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大河コラムについて思ふ事~『光る君へ』第27回

7月中旬になりました。先週は都知事選のため中断しましたが光る君へが再開しました。皆様健やかにお過ごしでしょうか。
気圧変化もあり大雨になるなど、皆様健康や災害には充分お気を付けください。
さて、光る君へ第27回。 
今週も『武将ジャパン』大河ドラマコラムについて書かせていただきます。
太字が何かを見たさんの言質です。
御手隙の方に読んでいただければと思います。それでは。


・初めに

>貧しい孤児を人とも思わなかったり。
>まひろよりも若い女と遊んでいたり。
>すっかり評価を下げていた藤原宣孝
まひろさんが大水と地震を生き延びた庶民の子供たちに食べ物を与えていたところ、宣孝公は「汚らわしい」と口にし、「子供たちは孤児であり、誰かが食べさせてやらねば間違いなく飢えて死にます」と反論しても宣孝公は「それも致し方ない。
子供の命とはそういうものだ」とそっけなく答えます。
餓鬼道に堕ちた死者供養のための法要や民に食べ物などを施す『施餓鬼』は遣唐使で中国へ渡った僧侶によって日本へ伝えられます。
しかし、平安時代民など恵まれないものに対する施しは密教の僧など仏門の者や貧しい民や孤児を収容する『悲田院』などの仕事でした。
やがて禅宗でも行うようになります。
鎌倉時代の終わり頃になると、それ以外の宗派でも行われるようになります。
貴族の中には宣孝公の様な民にあまり関心のない方も多かったのではないでしょうか。

26回でも書きましたが。
『枕草子』第42段「似げなきもの」では、身分の低い者、年取った者、容貌の優れない者に対する手厳しい評価が書かれ、『光る君へ』作中でもまひろさんに文字を教わっていた民の子のたねさんを見たききょうさんが「誰ですの?今の汚い子」と言い、「あのような下々の子に教えているの?何と物好きな」と驚く様子が描かれました。

『枕草子』第42段「似げなきもの」
『光る君へ』より
『光る君へ』より

宣孝公がまひろさんからの評価を下げてしまったきっかけは、宣孝公がまひろさんが贈った文を持ち歩き、「ある所で見せたらその女が見事な歌だと感じ入っておった」と得意げにしておりまひろさんが「2人だけの秘密を見知らぬお方に見られてしまったのは、とんでもない恥辱だ」と文の返還を要求した事にあります。
その後宣孝公の足は遠のき、ある日弟の惟規さまが「清水の市で、姉上よりも遥かに若い女ににやにやしながら絹の反物を買ってやっていた」と若い女との逢瀬を匂わせたため、『許す許さない、別れる別れない』といった文のやり取りの文が交わされました。
そして反物を手土産に訪ねてきた宣孝公とまひろさんは喧嘩になります。
宣孝公は「お前のそういう可愛げのないところに左大臣さまも嫌気がさしたのではないか。分かるなー」と言い出したため、まひろさんは火桶の灰をぶつけました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>石山寺に参詣したまひろ。
>そこへ姿を見せたのは、なんと藤原道長でした。

長保元年(999年)1月。
まひろさんは従者たちを連れ石山寺に参詣しました。
仏堂に参籠し誦経しているまひろさんの目の前に、道長卿が現れます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

・石山寺の逢瀬?

>道長はまひろを気遣っています。
石山寺で再会したまひろさんと道長卿は思い出話に花を咲かせます。
道長卿が「大水と地震で屋敷がやられたのではないか、あの辺りは痛手が大きかったので案じておった」とまひろさんの屋敷の被害を気遣い、まひろさんは「おかげさまで家の者も無事でございました」と礼を言います。
まひろさんは道長卿が以前よりも痩せた事に気付きます。
道長卿は「やらねばならない事が山積みで手に余る事ばかり次々と起こる。その度にまひろに試されているのやもと思う」と言います。
まひろさんは「道長さまを試したことなどございませぬ」とムキになって答えます。
道長卿に「すぐ怒るのは相変わらずだ」と言われまひろさんが詫び、道長卿は「それしきのことで腹は立てぬ」と答えます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

まひろさんは道長卿に「そういえば三郎の頃も俺は怒るのは嫌いだと仰せでした」と昔語りをします。
道長卿はまひろさんに「一度だけお前に腹を立てた事があったな。今その事を考えていただろう」と尋ね、まひろさんは「偉くおなりになって、人の心が読めるようになられたのですね」と返します。
道長卿は「偉くなったからではない」と答えます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

道長卿は「越前はどうだった?」とまひろさんに訪ねます。
まひろさんは「越前は寒かった」と答えます。
「越前守には苦労をかけておる」と道長は頭を下げました。
まひろさんは「国守でさえ大変なのに朝廷の政の頂に立つ道長さまはどれほど大変か。越前に行ってそれを知りました」と言います。
道長卿が「海を見たか?」と尋ねると、まひろさんは「海を渡って来た宋人に宋の言葉を習いました」と答え、「ニーハオ、ヘンガオシン ジィェンダオニー」と宋語で挨拶をしてみせました。
道長卿は怪訝な顔をし挨拶だと知らされ「昔から賢いと思っていたが宋の言葉まで覚えたか」と感心しています。
まひろさんは「挨拶なら誰でも覚えられる」と答えます。
道長卿が「もっと話してみよ」と促すとまひろさんは宋語で「越前には美しい紙があります。私もいつかあんな美しい紙に歌や物語を書いてみたいです」と話します。
その意味を聞かされた道長は「巧みに宋語を操って…」と驚き、「そのまま越前に居ったら宋に行ってしまったやも知れぬな」と言います。
「されど都に戻って参りました」と言うまひろさんに、道長卿は「戻って来てよかった」と言い、その顔をまひろさんは見つめます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

同行者がいるためまひろさんは戻ろうとし、道長卿は引き止めた事を詫びます。
まひろさんは「お会いできて嬉しかった」と言います。
「お健やかに」「お前もな」と言葉を交わす二人。
しかしまひろさんはその場を離れようとせず気付いた道長卿も引き返し、2人は走り寄ると互いに抱き合いました。
道長卿はまひろさんの頬に手を添え指先で唇をなぞり、唇を重ね合わせます。
2人は一夜を共にし、朝日が差し込みます。
「もう一度、俺のそばで生きることを考えぬか?」と問う道長卿にまひろさんは「お気持ちうれしゅうございます。でも…」と答え沈黙しました。
「俺はまた振られたのか」と道長卿は呟きます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>いずれも手に余るものばかりで、そのたびに「まひろが自分を試しているのかもしれない」と言います。
>これは道長のおかしなところです。
>帝の発言と比べてみましょう。
>帝は「天譴論」、つまりは天意が己の政を監視しているととらえていました。
>それが道長の場合、天意よりもまずまひろ。
>あの日「人のために政を為せ」と語ったことが胸に残っているのです。
>純粋というか、なんといいましょうか。
26回でも書きましたが。
『天譴論』の他に前漢の儒学者・董仲舒(とうちゅうじょ)が論じた『天人相関説(天人感応説)』という思想があります。
天子の所業は自然現象に象られ、悪政を行えば、大火や水害、地震、彗星の飛来などをもたらし、善政を行えば、瑞獣の出現など様々な吉兆として現れるとされました。
天変地異や疫病流行などの災害を防ぐため君主は善政を布くことが模範として求められ、『徳政』といわれました。

天譴論『天が人間を罰するために災害を起こす』『災害とは天が人間に下した罰である』という儒教に基づく思想。

天人相関説(天人感応説)
人事と自然現象 (天) との間に対応関係があり、人間の行為の善悪が自然界の異変 (吉祥や災異) を呼起すという思想。

大水・日蝕・地震という災害に際し、陰陽師・安倍晴明公により『天文密奏(異常な天文現象が起きた時、その占いの結果を内密に天皇に知らせる)』が一条帝に奏上され、帝は「朕のせいなのか…」と仰います。
また、道長卿が帝の治世が揺らがぬためにどうすれば良いか晴明公に相談すると、晴明公は帝が唯一人の出家した中宮に懸想するばかりでなく後宮の秩序を糺し徳政を施せる様、彰子さまの入内を促しました。
道長卿の心には常に「民を思い、共に生きる」というまひろさんとの共通の思いがあるので、問題に突き当たるとまひろさんに試されている様に感じるのでしょう。
道長卿役の柄本さんは19回でのインタビューで、『帝が間違った道に進んでしまったとしたら、それは自分の誘導ミスであると思おうとしているというか。「民を思う御心あってこそ、帝たり得る」というセリフがありましたけれど、一条天皇はまさにそれを体現してくれるであろうと道長的には思っている』と仰っています。

