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大河コラムについて思ふ事~『光る君へ』第22回

6月上旬になりました。真夏日も急な雨の日もありますが健やかにお過ごしでしょうか。
急に暑くなり気温や気圧の変化など、皆様健康には充分お気を付けください。
さて、光る君へ第22回。
今週も『武将ジャパン』大河ドラマコラムについて書かせていただきます。
太字が何かを見たさんの言質です。
御手隙の方に読んでいただければと思います。それでは。


・初めに

>宋人との出会いに刺激を受けるも、いきなり通詞が殺されたり、「越前のことは任せる」と突き放されたり。
敦賀の松原客館に立ち寄った藤原為時公とまひろさんは宋の商人・朱仁聡さんと通詞の三国若麻呂さんらに国司として歓待されます。
宋人たちは羊肉でもてなし、為時公は漢詩を贈り交流します。
越前国府では現地の役人である源光雅公や大野国勝公に宋人の船の修理の件ではぐらかされます。また『越前のことは自分たちに任せるように』と金で買収されそうになったりしますが、為時公はそれを愚弄するものだと取り合いません。
慣れない土地で体調を崩し、為時公は初めての鍼治療を体験します。
ある日、通詞・三国若麻呂さんが殺され、容疑者として朱さんが捕まり、為時公に替わりまひろさんが左大臣・道長卿宛に書状をしたためます。
一方朝廷では陣定で「我が国の法で異国の人を裁けるのか」「殺人の裁きができるとも思えない」「宋国に返すのがいい」「殺人を見逃すのはどうか」と様々な公卿たちの意見が出ました。
「明法博士に調べさせたうえでお上にお伺いする」と道長卿は再度の議論を提案します。
結局『越前の事は越前でなんとかしろ』という道長卿の指示となりました。

>一方、道長も藤原定子から懐妊を告げられ、今後も嵐の予感…
定子さまは『長徳の変』により大宰府に配流されながら危篤の母・貴子さまに会うために引き返してきた兄・伊周卿の素行を『帝の御心に背き続けた』と重々承知で許してほしいと嘆願しています。
さらに道長卿にただ自らの懐妊を告げただけでなく、「帝のお子を身籠っております。父も母も逝き、兄と弟も遠く帝の子をどのように育てていいか途方に暮れております。左大臣殿、貴方の力でどうかこの子を、貴方の力で守ってください。どうかこの子だけは」と母方の後ろ楯の無いお腹の子の便宜を図ってもらえるよう頼んでいます。

>藤原為時とまひろは越前へ向かい、まず松原客館に立ち寄りました。
長徳2年(996年)。
藤原為時公とまひろさんは都を出発し、逢坂関を越え、近江・大津の打出浜から舟で淡海の海(琵琶湖)を渡り、越前国府に向かいます。
途中、越前・敦賀にある宋人が滞在する迎賓館・松原客館に立ち寄ります。

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松原客館で為時公達は宋人たちの言い争う姿を見ました。
為時公が宋語で「粛静(シュージン=静まれ)!」と注意します。
そこへ宋人の朱仁聡(ヂュレンツォン)という男性が出てきて「どなたか?」と問います。
為時公が拙い宋語で「私は越前の新しい国守である」と名乗ります。
宋人は珍しい羊や鸚鵡を連れており、鸚鵡が宋語で「いらっしゃった、いらっしゃった」と出迎えます。
嬉しそうに話しかける朱さんと宋語で会話しようとする為時公ですがうまく話せず目が泳いでいます。
そこに通詞の三国若麻呂さんが進み出て「三国若麻呂と申します」と名乗りました。
そして、「こちら宋の商人・朱仁聡にございます」と三国さんが紹介します。
朱さんは「皆が大変世話になっている」と礼を述べていたそうです。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

余談ですが越前で通詞を務める三国若麻呂さん。
越前『三国』の名はすでに『日本書紀』継体天皇即位前紀に、継体天皇の母振媛の居住地として『三国坂中井』が記されており、また『日本書紀』のその後の記述や『続日本紀』には三国公・三国真人とよばれた豪族がしばしば登場します。三国さんは当作品のオリジナルキャラですが、その名字から越前に縁のある人物として描かれているのかもしれません。

>宋人は珍しい動物も連れてきました。
>オウムに羊です。
>平安京にはない。
>瑠璃灯籠(るりどうろう)が青い光を放っている。
宋の珍しい動物や文物を書き連ねるだけでなく具体的に紹介しては如何でしょうか。
大河ドラマに出演した鸚鵡を扱っている『猛禽屋』さんによると、アカビタイムジオウムという種類なのだそうです。

記録に残る鸚鵡の初渡来は1370年以上前の西暦孝徳天皇大化三年(647 年)の『日本書紀』・『続日本記』などです。『日本書紀』大化三年(647 年)には『鸚鵡一双、孔雀一双神羅経由献上(鸚鵡一双、孔雀一双が新羅経由で献上された)』とあります。

『枕草子』「鳥は」には、『異国のものである鸚鵡はとてもかわいらしい。人の言う事を真似るという』とあります。

『光る君へ』より

現代人の想像する羊は紀元前7000年頃古代メソポタミア付近でコルシカ島やイラン・小アジアなどの山岳地帯に生息していたムフロンなどの羊の原種を家畜化・交配したものです。
初めて日本に渡って来たのは西暦599年で、『日本書紀』には『推古七年(西暦599年)の秋9月の癸亥の朔に、百済が駱駝一匹・驢(ロバ)一匹・羊二頭、白い雉一羽を奉った。』と記述があります。
度々貢物に羊は見られますが、高温多湿と仏教文化による肉食への忌避で家畜としては定着しなかったようです。

『光る君へ』より

公式HPによると、松原客館は中国様式による朱塗りで瓦屋根の建物となっているそうです。
夜の場面では軒から釣り下げられた燈籠が青い光を放ち、幻想的な雰囲気を醸し出していました。
この燈籠は瑠璃燈籠といい、瑠璃色のガラス玉をつないだ六角黒漆塗りの釣燈籠なのだそうです。春日大社には藤原道長卿の子息・頼通卿が1038年に寄進した瑠璃燈籠が現存しています。 

『光る君へ』より

・宋にあこがれる父と娘?

