大河コラムについて思ふ事~『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』第1回
1月上旬になりました。あけましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。
まだまだ寒さ厳しく地域により積雪もあるので、皆さまも健康には充分お気を付けください。
さて、『べらぼう』第1回。
今週も『武将ジャパン』大河ドラマコラムについて書かせていただきます。
太字が何かを見たさんの言質です。
御手隙の方に読んでいただければと思います。それでは。
・初めに
>なぜ火事のシーンから始まった?
>朝顔が裸で捨てられた浄閑寺とは?
>綾瀬はるかさんがスマホを使うのは?
>長谷川平蔵宣以って、あの鬼平?
>桶に閉じ込められた罰は実際にあった?
蔦重さんの貸本の中で夢中散人の『辰巳之園』『石山軍艦』『ひらかな盛衰記』、朝顔姐さんへの読み聞かせで風来山人の『根奈志空佐』と書籍名、そして忘八親父の狂歌が出て来ていましたが、「文芸ドラマ」の面もあるのに今年も出典や解説が無い様で残念です。
時は江戸時代、明和9年(1772年)2月末。
江戸の町を大火が襲いました。
街のあちこちで火の手が上がり炎が渦を巻き、焼けた煤の臭いに辺りが包まれました。
半鐘の音とともに逃げ惑う人々の悲鳴や「早く!押すな!」「こっちだ逃げろ!」という怒声が聞こえます。
例外なく炎は浅草の外れにある吉原の街にも及びました。
吉原の突き当たりにある水道尻(すいどじり)の火の見櫓の上では縞紬を着た若者が半鐘を叩き、「逃げろー!逃げろー!」と人々に向かって叫んでいました。
その若者の名は蔦屋重三郎、人呼んで『蔦重』といいました。
火の見櫓を降りた蔦重さんが女郎屋が立ち並ぶ街に目を遣りました。
吉原の出入口である大門に向かう人の流れと逆走している大きな櫛や簪を挿し艶やかな着物を着た女郎を見付けました。
女郎は幼馴染の花魁・花の井さんでした。
花の井さんは大門とは反対、吉原の四隅にある稲荷社の一つ『九郎助稲荷』に向かっていました。
蔦重さんは花の井さんを追って九郎助稲荷に駆けつけました。
「何やってんだお前ら!」蔦重さんが花の井さんに呼びかけました。
花の井さんが「この子たちがお稲荷連れて行くって聞かなくて…」と答えます。
見れば禿(かむろ)のさくらさんとあやめさんが姉女郎である花の井さんの静止を聞かず二体のお稲荷さんの石像を運ぼうとしていました。
二人は「だってお稲荷さん焼けちゃう。焼けたら願い事が叶わなくなる!」と石像に取り縋ります。
そこに知り合いの女郎・朝顔姐さんが荷物を担ぐための背負子を抱え現れました。
「よし、焼けなきゃいいんだな!」
そう叫ぶと蔦重さんは自分と禿たちに桶の水をかけ、板塀の戸を蹴り倒すと二体のお稲荷さんの像を吉原を囲むお歯黒どぶに沈め、お社を背負子に括り付け背負い花の井さんたち女郎を連れ駆け出しました。
目黒行人坂から出火し南西の風に煽られた炎は江戸城下を舐め浅草方面まで燃え広がっています。
街では背中に火が付いた男が苦しみ女の悲鳴が響きます。
炎の中をを逃げる最中、蔦重さんは燃え盛る建物を見つめふらふらと炎に近づく1人の少年を見かけました。
蔦重さんは「べらぼうめ!何考えてんだ!」と少年に怒鳴ります。
周囲に親の姿は無く、少年は虚ろな目をして返事もしません。
蔦重さんは放心したままの少年の手を引き、着流しの裾を絡げて走り出しました。
吉原大門を出て日本堤に出た時、行手が二手に分かれました。
人の波は左手に流れていました。
蔦重さんは風に揺れる見返り柳を見上げ、「…風が変わった。こっちだ!行くぞ!」と言い、人波と反対の山谷堀方面に走り出しました。
花の井さんが「みんなあっち行っているけど!」と指した方から引き返して来た人々が戻って来ています。
引き返してきた人々、大門から出てきた人々が蔦重さんの後に続きました。
>そこへ重三郎が駆けつけ、機転を利かせます。>「燃えなきゃいいんだ!」と告げると、稲荷像を「お歯黒どぶ」と呼ばれる堀の水に落とすのです。
明和9年(1772年)2月末、明和の大火から物語が始まりました。
禿のさくらさんとあやめさんが「焼けたら願い事が叶わなくなる!」と石像に取り縋っているところに松葉屋の花魁・朝顔姐さんが荷物を担ぐための背負子を抱え現れ、狐の像をお歯黒どぶに投げ込んだ後、蔦重さんが背負子に九郎助稲荷のお社を括り付け背負って逃げているのですが、大事なところを端折り過ぎではないでしょうか。
>今は火事への対応が先。
>重三郎は少年と共に走り出すのでした。
蔦重さんは燃え盛る建物を見つめ動けない少年を見つけた後 一緒に逃げますが、吉原大門を出て日本堤に出た時、行手が二手に分かれたため見返り柳の枝の揺れを見て風向きから山谷堀方面に逃げ場を見極め街の人々の避難誘導をしています。
・それは“メイワク火事”から始まった?
>めいわくねん、明和9年!
>――そう弾んだ声でナレーションが入ります。語り部を務める九郎助稲荷は明和の大火をこう伝えます。
「明和九年二月、めいわくねん!まことメイワク極まりないこの大火は、ある無宿坊主が盗みを企て、目黒の寺に火を放ったのが事の起こり。その金欲しさの火は三日三晩吉原や江戸の街を焼き尽くした。」
>めいわくねん、明和9年!――そう弾んだ声でナレーションが入ります。
>なかなか凄惨な冒頭を駄洒落で笑い飛ばす、江戸っ子の心意気を感じさせる展開。
明和の大火(目黒行人坂大火)は明和9年2月29日(1772年4月1日)、江戸目黒行人坂(現在の東京都目黒区下目黒一丁目付近)にて出火しました。
『明暦3年、明和9年、文化3年各出火記録控』によると、火元は目黒の大円寺で出火原因は、武州熊谷無宿の真秀という坊主が盗みのために庫裡に放火しました。
西南の風に煽られ、火は麻布・芝から江戸城郭内・京橋・日本橋・神田・本郷・下谷・浅草などに延焼、千住まで達し、町人たちの家だけでなく数多くの大名屋敷や神田明神などの寺社も焼き尽くし、翌晦日の午後にようやく鎮火しました。
この時、老中・田沼意次公の屋敷も焼失しました。
死者は14700人、行方不明者は4000人超えという大惨事になり、『江戸三大大火』のひとつに数えられます。
中国の古典『書経』「百姓昭明 協和万邦」、『史記』「百姓昭明 合和万国」から引いた『明和』という元号。
この年は明和の大火など災害が相次いで起こり、明和9年は『めいわくねん(迷惑の年)』と揶揄され、元号は明和から『安永』と改元されます。
>浮世絵にしても、明治時代を迎えた江戸っ子たちが「こんなもんが売れるのかよ」と外国人に持ち込んだことで国外流出が加速しました。
1798年(寛政10年)、カピタン(江戸時代にオランダ東インド会社が日本に置いた商館の最高責任者『商館長』)らが葛飾北斎に日本人男女の一生を図した巻子を注文し、故国に持ち帰ったのが浮世絵がヨーロッパに最も早く渡った例と言われています。(『古画備考』)
嘉永年間から黒船来航により多くの商船が日本に来航し、写真技術と印刷技術の発展により、日本の様子が西洋に広く紹介され、ジャポニスムが流行します。
シーボルトは多量の日本資料を持ち帰り、1832年〜1852年に『Japonica』20冊を刊行し、その中に『北斎漫画』が掲載されています。
1856年、フェリックス・ブラックモンが日本から輸入された陶磁器の包み紙に使われていた『北斎漫画』を見せたことで、美術家に知られる様になった説もありますが、1990年以降では疑問視されているのだそうです。(国際浮世絵学会 編『浮世絵大事典』東京堂出版)
音楽家クロード・ドビュッシーは、葛飾北斎の『神奈川沖波裏』を所蔵し、『交響詩“海”』の楽譜表紙に採用しました。
>火事のシーンから始めたもう一つの理由は「技術のアピール」でしょう。
>炎と高い火の見櫓からぐるっと見回すカメラワークは、技術力の高さをアピールするにはもってこい。
>番宣映像でも映えます。
冒頭から明和の大火により吉原が火災に見舞われる様子が描かれ、視聴者からは「開始1秒で吉原炎上きた」「開幕吉原炎上」「吉原炎上、遠くで火災旋風が起きてる。芸が細かい」との意見があり、SNSでは『吉原炎上』がトレンド入りしました。
蔦重さんが登っている 火の見櫓からの遠景を見ると火災旋風が起きている描写があります。
演出の大原拓氏によると、『「VFXチームとCGチームが『絵コンテをこう繋いだららどうか』とやってくれた。ほぼVFXの力です」と説明。6月の撮影から「そのカットに関しては時間をかけてやってくれたのでいいものに仕上がったと思います」』『リアルな火も入れながらやってます。熱を横浜さんたちにも感じてほしかった』との事です。
>『麒麟がくる』といえば、これまた序盤の展開に共通点があります。
>主役が高い場所に登っていること。
>人助けをする精神性があること。
>『麒麟がくる』では、火災から救助された経験のある駒という少女が、「麒麟がくる」とドラマのテーマとタイトルを語りました。
『麒麟がくる』と『べらぼう』に共通点があるというならもっと具体的に提示してください。
『麒麟がくる』では第1回で野盗による乱取りを防ぐため、明智庄の武士たちが田畑を見下ろす堤に立ち弓矢で応戦しますがこの構図は『光る君へ』の刀伊の入寇の際、警固所の物見から賊の侵入を察知し、崖から鏑矢を撃つ構図と同じだと思います。
飛び道具による高所からの攻撃は常道ではないでしょうか。
蔦重さんの場合は火の見櫓に上がっていましたが戦ではなく火災です。
『麒麟がくる』第1回では野盗の頭領が持っていた鉄砲に触発され斎藤道三公の許しを得た明智光秀公は京で医師の望月東庵先生と助手のお駒ちゃんに出会いますが、大名同士の抗争が始まり町は大火事になり子供を助けます。
お駒ちゃんは3歳の頃戦に巻き込まれ両親を失った時大きな手の武士に助けられ、「いつか戦は終わる。戦のない世の中になる。そういう世を作れる人がきっと出てくる。その人は、麒麟を連れてくる。麒麟というのは穏やかな国にやってくる不思議ないきものだ。それを呼べる人が必ず現れる。麒麟が来る世の中を…。だから、もう少しの辛抱だ」と教えられたと語ります。
・“たい尽くし”の百万都市・江戸?
>さて、吉原という街を描いた後は、江戸っ子にとっては雲の上のような江戸城大奥へ。
江戸城では「上様のお成り〜!」と声が掛かり大奥・お鈴廊下の鈴が響きました。
中奥と大奥をつなぐ『御錠口』の錠が外されると、十代将軍・徳川家治公が側室のお知保の方、老女・高岳を伴い廊下を練り歩いてきます。
また表御殿では廊下を老中首座の松平武元公が歩いて行きます。
無宿者は賭場で賭け事をし、火事場の屋根では火消しが纏を振り、馬上の田沼意次と意知親子が登場し当時の世相を表します。
九郎助稲荷は語ります。
「江戸幕府誕生からおよそ170年、時の将軍は十代徳川家治。今や百万都市となった江戸に燃え盛るのは戦の火ではない。そして江戸名物の火事の火ばかりでもない。江戸城の大名たちは、偉くなりたい、楽したい。賭場に集まる無宿者は一旗揚げたい、儲けたい。はたまたやりたい、モテたいで遊里の女郎と駆引きする男たち。果てはこの世を思うがままに――己の両の手で動かしたいと野望を抱く者もいる。たいたい「たい」尽し、万事めでたい太平の世に燃え盛るのは欲の業火、この欲深い時代を鮮やかに駆け抜けた男がいた。金なし、家なし、親もなし、ないない尽くしの吉原者がその才覚でのしがっていく蔦屋重三郎――またの名を蔦唐丸と申します。」
>十代将軍・徳川家治が雪のように白い着物姿で姿を見せました。
>隣には「側室」のお知保。
お知保の方(蓮光院)は宝暦11年(1761年)、江戸城本丸大奥へ移り、将軍・徳川家治公付きの御中臈となり、長男・家基公(幼名は竹千代、安永8年(1779年)に急逝)を出産します。
御台所・五十宮倫子さまがその養母となったため、家基公は倫子さまの許で育てられ、お知保の方は『老女上座』の格式を賜賜りました。
明和8年(1771年)に御台所の倫子さまが逝去して以降は『御部屋さま』と称され世子生母の扱いを受けています。
明和9年(1772年)の時点で長男・家基公が世子となりお知保の方は『御部屋さま』となっているため、側室でも正室に準じた立場なのでしょう。
>白い着物の上様が、いかにも苦労知らずの若者に見えます。
>重三郎はじめ江戸っ子の着物は濃く暗い色をしています。
>幕府の規制だの流行だの、さまざまな要素はあるものの、汚れが目立たないということもある。
>それを将軍はこんな墨や食事の汁が跳ねただけで洗濯しないといけない白ときた。
>悪い人ではないだろうけど……そう思えます。
徳川将軍の白い胴服や羽織について『どうする家康』レビューの時も難癖に近い批判をしていましたが、将軍家のお召し物が白い事で何か障りがあるでしょうか。
ドヤ顔で『衣装の色目が、汚れが』と語っている様ですが、実際に現存する家康公のお召し物を調べないのでしょうか?