>道長に頼まれ、まひろはさらに喋り出します。>「越前紙を紹介して、それに歌や物語を書いてみたい」
まひろさんは「越前には美しい紙があります。私もいつかあんな美しい紙に歌や物語を書いてみたいです」と言っています。
まひろさんは越前では都に税として納める越前和紙を作る現場を見ており、『いつか美しい紙に物語を書いてみたい』という思いを強くしたのでしょう。
娘・彰子さまを入内させ、最高権力者となる道長卿にまひろさんが越前和紙への思いを語った事で意味を持つのかもしれません。

>「そのまま越前にいたら宋の国にいたかもしれない」
>けれどもまひろは都に戻った。
>そのことをあらためて喜ぶ道長です。
巧みに宋語を操るまひろさんに道長卿は「そのまま越前に居ったら宋に行ってしまったやも知れぬな」と言っています。
越前にいたら宋に渡って行ってしまったかもと危惧する道長卿にまひろさんは(宣孝公と結婚して)都に戻って来たと言っているのです。

・定子の懐妊?

>春が訪れ、桜が咲き誇っております。
長保元年(999年)3月。
定子さまの懐妊が判明します。
一条帝はたいそう喜ばれ、「なぜ告げなかったのだ」と仰います。
「申し訳ございません」と謝る定子さま。
帝は「今度は皇子だ。定子に似た、目の美しい聡明な皇子の姿が見える」と帝は定子を励ます様に仰います。
しかし定子さまは「その様にお喜びくださるとは思えなかった、子を産むことなど許されぬ身で…」と自責するかの様に言います。
帝は「朕を信じて、安心してよい子を産め」と定子さまを励まされ、ききょうさん(清少納言)に「中宮を頼む」とお伝えになります。
一方、道長卿は、「晴明の予言は正しかった。ならば生まれるのは皇子か」と心の内で確信します。
その頃、道長卿の一の姫・彰子さまは愛猫の小鞠を抱き、赤染衛門から書や和歌など一通りを学んでいました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>春が訪れ、桜が咲き誇っております。
>何気ない一瞬の場面ですが、江戸後期以降のソメイヨシノを入れないようにする工夫が必要です。
桜の歴史は『古事記(712年)』から始まり、木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)という女神が霞に乗り富士山上空へ飛び、花の種を蒔いたと記述されています。
『日本書紀(720年)』では衣通郎姫(ソトオシノイラツメ)は美人の象徴として描かれています。 古代では、桜は穀物の神が宿る「神聖な樹木」として祭られていたとされています。
奈良時代は、遣唐使を中国に派遣し中国より梅が日本に渡来してきたため『万葉集』では梅の歌が桜よりも詠まれました。
平安時代、遣唐使が廃止され国風文化が花開くと貴族の間で桜の花見の習慣が広まり、『古今和歌集』では桜の歌が梅を上回ります。
『源氏物語』でも第八帖『花宴』で華やかな桜を愛でる花見の様子が描かれています。

江戸時代後期にソメイヨシノが開発され明治時代以降に主流になるまでは、花見と言えば主にヤマザクラでした。
野生種であり、『吉野の桜』といえばヤマザクラを指しました。

ソメイヨシノはオオシマザクラとエドヒガンの雑種とされ、江戸時代末期に江戸染井村(現・東京都豊島区)の植木屋が『吉野桜』として売り出し、1900年に藤野寄命によりソメイヨシノと名付けられ広まっていきました。

>彰子は猫を抱いていました。
>清少納言が「一番いいと思う猫の色」と書き残した背中が黒く腹が白い毛色です。
彰子さまの猫と絡めて猫の逸話を紹介したいのなら出典を提示してください。 
『「枕草子」(四十九段)猫は』では『猫は背中が黒くて腹が白いのが良い』と言っています。

猫は 上の限り黒くて、腹いと白き。

意訳:
猫は背中が黒くて腹が白いのが良い

「枕草子」(四十九段)猫は

>このドラマの猫は、平安時代当時にもいた毛色で、赤い首輪をつけています。
>日本における伝統的な猫の首輪は赤系統です。
平安時代、猫は奈良時代に中国から伝わった『唐猫』が高級な愛玩動物として飼われていました。猫には逃げない様に美しい高価な紐を付け、屋内で大事に飼っていました。
一条帝は愛猫に『命婦の御許(おとど)』と名付け『馬の命婦』という乳母をつけるなどして可愛がっていました。
『小右記』長保元年(999年)9月19日条には内裏で子猫が生まれ、本来人間の赤子が生まれてから3・5・7・9日を経過した事を祝う『産養』を行ったと記述があります。

『小右記』長保元年(999年)9月19日条

『「枕草子」(八十五段)なまめかしきもの』には赤い首綱に白い札が付いている可愛らしい猫の歩く様子が描かれています。

「枕草子」(八十五段)なまめかしきもの
『光る君へ』より

・倫子、彰子を指導する赤染衛門に疑念を抱く?

>源倫子が赤染衛門に藤原彰子の教育を要望しています。 
倫子さまは赤染衛門に彰子さまの育成を託しました。
土御門殿では彰子さまが赤染衛門から書や和歌などを学んでいます。
母・倫子さまは「勉学は要らない、華やかな艶が、皆が降り返るような明るさが欲しい」と言います。
「艶と明るさ…それは難しゅうございますね」と答える赤染衛門に、倫子さまは「だから衛門に頼んでいるのよ。入内して目立たなければ死んだも同然。皆の注目を集める后でなければならないと」と倫子さまが要望します。
さらに倫子さまが「衛門、我が家の命運が懸かっているの」と切実な表情で言うため、赤染衛門も承諾せざるを得ません。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

倫子さまは『彰子さまが興味を持つような事は何か』と模索し始めます。
赤染衛門は彰子さまに閨房での帝に対する仕草を教えます。
「帝をお見上げ申し上げる時は眼差しを…下から上へ。はいどうぞ」と赤染右衛門が手本を示し、彰子さまは慣れない仕草で「下から上へ…」と視線を運びます。
赤染衛門は「よろしいですわ、姫さま」と彰子さまを褒めます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

一方、倫子さまは庭の花を愛で、感嘆した時など情緒面を教えます。
「彰子も『わあ~きれい』と声を出して言ってちょうだいよ」と促しますが、彰子さまは感情が籠っていない声で「わあ〜きれい…」と言うだけでその表情はぎこちないものでした。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

赤染衛門は倫子さまに「閨房での心得は一通りお教えしました。彰子さまは何度も頷いて聞いており、おとなしい姫様だが意外にご興味がおありだとお察ししました」と伝えます。
赤染衛門は倫子さまから『艶を』と言われたため、閨房の事を教えたのでした。
しかし倫子さまは「閨房?」と驚き、「艶もだけれどまずは声を出して笑う様にして欲しいのよ。」と言います。
赤染衛門は恥じらいながらも「閨房の心得としてのお声については…」と言い出し、倫子さまは「そうではなく普段の声!閨房はその先のことでしょう?」と苦言を呈します。
すると「これは私の役目ではない」と衛門。
倫子さまは衛門に、「物慣れているはずなのに、閨房以外に知恵はないの?」と苛立っています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>ここで赤染衛門がセクシーポーズを指導すると、ぎこちない様子でなんとかあざといポーズをとる彰子です。
赤染右衛門が彰子さまに指南したのは閨房での帝に対する視線運びや仕草です。
入内した姫君はお家の繁栄のために次代の天皇候補となる皇子を産む事が求められ、後宮での房事も政のひとつでした。
なので赤染衛門はまずは帝の覚えがめでたくなる様「帝をお見上げ申し上げる時は眼差しを…下から上へ。」と帝のお顔を見上げる様な眼差しをして下さいと教えているのです。
赤染衛門は倫子さまから『艶を』と言われ、閨房の指南をしたのであり、『セクシーポーズ』『あざといポーズ』と情緒の無い言い方しかできないのは如何かと思います。