>父と二人きりになると、まひろはいきいきと語り始めます。
為時公は三国さんに宿所を教えて貰い、まひろさんは初めて見る羊や鸚鵡に興味を持っています。
鸚鵡は「ニーハオ」と喋っています。
まひろさんが「朱さまは堂々として礼儀正しい好人物に見えました」と言うと為時公は「長(おさ)となる者はそういうものだ」と返します。
為時公は「なぜ帰らないのだろうか」と疑問に思っています。
朱さんは「宋から乗ってきた船が壊れてしまって帰れません。船の修理を前の国守に頼んだのですが未だにできあがらないのです」と訴えていました。
まひろさんもそれを疑問視しており、為時公は国府に入ったら調べさせる事にしました。
為時公は「望郷の念に駆られているものもいるはず。帰りたいものと帰りたくないものが争っていたように聞こえた」と言います。
まひろさんは「父上が宋の国の言葉をお話になるのを初めてみました」と言い、為時公は「話すというほどは話せぬ」と答えました。
まひろさんは「若い頃、父上は宋に渡ろうとしておりました」と話します。
為時公は困惑しながら、「宣孝殿から聞いたのか」と驚きます。
まひろさんは「父上は博学で物静かなだけでなく破天荒なこともやってのける男」と言います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

・宋に領土拡張思考はない?

>通詞の三国は、宋人は得体の知れないところもあるけれど、悪いものではないと為時に説明していますます。
『説明していますます。』とありますが、『説明しています』の間違いでしょうか。
三国さんは、「得体の知れないところはありますが、悪い者たちではなく宋人は戦を嫌います」と言います。
為時公が「戦を嫌うのか」と尋ねると、三国さんは「はい、唐の世とは違います。戦で領地を広げる事はしないと聞きました」と答えます。
為時公が「なぜ宋語ができるのだ」と尋ねると三国さんは「宋に渡った僧侶の下人として彼の国に行っていたので宋語ができます」と答えます。
為時公が「彼らは真に商人であろうか?」と尋ねると、三国さんは「船の漕ぎ手以外は商人です」と言いました。
「これからも色々教えて欲しい」と為時公が依頼すると、三国さんは「なんなりと」と言いました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>唐の世とは違い、戦をして領土を広げないと三国が補足します。
>これは日本にとって重要でしょう。
>かつて倭(日本)は百済と同盟し、唐・新羅連合軍に大敗しました。
>それが大きなトラウマとなって残っているのです。
『かつて倭(日本)は百済と同盟し、唐・新羅連合軍に大敗しました。』の部分ですが、663年の『白村江(はくすきのえ)の戦い』の事と思われます。
660年、朝鮮半島では高句麗、新羅、百済が勢力争いをし、百済が唐・新羅連合軍によって滅ぼされました。
百済からの救援要請を受けた倭の斉明天皇は再興した百済を配下にする目論見から出兵します。『日本書紀』によれば、『我等先を争はば、敵自づから退くべし(百済・倭軍が先を争うように攻め込めば、敵(唐)は勝手に退くだろう)』という甘い見立てでした。
そして甘い見立てと白村江の地形に対する知識の無さのため倭軍は壊滅的な打撃を受け惨敗します。
その後、博多湾を中心とした九州沿岸に「水城」(みずき)を築き、『防人(さきもり)』を配置、大宰府の守備のため大野城を築いて唐の侵略に備えました。
天智天皇の御代に倭と唐は和解し遣唐使が再開され、国号が『日本』と改められます。

>三国の認識は中国史の知識としてバッチリです。
>一方で、そのことすら知らない平安京の認識不足も感じます。
何見氏は『三国の認識は中国史の知識としてバッチリ』と言っていますが、三国さんの知識と見識がどの様にバッチリで京都の公卿衆がどう認識不足なのか具体的に書かないと分かりません。
宋は960年に趙匡胤が建国し、五代十国の争乱を終わらせ2代太宗が979年に統一を果たします。
宋は科挙によって採用された文官を重用した『文治主義』に転換していきます。
『戦を嫌う』のはそのためかと思われます。
漢民族の宋王朝は華北の一部・燕雲十六州を支配した北方系の遼(契丹)や西方の西夏の圧迫を受けていました。
宋は『戦で領地を広げる事はしない』が常に外敵から圧迫され対峙していたため、防衛費が常に宋王朝の財政を圧迫しました。

この場面で、都に引きこもっていて妄想気味の藤原道長と、実際に宋人と接している三国の違いが明らかになりますね。
>先週の道長の理解度は落第。
>今回の三国は素晴らしい。
「福井県史」などによると、907年に唐が滅亡したのち、五代十国の時代を経て宋が興ると農業・手工業などの社会経済が発展。
宋銭が大量に鋳造されて貨幣経済となり、宋銭は国内外に流通します。
また、宋の商人が日本・高麗などの東アジアや東南アジアに進出し商人による盛んな海外との交易が行われます。
北方民族(遼(契丹))との戦争状態が続いた事で、宋は軍事費が増大し財財政難から外貿易を奨励していました。

遼・北宋・西夏
『世界史の窓』

21回での道長卿から為時公への命令のおさらいです。
道長卿は流れ着いた70人が全員と考えておらず、越前から都に攻め込むための足掛かり(商人を装った工作)と見ているのではないでしょうか。
なので越前の松原客館に留め置いた商いを望む宋人70余名に博多以外では交易には応じない事を言い含め、彼らを穏便に帰国させるのを優先したのだと思います。

・朝廷は越前に新たな商いの場を作る気はない(港は博多の津のみ)
・前年(長徳元年(995年)9月)に、若狭に宋人70名が来着し、交易を求めたが若狭では対応できず越前の松原客館に留め置いている。(『権記』長徳元年(995年)九月二十四日条)参照
・越前と都は近い。都に乗り込む足掛かりとなることも考えられる
・宋人は商人と言っているが証拠がない。70人もまとまってやって来るのも妙。官人どころか戦人かもしれない。
・穏便に帰してほしい