『どうする家康』の家康公の白地の胴服は徳川ミュージアム所蔵の『徳川家康御譲品 浅葱地三ッ葵紋付二葉葵文辻ヶ花染羽織』がモチーフでした。
また東京国立博物館所蔵の『胴服 水浅葱練緯地蔦模様 三つ葉葵紋付』も参考になるかと思います。
全面に大柄の葵の葉をあしらい両後袖、背中、胸の5か所に三つ葉葵紋がそれぞれ辻が花染で染められています。
辻が花染は室町末期から桃山時代にかけて大流行しその時代を過ぎると突如、世間から姿を消した『幻の染色』と言われる技法です。
『葵徳川三代』では津川雅彦さん演じる家康公が白地の胴服を着用しています。
『べらぼう』では家治公だけでなく世子・家基公も白い羽織を着ています。
大奥では『呉服之間』という部署があり、将軍と御台所の衣類の仕立てや管理担当する『御目見以上(将軍や御台所に目通りが許される)』の奥女中が務めていました。
庶民である蔦重さんの着物はノベライズによると『縞紬に黒大島の帯』とあります。
木綿の紬である庶民と仕立てが限定される 絹織物の羽織を羽織る将軍を何故比較して語るのでしょうか。
>『光る君へ』の直秀は、脚本段階では屋根を飛び回る設定でした。
>しかし当時は、町の人が瓦葺の屋根に暮らしていないため、設定が変更されました
『光る君へ』では直秀が座る土塀やまひろさんの屋敷のや民の家の屋根は板葺、内裏や寝殿造りである東三条殿や土御門殿、大宰府政庁の屋根は茅葺きでした。
石山寺の様な寺院や大陸の影響を受けた松原客館は瓦屋根です。
・九郎助稲荷、スマホで吉原を解説する?
>オープニングを挟んで一年半ほど経過し、安永2年(1773年)となりました。
火事から1年半が過ぎた安永二年(1773年)。
九郎助稲荷の狐の像は元の場所に戻されました。
「え?吉原って何?」という声とともに九郎助稲荷の狐の像は台座の上で艶やかな遊女の姿に変じました。
そして「では私、九郎助稲荷が軽くご案内申しましょう」と言います。
尻尾を振り振り吉原の街を歩く九郎助稲荷は吉原が何たるかを語ります。
「吉原というのは男が女と遊ぶ街。幕府公認、江戸唯一の『天下御免』の色里です。場所は浅草の外れ、田んぼの中に浮かぶ島といった趣です」
そう言って九郎助稲荷は下げていたスマホを手に地図アプリを開きます。
九郎助稲荷はさらに「はと言いますと、市中を出た北側にございます。だから『北国』なんて呼ばれ方もしてました。例えば日本橋からの所要時間はと言いますと一時間程。めちゃくちゃ遠い訳では無いですが場所は辺鄙だし大金は掛かるししきたりも多い、気軽に行くにはちと億劫…そんな感じですかね。そんな吉原の町では当時女郎三千人を含むざっと一万人程度が暮らしておりました。普通の街に見えますが女郎の逃亡に厳しいのが吉原。高い塀や『お歯黒どぶ』と呼ばれる堀に囲まれておりました。私が沈んだのもこのどぶ。そういう訳で吉原への出入口は基本的にこの『大門』ただ一つ。市中からこの大門に至るまでの道が『吉原五十間』」と吉原の街の様子を説明します。
そして大門を出て五十間道を曲がり、「そしてこの一角に我らが主人公・蔦重の務める茶屋『蔦屋』がございました。」と説明すると桜吹雪を残して消えました。
>駄洒落まじりのしょうもない言葉を明るく話せるとなれば、彼女はピッタリ。
『駄洒落まじりのしょうもない言葉』とは何でしょうか。具体的に書いてください。
『めいわくねん、明和9年!』と言う事でしょうか。
明和9年は1万人以上の人が亡くなった『明和の大火』や多くの災害が起こったため、当時の人々は「明和9年は迷惑年に通じる」という噂もあり、『安永』に改元されます。
寛政三年(1791年)に成立した随筆集『翁草』にも、『明和』は九年が『めいわく』になる、『天明』は『天命が尽きる』などの不吉な言葉を連想させる、などの世評が書き留められています。
こじつけの様に見えますが古来より言霊を重んじる国柄かと思います。
>この稲荷スマホはなかなか便利で、ナビゲーションでは徒歩、駕籠、船、馬、それぞれの所要時間で検索できます。
>徒歩と駕籠はほぼ同じ……って、そりゃそうですな。
拡大してみると、日本橋から吉原まで現代なら約5.5km。
九郎助稲荷のスマホでは徒歩68分、籠46分となっていますがほぼ同じとは?
日本橋界隈から吉原へのルートは3つありました。
>稲荷は、吉原の悲惨さを明るく説明します。
出入りに厳しく、出入り口大門は一箇所。
>周りは「お歯黒どぶ」という堀に囲まれていて、稲荷が沈められたのもここだそうです。
綾瀬さん演じる九郎助稲荷が「吉原というのは男が女と遊ぶ街。幕府公認、江戸唯一の『天下御免』の色里です」と言う様に市中との位置関係や隔絶された色街の様子を解説しているのに端折り過ぎではないですか。
江戸唯一の公認遊郭である吉原は浅草寺の裏手、江戸の中心部からは北の方角の千束村にありました。
日本堤という堤防の南側を整地して作った街で女郎の逃亡を防ぐ濠『お歯黒どぶ』と逆茂木を装備した高い塀に囲まれた田んぼの中の陸の孤島です。
横が約330m、奥行きが約250mという人口都市にランク分けされた見世や引手茶屋が並び、遊女が2000~3000人程を含む1万人が住んでいました。
吉原の出入り口は大門一箇所。
見返り柳を背に『五十間道』という曲がった通りに蔦重さんが勤めていた茶屋『蔦屋』や半次郎さんの『つるべ蕎麦』があります。
(詳細は粗筋の九郎助稲荷のセリフ参照)
>さて、この稲荷ナビゲーションにつきましては『青天を衝け』の徳川家康(北大路欣也さん)との比較論もあるようです。
>あれは家康と慶喜を並べるという、福地桜痴以来の歴史修正、プロバガンダの流れを汲むものなので個人的には却下したい。
徳川将軍家、特に徳川慶喜公に対する私怨で事実関係を捻じ曲げているのは何見氏の方で『青天を衝け』を叩く叩き棒に九郎助稲荷を使うのは如何かと思います。
物語に直接関わらない人物などが神視点で語りを担当したり狂言回しをするのは『青天を衝け』に限らず、『信長KING OF ZIPANG』のルイス・フロイス、『八代将軍吉宗』の近松門左衛門、『葵徳川三代』の徳川光圀公、『いだてん』の古今亭志ん生師匠、『青天を衝け』の徳川家康公などの列があります。
>武士や儒学者は「怪力乱神を語らず」なんて言ったものですが、庶民はお構いなし。
>狐の存在を信じて生きていたものです。
>そういうセンスを感じますね。
蔦重さんの生きた江戸時代、吉原遊郭にはその四隅と大門の手前、合わせて5か所に神社がありました。
中でも最も信仰を集めたのが『九郎助稲荷』。
スマホ片手に吉原を案内する綾瀬はるかさんの姿を借りて顕現した九郎助稲荷は神さまの使い。
『和銅四年(711年)千葉九郎介が天から降りた狐を祀ったとも、万治元年(1658年)今戸村の百姓九郎助が畑道の脇にあった稲荷を移したともいう(吉原大全)』と由来が諸説あります。
稲荷社は現在の吉原京町二丁目、大門を背にして左端の突き当たりにありました。
九郎助稲荷は縁結び、所願成就などの神さまとされ、吉原で働く女郎たちが連日連夜詰めかけた「百川楼繁栄ノ図」歌川豊国(3世) 東京都立図書館との事です。
明治14年、九郎助稲荷をはじめとする5つの神社が合祀され、現在の吉原神社が創建され今に至ります。
・蔦屋重三郎はないない尽くしの吉原の男?
>吉原の案内所である「五十間の茶屋」の解説も始まります。
五十間道の茶屋は客の刀や荷物を預かり、女郎屋の情報を教える吉原の案内所を兼ねています。
蔦屋は蔦重さんの義兄・次郎兵衛さんが営んでいました。
「じゃ義兄さん、島田さまと西尾さま、まだいらしてないんで、来たらお願いしますよ」
蔦重さんは自分の頭より高い荷物を担ぎ、次郎兵衛さんに声を掛けました。
「島田さまは鞘が赤茶、西尾さまは黒ですからね!お願いしますよ!」
次郎兵衛さんは鏡と睨めっこしたまま、「あいよー」と返します。
次郎兵衛さんは流行り物が好きでお洒落に敏感、自由気ままという遊び人で商売にはさっぱり身の入らない性分でした。
蔦重さんに唐丸さんが「次郎兵衛さんって何であんなに働かないの?」と尋ね、蔦重さんは「義兄さんは鼻くそほじっててもいずれそこの旦那になれっからな!」と答えます。
唐丸さんが「じゃ、あの店は蔦重が継ぐの?」と尋ね、蔦重さんは「義兄さんは実の子だけどこっちは十把一絡げの拾い子だからなあ」と答えます。
次郎兵衛さんの父・駿河屋市右衛門さんが営む『駿河屋』は行く宛のない子供を養い、成長すると吉原のあちこちの店に若い衆として奉公に出していました。
吉原は男手も必要で奉公先には困りませんでした。
蔦重さんは火事の時に助けた記憶喪失の少年に自身の幼名でもある『唐丸』と名付けました。
>吉原の案内所である「五十間の茶屋」の解説も始まります。
>客の刀や荷物を預かり、情報を教える、いわばガイドですね。
>重三郎は、義兄・次郎兵衛の経営するここで働いているそうです。
蔦重さんが働く義兄・次郎兵衛さんの経営する『五十間道の茶屋』の屋号もきちんと書いてください。
九郎助稲荷がしっかり『蔦屋』と紹介しています。
吉原には古くから五十軒茶屋(新吉原の衣紋坂から大門までの五十間道の両側にあった茶屋)、編笠茶屋(遊廓に入る客に、顔を隠すための編笠を貸した茶屋)、揚屋茶屋、引手茶屋などの休息所的な茶屋があり、これらの茶屋が客を案内して妓楼へ連れて行きます。(出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」)
蔦屋は五十軒茶屋ですね。
蔦重さんこと蔦屋重三郎は寛延3年(1750年)に新吉原の遊郭で産まれます。
石川雅望が撰した『喜多川柯理墓碣銘』や大田南畝が浅草正法寺に建てた実母顕彰碑文によれば、父は尾張の丸山重助、母は津与といい江戸の広瀬氏出身となっているそうです。
父の職種は不明ですが遊郭関係の仕事に就いていたと考えられています。
叔父は仲之町通りの茶屋「尾張屋」の経営者で家族・親類が全て廓関係という環境でした。
本名は柯理(からまる)といい、7歳の時に母と別れ『蔦屋』を営む喜多川氏の養子となりました。
安永2年(1773年)、五十間道に面した義兄・蔦屋次郎兵衛さんの営む『蔦屋次郎兵衛店』を間借りし、貸本屋『書肆耕書堂』を営んでいました。
吉原は単なる歓楽街ではなく、一流の文化人の集まるサロンでもあり、蔦重さんの『蔦唐丸』という名前は文化人たちが作る『狂歌連』という集団に参加した時の文人名なのだそうです。
>そんなわけで、唐丸の児童労働もさらりとプロットに組み込まれてゆきます。
>重三郎は幼い少年を働かせているけど、扱いは優しいのでマシといえるでしょう。
唐丸さんはあくまでも蔦重さんが拾った子であり、記憶喪失のために蔦重さんが『唐丸』と名付け、貸本屋『耕書堂』で業務を手伝わせている所謂『丁稚奉公』だと思います。
丁稚とは、商家に年季奉公する幼少の者です。10歳前後で商家に丁稚として身売りされ、年間数日の休暇をもらい、1日13~16時間雑用と肉体労働に従事し、読み書き算盤の教育が施されました。
また逃亡防止のため紹介者の仲介と保証人による保証が必要でした。
昭和22年(1947年)に施行された『労働基準法』で、満15歳に達してから最初の3月31日を迎える前の児童を雇用する事が原則的に禁止され、丁稚制度は完全に消滅しました。
・貸本屋はなかなかいい商売だ?