>困惑しながら、そんなことよりも「まず声を出して笑うところから教えて欲しい」というと、赤染衛門は閨房は声も大事だと心得た顔をします。倫子さまから『艶を』と要望があり、赤染衛門は閨房の事を指南します。
倫子さまからは「艶もだけれどまずは声を出して笑う様にして欲しい」と言われますがここで赤染衛門は『声を出す』事を『閨房の心得としてのお声』と勘違いしており、袖で口元を隠し少々恥じらう様に笑いを堪えながら話しています。
なので「そうではなく普段の声!」と倫子さまからツッコまれたわけです。

>赤染衛門は閨房以外に知恵はないのかと苛立つ倫子。
>そこはもう、和泉式部あたりをスカウトするしかないでしょう。
和泉式部は恋愛遍歴が多く、紫式部も『紫式部日記』の中で『されど、和泉はけしからぬ方こそあれ。(それにしても、和泉式部は(自由奔放に恋愛をして)感心できない面があるが、)』と評されています。
彰子さまが入内した長保元年(999年)の頃、和泉式部は和泉守・橘道貞公と結婚し娘の小式部内侍が誕生し道貞公が受領として和泉国へ下向した頃です。
和泉式部の出仕は寛弘年間の末(1008年 〜1011年頃)であり、時系列的には招へいする事はできないと思います。

なんだか赤染衛門がエッチなお姉さんのような扱いですが、これもありかもしれません。
また入内する彰子さまに必要なのは恋愛遍歴やセクシーさではなく帝との夜の務めを果たすための振る舞い方ではないでしょうか。
お相手は帝であり女御といえど失礼があってはいけないため、倫子さまは教養があり人生経験の豊富な赤染衛門を指南役に指名したのでしょう。
尤も赤染衛門は意図を図りかね、閨房の心得を先に指南していますが赤染衛門が『エッチなお姉さん扱い』だからではなく、経験豊富な先輩について房事も指南してもらうのが通例だからだと思います。

>来年『べらぼう』の予習も兼ねて、閨房教育について少々触れておきたいと思います。
>実は当時から春画はあったとされます。絵を見て学ぶことがあったのです。
>さらに『源氏物語』は、日本伝統の性教育に関係あるといえなくもない。
>どうせ絵にするのであれば、その辺の男女を描くより、王朝男女の逢瀬を描きたい。
>『源氏物語』は題材として最適でした。
>来年大河の予習に春画について調べると、王朝ものもすぐに見つかるかと思います。
平安時代の閨房事情は『セクシーポーズ』『あざといポーズ』『エッチなお姉さん扱い』で済ませるのに来年の大河ドラマだからと江戸時代の色事事情に話題を持っていくのは如何かと思います。
作中時系列ではまだ『源氏物語』は存在しません。
赤染衛門は『艶』を閨房術と解釈していました。
作中時期から遡る事20年程前の永観2年(984年)、宮中医官を務めた鍼博士・丹波康頼が撰した日本に現存する最古の医学書『医心方』が朝廷に献上されました。
『医心方』は漢文で書かれ、隋・唐代に存在した膨大な医学書を引用しています。
長い間「秘本」とされ、1984年国宝に指定されました。
全30巻の医学書の中には「房内篇」という房中術の記述もあり、平安時代の貴族たちはそれらを参考にしたのかもしれません。

すべて男女の営みをしないでいるのは良くない。性交しないでいると、癰(よう)や瘀(お)の病にかかる。(中略)とはいえ、欲情の赴くまま思う存分に性交すれば、せっかくの寿命を短くしてしまう 。

癰(よう)
毛包炎(もうほうえん)が進行して複数の毛包に化膿性の腫れをきたしたもの
瘀(お)
血液の粘度が高くなり、血の流れが悪くなった状態

『医心方』房内篇

春画の名の発端は古代中国で描かれた皇帝の秘め事を説く絵図にあると言われています。
中国で描かれた春画や春本は医学書の類いとして日本に伝来します。
『光る君へ』作中で藤原宣孝公が病み上がりの藤原実資卿に贈った絵のようなものでしょうか。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

平安時代の春画は現存しませんが、平安時代には性描写を描いた絵画の存在が確認されているそうです。
『古今著聞集」(鎌倉時代)』では、天台宗の高僧で絵描きでもあった鳥羽僧正に「お前の描いた絵は、突いた刀ばかりか拳が背中を突き抜けているではないか。この様な事はあり得ない」と絵のリアリティの無さを貶された弟子が絵の名手の手による春画の急所の寸法などの誇張表現を挙げ論破しています。

・宣孝のキャリアは絶好調だ?

>藤原宣孝が久々にまひろを訪れました。
宣孝公が久しぶりにまひろさんの屋敷を訪ねてきました。
宣孝公に「まひろの機嫌はどうじゃ?」と尋ねられ「お寂しそうでございます」といとさんが答えます。
宣孝公はまひろさんの部屋へ行き「11月の賀茂の臨時祭で神楽の人長を務める事になった。喜べ」と報告します。
宣孝公はその後に宇佐八幡宮の奉幣使として豊前に行く事にもなっています。
まひろさんが「11月はお忙しくなりますね、大事なお役目を2つも」と言うと宣孝公は「左大臣さまのお計らいだ」と答えます。
さらに宣孝公は「まひろのお蔭で俺も大事にされておる。人生、何が幸いするか分からぬところが面白いのう」と笑います。
宣孝公はまひろさんへの土産として、大和の墨と伊勢の紅を持参していました。
宣孝公は「どこへ行ってもお前のことを思うておったゆえ、あっちでもこっちでも土産を買ってしまった」と言い、まひろさんは「もったいないことでございます」と礼を言いました。
宣孝公が「たまには殊勝なことを申すのう」と言うと、「心を入れ替えました」と答えるまひろさん。
宣孝公は「憎まれ口を叩かぬまひろは、何やら恐ろしいのう…オホホホ!」と笑い、まひろさんは「また殿の笑い声を聞けて嬉しい」と言います。
宣孝公は「あまり人並みになるなよ」と言い、まひろさんは「では時々人並みになります」と答えました。
宣孝公は「憎まれ口も時々はよい」とまたも笑います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

夜、まひろさんは寝所を抜け出し、宣孝公の贈った墨を磨ります。
まひろさんは宣孝公がいびきをかきながら眠る傍らで、「殿の癖…いつも顎を上げて話す。お酒を飲んで寝ると時々息が止まる」と心の内で呟きながら紙に綴っていきました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>なんでもたくさんの役目を左大臣から仰せつかり、絶好調の様子。
>これもまひろのおかげだと笑っています。
その『左大臣から仰せつかったたくさんの役目』は具体的に書かないのですか。
宣孝公は11月の賀茂の臨時祭で神楽の人長を務める事になり、その後に宇佐八幡宮の奉幣使として豊前に行く事にもなっていると言っています。
宣孝公は山城守に任ぜられるだけでなく舞人としての才にも恵まれ、長徳四年(998年) 3月の石清水臨時祭、11月の賀茂臨時祭に参加しています。

『権記』長徳四年(998年) 十一月三十日条では賀茂臨時祭で舞を奉納したという記録が残っています。

『権記』長徳四年(998年) 十一月三十日条

また、翌長保元年(999年)11月には賀茂臨時祭調楽に人長(舞人の長)として奉仕し、『権記』長保元年(999年)11月11日条によると「右衛門権佐の人長は甚だ絶妙である」と賞賛されています。