『権記』長徳元年(995年)九月二十四日条

一方通詞・三国若麻呂さんは、

・宋人は戦を嫌い、戦で領地を広げる事はしないと聞いた。(実態は北方系の遼(契丹)や西方の西夏の圧迫を受け軍事費が増大し財財政難から外貿易を奨励)
・船の漕ぎ手以外は商人(積極的な東アジアや東南アジアでの交易を望んでいる。)

常に都にいて受領や大宰府からの情報を基に話し合い命令を出す朝廷や公卿と現場にいて実際に当事者と相対する通詞とでは見解が違うのは当たり前です。
日本側の渤海国滅亡による渤海使外交の縮小、新羅の国内の混乱から頻発した新羅南部の沿海の流民あるいは海賊とみられる者たちの対馬や北九州への襲撃(新羅海賊)などの外患もあり、宋とも正式な国交は開かれず主に大宰府を窓口にして博多津のみで交易が行われていたという事情も鑑みると道長卿の懸念も仕方ないのではないでしょうか。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
渤海/渤海国/海東の盛国

>越前編の面白いところは、日本史の外交にあった課題を時代を超えるように見せてくるところだと思います。
『日本史の外交課題を見せてくる』と言いながら、当時の宋国内の政情やアジア圏の外交懸念など日本を取り巻く事情を何ら説明せずただ『宋人と接するのは素晴らしい、都に籠もる道長の理解度は落第』と中華マウントを取りたいだけなのは如何かと思います。

・彼の名はヂョウミン?

>まひろは乙丸を連れ、海辺を歩いています。
まひろさんは乙丸を伴い、敦賀の海岸に行きました。
乙丸が「海というものは近江の湖(琵琶湖)と同じように思えます」と言い、まひろさんは「この海の向こうは宋の国よ。近江の湖とは違う」と答えます。
すると一人の宋人が歩いてきました。
「姫さま、帰りましょう」と促す乙丸でしたが、まひろさんはその宋人に近づき、乙丸の心配を余所に日本語で「ご機嫌よろしゅう。」と挨拶をし、「私の名前はまひろ。ま・ひ・ろ」と自己紹介をします。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

宋人男性は落ちていた棒きれで、砂浜に『周明』と書きます。
それはかつて足の指に挟んだ棒で地面に文字を書いた『三郎』と名乗っていた道長卿に似ていました。
それは彼の名前でした。
「シュウメイ…貴方の名前はシュウメイ?」と尋ねるまひろさんに、周明さんは「ヂョウ ミン」と教えます。
まひろさんが「ジョーミン」と言うと周明さんが「ヂョウミン」と言います。
周明さんから発音を直されたまひろさんは、「宋の言葉は難しい」と言い、「朱仁聡という人物はどういう人物なのか」と漢文を砂浜に書きました。
するとそこへ別の宋人が「師がお呼びだぞ」と告げます。
周明さんは拱手をし「再見(ザイジィエン)」と言い、浜辺を去りました。
波が砂浜に書いた文字を流していきます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

為時公は書類に目を通し、「真に商いをしに来ただけなのか…と不審がっていました。
そこへまひろさんが帰って来ました。
「どこに行っておったか」と訊かれ、「浜辺」と答えるまひろさん。
そしてまひろさんは為時公に「ザイジィエンとはどういう意味でしょうか?」と尋ねます。
為時公は「また会おうという意味だ」と教えます。
まひろさんは「また会おう……」と繰り返します。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

為時公が目を通している貿易品の目録らしき書類には、『大紋唐綾』や『繍錦』などの織物、『瑠璃燈爐』といった調度の他、『甘松』『甲香』『丁字』『犀角』『薫陸』『沈香』『龍脳』などお香の原材料が書かれています。
大変高価で貴重なお香の原料は、全て海外から輸入していたため、高僧や貴族など一部の限られた人のみが手にすることの出来るものでした。
平安時代に熟した文化のひとつに『薫物(たきもの』があり、貴族は粉状のお香をはちみつや梅の果肉などを使って練る『練香』を作り、教養や財力やセンスの良さを表現しました。
『六種の薫物(むくさのたきもの)』と呼ばれる調合は記録として現在も残っています。

>乙丸が不安げにしていましたが、まひろも父と同じで破天荒な性格ですから警戒して当然でしょう。
破天荒だけではなく文物への興味も強く怖いもの知らずなところがあり、どんどん新しいものに突き進んでしまうため、結ばれないであろう男性に惹かれてしまう事もあって乙丸は心配なのかもしれません。

海辺では、日中間の伝統的な意思疎通手段である筆談が出てきました。
>幕末では上海に密航した高杉晋作が使った手段として知られます。
>現代ならばアプリがありますので、使ってみてはいかがでしょうか。
>最近は観光地等で多国語表示の手書き文を見かけますが、アプリを用いることで改善が期待できる。
現代ならばアプリがある』とは。
どういうアプリなのか具体的に説明してください。
筆談は障がいや病気などで直接会話ができない場合や静粛が求められる環境下など直接の会話を避けるべき場合などに於いて用いられる方法です。
公共施設や公共交通機関には、筆談具(筆談器、筆談ボード)が設置されている事があります。
また、タブレット用の「筆談アプリ」が開発され、聴覚障がい者がタブレット画面に指で文字を書き、音声認識機能で健聴者が発話した言葉を自動的に文字に変換して画面に表示する事もできるようになりました。
方言が強い人や別言語話者同士のコミュニケーションにも用いられ、読み書き可能で会話・ヒアリングができない場合、筆談で意思疎通を図る事ができます。

筆談に於いて、漢字使用地域では漢字を理解できる人が多いため漢字で書けば意思疎通ができます。
近代以前の筆談は漢文知識上で行われたため通用性が高いですが、現代では簡体字(中国・シンガポール)・繁体字(台湾・香港・マカオ)・新字体(日本)などがあり、他に和製漢字や韓国のハングルがあり通じない事もあります。
またそれぞれの国の漢語の語彙があり、相手国の言語について理解できなければ伝わらない場合もあります。

>拱手はじめ、宋人は所作が大変美しい
拱手(きょうしゅ)は、中国、朝鮮、ベトナム、日本の沖縄地方に残る伝統的な礼儀作法です。
両手を胸の前で組み合わせてお辞儀する方法。
吉事のときは男性は左、女性は右を前に組み合わせ、凶事の際はその逆となります。

『キングダム』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

・羊肉は最高のおもてなしだ?