>重三郎は、松葉屋へ向かいます。
ある日、蔦重さんと唐丸さんは、貸本を持ち老舗且つ最も格の高い大見世である『松葉屋』を訪ねました。
吉原大門を潜り、大通りの両側に『引手茶屋』が並ぶ仲の町の右手にある七軒は最も格が高い茶屋です。
中でも一際立派な駿河屋は市右衛門さんが営む引手茶屋でした。
店先では強面の市右衛門さんが神経質そうに桟の埃を拭っています。
蔦重さんは市右衛門さんに会釈すると、木戸門を潜り、松葉屋へと入っていきました。
半左衛門さんは娘らしき少女に肩を揉ませ、いねさんの差し出す帳簿を確認していました。
蔦重さんは見世の暖簾を潜り、土間から見世の主人半左衛門さんと女将のいねさんがいる内証に声を掛け板の間にあがりました。
女郎屋の広間では朝四つ(午前十時頃)の時間、女郎や禿たちが食事したり文を書いたり思い思いに過ごしています。
呼出花魁の花の井さんは同じく呼出花魁の松の井さんや他の女郎や禿たちと客が手を付けていない宴席料理をおかずに白飯を食べています。
蔦重さんはいつもの様に板の間で「お姫さま方、貸本屋の蔦重が参りましてございますよ〜」口上を述べます。
禿たちが真っ先に寄ってきて女郎たちも次々に集まってきました。
幅広い教養が求められ読み書きができても廓から出られない女郎たちにとって読書は最大の楽しみでした。
蔦重さんは「よし!今日は夢中散人の新本『辰巳之園』や『石山軍艦』なんかを仕入れてきたぞ」と風呂敷包みを解き細長い箱に詰めていた本を畳に並べて行きます。
座敷持花魁のうつせみさんが「『ひらかな盛衰記』はあるか?」と尋ねます。
この頃蔦重さんは茶屋の仕事の片手間に貸本業を営んでいました。
様々な本を担いで吉原の街を回り、売れ筋の本を貸し出したのでした。
遊女たちがそれぞれ好きな本を借り、唐丸さんが帳簿に付けています。
「貸本の品揃えは子供向けの読み物の赤本、大人向けの青本、浄瑠璃本、洒落本、読本。
女たちの好みや年齢に合わせて本を薦めたりします。これらを一冊当たり六文から二十四文、高いもので七十二文程度で貸し出している。ちなみに蕎麦一杯は十六文。一文は現代で約四十七円なのでささやかな小遣い稼ぎというところです」と語りが入ります。
蔦重さんが「怪談なら『登志男』にしとけ」と禿に勧めています。
「蔦重、これ、あやめちゃんから戻ってきたんだけど、どうしよう。」と返却された本を帳簿に付けていた唐丸さんが困り顔で蔦重さんに尋ねます。
あやめさんは大火の日、お稲荷さんを運ぼうとした禿の一人でした。
何かをこぼした様で赤本が三冊波打った様になっていました。
蔦重さんはあやめさんの面倒を見ている花魁の花の井さんに「悪ぃけどあやめが汚した赤本三冊十八文付けとくからな」と言います。
花の井さんは廓専門の仕出屋である台屋から注文された料理を容器に詰めていました。
「えー、十八文はふっかけ過ぎだろう」と花の井さんは何かと文句を付けて支払いを渋ります。
蔦重さんが「ケチくせえ、お前それでも江戸っ子かよ」と言うと花の井さんが「は?そっちこそそれでも江戸っ子かい?」と返します。
蔦重さんが「お前は十両二十両稼ぐだろ…」と呆れています。
花の井さんが料理を詰めた容器を風呂敷で包み、蔦重さんに差し出しました。
「…んだよこれ」と訝しげな蔦重さんに花の井さんは「この後浄念河岸行くんだろ?朝顔姐さんにこれ届けてくれよ」と言います。
花の井さんは朝顔姐さんのために料理を届けてほしいと頼んだのでした。
問答無用で押し付けてくる幼馴染に蔦重さんは「おぅ、じゃあ届けたら払うか十八文、ん?」と言います。
花の井さんは耳を疑うとばかりに膝を立て素足をちらつかせながらドスの効いた声で「朝顔姐さんに届けてくれって話だよ?アンタとわっちの朝顔姐さんだよ。そんな事言うのかい?アンタそういう男なのかい?」と言い、蔦重さんが「あーったよ!うっせえな!」と返します。
>夢中散人の『辰巳之園』、『石山軍艦』を仕入れてきた。
>そう宣伝すると、座敷持花魁のうつせみが『ひらかな盛衰記』はあるか?と尋ねてきます。
(中略)
>セールス上手な重三郎は、怪談噺がいいなら『登志男』がいいと禿に勧めています。
江戸時代の書籍は高価で富裕層しか買えなかったため貸本業を営む蔦重さんは女郎たちに売れ筋の本を貸して小遣い稼ぎをしています。
吉原の外に出ることが許されない女郎たちにとって、読書は大切な娯楽でした。
遊女らの識字率は高く、客との交流で和歌や俳諧、漢詩、書、文章、茶の湯、生け花など幅広い教養が求められる女郎にとって、知識を身に付ける読書は必要不可欠だったのでした。
蔦重さんが仕入れた『辰巳之園』は夢中散人寝言先生が明和7年(1770年)に刊行した洒落本で『半可通の侍如雷と田舎侍新五左衛門が深川仲町の茶屋に遊ぶが、如雷は相方お長に袖にされ、お長は通人志厚の待つ横座敷へ逃げこむ(出典 精選版 日本国語大辞典)』というものです。
『石山軍艦(軍記)』は計六十五巻の大作で、石山本願寺と織田信長公との攻防を描いた軍記ものです。
本願寺の歩みや信長公の勢力拡大や攻防の過程など史実を踏まえたものなのだそうです。
うつせみさんが所望した『ひらかな盛衰記』は、時代物の「義太夫狂言」(人形浄瑠璃をもとに歌舞伎化したもの)です。
全48巻の『源平盛衰記』を題材にしており、平家討伐の立役者のひとり・木曽義仲公が、源氏内の権力争いにより31歳で悲運の最期を遂げたところから一ノ谷の合戦までを全5段で描いています。
女郎たちは話題の新刊をチェックし、客とのコミュニケーションツールとして歴史を学んでいたのでしょう。
蔦重さんが禿に勧めた『怪談登志男』は素及子が『怪談実妖録』の要を摘んで五巻に綴ったもので寛延三年(1750年)に刊行されました。
>「情念河岸の朝顔姐さんに届けて欲しい」
情念河岸は作中では『浄念河岸』となっています。
朝顔姐さんは元松葉屋の花魁で体を壊し最下層の浄念河岸の河岸見世、二文字屋にいました。
遊女屋には大見世(おおみせ)、中見世、小見世、切り見世(きりみせ)と四種類があり、格付けされていました。
『松葉屋』の様な大見世は一番高級な店で、女郎たちは花魁と呼ばれる揚代金二分以上の高級遊女たちでした。(蕎麦16文換算で126杯分)
中見世には花魁と揚代金二朱(金二分の四分の一)の女郎がいました。
小見世には金一分の女郎と金二朱の女郎がいました。
河岸は吉原の場末で、「小格子」や「切見世」「局見世」と呼ばれる下級の遊女屋が軒を連ね、大門から見て右側の端を西河岸、左側を羅生門河岸といい、病気になったり年老いたりした女郎が働いていました。
羅生門河岸は現在の東京都台東区京町二丁目にありました。
羅生門河岸の見世では客の袖を掴み理不尽に登楼を強いるところから、昔、平安京の羅生門に鬼がすみ、人を悩ませたのに擬したのでした。
『鬼滅の刃』で妓夫太郎・堕姫兄妹が人間時代いたのもここでした。
浄念河岸は、お歯黒どぶに面した最下層の河岸見世の一つで、現在の東京都台東区千束四丁目にありました。
・河岸の二文字屋に朝顔姐さんがいる?
>お歯黒どぶ沿いの場末で、女郎たちの揚代は線香一本燃え尽きる間の一切、たったの百文。
蔦重さんが使いを頼まれた『浄念河岸』は大門を入って右手のお歯黒どぶに沿った一帯で左手側は『羅生門河岸』でした。
いずれも吉原の場末、行き場の無い女郎たちを抱える最下層の河岸見世が並んでいました。
女郎たちの場代は『線香一本燃え尽きる間』一つ切で百文。
「そう吉原の中は今で言うところの格差社会でございました」と語りが入ります。
蔦重さんは唐丸さんを先に帰らせ河岸見世の『二文字屋』に入っていきました。
「どうもー、お姫さま方」
「重三ー!まちかね山ー!遊んでって、遊んでっとくれよ!」
薄汚れた見世の中、年季も明けた年増の女郎たちに両の腕を取られ、蔦重さんは困った様に「姐さん方に手ぇ出したら此処にいられなくなっちまいますんで。どうかそこは堪忍」と吉原の男が女郎に手を出せない事を主張します。
三日も客を取れない女郎たちから玩具にされるうち、まだ若い女郎のちどりさんは花の井さんから預かったご馳走に手を付けようとしています。
二文字屋の女将のきくさんが「おや、台のモンじゃないか」と言ったため、他の女郎も台のものに殺到し、蔦重さんが必死に止めるも摘まれてしまい、きくさんが止めに入り解放されました。
最奥の行灯部屋では、胸の病に罹り顔は青白く痩せ細った朝顔姐さんが横になっています。
やがて朝顔姐さんが咳き込み、目を覚まして半身を起こしました。
背中を擦ろうとする蔦重さんを朝顔姐さんが手で静し、「悪いねぇ…あんまり近寄るとね…」と言います。
蔦重さんは「あ、これ花の井から。ちょいと食われちまったけど」と台のものと高価な薬を渡しました。
朝顔姐さんは「花魁の金繰りも楽ではないだろう、自分も辛いだろうに……」と気遣い、料理に手を付けず、傍らに置きました。
蔦重さんが勧めても、「食べる時にむせちまうんだよ。男前には見られたくありんせん」と言います。
蔦重さんは朝顔姐さんに料理や薬を持って行くたびに本を読み聞かせ、朝顔姐さんもそれを楽しみにしていました。
蔦重さんは今江戸で大人気の風来山人の『根奈志空佐』を取り出しました。
世相を風刺する内容に朝顔姐さんがかすかに微笑み、蔦重さんも夢中で読み聞かせを続けました。
蔦重さんが蔦屋に戻ると待ちかねた様に次郎兵衛さんが飛び出して行きました。
どうやら行き先は深川の女郎の所の様です。
蔦重さんは唐丸さんと蔦屋の向かいの『つるべ蕎麦』に行き、縁台で蕎麦を食べています。
暇を持て余した蕎麦屋の主人・半次郎さんも先程から世間話に興じています。
「そんなにまずいのかい。河岸の方」と半次郎さんが尋ねると、蔦重さんは「ありゃ風呂も碌に入ってねえよ。飯も粥になってるし。」
二文字屋の女郎たちは三日も客が来ず、薄い粥を啜っていました。
「昼見世とは言えこれだもんなあ…」と半次郎さんは閑散とした道をため息をつきながら見遣りました。
半次郎さんは「岡場所と宿場には勝てんってとこか」と言います。
「岡場所・宿場とは無許可の風俗街。吉原のライバルでした」と語りが入ります。
というのも吉原は日本橋から1時間ほどの辺鄙な場所にあり、しきたりも多く金も掛かるため、岡場所や宿場に押されていたのです。
この頃、深川や本所や音羽、他にも神社や寺の境内にある『岡場所』、品川や新宿、千住などにある飯盛女(遊女)を置いた『宿場』に吉原は客を奪われている状態が続いていました。
蔦重さんが唐丸さんに教えていると、半次郎さんが「ひとっ風呂浴びるついでに女買えるのに、わざわざ吉原まで来ねえよなって話だ」と付け加えます。
さらに半次郎さんは「唐丸、千住はもう連れてってもらったか?」と唐丸さんに尋ねます。
「え?」と聞き返す唐丸さんに半次郎さんが「吉原の男はみんな千住に行くんだよ。ハハハ」と焚き付けます。
蔦重さんが煙管で煙草をふかし、半次郎さんを睨みながら「まだ早ぇよ」と制し、唐丸さんを蔦屋に帰しました。
半次郎さんが「なにも手前の幼名付けなくても良いんじゃねえの?お侍でもあるまいし」と誂いながら尋ねます。
読みは『からまる』でも蔦重さんは『柯理』といいました。
蔦重さんは「俺だってそう言ったわ!大体手前の名前なんて呼びにくくて仕方ねえ。けど、あいつがそれが良いっつうんだからよ」と言います。
唐丸さんは昔の事どころか自分の名さえ思い出せないのでした。
>食べるとむせるから見せたくないという彼女に、重三郎は本を読み聞かせるのでした。
蔦重さんは朝顔姐さんのために江戸で大人気の風来山人の『根奈志空佐』を読み聞かせしていたのですが、出典明記や解説は無いのですか。
風来山人とは作中でも重要な登場人物となる平賀源内先生の別名です。
宝暦十三年(1763)6月15日、荻野八重桐という女形の歌舞伎役者が舟遊びの最中に隅田川で溺死しました。
事件を題材にした談義『根奈志空佐』は宝暦13年(1763年)に発刊され、当世のベストセラーとなっていました。
地獄の閻魔大王、竜王が住む竜宮城が登場し、竜王の手下のシジミやサザエ、エビなどが人間世界を偵察するなど荒唐無稽ながら、同時代の風俗を描いて世相を風刺する内容になっています。
>岡場所と宿場には敵わない
>――というのも岡場所と宿場とは無許可の風俗街で、吉原にとっては商売敵でした。
岡場所と宿場は違うのですが、説明はありませんか。
江戸時代の日本では「三大遊郭」といって江戸の吉原、京都の島原、大坂の新町といった三ヶ所の色街だけが幕府の公認で営業していました。
『岡場所』は江戸における私娼街の俗称で、『岡』は岡目八目などの岡と同じく,傍ら,局外の意味です。
江戸幕府に於いて公娼の吉原と別に宝暦~天明(1751-89)頃には江戸中に約70ヵ所の私娼街がありました。
所在地域としては三田、麻布、市ヶ谷、本郷
浅草、本所、深川など広範囲にわたりました。(出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」)
宿場は街道の要所要所にあって、旅人を泊めたり、人夫や馬の継立をしたりする設備を整えた所です。
17世紀に宿駅が設置されて以降、交通量の増大とともに旅籠屋が発達しました。
これらの宿は旅人のために給仕をする下女(下女中)を置きましたが、客集めの目玉として、飯盛女の黙認を再三幕府に求めました。
私娼を厳格に取り締まっていた幕府は公儀への差し障りを案じて飯盛女を黙認せざるを得なくなります。
各宿場の飯盛女の人数を制限し、1772年には千住宿、板橋宿に150人、品川宿に500人、内藤新宿に250人の制限をかけました。
>すると半次郎が江戸らしいセクハラ感覚で、「千住に連れてってもらったか」と唐丸に尋ねます。
半次郎さんが「唐丸、千住はもう連れてってもらったか?」と唐丸さんに尋ね、戸惑う唐丸さんに半次郎さんが「吉原の男はみんな千住に行くんだよ。ハハハ」と焚き付けます。そこで蔦重さんが煙管で一服しながら「まだ早ぇよ」とたしなめています。
吉原の男衆は公娼である吉原の女郎と遊ぶのは御法度且つ遊里とはいえまだ成人前の少年に宿場の飯盛女を勧めているのでさすがに蔦重さんも『江戸らしいセクハラ』では済まなかった様です。
ちなみに千住は日光街道、水戸街道の宿場町の起点で東北方面の玄関口として栄え、幕末には江戸近郊で最も大きな宿場町となりました。
・ガラの悪い客がきた?