『権記』長保元年(999)11月11日条

宇佐八幡宮(宇佐神宮)は豊前国一宮で全国最多の約44,000社ある八幡宮の総本社です。
石清水八幡宮、筥崎八幡宮と合わせて日本三大八幡宮とされている由緒ある神社です。
『奉幣』とは神に幣帛(ぬさ)を捧げる事で特に重要な神社には天皇の勅使を派遣して奉幣せしめる事があり、この使いを奉幣使といいます。
宇佐八幡宮の奉幣使(宇佐使)は五位以上で卜占により神意に叶った者が当たると決められ、天皇即位の奉告・即位後の神宝奉献(一代一度の大神宝使)・兵乱など国家の大事の際の祈願などに派遣されました。
天皇の即位の時には神護景雲三年(769年)和気清麻呂公が遣わされた事に因み、必ず和気氏(わけうじ)から選ばれました。
宣孝公は長保元年(999年)に、宇佐八幡宮の奉幣使として派遣されています。

>夫の寝息を聞きながら、あごを下げること、酒を飲んで寝ると息が止まることを思い出しています。
>それが殿の特徴なのだと。
>医学的に言いますと、睡眠時無呼吸症候群ですね。
>宣孝は、どうやら長生きできそうにありません。
まひろさんは「殿の癖…いつも顎を上げて話す。お酒を飲んで寝ると時々息が止まる」と綴っています。
何見氏は『あごを下げること』と書いていますがまひろさん曰く宣孝公は『顎を上げて話す』癖があるのでしょう。
顎を上げる仕草をする人は自分に自信がある人なのだそうです。
まひろさんの目には宣孝公が自信家で時に傲慢にも見えたのかもしれません。

何見氏は『夫の寝息を聞きながら』と書いていますが寝息どころかいびきです。
宣孝公は口を開け眠っておりいびきをかき、まひろさんが『お酒を飲んで寝ると時々息が止まる』と書くとおり、一瞬息が止まったかの様に静かになり「ガッ…」と呼吸が戻り再びいびきをかいていました。
就寝時のいびきと無呼吸状態を繰り返す様子が現在で言う睡眠時無呼吸症候群の症状と酷似しており、ネットでは『蔵之介さんの睡眠時無呼吸症候群の演技がお上手』『佐々木蔵之介さんの呼吸を止めては吐き出す演技絶妙』『リアル過ぎる睡眠時無呼吸症候群』などの意見が出て話題になっていました。

・まひろの懐妊?

>翌日、まひろは気分が悪いとこぼします。
季節は移ろい、新緑の頃。
まひろさんは体調が悪くなり机に突っ伏していとを呼びます。
まひろさんが伏せながら「吐き気がするし…来るものも来ないし病かも」と言うといとさんは「それは病ではなくご懐妊でございます」と答えます。
いとさんが「障りは何度来ていないのですか?」と訊き、まひろさんが耳打ちします。
いとさんは「お生まれは師走の頃でございます」と答えます。
まひろさんは「懐妊…なの……これ?」と信じ難い様子です。
いとさんは「おっしゃることが正しければ、授かったのは2月でございますね。殿様のお足が遠のいた頃のご懐妊だとなりますが…」と話しました。
まひろさんは石山寺での出来事を思い出し、表情が固まり瞬きが止まります。
いとさんが「この事は殿様には黙っておきましょう。黙ったまま行けるところまで行くのでございますよ。その先はその時その時で考えましょう」と助言し、「せっかく殿様と仲直りができたのですもの」と言います。
まひろさんはお腹の子の父親が誰であるか察しが付きました。
まひろさんは悪阻のため宣孝公が買って来てくれた鮎も咽喉を通らず、宣孝公は怪訝そうな顔をします。
まひろさんは宣孝公に子ができた事を打ち明けました。
宣孝公は「この年齢でまだ子ができるとは」と喜びます。
「いつ生まれるのか?」と尋ねられ、まひろさんは「恐らく今年の暮れには」と答えました。
「今年は忙しくなるな。暮れには豊前におるゆえそばにいてやれぬが、よい子を産めよ」と嬉しそうな宣孝公とは逆にまひろさんは硬い表情で頷きました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

夜半。
まひろさんは傍らでいびきをかき時々呼吸が止まりながらも眠る宣孝公を見遣ります。
「よく気の回るこの人(宣孝)が月日が合わない事に気づいていないはずがない」と心の中で呟きます。
まひろさんは起き出して廊下に出ました。
半月を見上げながら「気付いていて敢えて黙っている夫に、この子は貴方の子ではないというのは無礼すぎる」と心の中でさらに呟きました。
「さりとて、このまま黙っているのもさらに罪深い…」とまひろさんは思い、寝所に戻ります。
宣孝公が目を覚ましました。
宣孝公が「また気分でも悪いのか?」と尋ねます。
「大事ございませぬ」と言うまひろさんに宣孝公は「よかった。眠っている間は気分の悪さも忘れるゆえ、早く寝よ」と言います。
さらに「背中をさすってやろう」と気遣う宣孝公にまひろさんは「もったいない」と答えます。
宣孝公は「俺たちは夫婦(めおと)だぞ」と言います。
まひろさんは覚悟を決めたのか「お別れしとうございます」と伝えました。
「こんな夜更けに、その様な話はよせ」と宣孝公が言います。
まひろさんが「この子は自分一人で育てます」と言い出し、宣孝公は「何を申すか。そなたの産む子は誰の子でもわしの子だ。一緒に育てよう。それでよいではないか」と返します。
表情が固まったままのまひろさんに宣孝公は「わしと育てるのは嫌なのか?」と尋ね、まひろさんは否定します。
宣孝公は「わしのお前への思いは、そのようなことで揺るぎはせぬ。何が起きようとも、お前を失うよりはよい」と言います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

さらに宣孝公は「その子を慈しんで育てれば、左大臣さまはますますわしを大事にしてくださろう」と自らの出世を望む気持ちも吐露します。
そしてまひろさんの腹に手を触れ、「この子はわしに福を呼ぶ子やも知れぬ、持ちつ持たれつじゃ」と言ってまひろさんの手を取り、「一緒になる時お前は自分は不実であると答えたが、お互い様ゆえそれでよいとわしは言った。それはこういうことでもあったのだ」と宣孝公は言います。
涙を流すまひろさんに、宣孝公は「別れるなどと二度と申すな」と諭します。
まひろさんは涙を流しながらも微笑みます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>出世と引き換えに自分の妻を差し出すことの是非はどうなのか?
今回のまひろさんと道長卿は密通のうえ、不義の子を懐妊したという状況であり、宣孝公が出世欲のためにまひろさんを差し出したわけではありません。
宣孝公はすでに嫡妻と何人かの妾を持つ恋愛の手練れです。
まひろさんが正直に懐妊と出産予定の月を打ち明けた事で、月日のズレから自分の子ではない可能性も自分以外の男(道長卿)の存在も薄々気付いていると思われます。
宣孝公は「まひろの逢瀬相手は左大臣」と当たりを付けたうえで利発なまひろさんの罪業を和らげるために、感情ではなくお腹の子が左大臣の子で我が子として大事に育てれば自分にも利があるのだと損得勘定を提案したのだと思います。(この時点で事情を知らない道長卿の弱みを握っているとも言えますが)
まひろさんも不貞を飲み込み出世欲との天秤にかけた宣孝公の懐の深さに感謝したからこその涙だと思います。

>歴史的にいうと、この慣習が根付いていた国があります。
>フランスです。
>フランスでは国王が愛妾である「公式寵姫」を持つことが当然のこととしてありました。
>この寵姫には、未婚女性が選ばれるのは例外的で、既婚者から選ぶことが通例でした。
公式寵妃、所謂公妾(こうしょう)は、キリスト教の結婚の秘跡に反するため、側室制度が許されなかったヨーロッパ諸国の宮廷で主に近世に採用された歴史的制度です。
ルイ15世の愛人・ポンパドール夫人の様に単なる王の個人的な愛人としてでなく社交界へ進出し廷臣として人事など政治に関わる事もありました。

>そうはいっても、妻を捧げる夫はどうなのか? 納得できるのか?
>というと、これができたんですね。
それは王の公妾が制度として成立し、公妾の生活や活動にかかる費用は公式に王廷費からの支出として認められていた近世ヨーロッパ諸国の例だからです。
平安時代の日本では既婚女性である妻を権力者に夫が差し出す様な公妾制度はありません。

視聴者としては、まひろと道長のロマンチックな愛に酔いしれていれば気にならないのかもしれませんが。
>権力者とその下半身事情で人事が決まるとは、腐敗ここに極まれりではないでしょうか。