>三国が為時に「明日は前任者が国府を出立する宴がある」と告げてきます。
三国さんは『明日国府に発つ国守』と言っているので、前任者ではなく為時公をもてなすための宴です。
為時公は国府に向かう途中、宋人の視察のため松原客館に立ち寄ったので、逗留最終日にもてなされたのだと思います。
「明日国府に発つ国守さま(為時公)のために、仁聡が宴を催したいと誘っております」と三国さんが伝えに来ました。
為時公とまひろさんはその誘いを受けます。
宋の楽器で音楽が奏でられ、料理が運ばれてきました。
朱さんは「我らの国の料理である。国守様のために作った」と言って、前途を寿ぎ乾杯の音頭を取ります。

『光る君へ』より

焼いた羊肉が運ばれ、三国さんが「羊の肉でございます」と言い、まひろさんは「羊?!」と驚きました。
三国さんは「あの庭にいた茶色のあれでございます」と身振りを交え答えました。
羊肉はまひろさんが庭で見た羊でした。
三国さんは「羊一匹を潰すのは宋では最高のもてなしでございます」と言い朱さんにも勧められ、為時公は羊肉を口に運ぼうとしますが、躊躇ってしまいます。
すかさずまひろさんは羊肉を口に運び、「美味しい」と言い場を和ませました。
宋人たちは「食べてくれてありがとう」という意味を込めまひろさんに「謝謝(シェシェ)」と感謝を述べます。
ほろ酔いで「この客人の心はみな一つ、中でも貴殿の才気は最もあふるるもの、威容と名声は遠くかすみたなびく村落まで響きわたる」と言う為時公は彼らへの謝礼に漢詩を披露して褒められています。
宴の様子を部屋の隅で立ったまま周明さんが見ていましたが立ち去っていきました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

まひろさんが宴の場を出ると周明さんがいました。
「ごちそうさま」と礼を述べます。
まひろさんは「宋の人々は賑やか。正直、羊はあんまり美味しくなかったけど…」と言います。
そして「謝謝(シェシェ)」と口にしました。
しかし素知らぬ顔の周明さん。
まひろさんは「シェシェはありがとうの意味ではないの?」と尋ねます。
すると宋の酒を飲んだ為時公が「あぁ、もう飲めぬ……」と外へ出て来たので、まひろさんは父を支えるようにして宿所へ戻る事にしました。
周明さんは2人に拱手の礼をし、まひろさんは周明さんに「ザイジィエン(また会いましょう)」と返します。

『光る君へ』より

>宴では宋の音楽が奏でられ、宋の料理がふるまわれます。
宋人が奏でていた日本の『笙』に似た楽器は『竽(う)』と言います。
竽は古代中国で使われた管楽器のひとつで笙に似ていますが笙より大きく音が低いそうです。
『韓非子』では斉の宣王がいつも300人に竽を演奏させたという記述があるそうです。(『斉宣王使人吹竽、必三百人。』)
中国では戦国時代から宋まで使われますが、その後は廃れた様です。
日本には奈良時代に伝来しますが平安時代には使われなくなり、正倉院には、笙・竽が各3個ずつ残されています。

呉竹笙<53.1cm>と呉竹竽<78.8cm>
正倉院所蔵

また、『方響』に似た手持ちの楽器(ベルリラの様な)もありました。
方響は古代中国の楽器で、高低 16律をもつ長方形の鉄板 16枚を木製の架に8枚ずつ上下2段に掛け、2本の打棒で旋律を打鳴らすものです。
日本へは奈良朝に伝来し、唐楽の楽器として用いられましたが、室町時代初期に廃れました。
正倉院には方響板9枚が現存しています。

信西古楽図
信西古楽図(写本)
『光る君へ』より

>明治時代は軍服に用いるウールのため、各地で羊の飼育が盛んになり、マトンが食べられるようになりました。
>しかし、定着したのは北海道くらいです。
メソポタミア付近でムフロンに近い原種を家畜化したものが広まり世界に渡って行った事や、『日本書紀』に「推古七年(西暦599年)の秋9月の癸亥の朔に、百済が駱駝一匹・驢(ロバ)一匹・羊二頭、白い雉一羽を奉った。」と記述があり、その後も度々貢物に羊の名前が見えますが、高温多湿が生育に合わず、『延喜式』には、鹿醢、兎醢など獣肉を塩漬けして発酵させた加工品が記載されてはいますが、仏教文化による肉食への忌避で食用よりも貢物だった様です。
江戸時代では肉よりも羊毛の需要が高まりましたが飼育・繁殖には至らず、江戸期までの羊は「献上品」「珍しい見世物」「知らない動物」扱いでした。
明治政府の富国強兵政策により、寒冷地での戦闘が発生する可能性があり、毛織物で軍服を作るため、羊毛や毛織物の輸入をはじめます。
そのうち輸入が止まる懸念から羊毛の国産化が奨励され、1875年(明治8年)には下総国三里塚にて御料牧場が開設されます。
また、北海道では1876年(明治9年)羊の飼育実験が行われ、同じ頃民間でも岩手県を皮切りに数百頭規模の牧場が開かれました。
しかし、日本の羊毛の質が低く買取価格も安かったせいや肉が売れないことも原因で下火になっていきました。
日露戦争後、軍需から再度羊の飼育が奨励されますがなかなか定着しなかった様です。

>中国では羊肉が最高級の食材であったものです。
作中、宋人に連れてこられた羊は為時公一行をもてなす宴のご馳走として供されました。
宋では羊肉が愛されていた様で、宋代の宮廷料理に使用される肉はすべて羊肉といわれる程でした。
見せかけばかりで、実質が伴わない事の例えとして『羊頭を懸けて狗肉を売る(羊頭狗肉)』がありますが出典は『無門関・六則』という宋代に編纂された禅問答集で、宋代では羊肉が高く評価され、犬肉は蔑まれていた事が分かります。
仁宗は羊料理を愛好し、宋の真宗の時代には毎日350頭の羊が消費され、仁宗の時代には、毎日 280 頭の羊が消費されたそうです。(『宋真宗时期每天要消耗350只羊,宋仁宗时每天消耗280只羊』)
また、仁宗には羊の焼き物に関する逸話があります。