>すると唐丸が、ガラの悪い客から「茶がぬるい」とケチをつけられているではありませんか
蔦重さんが蕎麦のお代を払っていると、「何だこの茶は!ぬるいじゃねえかよ!」という怒鳴り声が聞こえました。
蔦屋の方を見ると、唐丸さんがごろつきたちに難癖を付けられ謝っているところでした。
蔦重さんは小走りで店に戻ると、「旦那さま方失礼いたしました。吉原はお初ですか?」と尋ねました。
ごろつきは「あ?悪いかよ!」と喧嘩腰です。
蔦重さんは頭を振ると、「滅相もない事にございます。よくぞ!よくぞお越しくださいました」と対応しつつ、男たちの中にいる兄貴分らしい二本差の武士に目を遣りました。
蔦重さんが「では、まずお腰のもの、お預かりしましょう」と言うとごろつきは「てめぇ、兄ぃの刀盗もうってか?あ?」と凄みます。
蔦重さんは意に介さず「いえ!吉原には決まりがございましていかなるお方といえども見世に上がる時にはお刀をお預かりする事になっておりまして」と答えます。
年嵩の磯八というごろつきが「深川でも品川でもンな事言われなかったぜ!なあ!」と仲間に同意を求めます。
蔦重さんが「申し訳ございません。吉原は天下御免、面倒がございましてはお上の名を汚す事になりますので」と言うと、武士は舌打ちしながら派手な拵えの刀を差し出しました。
その時刀を差したままの武士が悠々と大門に向かって歩いて行き、若い子分仙太がそれに気付きました。
蔦重さんが慌てて「あの方は中に馴染みの引手茶屋がおありなのです。大身のお武家さまは大門の中の引手茶屋に刀をお預けになるんで」と言うと武士が「馴染みや大身は中」と呟きます。
磯八が蔦重さんを蹴り飛ばし、「てめぇ、誰に向かって口きいてんだ!このお方はな!」と凄みます。
武士が磯八を止め、蔦重さんの前に屈み「人見る目持った方がいいぜ」と鼻で笑い去って行きました。
蔦重さんが冷めた目で見送ると唐丸さんが「大事無い?」と心配します。
蔦重さんが「鼻から屁が出る病になれば良いんだ、あんな奴ら」と言いながら襟元を糺します。
半次郎さんが「鼻から屁?」と尋ねると蔦重さんは「臭くて堪んねえだろうが!」と答えます。
>重三郎は吉原の決まりを説明し、見世に上がるときは誰からも刀を預かると言います。
>しかし、深川でも品川でもんなこと言われたことはなかったと、しつこいチンピラども。
深川宿は東京都江東区の西部に位置し、主に門前仲町から清澄白河辺りの地域を差します。
深川の辺りはもともと海が広がる地域で材木商の木場や流通拠点、貝類が豊富に獲れる漁師町でした。
力仕事に関わる労働者たちを支えた食の一つが、名物の深川めしなのだそうです。
品川宿は東海道五十三次の宿場の一つです。
中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿と並んで『江戸四宿』と呼ばれました。
所謂一見さんは五十間道の蔦屋に、大身の武家は大門の中の馴染みの引手茶屋で腰の物を預けた様です。
どうやらこの武士と取り巻きたちは宿場町の私娼を買う事はあっても吉原での茶屋と廓遊びのしきたりは知らなかった様です。
・夜見世の花、花魁道中?
>暮れ六つ、吉原の本番である夜見世の始まりです。
昼見世は客がまばらだった吉原も暮れ六つ(午後六時頃)にもなると仲の町の提灯や表通りの行灯に火が灯り、夜見世となり賑やかさを増します。
三味線の音が響き、客引きと客が交渉し、格子窓の嵌った妓楼では遊女が「遊んでくんなんし」と客を誘います。
仲の町では松葉屋の呼出花魁・花の井の花魁道中が始まりました。
客・和泉屋の指名を受け新造や禿を引き連れ、花の井さんは高下駄で外八文字を描きながら引手茶屋まで練り歩きます。
花の井さんの後ろには花簪に豪華な着物を着た禿のあやめさんとさくらさんが付き従います。
「吉原は日に千両の金が落ちたと言われ、その稼ぎ頭となったのが花の井の様な呼出の花魁です。」と語りが入ります。
引手茶屋では馴染みの和泉屋が「おお、花の井、待ちかねたぞ。待ちかね山じゃ!」と喜び、花の井さんが「お待たせいたしんした、和泉屋さま」と答えます。
「客は『大通』と呼ばれる身元も財布も確かな選ばれた金持ちばかり。中でも札差など羽振りの良い通人たちは『十八大通』と呼ばれて持て囃されました。客はまず引手茶屋で一席、その後女郎屋でも芸者や幇間などを呼び宴席を張る。最低でも一晩十両、中には百両張り込む方もいたとかいないとか」と語りが入ります。
>三味線の音がテンポよく響いています。
>昨年の『光る君へ』の琵琶と比較すると、格段にテンポがあがっていることがわかります。
>中国でも時代が降ると琵琶は縦に持ち、かなりリズミカルに、テンポをあげて演奏するようになります。
>日本の薩摩琵琶もそう。
>平安京の琵琶はそうならずに残ったのですね。
『光る君へ』でまひろさんが奏でていた母の形見の琵琶は『楽琵琶』です。
楽琵琶は宮内庁や神社、寺院などで受け継がれる『雅楽』に使われる大型の琵琶です。
楽琵琶は『源氏物語絵巻 宿木』で匂宮が奏でている様子が伺えます。
平家琵琶は楽琵琶とほぼ同じ造りの琵琶で、楽器を水平にして弾きますが、柱(じ)と呼ばれるフレットが楽琵琶4つに対し平家琵琶は5つあります。
また平家琵琶は平曲と呼ばれ『平家物語』を語りながら相槌的に入る演奏に使われます。
島津家中興の祖といわれる島津忠良が藩士の教養のため、盲僧琵琶を改良したのが『薩摩琵琶』、その明治初期~中期、筑前の盲僧琵琶を大幅に改造して、語り芸能向きにした『筑前四弦琵琶』、明治後期から大正初期にかけ、弦を一本増やしたのが「筑前五弦琵琶」だそうです。
芸能考証を担当する友吉鶴心さんによると、『まひろにとって琵琶というのは、母・ちやはとの思い出も詰まった大切なものであり、手に取るだけでとても心が穏やかになったり、心が解放されたり、深い思いに心を持っていけるアイテム』だそうで、メロディーを聴かせるというよりも、『まひろの心境を琵琶で弾いていただくという演出』との事です。
・“鬼平”どころかこれじゃ“旗本退屈男”じゃねえか?
>「あの女とはやれねえってどういうことだよ! 兄ぃはなぁ、あの女とやりてえつってんだよ!」
>そう言い出し、松葉屋まで乗り込んできたやってきたチンピラども。
蔦重さんが客を松葉屋に案内していると、「あの女とはやれねえってどういう事だよ!」と怒声が聞こえます。
声に覚えがあった蔦重さんが中を覗くと磯八たちが松葉屋の主人・半左衛門さんや女将のいねさんと揉めていました。
「兄ぃはな、あの女とやりてえっつってんだよ!」と叫ぶ磯八に、松葉屋夫妻が「本日馴染みのお客さまがいらしておりまして」と応対しています。
見栄張りで「吉原なんて大したことねぇ」と子分と言い合いながら大通りを歩いていた武士が仲の町の花魁道中で花の井さんを見初めたのでした。
見世番曰く、武士は「花の井花魁とやらせろ」と言ってきたのだそうです。
磯八が「あんな爺、すぐにへたるだろ。その後こっちに回せって言ってんだよ!」と言うと、見世を仕切るいねさんが「あと!あの方の後と仰いますと明日の明日の明日の昼までお待ち頂く事になりんすがよござんすか?いやぁもう一度来たら居続けの長蔵で」と早口でまくし立てました。
すると磯八が「てめぇ、誰に向かって口きいてんだよ!いいか、耳かっぽじって聞きやがれ!このお方はな、れっきとした大の旗本なんだぞ!しかもメイワク火事の咎人を挙げたあの火付盗賊改方・長谷川平蔵宣雄(のぶお)さま!」
これには蔦重さんも松葉屋夫妻も奉公人たちも仰天し平伏します。
続けて磯八が「…のご子息・長谷川平蔵宣以(のぶため)さまだぞ!この度 長谷川家のご当主になられたんだからな!」と言い、親分格の武士・平蔵さまはフッと垂れた鬢の毛束を息で揺らし笑いました。
「念の為この男、後の『鬼平』にございます」と語りが入ります。
「そういうクチか」と察した蔦重さん。
頭が高いとイキるごろつきに対しにこやかに「左様でございましたか!いやいや然様に御立派な方とは心得ず、先程はご無礼を」と仲介し、半左衛門さんに目配せし、「実は私、長谷川さまのお目当ての女郎とは幼馴染にございまして」と言います。
平蔵さまの表情の変化を見て蔦重さんがさらに「大身(身分の高い武士)にふさわしい吉原イチの引手茶屋で仕切り直しをさせて頂けませんでしょうか」と畳み掛け、歌舞伎役者の様に見栄を切ると、彼らを駿河屋に案内しました。
花魁を呼ぶ客は、まず引手茶屋で一席宴を開く事になっています。
平蔵さまも駿河屋に芸者や女郎を呼んで飲み始め宴席で女郎に力こぶを見せていました。
蔦重さんが市右衛門さんに「長谷川平蔵は血筋自慢のチャクチャク(嫡嫡)野郎でさ、いい歳した世間知らずの極上のカモだ!」と吹込み、市右衛門さんが狡猾そうに目を細めます。
市右衛門さんは勢い良く襖を開け、「此の度はお越しいただき恐悦至極。引手茶屋の駿河屋市右衛門にございます!」と満面の作り笑いで平伏します。
平蔵さま一行を松葉屋に引き渡し蔦重さんは蔦屋に戻りました。
「これから尻の毛まで毟られんだ、あのお武家さん…」
成り行きを蔦重さんから聞いた唐丸さんが呟きます。
>他の色街は漁ったぜ、次は吉原だ! 手っ取り早く一番いい女を抱いてやらぁ!
>吉原一の引手茶屋の馴染みになってそこに刀を預けてやる!