『光る君へ』の時代は平安時代時代です。
平安時代では既婚女性が以外の殿方と契る事はどうなのか、どんな恋愛価値観なのかという事は調べないのでしょうか。
当時の結婚は、男性が女性のもとへ通う妻問婚という通い婚から女性も家の財産を相続し婿を取る婿取婚に移ります。
一夫多妻であり、男性は甲斐性があれば結婚していない女性に声をかけても構わないのですが、夫がいる女性と関係を持つ事所謂『密会』はタブー視されました。
『尊卑分脈』には「御堂関白道長公妾云々」とありますが、ここでは不貞の末の不義の子という罪業を描くため、『源氏物語』をオマージュしたのだと思います。
源氏の君は父・桐壺帝の后で母・桐壺更衣にそっくりな藤壺女御(中宮)に恋心を抱いており、第5帖「若紫」では藤壺と関係を持ってしまいます。
藤壺は源氏に生き写しの男御子(後の冷泉帝)を産み、何も知らない桐壺帝は大変な喜び様ですが藤壺は心中複雑でした。

また、第34帖「若菜」では、柏木が唐猫の仕業から偶然垣間見た源氏の君の継室・女三の宮に思いを募らせ、彼女と密通します。
女三の宮は懐妊し、源氏の君は偶然柏木からの恋文を見つけ事の真相に気付きます。

重文『源氏物語絵色紙帖 若菜下』 詞中院通村
京都国立博物館

第35帖「柏木」では柏木は密通の罪悪感や源氏の君に知られる事の恐怖から病に倒れ、女三宮は無事男子(薫)を出産しますがすっかり弱り切り出家し、絶望した柏木は亡くなります。

国宝『源氏物語絵巻』柏木三
徳川美術館

・道長、公卿たちを籠絡する?

>どうにかして娘・彰子の入内を盛り上げたい――。
長保元年(999年)9月。
内裏では、安倍晴明公が「彰子さまの入内は11月1日がふさわしい」と帝に奏上し、いよいよ彰子さまの入内が近づいてきました。
入内の道具は立派で、四尺屛風を前にして道長卿と倫子さまが思案しています。
道長卿は「彰子の入内はどうしても盛り上げねばならぬ」と考えていました。
そして道長卿は「ここに公卿たちの歌を貼ったらどうであろう」と屏風に公卿たちの歌を貼る事を提案しました。
「公卿たちが名入りの歌を献じたことを示せば帝も彰子に一目置かれよう」と道長卿が言い、倫子さまも「それは良うございます」と同意します。
歌の清書は藤原行成卿に頼む事になり、「さぞや見事な屏風になりましょう」と倫子さまも嬉しそうです。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

道長卿の求めに応じ、公卿たちが屏風のために歌を添えます。
藤原斉信卿は「これは良い出来だぞ」と自信ありげに微笑みます。

笛竹の よふかき声そ 聞こゆなる きしの松風 吹きやそうふらん
藤原斉信

意訳:
夜がふけて笛の音が聞こえてきます。岸の松風が吹き合わせたのでしょうか

『千載和歌集』雑上九六〇

藤原公任卿の歌は期日になっても提出が遅れており、行成卿は肝を冷やしています。
公任卿は「下手な歌を詠んでは名折れだからな」と言い、歌を提出します。

むらさきの 雲とそ見ゆる 藤の花 いかなる宿の しるしなるらん
藤原公任

意訳:
紫色の雲のように見えるあの藤の花はいったいどのような家の目印なのでしょう

『拾遺和歌集』 雑春 

公卿たちの和歌を三蹟の一人である行成卿が流麗な文字で清書していきます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

彰子さまの入内に向けて豪華な調度類が用意され、中でも道長卿が最も力を入れたのが四尺屛風でした。
『栄花物語』の「かゞやく藤壺」には『大殿の姫君十二にならせ給へば 年の内に御裳着ありてやがて内に参らせ給はむと急がせ給ふ』とあり、数え年で十二歳になったため年内に裳着を済ませそのまま入内を進めようとした様です。

道長卿の求めに応じて屏風に貼る歌を寄せたのは、花山院、大納言・藤原道綱卿、参議・藤原公任卿、参議・藤原斉信卿、参議・源俊賢卿、左兵衛督・藤原高遠卿らでした。 
『御堂関白記』長保元年(999年)十月二十一日条には『(藤原)彰子入内の際の四尺屏風に貼るための和歌を人々に詠ませた。』
『御堂関白記』長保元年(999年)十月二十七日条には『屏風の歌を人々が持ってきた。内(一条天皇)から御使があった。蔵人(橘)則隆であった。右衛門督(藤原公任)・藤宰相(藤原懐平)・左兵衛督(藤原高遠)・宰相中将(藤原斉信)に盃を勧めた。』
『小右記』長保元年(999年)十月二十八日条には『皇后宮(藤原遵子)の御読経に参った。平中納言(惟仲)・藤宰相(藤原懐平)・式部大輔(菅原輔正)・皇后宮大夫(藤原公任)が参入した。あれこれが云ったことには、「昨日、左府(藤原道長)に於いて和歌を撰び定めた」と。』
『権記』長保元年(999年)十月三十日条には『内裏から西京に参った。倭絵四尺屏風の色紙形を書いた<故・(飛鳥部)常則の絵である。和歌は、現在の左丞相(藤原道長)以下が詠んだ>。』とあります。

『御堂関白記』長保元年(999年)十月二十一日条
『御堂関白記』長保元年(999年)十月二十七日条
『小右記』長保元年(999年)十月二十八日条
『権記』長保元年(999年)十月三十日条

・だが実資は断った?

>「歌は詠まぬ!」
>一方で断固として断るのが藤原実資でした。
公卿たちが四尺屏風に添える和歌を贈る中、藤原実資卿は「歌は詠まぬ!」と断固として歌を差し出しませんでした。
参議・源俊賢卿が、「学才並ぶものなき中納言様のお歌を左大臣さまは切にお望みでございます」と頼み込みます。
しかし、実資卿は「公卿が屏風歌を詠むなぞありえぬ。先例もない」と素っ気なく言い、傍らでは鸚鵡が「センレイ」と実資卿の言葉を真似ています。
さらに実資卿は「まだ女御にもなっておらぬ者のためになぜ公卿が歌を詠まねばならぬ。左大臣さまは公と私を混同されておる」と俊賢卿に伝え去っていきました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

俊賢卿から実資卿の様子を聞いた道長卿は「実資殿らしいな」と言います。
そこへ行成卿が満面の笑みを浮かべ「花山院からお歌が送られて参りました」と言って現れました。
行成卿が「そもそも、奇矯な振舞いの多い院ではあられますが」と言い、俊賢卿は「左大臣さまへの阿りでありましょう」と言います。
「思惑はどうあれ、ありがたく頂戴いたそう」と道長はその歌を受け取り、屏風の作成が始まりました。
「出来上がった屏風は道長の思惑通り公卿の多くが入内を支持していることの証となり、道長の政にも大きな意味を持つことになった」と語りが入ります。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>公卿が屏風歌を詠むなどありえぬ、先例もないと実資は言いきる。
実資卿は「公卿が屏風歌を詠むなぞありえぬ。先例もない」と言い、さらに「まだ女御にもなっておらぬ者のためになぜ公卿が歌を詠まねばならぬ。左大臣さまは公と私を混同されておる」と苦言を呈しています。
『小右記』長保元年(999年)十月二十三日条では『源相公(俊賢)が左府(藤原道長)の使として来て、屏風の和歌の題を授けた。その詞に云ったことには、「和歌を詠むように」ということだ。あれこれ、まったく御返事は申し難い。』と記述しています。

『小右記』長保元年(999年)十月二十三日条

何見氏は何故実資卿が『公卿が屏風歌を詠むなぞありえぬ。先例もない』と言ったのかには言及しないのでしょうか。
『歌が権力になるとき 屏風歌・障子歌の世界(渡邉裕美子著、角川学芸出版)』によると、『当時、公卿が屏風歌を詠むのは異例のことで、屏風歌は卑位卑官の専門歌人が詠むものという社会通念が存在した』のだそうです。
『小右記』長保元年(999年)十月二十三日条には『上達部の役、荷汲に及ぶべきか(上達部の役は、荷汲(荷物運びと水汲み)に及ぶというのか)』とあります。
実資卿は公卿が屏風歌を詠むのは『貴族に雑用をさせている様なもの』と形容しているのです。