北宋魏泰『東玄注』
宋仁宗忍饿 

>ちなみに和菓子の羊羹は「羊肉のスープ」というのが本来の意味です。
(中略)
>鎌倉時代のころ、禅僧が中国で最高級料理である羊のスープを目にしました。
>しかし仏僧は肉食が禁じられているため、羊肉のかわりに大豆を用い、名前と一致しない食べ物の名前として定着したのです。
>中国語圏の人が日本の「羊羹」を見ると混乱することもあるとか。
何見氏は『羊肉のかわりに大豆を用い』と言っていますが羊羹は大豆ではなく小豆を使います。
羊羹の由来は中国の料理で、『羊の羹(あつもの=羊肉の汁物)』でした。
鎌倉~室町時代(12世紀末~16世紀後半)、中国に留学した禅宗僧侶によって朝夕の食事の間に摂る点心の一つとして、日本に伝来しました。
禅僧は肉食が禁じられていたため日本の寺院では小豆など植物性の材料を使って羊に見立てた精進料理の汁物が作られ、やがて貴族や武家の間に饗応料理として広まります。
さらに甘みが付けられたものが茶席などで用いられ、江戸時代には菓子として定着しました。
そして上生菓子の蒸し羊羹、寒天を使った水羊羹、滑らかな食感の煉羊羹になります。

>為時は漢詩も披露し、褒められています。
>宋側の本音は「軽薄なものだ」として、あまり良く思わなかったようですが、外交として成立しているのであれば問題ありません。
中国文化に造詣の深かった為時公は朱さんに親近感を持ったようです。
作中でも宴席で漢詩を披露して褒められます。
『今鏡』によれば、一条帝は学識のある者に外国人と交流させたいと思っていた様で、為時公を越前守に起用した理由でもある様です。
為時公は越前国で宋人達と漢詩を贈り合っています。
為時公が贈った歌が『今鏡』にあります。
望郷の念を抑えきれない宋人たちの境遇に対し、同情を寄せた詩で、平安中期に編まれた漢詩集『本朝麗藻』や中国側の『宋史』にも似た逸話が記述されています。
『宋史』では商人・周世昌(『本朝麗藻』では羌世昌)が『詞甚雕刻 膚浅無所取(詞は甚だ凝っているけれども、内容は非常に浅薄であり、取るに足りない。)』と評しているそうです。
作中でも祝い膳と称して饗応し、関係を深められるか宋人達は見極めていたのではないでしょうか。

『今鏡』

・落ち着かぬ浮舟のような越前守?

>松原客館から国府へやってきた為時。
翌日為時公一行は越前国府に入りました。
国府では越前介・源光雅公から「越前介・源光雅でございます」と挨拶を受けます。
さらに越前大掾・大野国勝公が「大掾・大野国勝でございます」と挨拶をし、為時公は「よしなに頼む」と言います。

越前介・源光雅公や越前大掾・大野国勝公は架空人物と思われますが、国司(守)に次ぐ次官の『介』と四等官制に於ける第三等官(中央政府における「判官」に相当する)『大掾』です。

参照:
君しるべ ~青年貴族・藤原道長の官位とは?

そして為時公は「宋人たちの様子を見て来た」と言い、「船の修理はどうなっているのか?」と尋ねました。
光雅公は「予定より遅れておりますが、粛々と進めております」と答えます。
為時公は「事の子細を早速に知らせる様に」と命じ、自ら船の様子も見るつもりでいました。
しかし光雅公は「宋人の事はこちらの方でよしなにやっておきますゆえ」と答えます。
為時公は、「左大臣さまより宋人の扱いを任されて私は越前に参った。我が国が信用を落とすようなことはできぬ」と言います。
国府の役人たちは困ったような顔をし、光雅公は「船の子細は後ほど」と答えます。
平安時代中期、国守は徴税・行政などの権限が大きくなり、四年の任期の間に私腹を肥やせる替わり、地方豪族が担う在庁官人など現場との調整に気を遣う職務でもありました。
「こちらの方でよしなにやっておきます」とは受領としての旨みの代わりにあまり口を出すなという事なのでしょう。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>まひろも自室へ案内されます。
まひろさんは国守館の一室を宛てがわれ、あまり愛想の良くない国府の女官達に付き添われ部屋を訪れました。
部屋の設えや朱色を基調とした御簾などの調度品は立派なもので、高級な越前和紙が用意されていました。
まひろさんは早速墨を磨り和歌をしたため、心の中でそれを詠みます。
『かきくもり 夕立つ波の 荒ければ 浮きたる船ぞ しづ心なき』

『光る君へ』より
『光る君へ』より

まひろさんが国守館の自室で手に取ったのは越前名産の越前和紙です。
1500年もの伝統を誇り、国内最古とされる和紙の代表的な存在で朝廷にも納められていました。
今から1500年前、「川上御前」という女神が現れ紙すきの技術を人々に伝えたそうでご祭神として祀り、以後和紙生産は越前の主要産業になっていきました。

まひろさんが和歌をしたためた和紙は『打雲』といいます。
『打雲』は紙の天地に雲がたなびいたように藍や紫の繊維を漉きかけたもので、平安時代から続いている技法なのだそうです。

『光る君へ』より

越前への道中。
藤原為時公一行は勝野津で停泊し、翌日また船旅となりました。
紫式部は「塩津浜」に上陸する途上湖上で夕立に遭い、心細さを和歌に詠んでいます。
詞書には『夕立しぬべしとて、空の曇りてひらめくに』とあります。
こちらの歌は近江百人一首に収録されています。
作中では琵琶湖で経験した荒天を思い出して詠んだものとして、『打雲』の技法で梳かれた和紙にしたためたのでしょう。