>そう張り込んでいるのでしょう。
>で、実際はルールも何も知らない……なんてダセェヤツなんだ。
客が妓楼にあがることを『登楼』といいます。
引手茶屋を通さず、客が直接妓楼に出向いて登楼するのが『直きづけ』。
初めての場合(『初会』)、客は張見世で女郎を見て好みの女郎を見世番の若い者に告げ、若衆が全て手配します。
『馴染み』だとそのまま妓楼に入っていくと若衆が馴染みの女郎を手配します。
引手茶屋を通す場合、最も贅沢で金のかかる茶屋に呼出花魁を呼んでもらう遊び方。
指名の花魁に声をかけて茶屋に呼び、花魁道中の間、客は幇間(太鼓持ち)や芸者を交え二階座敷で酒宴を行ない飲食や歓談後、妓楼に向かいます。
客は花魁、供の新造、禿、引手茶屋の女将や若い者、幇間や芸者を引き連れたお大尽。
九郎助稲荷の語りの様に『大通』と呼ばれる身元も財布も確かな選ばれた金持ちばかりで、中でも和泉屋の様な大店など札差は百両の金を落とす『十八大通』と呼ばれた様ですね。
その後妓楼で酒宴や同衾になり、引手茶屋の女将や若衆などが翌朝の迎えの刻限を確かめた後、ようやく引き取るそうです。
ともかく、平蔵さまの様に花魁に惚れた腫れたで初めてなのに身分だけで見栄を張る野暮な男は引手茶屋や妓楼の良いカモになるだけなのでしょう。
古典落語の演目『紺屋高尾』で5代目高尾太夫を見事身受けした神田紺屋町の染物屋吉兵衛の奉公人・久蔵の様には行かないようです。
唐丸さんが心配する通り尻の毛まで毟られるのでしょうか…
>しかし、だからといってこんな面白バカ枠にしなくても
公式によると、中村隼人さん演じる長谷川平蔵宣以は、青年時代は風来坊で「本所の銕(てつ)」と呼ばれ、遊里で放蕩の限りを尽くしたという逸話を元に妓楼の野暮なやらかしを描いたようです。
のちに老中・松平定信公に登用され「火付盗賊改役」を務め、凶悪盗賊団の取り締まりに尽力する事になるのは後の噺の様です。
・河岸の女郎は食べるものすらない?
>さて、そんな夜、河岸の二文字屋では女郎が皿を舐めています
河岸見世の二文字屋では食い詰めた女郎が皿を舐めていました。
朝顔姐さんの部屋から、そっと花の井さんからの弁当が廊下へ差し出されます。
朝顔姐さんは移るからと自分は手を付けず、食べるものに困る他の女郎たちに分け与えたのでした。
愛想無しのために二文字屋に流れてきたちどりという若い女郎が手掴みで貪り始めました。
翌日の明け方、半鐘の音が吉原に鳴り響きました。
蔦重さんが火元の河岸見世に駆けつけると、すでに鎮火し幸いボヤで済んだ様です。
河岸見世にはすでに後朝の別れを済ませた花の井さんもいます。
会所の番人が話を聞いている傍らで縄で縛られた女郎が「腹が減ったんだって。ごめんなせえ、ごめんなせえ!」と許しを乞うていました。
会所の番人が「ほら立て!どいたどいた!」と付け火をした女郎を引っ立てていき女郎はなおも許しを乞います。
蔦重さんは会所の番人に「ボヤで済んだんだし、穏便に済ませてやれねえですか?」頼み込みました。
「出来るか、付け火だぞ!火事んなったらな、どんだけ人が死ぬと思ってんだ!」
そう番人に言われては蔦重さんも返す言葉もありません。
肩を落とし見送る蔦重さんの後ろから「蔦重」と声を掛ける者がいました。
振り向くと空になった器を持ったちどりさんが立っていました。
「ああ…わざわざあんがとな。よし、姐さんちゃんと食ったな」と蔦重さんが安心しました。
「…おらが食った」とちどりさんが俯き声を震わせます。
そして叫ぶ様に「おらが、おらが飯食っちまったから!食ったから!」と言いました。
朝顔姐さんが亡くなった事を知り蔦重さんは亡くなった女郎が投げ込まれる浄閑寺に走り出しました。
>『光る君へ』では、女君が男君の前で食事をする場面がありません。
まひろさんの邸の場面では家族で膳を囲んで食事をしている場面がありました。
『大饗』などの公式な年中行事や産養などの宴の際には大盤や給仕のために女房は動かなければいけないので食事をとる暇がありません(五十日の祝はお食い初めなのであくまで皇のための膳)
ちなみに『大饗』と呼ばれる正月に内裏や高位の貴族が催す宴などでは、豊かさの象徴である豪華な食事が饗されますが、食べきれないものも出る訳で。
そんな時には、『とりばみ』といって主人の合図と共に邸に入ってきた庶民に施すのだそうです。(庭先にばら撒いた食べ物に群がる民となるのですが…)
>翌朝、女郎が付け火をしたと責められています。
>なぜそうしたのか?
元々日本橋近くにあった吉原。浅草の北に移転したのは『明暦の大火(1657年)』が原因でした。
しかし、食い詰めひもじい女郎にとって火事は悪い事ばかりという訳でもありません。
吉原が火災に遭った場合再建されるまで『仮宅』と呼ばれる別の場所で臨時営業が行われました。
吉原独特の厳しいしきたりが緩み、場代も安くなるため、『仮宅』は多くの江戸の男たちから歓迎されました。
敷居が高く遊ぶのにも値が張る吉原は、一部の男性を除いて足が遠のきがちで『仮宅』の方が客の入りが良かったのです。
後に浮世絵師・歌川国芳は『里すゞめねぐらの仮宿』を火災後『仮宅』営業する遊郭の賑わいを擬人化したスズメたちの姿で描きました。
作中火付けで捕らえられた女郎も「もう一遍火事で『仮宅』になれば腹一杯食えると思った」という事なのでしょう。
実際、厳しい生活から逃れるために女郎が火を付けるのは吉原ではよくある出来事だったそうです。
しかし会所の番人が「付け火だぞ!火事んなったらな、どんだけ人が死ぬと思ってんだ!」と怒鳴る様に多大な犠牲者の出る大火を引き起こす付け火は火炙りの重罪であり、情状酌量を加味しても島送りだったのです。
作中、女遊びに疎い野暮な長谷川平蔵宣以公の父・宣雄公は明和の大火の下手人を捕らえた火付盗賊改方として有名でした。
『火付盗賊改方』は主に重罪である火付け(放火)、盗賊(押し込み強盗団)、賭博を取り締まった役職でした。
・投込寺無惨?
>なぜ走ったのか?
>向かった先は浄閑寺でした。
胸の病に罹りまともに食事を摂れず亡くなった朝顔姐さんの遺体は他の女郎たちの遺体とともに吉原近くの浄閑寺に運ばれていました。
蔦重さんは菰も掛けられず、着物を剥ぎ取られ裸で墓穴の側に打ち捨てられた朝顔姐さんを見付けました。
「裸で捨てられるの?」と尋ねる唐丸さんに蔦重さんが「剥ぎ取って売るんだよ。罰当たりが」と忌々しげに答えます。
蔦重さんは唐丸さんに手伝ってもらい、持ってきた着物で朝顔姐さんを包みました。
「…姐さんは俺を救ってくれた人でな」蔦重さんは涙を拭い朝顔姐さんとの思い出を語ります。「俺ぁある日いきなり二親に捨てられたのよ。それで駿河屋の親父さまが拾ってくれたんだけど、なまじ親がいただけに拾われ子のうちで虐められてな。そん時側にいてくれたのが朝顔姐さんだったんだ」
柯理と呼ばれた七歳の蔦重さんと朝顔姐さんの出会いは九郎助稲荷でした。
「あいつら目から小便が出る病になりますように!」とお稲荷さんに手を合わせる柯理の後ろからクスリと笑いながら美しい花魁とまだあざみと呼ばれた禿の花の井さんがいました。「おかしなお願いをなさいんす。」と微笑む朝顔姐さんを柯理は一遍に好きになりました。
赤本の絵解きなど、本を読むことの喜びを教えてくれたのも朝顔姐さんでした。
朝顔姐さんが「柯理のおとっあんとおっかさんも鬼退治に出掛けたのかもしれんせんな」と言うと柯理は「オイラの親は色に狂って出てったんだよ」と答えます。
朝顔姐さんは「噂でありんしょう?まことかどうかなんて分かりんせん。どうせ分からぬなら、思い切り楽しい理由を考えてはいかが?」と言います。
朝顔姐さんが「柯理は公方さまの隠し子で」と話すと柯理が「おとっあんとおっかさんは実は隠密でおいらを預かって…」と作り話の続きを作り、朝顔姐さんは嬉しそうに見守りました。
「本当に優しい人でなあ。優しいからきつい客引き受けて、飯も食え食えって人にやっちまうんだ。最後はこんなんなっちまって」
着物から覗く手はぽきりと折れそうな程やせ細っています。
「吉原に好き好んでくる女なんていねえ。女郎は口減らしに売られてくんだきつい勤めだけどおまんまだけは食える、それが吉原だったんだ。それがろくに食えもしねえって…そんなひでえ話あるかよ」
今の河岸の女郎たちは、食べる事もままなりません。
朝顔姐さんは蔦重さんが届けた花の井さんからの差し入れには手をつけず、飢えた女郎たちに食べさせ死に至ったのでした。
蔦重さんは一人寂しく亡くなっていった朝顔姐さんを哀れみ泣きました。
>「殺された」とする紹介もありますが、別に刃物で刺されたとか、毒を飲まされたわけではありません。
>病死なり衰弱死なり、自然死の範囲でしょう。遠景で見ると分かりにくいですが、よく見ると朝顔姐さんの上にいる女郎のご遺体の背中に殴られた様な痣がありました。(裸体画像注意⚠)
推測ですが病死でなければ折檻による衰弱死の可能性もあるかと思います。
女郎が保証されている食事は基本一汁一菜でした。
景気が悪く、花魁を多数束ねる松葉屋の様な大見世ならともかく場末の河岸見世では粥を分けてすするしか無く衰弱し、楼主からも『美味いものを食べたいなら客から取れ』という経費削減策を強いられたのもあるのではないでしょうか。
三食客持ちの食事を楽しめる松葉屋の花魁からの分け前は滅多に無いご馳走で、食い詰めた二文字屋の女郎たちが群がるのも無理はありません。
朝顔姐さんは元々病で寝付いており他の女郎に花の井さんからの差し入れを分けてしまい、弱りきって亡くなったのだと思います。
>死んだ女郎は、身につけた服まで剥ぎ取られ、売られてしまう
18歳前後で客に水揚げされた女郎たちは約10年勤め上げ20代後半で年季明けになります。
実際に客が身請けをすると遊廓の関係者などに、現在換算で1億円以上を支払わなけなりません。
しかし、梅毒などの性病や労咳(肺結核)などの病により年季明けを待たず命を落とし、三ノ輪にある浄閑寺などの所謂『投込寺』に半ば投げ捨てられる様に葬られました。
客との駆け落ちなどで吉原から逃亡しようとすれば、番人たちの捜索が掛かり遊廓へと連れ戻された女郎は楼主や手下の男たちによる折檻が待っていて命を落とす事もあった様です。
遊郭で亡くなった女郎たちのご遺体は真夜中にこっそり、逆さ吊りにされて吉原から運び出されて行ったそうです。
三ノ輪の浄閑寺、日本橋堤の西方寺など何箇所かあった『投込寺』の境内に持ち込まれ、小銭を添えて放置されました。
三ノ輪の浄閑寺の過去帳の記録によると、一ヶ月に吉原から運び込まれる遊女たちの遺体数は平均40人だったそうで、その平均寿命は22.7歳。
その他岡場所や宿場からも運ばれてきた様です。
ほぼ毎朝寺の関係者は遊女の遺体に対面していたのでしょう。
女郎たちのご遺体は投げ込み寺で無縁仏として扱われ、個々に墓などは作られません。
「生れては苦界 死しては浄閑寺」などとも言われました。
寺で朝顔姐さんたちの墓穴を掘っていた者たちも度重なるご遺体の持ち込みから尊厳すら持たなくなっていたのかもしれません。
きれいな着物は高価で絶好の金目のため賊が追い剥ぎする様に剥ぎ取り売ったのでしょう。
蔦重さんが朝顔姐さんに着物を掛け寺の者に『罰当たり』と憤り、「吉原に好きこのんで来る女なんていねぇ。女郎は口減らしに売られてきてんだ。」と嘆いていたのがせめてもの救いです。
>撮影時はかなり気を使っていたそうですが、裸が衝撃的といえばそうです。
>荒菰に包む方が無難だったかもしれません。
>悪趣味な釣りだという意見もあります。
>肉付きが良すぎるという意見もあります。
>ただ、遠目ですし、死因も判明しないからには、保留かと思います。
病で伏した朝顔姐さんは蔦重さんが見舞いに来た時、激しく咳き込んで背を擦ろうとすると「悪いねぇ…あんまり近寄るとね…」と暗に感染する事を憚り近づかない様に言っています。
蔦重さんが花の井さんからの差し入れを勧めても、「食べる時にむせちまうんだよ。男前には見られたくありんせん」と固形物を食べると嚥下しにくく遠慮しています。
胸の病により浄念河岸に流れた元花魁という設定もあり、労咳と栄養不良により衰弱死した可能性があります。
『肉付きが良すぎるという意見』には一里あると思いますが。
吉原など遊郭での女郎の死因として真っ先に上がるのが梅毒など性病ですが、それ以外では『労咳(肺結核)』だったそうです。
テレビ朝日系列で2007年に放送されたドラマ『吉原炎上』では星野真里さん演じる白妙(雪乃)が労咳を患う場面があるそうです。
>むしろ無惨な屍として扱われるのに、性的な興味関心を惹起すると決めつけるところが、どうにもかえって危ういと思えます。
>NHKなんてどうせまともにやるわけがないという決めつけもありますし、SNSで聞き齧っただけで見ていないと言い切る人もいる。
>見れば見たで回数貢献するという理屈もつく
決め打ちで今年一年高評価レビューを付けるつもりでいたのに、思わぬ所から作品が炎上し、自身のポリコレ・ジェンダー趣向に反する演出があり歯切れが悪くなっていませんか。
嫌いな作品なら言いがかり中傷レベルで叩くのだから他人の意見を借りずに自分の意見を述べたら如何でしょうか。
反論したいのなら具体的な例や史料を提示した方が信用に足ると思います。
>ただどうなんでしょうね。
>2023年のジャニーズ問題を受けての強行や、2019年の盗撮ネタをギャグ扱いしていた大河と比較すれば、むしろ成長著しいのでは?と私なぞ思ってしまいますが。
歴史的見地から作品評価しても自分の評価に繋がらないからとゴシップ記事や激しい言葉で出演俳優を中傷する事しかできない歴史ライターなど信用ならないし、嫌いなものを殴る叩き棒に女郎の悲劇を演じた俳優たちを使うくらいならレビュー一切を止めたほうが良いと思います。
『2019年の盗撮ネタをギャグ扱いしていた大河』とは何でしょうか。
2019年は『いだてん』ですが具体的に書いてください。
2010年の『龍馬伝』の記事なら出てきましたが。
・女郎の肉と血で肥え太る忘八ども?