『小右記』長保元年(999年)十月二十八日条には、『花山法皇・右衛門督(藤原)公任・左兵衛督(藤原)高遠・宰相中将(藤原斉信)・源宰相俊賢が、皆、和歌を献上した。上達部が左府(藤原道長)の命によって和歌を献上することは往古から聞いたことがないことである。』『今夕、和歌を催促される御書状があった。堪えられないということを申させた。きっと不快の意向があるであろうか。この事は、感心しないことである。』と道長卿からの要請を断り続けていました。

『小右記』長保元年(999年)十月二十八日条

大半の歌が作者の署名入りで屏風に飾られた事について、『小右記』長保元年(999年)十月三十日条では『皆、名前を書いた。後代にすでに面目を失している。但し(花山)法皇の御製は、「読み人知らず」とした。左府(藤原道長)は「左大臣」と書いた。この事は、奇怪な事である。』と言っています。

『小右記』長保元年(999年)十月三十日条

>入内前で女房でもない相手のために、何ゆえ公卿が歌を詠まねばならぬのか!道長の公私混同だ!と手厳しい。
四尺屏風は入内する彰子さまのために設えています。
実資卿の言う通りまだ入内前で『女御宣旨』を受けておらず、彰子さまは私人のため入内のお道具のために公私混同していると苦言を呈したのではないでしょうか。
公卿から贈られた歌を屏風に貼る事は入内を支持する事の証でもあり、道長卿に権力が集中する事を危惧したものと思われます。
何見氏の言う『女房』は朝廷に仕える女官で、一人住みの房を与えられている女性の事です。

>そうなんですよね。
>ドラマ内でのこととはいえ、まひろの夫だからという理由で宣孝を抜擢しているとすれば、その点で大問題です。
>実資が知ったら「ありえん!」と怒るでしょう。
藤原宣孝公が賀茂臨時祭で神楽の人長を務める事や宇佐八幡宮の奉幣使として豊前に赴く事のどこが彰子さまの入内に関係あるでしょうか。
『まひろの夫だからという理由で宣孝を抜擢している』とありますが、まひろさんは宣孝公の『妾』の一人です。
賀茂臨時祭の神楽の人長や宇佐八幡宮の奉幣使の拝命はまひろさんの懐妊が発覚する以前に決定しています。
作中、道長卿はまひろさんを愛し何かに付け思慕していますが道長卿はお腹の子の父親など事情を知りません。
また家格の高い宮中に縁のある嫡妻ならばともかく、五位の受領層の娘で妾であるまひろさんが宮中の人事に口を出したり影響を及ぼすでしょうか。
『権記』での記述の様に宣孝公の舞が絶妙なものという評価ならばさも『自分の妾を売って閨房のおかげで贔屓された』みたいな言い方は失礼なのではないでしょうか。

>なお行成は、歌が苦手なので清書担当です。
藤原行成が和歌を苦手としていた逸話の出典を具体的に提示してください。 
『大鏡』「行成、歌道に暗し 着想卓抜」には、行成卿が和歌が苦手だった逸話があります。

『大鏡』「行成、歌道に暗し 着想卓抜」

・あまりに見事な屏風の完成?

>いよいよ屏風が作られる、そんなシーンが出てきました。
四尺屏風が完成し、そこへ実資卿がやって来ました。 
道長卿に「中納言殿、如何されましたか?」と尋ねられ、実資卿は「次の陣定で諮る新嘗祭の事で」と答えますが、「お忙しそうなので出直してくる」と言います。
実資卿に道長卿は「彰子さまにお持ちいただく屏風です」と説明をします。 
「出来上がったのでございますか?」と言う実資卿に、道長卿は「中納言殿にお歌をいただけなかったのは残念ではありましたが、何とか仕上がりました」と言います。 
実資卿は公任卿の歌に目を見張りますが、道長卿は「花山院のお歌もこちらに」と院が贈られた歌を見せます。

ひな鶴を 養い立てて 松が枝の 影に住ませむ ことをしぞ思ふ
花山院

意訳:
ひな鶴(彰子さま)を養い育てて、ときわの松の枝にいつまでも住わせたいと、その事が願われる

『栄花物語』かゞやく藤壺
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

さらに道長卿は、「大納言を始め大勢にお歌を頂戴したものの、中納言殿が歌は書かぬと仰せられた時の、自らの信念を曲げず筋を通されるお姿に感じ入りました」と言います。
そして「これからも忌憚なく、この道長にご意見を賜りたくお願いいたす」と頭を下げました。 実資卿は「いやいやいや…」と苦笑し、「ハハ…院までもか。これはこれは…」と驚いていました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>その前に、実資が屏風を目にして驚いています。
>実資は教養に溢れる人ですので、政治的思惑を抜きにして芸術を鑑賞するとなると興味津々なんですね。
>さっそく公任の歌に感心していました。
>さらに花山院の歌まであるとなると、目が泳いでしまう。
>道長に、歌を詠んだ公卿リストを渡されると、さしもの実資にも動揺が見られます。
実資卿が四尺屏風を見に来たのは芸術鑑賞のためではないと思います。
実資卿は「公卿が屏風歌を詠むなぞありえぬ。先例もない」「まだ女御にもなっておらぬ者のためになぜ公卿が歌を詠まねばならぬ。左大臣さまは公と私を混同されておる」と言い、再三の要請にも屏風歌を詠む事を固く断っていました。
しかし、屏風が出来上がってみれば華やかな屏風画と相まって、公卿たちが挙って彰子さまの入内を寿ぐ歌を添えており、さらに先帝である花山院からも歌が贈られ、先例が無い事さえ押し通せる程道長卿の権力が大きくなった事を実感したのではないでしょうか。
『公卿が屏風歌を詠むなぞありえぬ』という実資卿の言い分は当時の貴族の慣例であり、それでも道長卿は名門の誉れ高く教養のある実資卿の歌を所望し指示を得たかったのだと思います。
実資卿が阿らなかったからといってその地位は変わらず、『信念を曲げず筋を通し忌憚なく意見をできる人物』として道長卿は信用したのではないでしょうか。

・彰子の入内と、定子の皇子出産?

>11月1日、ついに彰子の入内となりました。
11月1日、彰子さまが入内しました。
「11月1日、彰子が入内した」と語りが入ります。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

同じ頃、懐妊したまひろさんのお腹はかなり大きくなっています。 
一方、中宮定子さまは平生昌卿の屋敷で出産を迎えていました。
「オン バラバラ・サンバラ サンバラ・インジリヤ・ビシュダニ ウンウン・ロロシャレイ ソワカ…」と僧侶の読経が響く中、藤原伊周卿・隆家卿兄弟による鳴弦の儀が行われ、白装束の女房達は支度のため動き回っています。
そして産室に産声が響き、鳴弦の儀を行っていた隆家卿が安堵の笑顔を見せます。
子を産んだばかりの定子さまはききょうさんの肩にくったりと身を預け、ききょうさんが定子さまの体をさすっています。
「彰子の入内から6日後、定子は皇子を産んだ」と語りが入りました。
「中宮さまも皇子さまも健やか」との報告を行成卿から受け、安堵される帝に行成卿が祝辞を述べます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

