、指で弾いていただきました』との事です。

『光る君へ』より

吉高由里子さんはまひろさんの琵琶について下記の様に話されています。

まひろにとって琵琶を触ることが「たぶんお母さんとの会話的な感じなんだろうなと思っていて」と自身の解釈を述べ、「だから、うれしいときも、悲しいときも、苦しいときも、楽しいときも、全部その感情を寄り添ってくれているお母さんに伝えるような気持ちで琵琶を鳴らしているんじゃないかなと思います」

サンスポ

>彼女は白居易『琵琶行』を写していたことがありました。
15回でまひろさんは『琵琶行』を書写しながら『声を尋ねて暗に問う。弾く者は誰そと琵琶声停(や)みて…』と読んでいたのですが、何見氏は具体的な説明をしなかったのですが、ここでもたった1行ですか。

『光る君へ』より
武将ジャパン『光る君へ』15回

>船を降り、越前の山道を進んでいくと、「国府に行く前に立ち寄るところがある」として、為時は松原客館へ向かいました。
為時公は「国府に行く前に立ち寄りたい所がある」と言い、敦賀の松原客館へと向かいました。
為時公は出迎えの者にまず挨拶をし、「宋人たちの様子を見たくて立ち寄ってしまった。迷惑であったか?」と目的を伝えました。
すると館の中から、宋人たちが争う声が聞こえて来ました。
扉を開け、為時公宋人たちに宋語で「粛静(シュージン=静まれ)!」と言いました。
「私は越前の新しい国守である」と名乗りました。
しかし、宋人たちが為時公に、口々に宋語で話しかけてきたため、為時公は困惑しています。
部屋の隅には1人争いに加わらない宋人がおり、鸚鵡(CV.種崎敦美さん)が「ニーハオ」と挨拶をしました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

余談ですが。
記録に残る鸚鵡の初渡来は1370年以上前の西暦孝徳天皇大化三年(647 年)の『日本書紀』・『続日本記』などです。
『日本書紀』大化三年(647 年)には『鸚鵡一双、孔雀一双神羅経由献上(鸚鵡一双、孔雀一双が新羅経由で献上された)』とあります。

『枕草子』38段「鳥は」には、『異国のものである鸚鵡はとてもかわいらしい。人の言う事を真似るという』とあります。

鳥は、異所(ことところ)のものなれど、鸚鵡(おうむ)、いとあはれなり。人の言ふらむことをまねぶらむよ。郭公(ほととぎす)。水鶏(くひな)。しぎ。都鳥。ひは。ひたき。

意訳:
鳥は異国のものだけれど、オウムはとてもかわいらしい。人の話す言葉を真似するというではないか。郭公。水鶏。しぎ。都鳥。ひわ。ひたき。

『枕草子』38段「鳥は」
『光る君へ』より

・MVP:清少納言と定子?

>政治的野心、自分の功績アピールではなく、ただただ根底に純粋な想いがあるからこそ、『 枕草子』はあんなに瑞々しいのか――改めてそう思いました。
枕草子が執筆されたのは、正確な時期は不明ですがその内容から正暦6年/長徳元年(995年)に執筆が開始され、藤原定子さまが亡くなった翌年・長保3年(1001年)に、ほぼ完成したと言われています。
清少納言が教養を買われ、一条帝の中宮・定子さまに女房として仕えるようになったのは、正暦4年(993年)の冬頃です。
主君・定子さまとは互いを認め合う仲睦まじい関係に発展します。
定子さまの実家・中関白家と覇権争いをしていた藤原道長卿が宮中で力を付けてくると、清少納言は道長卿に内通している疑いを掛けられてしまいます。
さらに定子さまの兄弟である伊周卿・隆家卿が『長徳の変』によって左遷され、定子さまも落飾してしまいます。
この時に清少納言は実家に籠もり、枕草子を書き始めたとされています。
鎌倉時代成立の『無名草子』ではこの様に評されています。

『無名草子』

>ちなみに美しい思いに水をさすようで申し訳ありませんが、この『 枕草子』の対極にあるのが『徳川慶喜公伝』だと思います。
これ見よがしの漢籍マウントなのか、白居易『長恨歌』が説明も脈絡も無く蛇足ですし、清少納言を叩き棒にして何見氏の嫌いな徳川慶喜公と渋沢栄一氏批判がしたいだけにしか見えません。
わざわざ嫌いなものと比較しないと評価できないのでしょうか。
双方に失礼です。

・朋有り遠方より来たる、亦た楽しからずや?

>中国語圏にも大河の固定ファンはいて、今年も興味津々で見ています。
その中国語圏の大河の固定ファンの実際の意見はどこにあるのでしょうか。
SNSの様に具体例を出してもらわないと『マックの女子高生』構文にしか見えません。

中国のドラマファンはルックスへの評価が大変厳しいものですが、そんな彼らが認める松下洸平さんは自信を持って挑めると改めて思いました。

こちらも中国のドラマファンの意見だそうですが、『ルックス評価が厳しいが認められている』という評価の後に『賞味期限切れ』という下げ記事を提示。
褒めたいのか晒したいのかどちらですか。

中国語の発音チェックはネイティブならば厳しいでしょうが「でも顔がいいから許す」となればいいですよね。
嫌いな作品や容姿タイプの俳優さんならば、『腕も細く、所作も筋力が感じられず、』『小枝の様に細い』『ルッキズムがひどく、悪口でも身体的特徴を出す』『顔がいいだけ』『ちょび髭コスプレイヤー』と散々叩くのですが、ここでは『でも顔がいいから許す』ですか。
所詮ルッキズムでしか人を評価できないのですね。

>交流しましょう。最近店が増えているガチ中華はよいものですよ。
交流の前に他人を汚い言葉で詰っておいて苦言を呈されたり距離を取ったら人のせいにして逆ギレするのをやめたらいかがでしょうか。


※何かを見た氏は貼っておりませんでしたが、今年もNHKにお礼のメールサイトのリンクを貼っておきます。
ファンの皆様で応援の言葉や温かい感想を送ってみてはいかがでしょうか?










この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?