かきくもり 夕立つ波の 荒ければ 浮きたる船ぞ しづ心なき

意訳:
空一面が暗くなり、夕立を呼ぶ波が荒いので、その波に浮いている舟は不安な事です。

紫式部日記 紫式部集
『光る君へ』より

>光雅は、越前のことは自分たちに任せるようにと為時に言い、国守は任せておけばよい。懐を肥やし都に戻ればよいとして、袋に入れた金を渡してくるのです。
国司の執務中の為時公に、越前介・源光雅公が金の入った巾着袋を差し出します。
光雅公は「どうぞ越前の事は越前の者にお任せくださいませ。さすれば懐をお肥やしになって都にお戻りになれましょう」と言います。
所謂袖の下であり、生真面目な為時公は「そなたは私を愚弄する気か」と問います。
光雅公は「めっそうもない」と答えました。
為時公は光雅公に袋を返し、下がるように言います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>金による買収を拒む大河ドラマ主人公といえば、『麒麟がくる』の光秀がいます。
>為時と光秀の共通点は、儒教倫理を真面目に信奉しているということでしょう。
『麒麟がくる』では、光秀公が斎藤高政公の追手を逃れて入った越前で朝倉義景公の庇護を受けることになりました。 
豊かな国・越前を治める義景公は幕府と縁のある細川藤孝公の明智家を匿う様訴える書状を見て値踏みをするように渋々明智家を迎えました。
義景公が「とにかくこのまま美濃に帰すわけにはいかぬ。米代など金もいるだろう・・・くれてやろうぞ。」と懐の深さを見せますが、光秀公は「それはいただけません。いただく理由がございません。」と断固断り、明智家はあばら屋を宛てがわれ慎ましやかな暮らしをします。
光秀公は財産全てを失っているのに当面の生活費の打診も断っているのですが、これは賄賂のような不正では無いと思います。

『麒麟がくる』より
『麒麟がくる』より

平安時代、式部省が管轄する大学寮(官僚育成機関)に於いて明経道として儒教が教授されますが、日本では科挙制度が採用されておらず儒教本来の価値が定着しなかった事、仏教がますます盛んになった事から儒教はあまり盛んではありませんでした。

もともと為時公は誰かに根回しをしたり不正をして私腹を肥やして儲けるという考えが浮かばない人であり、源光雅公の様に国司の許で私腹を肥やしたい地元豪族出身の官吏には煙たい存在だったかもしれません。
当時は成功(じょうごう)という金銭を納めたり自己負担で事業をさせることで官職が与えられる制度があり、日常的な作法だった様です。


>贈収賄で立場を変えていたのは、『鎌倉殿の13人』の北条時政があげられます。
>こちらは儒教教典を読みこなしているとは考えにくい人物でした。
もともと明るくて率直な人柄だった北条時政公は、執権となった途端平然と賄賂を受け取り、見くだすような態度で他人の地位を脅かす様になりました。
これについては野心家の妻・りくさんの影響もありますが、視聴者からは『地方の頼れる親分としてやってきて、実際うまくいってたけど、今回でこの人にそれ以上の器は無い、という事が誰の目にも明らかになってしまった』『これは権力の座にいてはならない人たち』『頼れる地元の大物政治家の枠であって国政に向いていない』などの意見が出ていました。

実際に立場が上がれば上がるほど露骨に一部だけを贔屓したり便宜を図っては他に示しが付かず信用を無くす元であり、息子の義時公に苦言を呈されています。
時政公の失政は地方豪族で有力者だった時代からの『田舎の気のいい親父』的な考えを変えられなかった弊害かと思います。

『鎌倉殿の13人』より

朱子学は1199年に入宋した俊芿が儒教の典籍250巻を持ち帰ったのが始まりとされ、宋に渡った日本の禅僧や訪日した南宋の知識人などによって広まります。貴族社会では大学寮において教養として広まっていた儒教ですが、北条時政公の様な国衙の在庁官人や地方豪族出身の御家人にまではまだ広まっていなかったのではないでしょうか。

>『青天を衝け』の渋沢栄一は、『論語と算盤』という書籍を刊行していますが、日本史上、贈収賄が最悪であった明治の長州閥と親しくしております。
>彼が清廉潔白であったとは考えられません。
>本音と建前が一致しない人物です。
この文章では『『青天を衝け』の渋沢栄一』と主語がなっているように見え、では他のジャンルの渋沢栄一氏は関係ないのかという様な誤認をしやすいと思います。
何見氏は『贈収賄ガー、長州閥ガー』と尤もらしい理由を付けていますが、仮に長州閥の方達と仲良くなくても難癖を付け渋沢氏を叩くのではないでしょうか。

・新任者が疲弊する?

>為時は激務に追われます。
為時公は民達の声を聞く事にしました。
ずらりと並んだ民の請願を一人一人丁寧に聴いていく為時公。
「吉野瀬川の橋が軋んでおりますのでよろしくお願いします」
「田の水の取り合いで大喧嘩になっているのでお裁きを」
「浜に流れ着いたものを独り占めしている」
「米が不作のため、別のものをお納めしてもよろしゅうございましょうか?」
と次々に陳情にやって来て、書記官は眠ってしまいました。
「妻がキツネに化かされて毎晩いなくなるのです」と挙げ句政と関係のない事を訴える者もいます。

『光る君へ』より

暗くなってもまだ並んでいる者もおり、やっと聞き終わった為時公に、まひろさんは「あれは光雅の嫌がらせでございましょうか?」と尋ね、為時公は「おそらくそうであろう。光雅が謀った事だ」と答えます。
『あれ』とは光雅公と国勝公が傍からこちらの様子を窺っている姿の事でした。
為時公はこれは嫌がらせだと感じ、光雅公が今後厄介な人物になると思っていました。
まひろさんは「恐れる事はありません。父上の考え通りになさればよい。私がお側におります」と言います。
そして、まひろさんは執務室に出て父に寄り添う様になりました。

>ここの場面は日本の時代劇というよりも、華流ドラマを思い出しました。
項目のほぼ半分が華流ドラマの話になっていますが、大河ドラマのレビューですので別記事を立てて語って下さい。

・朱仁聡の献上品と、周明の医術?