そのころ女郎屋のあくどい顔をした店主どもが、何かを覗き込んでいます。
駿河屋の二階では、女郎屋や引手茶屋の主人たちが寄り合いを開いていました。
江戸屈指の料亭『百川』の屋号の入った折詰は贅沢で手の込んだ料理は目にも楽しいのですが、それを覗く面々はどれも強面ばかり。
「しかし今朝は驚きましたな。腹が減ったくらいで付け火とは」
「河岸女郎の頭の中はどうなっとります事やら」
長崎屋小平治さんと桐谷伊助さんの会話に大文字市兵衛さんが「河岸女郎にはカボチャ、カボチャ!カボチャ食わしとけば良いんですよ!」と持論展開すると、今度は松葉屋半左衛門さんが「お宅は女郎にカボチャ食わせてのし上がった店だからねえ」とドケチで有名な大文字屋を皮肉ります。
「河岸は今、カボチャにすら難儀しているのでございます!」廊下から声が聞こえ、一同が振り返ると蔦重さんが皆が集まる二階に乗り込み、緊張した面持ちで廊下に立っています。
駿河屋市右衛門さんが「帰れ。てめぇが来る様なとこじゃねえだろ」と苦々しげに払うも梃子でも動かないとばかりに蔦重さんがその場に座り込みます。
松葉屋半左衛門さんは朝顔姐さんが今朝亡くなった事を蔦重さんから聞いて一瞬動揺しました。
「女郎たちがしょっちゅう体を壊し治るはずの病を拗らせて呆気無く逝っちまうのはちゃんと飯が食えてねえからです!どうかしばらくの間親父さまたちの方から河岸に炊き出しなりなんなりしてもらえねえでしょうか。このままじゃ女郎はどんどん減りますよ。そうなりゃ客も減るし、店も潰れますよ。親父さまたちだって望んじゃいねえでしょう?」
大黒屋の女将・りつさんが「胸って聞いたよ」と答えます。
蔦重さんは訴えますが、誰一人耳を貸す者はいません。
声を張り上げる蔦重さんに大文字屋が弁当を投げつけ、「うっせえな!別に悪かねえんだよ、女郎がどんどん死ぬのは!河岸見世の女郎は呼出みてえな格別な女でもねえ。どこにでもいる女は一切百問で股を開いているだけだ。どんどん死んで入れ替わってくれた方が客も楽しみなんだよ」と叫びます。
松葉屋が「百川だって毎回同じおかずじゃねえ」と付け加えます。
「親父さま方、そりゃあまりにも情なかねえですか。親父さまたちは人じゃねえです!人として…」
蔦重さんはなおも訴えます。
「あいにく私たちは忘八なもんでね」
松葉屋と共に吉原を取り纏める大見世の扇屋宇右衛門さんが口を開きます。
『忘八』とは仁・義・礼・智・信・孝・悌の八つの徳を忘れた外道の事で、女郎屋の主人の渾名です。
教養人としても知られた扇屋宇右衛門さんが即興で狂歌を作り、「うまい」「うまだけに!」と皆大笑いしています。
蔦重さんの襟首を駿河屋市右衛門さんがむんずと掴み、廊下に引きずり出します。
「俺たちは 女郎に食わしてもらってるんじゃねえんですか!吉原は女郎が神輿で女郎が仏!俺ぁそうやって教え込まれましたぜ!いくら忘八でもそこだけはお題目を突っ張んねえといけねえんじゃねえですか?」
市右衛門さんはなおも食い下がろうとした蔦重さんを階段から蹴り落としました。
一階では駿河屋の女将・ふじさんが饅頭を食べていました。
>中でも大文字屋は、カボチャばかりを食わせることで悪名高いようです。
カボチャこと伊藤淳史さんが演じる大文字屋市兵衛さんは、新興勢力の女郎屋『大文字屋』の主人です。
伊勢出身の村田市兵衛は江戸の吉原で『大文字屋』という妓楼を開き最初は河岸見世、後に大文字屋市兵衛と名乗ります。
2代目は狂歌師として名を残します。
『大文字屋は『カボチャ』という渾名で背が低く、猿のような丸い目を持つ市兵衛は、自らカボチャと名乗り、踊っていた愉快な人物だった』そうです。
カボチャと言われた理由は、カボチャに似ていたという風貌からという説以外に、まだ河岸にいた頃、お抱えの女郎の食事にカボチャを多用しお金を浮かせたケチさからという説があります。
作中でも松葉屋半左衛門さんが「お宅は女郎にカボチャ食わせてのし上がった店」と皮肉っていました。
『べらぼう』では年齢からして『加保茶元成』と言われた二代目でしょうか。
二代目は狂歌の分野で才能を発揮し、蔦唐丸(つたのからまる)こと蔦重さんとともに狂歌師の集団・吉原連に属しました。
嘉永五年(1852年)刊行の石塚豊芥子の『近世商賈盡狂歌合』によると、大文字屋について宝暦の初年に流行っていた唄と市兵衛さんの肖像を描いた一枚摺りが売られていたそうです。
>「あいにく私たちは忘八(ぼうはち)なもんでね」
>これは儒教の八つの徳を忘れた外道をさします。
>八徳とは『八犬伝』の玉でおなじみの【仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌】のこと。
>これが出てくるだけ当時の日本人は進化しています。
「あいにく私たちは忘八なもんでね」松葉屋と共に吉原を取り纏める大見世の扇屋宇右衛門さんが言われ慣れたとばかりに言い、この後教養人としても知られた彼は即興で狂歌を作ります。
そして「うまい」「うまだけに!」と皆大笑いしていますが、そこに何故触れないのでしょうか。
蔦重さんの養父・駿河屋市右衛門さんを始め、大手の女郎屋や引手茶屋の主人たちは女郎を売り物にし金儲けに明け暮れ、儒教の教え『仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌』の徳を忘れた外道『忘八』と揶揄される存在でした。
吉原は江戸城に対して鬼門とされる『丑寅(北東)』の方向にありました。
丑寅は日本では古来より鬼の出入り方角であるとして忌むべき方角とされるため、鬼門にいる我ら忘八は『人でなし』と言っているのです。
そして大門も『丑寅(北東)』の方向にあるため吉原の『午(南)』に出入り口は無く、「そこは葦の原(=吉原、アシとヨシを掛けた)』と言いたいのでしょう。
>重三郎がそう返すと、頭を掴まれ引きずられ、階段から蹴り落とされるのでした。
>下手すりゃ首折って死にますぜ。
駿河屋の二階から階下まで蹴り落とされる蔦重さん。
大河ドラマガイドによると、殺陣・武術指導の方が入っているのが分かります。
作中を見る限り、上手く受け身を取り転がり落ちています。
顔を隠しているのでスタントマンの方かもしれません。
映画『蒲田行進曲』の池田屋の階段落ちの様でしたが。
>『光る君へ』から『鎌倉殿の13人』の中世は、そもそも倫理や徳目への理解が薄い。
時代区分的に『光る君へ』の舞台である平安時代は『中世』ではなく『古代』であり、『中世』は鎌倉時代と南北朝時代と室町時代になるかと思います。
大河ドラマでいうなら『鎌倉殿の13人』『北条時宗』の鎌倉時代、『太平記』の南北朝時代、『花の乱』からの室町時代かと思います。
>その300年後にやってきた長い乱世を終え、朱子学を浸透させることを目指したのが『麒麟がくる』です。
>その先はどうか?
>江戸中期ともなれば、寺子屋で儒教倫理を学び、江戸っ子だってわかっちゃいます。
継体天皇の時代の513年、百済から五経博士(儒家の経典である五経を教える学官)が渡日し、国家で研究を行う学問として式部省の被官の大学寮において明経道として教授され、貴族社会に於いて儒教は教養として広く読まれていました。
南宋に留学した僧により日本にもたらされた『朱子学』は禅宗寺院で研究されたり、15世紀前半に上杉憲実公によって再興された下野国の足利学校でも儒学の講義が行われました。
応仁の乱などにより京都が荒廃し、公家や僧侶などの文化人が地方へ下り、各地の大名や有力武士を頼り、儒学者も地方に拡散します。
江戸時代になるとそれまでの僧侶らが学ぶ儒教から独立し、朱子学、陽明学といった学問となります。
藤原惺窩の弟子である林羅山が徳川家康公に仕え、幕府の文治政治への転換から儒学を重要視する様になります。
1690年(元禄3年)には孔子廟を湯島に建立し(湯島聖堂)、『学問所』が開講され朱子学が教授される様になります。
・厠の男、田沼意次を推薦してくる?
>重三郎が毒付いていると、唐丸が「警動(けいどう)」とは何か?と聞いてきます。
気が済まない蔦重さんは唐丸さんを連れ町奉行所を訪ねました。
岡場所や宿場への『けいどう(警道)』をしてほしいと訴えたのです。
お上の許しを得ていない岡場所や宿場を『けいどう』してもらえれば、岡場所は潰れ宿場も女を売れなくなり吉原に客が戻ると考えたのです。
しかし、思うようには行かず、「奉行所のトンチキがよう。この手の話は名主から持って来いの一点張りでよお…」
追い返され怒りが収まらない蔦重さんは帰り道の湯島の長屋の厠で唐丸さんに愚痴ります。
「やる気ねえんだよ、八丁堀のクソが!」
「お前さん、そりゃクソにご無礼ってもんよ」
隣の厠から男が面白そうに話し掛けて来ました。
「あいつらは屁よ。クソは畑に撒きゃ役にも立つがあいつらはクソ以下の屁。何の役にも立たねえ…へへへの屁っ放り野郎よ!あいつらは金になる仕事しかしやしねえのよ」
男が厠を出ました。
総髪の四十半ばの男で炭売り男の様です。
蔦重さんが「じゃあ旦那だったらどうします?けいどうやってもらおうと思ったら。岡場所増え過ぎて女郎が困ってんですよ」と尋ねると炭売り男は「…じゃあいっそ田沼さまの所に行ってみるってどうなんだい?」と焚き付けます。
「案外と町場のモンの話も聞いてくれるよ」と男が言います。
蔦重さんは気軽に言う男に担がれているとしか思えず、驚いています。
男は「兄ちゃん担いで何の徳があんだよ。それよりこれ、田沼さま肝煎りの炭でよ」と売り込んできますが、蔦重さんはそれどころではありません。
神田橋御門内の田沼屋敷。
官職を得たい大名や旗本、幕府御用達を狙う商人。
時の老中に謁見を求める人々が列をなしていました。
蔦重風情が入り込める余地も無く、唐丸さんが「無理だ」と言いますが、蔦重さんは花の井さんの馴染み客の札差・和泉屋三郎兵衛の姿を見付けました。
蔦重さんは「和泉屋様〜ご無沙汰しております!重三郎でございます。吉原駿河屋の」と挨拶し三郎兵衛さんが戸惑う中荷物持ちとして屋敷に潜り込む事ができました。
邸内には『百川』の仕出し弁当が積まれ蔦重さんが取り次ぎから渡された弁当を一つ手に取っています。
立派な庭の屋敷を見下ろす茂みでは、田沼意次公の嫡男・意知公が女と「若さま、なりませぬ」「何を、良いではないか」と押し問答しています。
女は「斯様に沢山」と遠慮がちですが、意知公は「構わぬ。皆で食うが良い」と弁当を渡しました。
女は礼を言い立ち去っていきました。
>吉原以外の非公認遊郭を取り締まることであり、重三郎は倫理ではなく、法を頼ろうとしました。
>奉行所に訴え出て潰し、吉原の賑わいを取り戻そうというわけです。
>しかし、奉行所は動かねえ!