しかし東宮・居貞親王は面白くありません。
祝いの品を手配する居貞親王が「叔父上も痛手でありましょうな」と言い、道長卿は「そのような事はありません」と答えます。
そして「彰子さまの入内は意味がない」と言う居貞親王に道長卿は「意味はあります。皇子のご誕生でますます中宮様に傾かれる帝のお心をおとどめ申すには私の娘が欠かせません」と反論します。
居貞親王は「そんなに彰子さまはよい女子なのか?」と尋ねられ、道長卿は「おかげさまで」と答えます。
平生昌卿の屋敷の定子さまの部屋を伊周卿と隆家卿が訪ねてきました。
伊周卿は「これで左大臣も俺たちを無下にできない。皇子さまが東宮になられれば再び我らの世となる」と楽観的です。
産褥でそれを聞いていた定子さまが「あまりお急ぎにならない様に」と兄を諫めています。
隆家卿は「生まれた皇子さまが東宮になられるという事は帝がご退位されるという事ですよ。帝が退位あそばせば姉上の力も弱まる。焦るとよい目は出ないと思うがな〜」と伊周卿を牽制する様に見解を述べます。
伊周卿は苛立ち「何だと?」と言い、定子さまは「喧嘩はやめて」と止めます。
これには定子さまに寄り添うききょうさんも呆れています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>そのころ読経が響き、藤原伊周と藤原隆家の二人が弓を射ております。
>出産の穢れを祓う儀式であり、中国由来です。>本国では文を重んじるため廃れたとのこと。
平安時代の出産は死と隣り合わせの事も多く、出産は7日間の『産穢』として産室に籠りました。
出産が近づくと清めの白装束に着替え、産屋の調度や寝具なども白で統一されました。
出産姿勢は所謂『座産』で、『懐抱え』『腰抱え』の女性に支えられながらの出産でした。
高貴な人の出産は母子ともどもの無事を祈り加持祈祷や読経など大規模な祈祷の中で行われます。 

作中の定子さまの出産の際、僧侶が唱えていたお経は大随求菩薩の真言で「オン バラバラ・サンバラ サンバラ・インジリヤ・ビシュダニ ウンウン・ロロシャレイ ソワカ」と唱えていました。
息災・滅罪、特に求子の功能が歓ばれて平安時代以降に隆盛になっていったのだそうです。

大随求菩薩

『弓を射ております』とありますが、中関白家兄弟が行っているのは矢をつがえているわけでなく魔除けの『鳴弦の儀』なので『弓を引く』または『弓を鳴らす』の方が良いのではと思います。
弓神事の代表的なものである『射礼(じゃらい)』は、中国由来の行事で平安時代初期の頃から正月の朝廷行事として定着します。

『鳴弦の儀』は弓に矢をつがえず弓弦だけを引いて放しビュンと鳴らすことによって妖魔を驚かせ退散させる呪法です。
鳴弦の儀が始まったのは平安時代と言われます。弦を弾くときの音は鬼が嫌う音と信じられ、生誕儀礼の『湯殿始(ゆどのはじめ)』では『読書鳴弦の儀(皇子・皇女誕生後の御湯殿の儀式で、漢籍等を読む読書の儀とともに鳴弦を行う儀式)』として行われたり、出産時、滝口武士による夜中の警護、不吉な場合、病の折、天皇の日常の入浴などに魔除けとして行われました。
後世になると高い音を響かせる蟇目(ひきめ)という鏑矢を用いる方法も現れ、これを『蟇目の儀』といいます。
(出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」)

『北野天神絵巻承久本』
『光る君へ』より

・詮子と帝の決裂?

>一方で、健在である女院こと藤原詮子が帝の前に姿を見せました。
東三条院詮子さまが一条帝に祝辞を述べています。
そして詮子さまは「皇子さまはいずれ東宮となられる身。主上のように優れた男子に育っていただかねば」と言いました。
しかし帝は、「皇子が朕のようになって欲しくはない。朕は己を優れた帝だとは思っておりませぬ」と仰います。
詮子さまは「自分が手塩にかけてお育てしたのに、優れていないはずはない」と断言します。
帝は「朕は中宮一人すらも幸せにできませんでした」と仰り、詮子さまは「それはあちらの家が…」と言います。
帝は「朕は母上の仰せのまま生きてまいりました。そして今、公卿たちに後ろ指をさされる帝になっております」と訴えられます。
詮子さまは「伊周らが悪い。定子も主上の寵愛を嵩に着ていい気になり過ぎたのです」と反論します。
「主上のせいではない」と言いたげな詮子さまに帝は、「この間も母上の仰せのまま左大臣の娘を女御とした。されど朕が女御を愛おしむ事はありますまい」と仰います。
詮子さまは定子さまに気を遣うのはおよしなさいませと返す。しかし帝は「そういう母上から逃れたくて、朕は中宮に救いを求め、のめり込んで行ったのです。全ては貴方のせいなのですよ」と
玉座をお立ちになり、奥へ帝下がられる帝に詮子さまは「主上はその様にこの母を見ておられたのですか?」と尋ねました。
「はい」と答える帝に詮子さまは、自分の不遇や今までどれだけ辛い思いをしたかを話そうとします。
帝は「お帰りください」とお命じになります。
しかし詮子さまは「自分は父の操り人形で、政の道具で、それ故私は…」と話し始めます。
背を向け聞母の話をお聞きになっていた帝は、詮子さまの方に顔を向け「朕も母上の操り人形でした。父上から愛でられなかった母上の慰み者でございました」と仰り、詮子さまは思いがけない我が子である帝の言葉に驚き、「その様な…私は…」と呟きます。
帝は「母上の顔を立てなければならない」と、彰子さまの顔をご覧になりに行かれました。
縁に座ったまま詮子さまは涙ぐんでいます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>帝は変わりました。
>天譴論すら忘れたようです。
天譴論は『天が人間を罰するために災害を起こす』『災害とは天が人間に下した罰なのだ』という儒教思想に基づいた観念です。
帝が寵愛される后が、出家し宮中祭祀のできない中宮という微妙な立場の定子さまでは政が成り立たないという事で彰子さまを入内させました。
しかし定子さまは皇子を産み、帝はさも傀儡の様に口を挟む母に反発するかの様に定子さまにのめり込んているのです。
現在の状況では政と後宮の秩序が問題点で災害とは別件だと思います。

宣孝に続いて、ここの詮子もフランス宮廷を連想させます。
イタリアのメディチ家から、フランスのアンリ2世に嫁いだカトリーヌ・ド・メディシスという王妃がおりました。
>聡明で初々しい少女であったものの、夫は年上の寵姫を熱愛している。
>そのせいでだんだんと性格が歪み、我が子を支配し、フランス史に残る大殺戮事件の糸を引いたともされています。
イタリアの名家メディチ家からフランス王アンリ2世に嫁ぎ、その死後幼い息子の摂政となり、フランス宗教戦争(ユグノー戦争)の勃発からプロテスタントの大量虐殺(サン・バルテルミの虐殺)で悪名を残したカトリーヌ・ド・メディシスですが、時代背景や宗教観が全く違います。
詮子さまの場合は戦争や民の虐殺は起きていません。
全く違う成育歴の人物を擬えるのは無理があるかと思います。

詮子さまは父・兼家卿の意向を汲み円融帝の女御となりましたが、帝の寵愛を得る事は出来ませんでした。それどころか兼家卿は意に沿わない帝を退位させようと画策し、詮子さまは信用を得られませんでした。
詮子さまは円融帝の譲位後出家し、一条帝の国母として上皇に匹敵する権力を持つ『女院』として『国母専朝事』と非難されるほどに政に口を挟むまでになりました。
しかし、一条帝が成長するに従い自己決定権を母に阻害される事に帝は反発なさったのでしょう。
この展開にネットでは『一条帝を愛してるつもりで兼家と同じことをしてしまっていた詮子』『兼家にしても詮子さんにしても、相手の気持ちを考えない押し付けは事実で似た物親子』という批判的な意見や『詮子さまも必死だったのよ 愛する息子にそう言われるのは残酷』という寄り添う意見も見られたそうです。
まさに因果応報という状況でしょうか。

・「一帝二后」という策謀?