>朱仁聡が「お願いしたいことがある」として、三国が取り次いできます。
朱仁聡さんが通詞の三国さんを伴い国府を訪れました。
松原客館で良くしてもらっている礼をしたい様で、三国さんが「朱殿は朝廷に品物をしたいと申しております」と取り次ぎます。
為時公は「それはどうしたものか」と困っておりその様子を三国さんが通訳します。
朱さんが「どうしても献上したい」と伝えると、為時公は独断でできる事ではないので「まずは左大臣さま(道長卿)に文を書くから待って欲しい」と言いました。

『光る君へ』より

>漢方医らしく、周明はまず舌の色を見て脈をとり、うつぶせにさせて、服を脱がせます。
為時公は床に伏しているので寝間着を着用しています。
この場合はせめて『服』ではなく、衣または着物の方が良いと思います。
為時公は、腹を押さえて呻いていました。 
慣れない地での激務のため早々に体調を崩し胃腸の具合が悪くなっていました。
三国さんが朱さんの意を受け「宋の薬師を呼びますゆえ」と伝え、薬師が呼ばれました。
薬師は周明さんでした。
まひろさんは「この人が薬師?」と驚き、三国さんが「はい、そうです」と答えます。
周明さんは「舌を出してください」と言い、為時公の舌診をします。
そして手を取り脈を診ます。
為時公の衣を脱がせうつ伏せにさせました。
周明さんが鍼を取り出し治療が始まります。
長い鍼を見て驚くまひろさんに「大丈夫だ」と朱さんが声を掛け、三国さんが「宋の鍼です。これでなんでも直します」と説明します。
周明さんが為時公の背中に鍼を打つと、為時公は「うわわーーー!!」と悲鳴を上げました。
為時公はスッキリした表情で「よくなったやもしれぬ」と言いました。
周明さんか為時公のこめかみから耳の後ろを押さえ、心が張り詰めて頭が凝っていると説明しました。
朱さんは「5日に1度彼にかかっている。だから息災なのだ」と言い、為時公は「これが宋の医学なのか…」と感嘆しています。
朱さんと周明さん、そして三国さんが立ち上がり、為時公が礼を言い頭を下げます。
朱さんは「貢物の件をよろしくお頼みする」と拱手し頭を下げました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>さて、平安時代の人々は鍼灸を知っていたのか?
>というと、日本にもその存在が伝えられてはいます。
>しかし、灸が広まりながら鍼は限定的でした。
>かなり高度な治療法であり、貧しい貴族である為時は試す機会がなかったのでしょう。 
鍼灸は今から二千年以上前に、古代の中国で誕生します。
漢代に入ると東洋医学のバイブル的な『黄帝内経』が編纂されます。『黄帝』とは古代中国の医薬を司る伝説上の皇帝の事です。
隋・唐の時代になると人体の穴位や経脈の研究が進み、『鍼灸』は学問として重視される様になります。
宋の時代になると細い鍼を作る金属加工技術が発達し、穴位や経脈を具体的に配列した『鍼灸銅人』が作られ正確な「ツボ」が判明していました。

中国鍼灸は太い鍼、長い鍼、細い鍼、短い鍼があり、日本鍼灸よりも少し太くて長い鍼が用いられることが多く、鍼自体を持ち皮膚に差し込むようにして刺すそうです。
中国鍼の見た目が藤枝梅安先生の使う鍼の様ですが。

『仕掛人 藤枝梅安』より

鍼灸の知識は6世紀頃、朝鮮半島から日本に伝えられました。
奈良時代、『大宝律令』や『養老律令』の施行により律令制度が整えられると典薬寮の中に医師、鍼を行う『鍼師』、鍼の技術を学ぶ『鍼生』、『鍼博士』が鍼灸を扱う医療職として設けられました。
日本現存最古の医学全書『医心方』は、鍼博士であった丹波康頼公が中国の医学書をもとに編纂し、永観2年(984年)に円融帝に 献上したものです。
平安時代までは灸治療が中心で鍼は主として外科的な処置を行う際に用いられたようです。 
 藤原実資卿の日記『小右記』にも灸治療の事がしばしば書かれています。

小右記 長和二年(1013年) 七月二十五日条

>献上品が都に到着したようです。
内裏に献上品の鸚鵡や羊が連れて来られました。
「ニーハオ」と鸚鵡が鳴き、検分していた藤原実資卿が「ニーハオ?」と聞き返します。
「これが献上品なのか?オウムとは奇妙なものだ」と実資卿は興味津々です。
止まり木に止まり、「ニーハオ」と鳴く鸚鵡を見て、実資卿は「奇妙な鳴き声だ」と言います。
傍らにいた藤原公任卿は、「鸚鵡は人の言葉を真似ます。宋の言葉やもしれません」と教え、実資卿が「宋の言葉な…」と言います。
さらに公任卿は、「宋人はこの献上品と共に頼みごとをして来たのか」と尋ねました。
実資にもそれは分かりません。
公任卿は「ただ置いて帰るとは不可解でありますな」と言います。
実資卿は微笑み、鸚鵡に覚えさせようと「不可解…不可解、不可解」と繰り返します。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>この鸚鵡は平安貴族の間でペットとしてブームになりました。
>『平清盛』では藤原頼長が白い鸚鵡を飼っていましたね。
『平安貴族の間でペットとしてブーム』になったという具体例を提示して下さい。
長徳元年(995年)に若狭に来航した朱仁聡さんら宋人の一行は越前・松原客館に身柄を移され、連日のように公卿たちが宋との外交が懸かる彼らの処遇を審議しました。

『権記』長徳元年(995年)九月二十四日条

『日本略記』や『小記目録』には朱仁聡さんがガチョウや鸚鵡や羊を朝廷に献上したことも記録されています。(『日本紀略』に於ける『入京した「唐人」』が朱さんであろうと思われる)

『十九日丁亥、唐人献鵞羊』
唐人鵞羊を献ず。

『日本略記』長徳二年閏七月十九日条

十九日。大宋国の鸚鵡・羊、入朝の事

『小記目録』長徳二年(996年) 閏七月十九日条

『枕草子』41段「鳥は」には、『異国のものである鸚鵡はとてもかわいらしい。人の言う事を真似るという』とあります。

『平清盛』で悪左府さまとして親しまれた藤原頼長卿ですが、彼の日記『台記』には鸚鵡に関する記録があります。

『平清盛』より
『台記』久安三年(1147年)十一月二十八日条

・三国若麻呂殺人事件発生?