『けいどう』とは、江戸時代に、岡場所や宿場などの私娼窟(ししょうくつ)や違法な賭場に対して行なわれた町奉行所による不意の手入れ(捜査)の事です。
「警動」「怪動」とも書きます。
風紀取締りと公娼の保護のために採用された処置で捕えられた私娼は刑罰として吉原の遊里に送られました。(出典 精選版 日本国語大辞典)
なので蔦重さんは私娼窟である岡場所や宿場が奉行所に『けいどう』されたら、岡場所が潰れて宿場も女を売れなくなり、吉原に客が戻ると考えたのでしょう。
しかし、幕府の役所である奉行所は動きませんでした。
けいどうは通常町奉行が主導し、手配された役人たちによって行われました。
けいどうは単なる取り締まりの手段ではなく、権力者同士の利害関係を反映する場でもあり、例えば吉原の訴願を受けて行われた場合、公娼制度の維持だけでなく幕府の力を誇示する象徴的な意味合いも含まれていました。
>男曰く、クソは畑に撒けば肥料になるが屁はそれにもならない。
>確かに江戸時代ともなると、肥は換金できました。
日本で人糞を有機質肥料として用いたのが確認される最初の例は、鎌倉時代だと言われています。
室町時代の朝鮮通信使は「日本では人糞を肥料とし、農作物の生産高が非常に高い」と記しているそうです。
江戸時代では、当時は人糞を農業の肥やしとして利用するため農家に売っていました。
人糞を出す階層によりその価値が違い、栄養状態のよい階層(最上層は江戸城)から出された人糞は、それより下の階層(最下層は罪人)が出す物より高い値段で引き取られました。
これを下肥料と言います。
ちなみに、この時代から用を足す際トイレットペーパーに当たる落とし紙(浅草紙)が使用される様になり、厠の中に使用済みの紙を入れるザルが置かれていて、貴重な肥に使用済みの紙が混ざらない様に分別されていたのだそうです。
厠から出てきた男(平賀源内先生)が「クソは畑に撒きゃ役にも立つがあいつらはクソ以下の屁。何の役にも立たねえ」と言ったのもそういう事情があるからです。
>男曰く、町場のもんの話でも聞いてくれるとか言ってるけど、おめぇさん、何者よ?
>屁について語っているだけに『放屁論』でも書いているんで?
『放屁論』は平賀源内先生の戯作の一つで本編は1774年(安永3年)、後編は1777年の刊行です。
本編では放屁を見せ物にして人気のあった江戸両国橋の芸人を素材に、また後編ではエレキテルを発明した浪人貧家銭内の口を通じて、創造性のない停滞した身分制社会の諸側面を鋭く批判しています。
(出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」)
その作中で源内先生は『「屁」は百害あって一利なし。「屁」は田畑の肥にもならず、目に見えず、人に罪を被せたすぐ様、姿を晦まし、逃げ去るもの。「屁」こそ最も卑しきものである事は、万人が認めるところである』と延べています。
>しかし、どうしてこんな高級料理が余るほどあるのか?
>というと、田沼意次が収賄に励んでいるからともいえる。
>息子が使用人にそれを与えることは、美談なのでしょうか?
蔦重さんが和泉屋さまの荷物持ちとして田沼屋敷に上がった時、すでに時の老中に便宜を図ってもらうため謁見を求める人の列ができ、取り次ぎが袖の下を貰い、客は百川の仕出し弁当を渡されました。
『百川』は通人が遊ぶ四大料理茶屋に数えられる、日本橋にあった高級料亭です。
浮世絵『百川繁栄の図』に描かれ、古典落語の『百川』でもおなじみの仕出し弁当です。
田沼意次公は九代将軍・徳川家重公に仕え大名となり、十代・家治公の許で側用人に出世し安永元年(1772年)には老中となっていました。
嫡男・意知公は父・意次公とともに幕政の実権を掌握し、「田沼時代」を築きます。
田沼父子の政策は長崎貿易や新田開発を奨励し、農民からの『年貢増税』に頼らず、勢いのある商品経済に目を向けて、商人から『営業税』を取るというものでした。
また、幕府直営の座を設けて銅や鉄を専売し、商人の『株仲間』を公認し、特許を与える代わりに、運上・冥加(税金)を徴収しました。
貨幣経済が発展し、歌舞伎や浮世絵など、町人文化も発展した時代でもありました。
老中に便宜を図ってもらうため謁見を求める人の列ができ、客に持たせる高級な仕出し弁当が山と積まれた屋敷。
我が世の春の様な田沼屋敷。
意知公はまるで平安時代の貴族が大饗などの宴会の後に、残った料理を庭に投げ下々に与える様に使用人に弁当を与えたのかもしれません。
こうした非常識な賄賂の逸話は、意次公の最大の政敵・松平定信公が追い落とすために撒き散らしたデマの可能性が高いと考えられています。
タイトルの『栄華乃夢噺』にはそういう政治背景も含まれているのではないでしょうか。
・経済を重んじる田沼意次、贈賄は断らない?
>ここで和泉屋の前に、袴をつけていない意次が姿を見せます。
和泉屋三郎兵衛さんと蔦重さんは広間に通され老中・田沼意次公に謁見しました。
「面を上げよ」
廊下で平伏していた蔦重さんが顔を上げると着流し姿の意次公が座っていました。
「久しいな和泉屋。今日は新たな産地での商いの件と聞いておるが」
三郎兵衛さんが蔦重さんに持たせていた風呂敷包みから壺を取り出し、「彼の地では実に良い肥が出来まして、是非一つご覧頂きたく」と恭しく差し出しました。
壺の中身を見た意次公は虚を突かれた様な顔をした後、「フッ、これは実によう効きそうな肥じゃな」と言います。
見れば山吹色の小判がギッシリと詰まっています。
「ええ、たわわに実りましょうぞ。山吹の実が。無事取り入れがなりましたらもちろん相応の運上、冥加はお納めいたします。」
廊下で話を聞いていた蔦重さんは呆気に取られる三郎兵衛さんを他所に今だとばかりに「恐れながら吉原も運上冥加を納めております!是非田沼さまに聞き届け頂きたい儀がございまして」と口上しました。
眼尻を吊り上げる三郎兵衛さんを制し、意次公は「良い、手短に申せ」と発言を許しました。
蔦重さんは「ありがとうございます!」と礼を言うと運上冥加も納めぬ岡場所・宿場のせいで吉原の末端の女郎が腹を満たす事が出来ない窮状を訴え、「これはどう考えても道理に合いません。」と岡場所・宿場への『けいどう』を願い出ました。
しかし、意次公は「『けいどう』を行なう訳にはいかぬ」と言います。
>意次は、新たな産地での商いの件だと聞いていると、単刀直入に本題へ入ることを促します。
和泉屋三郎兵衛さんの『新たな産地での商いの件』は『株仲間』での便宜でしょう。
『株仲間』は、商工業者(商人や職人)が同じ商品を扱う者同士で結成した組合です。
商工業者が株仲間に入り幕府に税金(運上・冥加)を払い、商売の権利である『株』を手に入れ独占的に仕入れや販売をしました。
享保6年(1721年)、徳川吉宗公は『享保の改革』の一環として、株仲間を公認するとともに、江戸中のすべての商人と職人に株仲間の結成を許可しました。
商人や職人から『冥加金(みょうがきん)』や『運上金(うんじょうきん)』と呼ばれる税金を徴収し、幕府財政の足しにしようと考えたのです。
物価が不安定な時、幕府が株仲間に圧力をかければ商品の価格を操作できるという思惑もありました。
天明3年(1783年)の『天明の大飢饉』では米不足となり一揆や打ちこわしが頻発しました。
田沼意次公は株仲間を一層奨励し、町人からの税収を増やすとともに、物価の安定を図ろうとしました。
>案の定、壷の蓋を開けると、中は黄金色の小判でした。
>なんという贈収賄ぶりよ。
>「ふっ、これはこれは、実によう効きそうな肥じゃの」
>「たわわに実りましょうぞ、山吹の実が。取り入れがなりましたら、相応の運上冥加はお納めいたします」
前述の通り、江戸時代では、当時は人糞を農業の肥やしとして利用するため農家に売っていました。
裕福な者の人糞程栄養豊富なため高値で売れました。
和泉屋三郎兵衛さんはその様な肥に例え、意次公に賄賂を送り便宜を図ってもらい商売で肥え太ればさらに儲けが増え山吹の実がたわわに実ると考えたのでしょう。
意次公は商売の特権を得ようとした商人から膨大な賄賂を受け取ったといわれ、後世の人々から『賄賂政治家(まいないせいじか)』と揶揄されました。
・田沼意次と蔦屋重三郎の問答?
>意次は逆に問いかけます。
>「江戸へ入る五街道沿いの宿場町が、一つでも潰れたらどうなる?」
意次公は蔦重さんに名を問うと真っ直ぐ目を向け、「よし、では蔦の重三。大きな宿場といえば板橋、品川、千住、内藤新宿辺り。この四宿は江戸へ入る五街道沿いにある宿場町だ。もしそういった宿場町が一つ潰れればどうなると思う?」と問います。
蔦重さんは戸惑いながらも「宿場町から宿場町の間が長くなりますから、旅が大変になりますか。商いの機会も減ったりしましょうか」と答えます。
意次公は「なかなか 察しが良いな。そうだ、つまり 宿場町が潰れれば商いの機会が減り、それにより国体の利益、国益を逸する事になる。裏を返せば宿場町が栄え商いの機会が増えれば莫大な 国益を生む。では宿場町を栄えさせるのは何だ?」と問います。
蔦重さんは言及を渋りながら「…女と博打でございます」と答えました。
意次公は「そうだ。然様な訳でここのところ各職場町の飯盛女の大幅な増加を認めてきた。おかげで 吉原のためだけに『けいどう』とはいかぬ訳だ」と言います。
蔦重さんは「では、岡場所だけなら いかがでしょう!深川や本所、音羽!岡場所は商いの機会とは関わりございませぬ!そこにを『けいどう』をかけぬ理由はございませんかと!」と言いますが、意次公は「かけたところでイタチごっこだ」と言います。
さらに蔦重さんは「そもそも吉原が『天下御免』 を頂いたのは、得手勝手に色を売り 危ない目に合う女が多かった故!そこは最早よろしいので?それに『天下御免』の色里が廃れたとあっては、お上のご意向に関わるのではございませんでしょうか?」と言います。
意次公が「…百川が吉原の親父たちは上得意だと言っておったぞ」と言い、蔦重さんは取次に渡された 折詰を思い出し、ハッとします。
意次公は「『けいどう』を願う前に、正すべきは忘八親父たちの不当に高い 取り分ではないのか?さらに言えば、吉原に客が来ぬのは最早吉原 そのものが足を運ぶ 値打ちもない場と成り下がっておるからではないか」と指摘します。
蔦重さんは「女郎は懸命に勤めております!」と弁解しますが、意次公は「ならば人を呼ぶ工夫が足りぬのではないのか?」とさらに指摘しました。
「人を呼ぶ工夫?」
蔦重さんはオウム返しに問い返します。
意次公は「そうだ。何かしておるのか、お前は人を呼ぶ工夫を」と逆に問います。
蔦重さんはそのようなことを考えつきもしなかったため、脳天を雷に打たれた気がしました。
部屋を出て行こうとする意次公を呼び止め、顔を上げると「お言葉、目が覚めるような思いがしました。まこと、ありがた山の寒がらすにございます!」と礼を延べました。
>意次は逆に問いかけます。
>「江戸へ入る五街道沿いの宿場町が、一つでも潰れたらどうなる?」
>交通網が滞ると理解する重三郎。
田沼意次公が「大きな宿場といえば板橋、品川、千住、内藤新宿辺り。この四宿は江戸へ入る五街道沿いにある宿場町だ。もしそういった宿場町が一つ潰れればどうなると思う?」と問い、蔦重さんは戸惑いながらも「宿場町から宿場町の間が長くなりますから、旅が大変になりますか。商いの機会も減ったりしましょうか」と答えます。
江戸から各街道への出入口にあたる四つの宿場を『四宿』と言います。
日光・奥州街道の千住、中山道の板橋、甲州・青梅街道の内藤新宿、東海道の品川の四つです。(出典 精選版 日本国語大辞典)
日本橋から延びる五街道の一つ目の宿場町である江戸四宿は、準公認の飯盛女(飯売女・食売)が置かれた『岡場所』があり、場代も吉原よりも安く、気軽に遊べる場所として利用されていました。
五街道の起点のため、寛政の改革・天保の改革でも四宿の岡場所の取り潰しは免れています。
>それならば岡場所だけでも取り締まって欲しいと食い下がる重三郎。
>吉原だけ特別なのは危ねえ目に遭う女がいたからだといい、天下御免の色里が廃れたとあってはお上の威光に関わると返します。
>すると反論に窮したのか。
>意次は立ち上がり、重三郎の横に腰を下ろします。
蔦重さんは「では、岡場所だけなら いかがでしょう!深川や本所、音羽!岡場所は商いの機会とは関わりございませぬ!そこにを『けいどう』をかけぬ理由はございませんかと!」と言い、下層の女郎たちが飯も満足に食べられないほど苦しんでいるため非公認施設の岡場所を取り締まる『けいどう』を行ってほしいと求めました。
「イタチごっこ」だと言う意次公に、蔦重さんは「そもそも吉原が『天下御免』 を頂いたのは、得手勝手に色を売り 危ない目に合う女が多かった故!そこは最早よろしいので?それに『天下御免』の色里が廃れたとあっては、お上のご意向に関わるのではございませんでしょうか?」と言います。
幕府に公認された吉原はいわば管理された風俗街の総元締めでした。
管理やしきたりが厳しく、花魁ともなると高級娼婦の文化人サロンの様相で限られた人しか遊べない場所でした。
岡場所は非公認・黙認され、女郎も公のしきたりを知らず気ままで「吉原に行くお金がないけれど、女性は抱きたい」という庶民にも人気になりました。
しかし、男性に支払ってもらえる金額が少なかったため、岡場所の女郎たちは、1人でも多くの客を取る必要がありました。
また、夢や幻想よりも欲望を満たしたいという男性が多かったようで、そのため蔦重さんは『得手勝手に色を売り 危ない目に合う女が多かった』と主張したのでしょう。
意次公は反論に窮したというより、庶民が安価な岡場所に流れた原因として、吉原の忘八親父たちの不当に高い取り分を挙げ、「吉原そのものが足を運ぶ 値打ちもない場と成り下がっておるからではないか」「人を呼ぶ工夫が足りぬのではないのか?」と指摘し、蔦重さんに「お前は人を呼ぶ工夫をしたか?」と問います。
・この世はすべて金、金、金…倫理はどうした??