>その日は、入内から間もない彰子の女御としての盛大なお披露目でした。
一条帝が詮子さまと話をされたその日は女御となった彰子さまの披露目が盛大に行われる日でした。
帝の後ろには豪華な屏風が設えられており、帝は四尺屏風に目を向けられます。
道長卿は女御宣旨への礼を述べます。
帝が「面を上げよ」と仰り、彰子さまは顔を上げ、「幾久しくよしなにお願い申し上げます」と挨拶をします。
「そなたのような幼き姫にこの様な年寄りですまぬな。楽しく暮らしてくれれば朕も嬉しい」と帝は仰います。
しかし彰子さまは「はい」と答えたのみで公卿たちの雰囲気も微妙なものになり、道長卿は不服そうな表情です。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

道長卿は安倍晴明公に、「よりにもよって女御宣旨の日に皇子が生まれるとは我が運も傾いておるのかの…」と不満げに呟きます。
しかし晴明公は「傾いておりませぬ。何の障りもございません」と答えます。
しかし道長卿は、「このごろ体調もよくない」とぼやいています。
すると晴明公は「ならば女御さまを中宮になさいませ」と言いながら扇を広げてそこに石を3つ載せました。
そして「太皇太后昌子さまが崩御なさいました」と石をひとつ捨て、「皇后遵子を皇太后に祀り上げれば」と2番目の石を少しずらしました。
「こうすれば皇后の座が空くので定子さまを皇后にし、そして彰子さまが中宮になられれば皆もひれ伏しましょう」と晴明公が助言します。
「一人の帝に二人の后なぞありえぬ!」と言う道長卿に「やってしまえばよいのです」と晴明公は焚き付けます。
「なんという事を…」と渋る道長卿に、「国家安寧のために彰子様を差し出された。一帝二后は彰子さまのお力をより強める。左大臣様のお体も回復される」と晴明公がささやき、道長卿は「一帝二后」と呟きました。

『光る君へ』より
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『光る君へ』より
『光る君へ』より

その頃まひろさんの屋敷でもお産が始まり、乙丸と福丸さんが産屋の外で「南無大慈大悲観世音菩薩」と経を唱えています。
赤子が生まれ産声が上がり従者二人は安堵と喜びを隠せません。
産屋ではまひろさんが産まれた女の子を見て笑みを洩らします。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>すると晴明が策を授けます。
>女御を中宮にする――という驚きの人事でした。
晴明公が提案した『一帝二后』について具体的な説明はないのですか。
長保元年(999年)11月1日、数え12歳の彰子さまが入内し、6日後の11月7日、彰子さまに『女御宣旨』が下されます。
『御堂関白記』長保元年(999年)十一月七日条には『彰子に女御宣旨が下った。右大将(藤原道綱)・民部卿(藤原懐忠)・太皇太后宮大夫(藤原実資)・藤中納言(藤原時光)・藤宰相(藤原懐平)・左衛門督(藤原誠信)・右衛門督(藤原公任)・左大弁(藤原忠輔)・宰相中将(藤原斉信)・殿上人たちが、西廊において慶賀を奏上した。』『それ(慶賀)が終わってすぐに、(一条)天皇は渡御(とぎょ)してこられた。公卿は皆、伺侯(しこう)した。』とあります。

『御堂関白記』長保元年(999年)十一月七日条

同日、定子さまが一条帝の第一皇子となる敦康親王を出産します。
『小右記』長保元年(999年)十一月七日条には『卯剋(うのこく/午前5時~午前7時ごろ)、中宮(藤原定子)が男子(敦康)を産んだ<前但馬守(平)生昌の三条の宅>。世に云ったことには、「横川(よかわ)の皮仙(かわひじり/行円[ぎょうえん])のようなものだ」と。』『戌剋(いぬのこく/午後7時~午後9時)の頃、(一条)天皇は紫宸殿に還御(かんぎょ)した。左府主人(藤原道長)は、私(藤原実資)の手を携えて御供に供奉(ぐふ)させたついでに、さらに女御(藤原彰子)の直廬(じきろ)に引き入れ、装束を見せた。』とあります。

『小右記』長保元年(999年)十一月七日条

平安時代は律令が定める『三后』という決まりがありました。

皇后(中宮)=天皇の嫡妻
皇太后=天皇の母(先帝の皇后)
太皇太后=天皇の祖母(先々帝の皇后)

冷泉帝の皇后で太皇太后の昌子内親王がお隠れになり、円融帝の皇后であった遵子さまが皇太后となり、一条帝の母である詮子さまは女院のため『皇后』が空いたのです。
安倍晴明公の言う『一帝二后』は幼い彰子さまがまだ一条帝の寵愛の対象とならないため、彰子さまを立后させ、定子さまを『皇后』、彰子さまを『中宮』とするという事です。 
これは一人の天皇に二人の正妻を立てる『一帝二后』となり、史上初の事となりました。
先々代関白・藤原道隆卿が存命の折、定子さまを中宮にしようと画策した道隆卿は三后の別称であった中宮を新たな后とし円融帝の后遵子さまを皇后とし、皇后と中宮の並立を成立させました。
これも当時は先例の無い事でしたが、今回は一条帝に皇后と中宮を並列させようとしているのです。

・MVP:藤原宣孝?

>結局、宣孝はむしろ、全くブレていなかったんですよね。
>このドラマの男性は、っています。
>妻を出世のために使うか。
>娘を使うか。
>そう割り切ってしまえば、そうそう悪くないのではないか?
>そう思わせる説得力があります。
摂関政治の様に家族の女性を入内させるなどする場合は未婚女性に限られます。
平安時代の婚姻は通い婚または婿入り婚であり、女性の家に3日通い家族の承諾を得て三日夜の餅を食べ正式に婿を披露する『露顕』となります。
相続権が女性にもあり、財産は夫婦それぞれで管理をしていたそうです。
『大宝律令』には妻を離縁する条件がありました。

・子ができない
・淫らである
・舅に仕えない
・お喋りすぎる
・盗癖
・嫉妬深い
・重篤な病

参照:『平安時代の絵事典』

人妻に密かに通う行為を『密か事』といい、『源氏物語』には源氏の君が思慕から父・桐壺帝の女御・藤壺と契り後の冷泉帝を身籠ったり、柏木が源氏の君の継室・女三の宮と契り不義の子薫が産まれるなど『密か事』の末の罪や因果応報が描かれています。

まひろさんが道長卿と契り不義の子を身籠った際、罪悪感から宣孝公に離縁を切り出したのは平安時代の恋愛からいっても既婚でありながら他の殿方と関係を持つ事は不義理という考えがあったのではないでしょうか。もちろん宣孝公にも『賢く左大臣とも繋がりのある』まひろさんを手放すのは勿体ないという打算もあったでしょう。
しかし、不貞がタブー視される時代背景で自ら妻を権力者に差し出す様な事は無いと思います。

・大河ヒロインが不義の子を産む時代へ?

>「男が女をとっかえひっかえ遊べば自慢できるけど、逆だったらビッチじゃない? おかしくない?
>価値観をひっくり返して私がかっこいい女になってやらぁ!
>そう皮肉っているような場面でした。
(中略)
>しかも『源氏物語』のヒロインとは違って、まひろも宣孝もさして気に病んでいない。
>まひろは当初気が重かったものの、宣孝は怒るどころか認めてしまいます。
>不義の子の出産を、こうもあっけらかんと、痛快な仕上がりにまでするとは、何が起きているのか???と驚かされるばかりです。
これが男女の立場が逆ならば、複数の妾を持てる甲斐性の描写だけでなく、正室が自分の管理の元に於いて側室を選定し、勝手に妾を作った場合は側室とは認めないという奥向きの決まりすら『性犯罪者』『公共放送で己の性癖を披露するな』と激しく罵倒するのですが。
まひろさんの場合も何見氏流に言えば『エロい女にムラムラして、子どもまでできたという話』なんですが、平安時代の性や婚姻に対する倫理観やタブーには言及せず、ダブルスタンダードになっている事に呆れます。

>そんな中で、敢えて挑む女性脚本家、ヒロイン、役者がいたら、ひとまず大丈夫かと気遣ってしまいます。
>どうか、ご無理なさらず。
>作品作りには気を抜けないにせよ、そうでないところでは、適宜休み、ご無理なさらないでいただければと思います。
そんな殊勝な労りの気持ちを少しでも昨年の大河ドラマスタッフにもかけていただきたかったと思います。
何見氏の嫌いな大河ドラマの出演者やスタッフは私怨を晴らすためのサンドバッグではありません。
昨年はあまりにも酷かった。


※何かを見た氏は貼っておりませんでしたが、今年もNHKにお礼のメールサイトのリンクを貼っておきます。ファンの皆様で応援の言葉や温かい感想を送ってみてはいかがでしょうか?


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