>そこから倫理がさらに進んで根付いたようで、それが資本主義の道理に上書きされつつある。
>意次の理屈でいうと、国益のためなら女を犠牲にし、博打も認めて堕落も許容しろということになります。
>金儲けできるなら全て良い。
>そう上塗りされてゆく。
>それでよいのかどうか。
意次公の考えは公共の利益のために、非合法の岡場所を必要悪として黙認する事でしょう。
蔦重さんは当初、お上の許しを得ていない岡場所や宿場を『けいどう』してもらえれば、岡場所は潰れ宿場も女を売れなくなり吉原に客が戻ると考えました。
しかし、お気持ち正義で綺麗事を言っても五街道筋にある宿場は人の流れや物流の要であり、人が集まる宿場をむやみに潰せないのでしょう。
宿場の発展は幕府にとって重要な政策であるため幕府も黙認しており、けいどうを掛け寂れさせる訳に行かなかったのでしょう。
ならばと意次公は蔦重さんに「お前は人を呼ぶ工夫をしたか?」と問います。
結果として公娼である事に変わりありませんが、権力に縋る前に、自分たちでどうしたら下位の女郎が満足な暮らしを出来るか成すべき事があるのではないか?という意次公の問題提起でした。
>2020年大河ドラマ『青天を衝け』では、渋沢栄一と朝鮮についてほとんど触れずに終わりました。このことを再考する必要も感じます。
>『べらぼう』は、あえてそんな近代以降の悪しき傾向を先んじて見出していると思えますが、韓国ではこんな嘆きがあります。
>日本に支配されたことで、性的道徳が崩壊したのだと。
ここで『青天を衝け』と渋沢栄一氏を引き合いに出す必要があるでしょうか。
嫌いな歴史上の人物と時代、作品を韓国や『べらぼう』を叩き棒にして叩きたいだけに思います。
>連綿と続けてきた国益のために女性を犠牲にする歴史を、そろそろ振り返ったらどうか?
本当は『べらぼう』の評価も手のひらを返してポリコレ・ジェンダーやフェミニズムのお気持ち正義で女郎が亡くなった場合着物を剥がれ全裸で浄閑寺に投げ込まれたという描写を無かった事にしたいのではないですか。
・桶伏せにあい、考える重三郎?
>さっぱりした顔で、田沼屋敷をあとにする重三郎。
夕刻、若衆によって大きな木桶が五十間道に転がされて行き、蔦重さんが「お〜、でっけぇ!」と無邪気に驚き、次郎兵衛さんとつるべ蕎麦の半次郎さんが怪訝そうな顔をしています。
蔦重さんが田沼屋敷から意気揚々と帰ってくると五十間道に吉原の親父衆がずらりと雁首揃え、全員が怒りの形相で蔦重さんの帰りを待っていました。
駿河屋市右衛門さんが鬼の形相で「てめぇ、何やってんだコラァ」と言い放ちました。
奉行所から会所にお尋ねが来て大変なことになり、蔦重さんが『けいどう』を頼みに行った事がバレました。
蔦重さんは急いで踵を返して逃げ出そうとしましたがすぐに取り押さえられてしまいました。
カボチャの大文字屋市兵衛さんが「あのな!『けいどう』なんか頼んだら、こっちが岡場所の女の面倒見なくちゃ行けなくなんだよ!この左前ん時にんな余裕ねえんだよ!」と唾を飛ばして怒鳴り散らしました。
蔦重さんは悪びれず「では…人を呼ぶ 工夫をしましょう。田沼さまは人を呼ぶ 工夫をしろと」と言い、その場が静まり返りました。
「…田沼様って、まさか」
蔦重さんが屈託なく「御老中の」と答えると「このべらぼうめ!」と間髪を入れず市右衛門さんの拳が飛びました。
蔦重さんは怒り狂う親父たちに殴る蹴るの暴行をされ、次郎兵衛さんは止める事もできず弟の名を呼ぶ事しかできません。
あれよあれよと逆さにした木桶に閉じ込められてしまいました。
この『桶伏せ 』の私刑は金を払えない客に対する罰で、顔の部分だけ穴を開けてあるが、上に大きな重石を乗せた木桶はびくともしません。
蔦重さんは「おい!上げろよ、おい!」と桶の中から叫びますが、誰も解放しようとしません。
夜になり五十間道に据えられた木桶の四角い穴から通行人が鼻をかんだちり紙を投げ入れていきます。
雨も降ってきます。
蔦重さんは窮屈な姿勢のまま、木桶の中で朝も夜も意次公に言われた「人を呼ぶ工夫」をひたすら考え続けました。
そして三日三晩が過ぎ、蔦重さんが「これだ…」と目を開けた瞬間、桶が外されました。
「重三、生きてっか?」
光の眩しさに目を細めていると、次郎兵衛さんや唐丸さんや半次郎さんが心配そうに覗き込んでいます。
蔦重さんは返事もせず、よろよろ立ち上がるとまっすぐ蔦屋の店先に向かいました。
蔦重さんは「これだ」と言い、吉原細見を手に取りました。
>カボチャの大文字屋は、そんなことしたら岡場所の女の面倒を見る羽目になるだろ!とこれまたキレています。
>確かに取り締まりにあった女郎は吉原へ送られてきて、大変なことになる。
前述の蔦重さんが奉行所に『けいどう』を頼みに行って断られる場面で書きましたが、『けいどう』は風紀取締りと公娼の保護のために採用された処置で、捕えられた私娼は刑罰として吉原の遊里に送られました。(出典 精選版 日本国語大辞典)
さらに奉行所の役人は名主の許しが無いとできないと言います。
蔦重さんが勝手に『けいどう』を頼みに行った事でもし行われると、大文字屋市兵衛さんが懸念する様に吉原にしきたりを知らない得手勝手な女郎まで面倒を見る事になり、女郎の数も増えるため客足の伸びない妓楼から困窮し、女郎の労働環境が改善しないのだと思います。
>そしてあのでかい桶を被せられ、閉じ込められてしまうのでした。
>吉原の懲罰「桶伏せの刑」です。
脱走して捕まることもあった吉原の女郎たち。
成功は稀で連れ戻された遊女は厳しい罰を受けました。
体に商品価値があるので、傷をつける行為は避けられていました。
そんな女郎たちに対して行われていた罰が、「くすぐり責め」に「燻し責め」などです。
「燻し責め」とは、手足を拘束して身動きできない遊女の前で、植物を燻して煙を向けていく方法です。
「くすぐり責め」とは裸にして両手足を拘束した遊女に対して、筆や羽毛でよってたかってくすぐり続けていき笑い過ぎにより呼吸困難を起こさせる方法です。
遊郭で仕置きされるのは遊女だけではなく、金を払わない客も仕置きの対象になりました。
「桶伏せ」は頭からすっぽりと桶を被せて重しを乗せ逃げない様にして通路に晒される「晒し刑」でした。
顔の部分に穴が開き、通行人から丸見えのため大変な辱めを受けたのでした。
まさに蔦重さんの受けた刑でした。
MVP:朝顔
>その名前の通り、朝に咲いて萎んでしまう花のような存在でした。
>ヒロインはしばしば花になぞらえられます。
>遊女の源氏名に花の名前は定番です。
源氏名は、歴史的には宮仕えする女官や女中が名乗ったり呼ばれたりした通称であり、『源氏物語』に因んだ名であったため『源氏名』という呼び名になったとされます。
近世(江戸時代頃)になると、遊女が用いる芸名・仮名を指して『源氏名』と呼ぶ様になります。
この頃には『源氏物語』に因んだ名前という前提は取り払われました。
現代では『源氏名』は水商売の女性が愛称や芸名として用いる仮名を指すようになり、『源氏物語』との関連性もなくなり、『女性の芸名』という暗黙の前提もなくなります。
『源氏物語』の朝顔の姫君は源氏の君の父・桐壺帝の弟・桃園式部卿宮の姫君です。
ずば抜けた美貌と魅力を持つ源氏の君からどれだけ恋心を訴えられても受け入れなかった唯一の女性で、源氏の君とは友情関係を保ち続け生涯独身を貫きました。
『朝に咲いて萎んでしまう花のような存在』とありますが、『源氏物語』で『萎んでしまう(儚くなる)花のような存在』は朝顔よりも『夕顔』ではないかと思います。
>とはいえ、生身の人間を花になぞらえるとは、なんと残酷なのでしょうか。
>花と違い、遊女は裸に剥かれ、そのまま地面に投げ出されました。『花と違い、遊女は裸に剥かれ、そのまま地面に投げ出され残酷』と言いたいのでしょうが、『咲いて色が褪せ自然に散る前に無粋な手でいとも簡単に散らされ握り潰された花』と考える事はできると思います。
小野小町は咲いた花が色褪せる事に擬え、自分の容貌が衰える様子を詠んでいます。
松葉屋の花魁だった朝顔姐さんが胸の病に侵され浄念河岸の切見世に流れ儚く散りなおも身ぐるみ剥がされて尊厳無く地に伏している姿は全てのものは絶えず生まれて消え常なるものが無い『無常観』や現世は辛く儚い苦界、『憂き世』であるという『源氏物語』に通ずるものがあると思います。
>肺を病み、最下層遊女のいる河岸で客を取らされ、あっけなく命を落としてしまう。
『肺を病み』と自ら書いているのに何故『死因が分からない』と書いたのでしょうか。
自己矛盾が生じていませんか。
・総評?
>この第一回を見て、小難しくなく明るいという評価もありましたが、むしろ難解だと思いました。
>あまりに難解なので、噛み砕く工夫はしてあります。
『難解だから噛み砕く工夫はしてあります。』というならせめて中高生レベルの歴史用語くらいは調べて解説してください。
史料出典明記してください。
(遊郭の説明は概ね九郎助稲荷がしてくれていましたが。)
田沼意次公の政策や吉原と宿場や岡場所の違いなど、そこから分かる問題提議もあると思います。
>炎上もするでしょうし、扱うテーマがテーマだけに、毎週「NHKは利用している!性的搾取を促進している!」とSNSで問題視され、ネットニュースにもなりそうに思えます。
>既にゲンダイさんも懸念を表しております。
>それにしてもゲンダイさんに応じるテレビ関係者さんって、リアクションが毎度素早いと感心してしまいます。
>「賛否」って見出しも卑劣ですねぇ。
碌な解説もせず、歴史ライターではなく『炎上』に嬉々として乗っかるゴシップ専門ライターになったのですか。
>大河は西日本に偏ってんだよォ!
>戦国三傑となれば中部以西だし、幕末は薩長がデカいツラしてるし、文化の中心だった江戸を軽視しすぎじゃないですかね。
>江戸を真面目にやれ。
>もうそこは待ったなしだから仕方ない。
>でも江戸文化をやるにせよ、吉原をロンダリングしたままではいかんでしょう。
『全ての大河ドラマ関係者は私の欲を満たす様な時代と地域と内容のものを作れ』とばかりに上から目線で「江戸を真面目にやれ。もうそこは待ったなしだから仕方ない。」と言っていますが自分と気に入った作品は自分でしか作れないと思います。
それ程までに『江戸を真面目にやれ』と言うのなら、企画立案から脚本・演出まで自分でやるといいと思います。
※何かを見た氏は貼っておりませんでしたが、今年もNHKにお礼のメールサイトのリンクを貼っておきます。
ファンの皆様で応援の言葉や温かい感想を送ってみてはいかがでしょうか?