>藤原為時は、献上品が無事に届いて、感謝している旨を朱仁聡に伝えています。
越前では朱さんが、「無事に朝廷に貢物を届けることができました。感謝する」と筆談で為時に伝えています。
しかし、まひろさんは通詞の三国さんの不在が気になり為時公にその事を告げます。
その時、越前大掾・大野国勝公が執務室に入って来て、「松原客館の通事・三国若麻呂が殺されました」と伝えます。
そして、抵抗する朱さんでしたが役人に連行されていきます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

理由を尋ねる為時公に、「あやつが咎人(とがびと)にございます。今朝2人で口論していた事など、あらゆる証拠が揃っております」と国勝公が答えます。
為時公は「仁聡殿の話は私が聞く」と言いますが、「通事がいないので厄介です」と国勝公は反対します。
為時公は朱さんと筆談をするつもりでいましたが、国勝公は「国主様が咎人にお近づきになってはなりませぬ。こちらで調べます」と撥ねつけます。
為時公は信じられないといった様子で、「もし間違いであれば、国の信用にかかわる一大事だ」と言います。
「異国人ゆえ裁きは難しい。これは左大臣様にお伝えになった方が」とまひろさんが忠告しますが、為時公はまた体調の悪さを訴えます。
まひろさんは「文は私が書きます」と言い、筆を取りました。
かくしてまひろさんが書いた書簡は道長の許に届けられました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>しかし、いちいち左大臣に確認するというのも、歯がゆい話。
>やはり道長の指示が曖昧だったのでは……?
為時公は、「仁聡殿の話は私が聞く」と国司による取り調べを希望しました。
しかし、越前大掾・大野国勝公によって「こちらで調べる」と咎人への詮議を阻まれてしまいます。
為時公は「もし間違いであれば国の信用にかかわる一大事となる」と懸念しており、まひろさんも「異国人ゆえに裁きは難しい」と所謂『領事裁判権』の関わる難しい案件であるため、親子は公卿による陣定での話し合いができ帝の裁可を仰げる朝廷にお伺いを立てたのだと思います。
そして、天皇に奉る文書や天皇が裁可する文書など一切を先に見る事ができる『内覧』である道長卿に書状を送ったのだと思います。
まひろさんのしたためた文書は国司である為時公名義で越前守の裁量でお伺いを立てた旨の印が捺され公文書扱いなのではないでしょうか。

『光る君へ』より

>実際、その書状が中央に届けられると、道長が陣定で話し合います。
『道長が陣定で話し合います。』では道長卿だけが陣定で話している様な文脈になります。
この場合、道長卿が書状を検分し、公卿が陣定で話し合うのでは。
陣定では藤原実資卿が「この件、我が国の法で異国の者を裁けるのであろうか」と疑問を呈しました。
公任卿は「これを機会に、宋へ送還するのがいい」と言います。
斉信卿は「為時は優秀だから越前守に替わったのです。為時に任せておけば良いのではありませぬか」と意見します。
源俊賢卿は、「式部省に属していた男が殺人の裁きができるとは思いませぬ」と述べ、道綱卿が「だよね」とそれに同意します。
俊賢卿はさらに「我が国の者が殺されたのを見逃すのもどうでありましょうか」と言い、道綱卿はまたそれに同意します。
公任卿から、「左大臣殿はどうお考えか」と問われ、道長は「明法博士に調べさせたうえで、お上にお伺いいたす。陣定で諮れと仰せならもう一度議論しよう」と一同に持ち掛け散会します。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>わが国の者が殺されておいて、放置できないだろう……と、皆で意見を出している最中、いちいち「だよね」しか言えない道綱はなんなのか。
>そんなことだから実資に日記で罵倒されるのでしょう。
「式部省に属していた男が殺人の裁きができるとは思いませぬ」「我が国の者が殺されたのを見逃すのもどうでありましょうか」と意見を述べたのは源俊賢卿で、道綱卿は俊賢卿の意見に概ね同意見のため「だよね」と相槌を打ったのではないでしょうか。
補足意見があるならともかく誰かの意見に賛同できるならば同意を示してもおかしくはないと思います。
何見氏はいちいち人の意見に噛みついて場を荒らせば良いと思っているのでしょうか。
また、実資卿が『小右記』で道綱卿を『一文不通の人(何も知らない奴)』と評したのは寛仁三年(1019年)六月十五日の事で長徳2年(996年)の陣定の場から見れば全く関係ない事だと思います。
実資卿にとって道綱卿は官途における競争相手であり、あまり政治的才能が無い事もあっての日記での愚痴であり、何見氏の様に嫌いな人物なら何もかも論って罵倒し恥をかかせて良いとは思っていないと思います。

『小右記』 寛仁三年(1019年) 六月十五日条

>それにしても、当時の犯罪対応はこんなことでよいのでしょうか。
>あまりにスピード感に乏しく、無茶苦茶な話に思えます。
>時代に合わせた律令が必要でしょうに。
『時代に合わせた律令』とはどの様なものでしょうか。
具体的に提示して下さい。
越前で通詞が殺害され宋人である朱さんが容疑をかけられた件は為時公とまひろさんが懸念した様に『国の信用にかかわる一大事で異国人ゆえに裁きは難しい』案件であり、故実に詳しく事細かに日記に記述する実資卿も「我が国の法で異国の者を裁けるのであろうか」と対応を迷うほど判例が少ない案件なのではないでしょうか。
だからこそ議題を一旦取り下げ、律令などに明るい『明法博士』に諮問に対する解答として勘申した文書(勘文)を調べたうえで法律的な見解を貰い、帝にお伺いを立て陣定で諮れと仰せならもう一度議論としたのではないでしょうか。
作中では朱仁聡さんに殺人容疑がかかりますが、史料でも朝廷で朱さんの罪名を検討している記述があります。
『日本紀略』長徳二年十月六日条によれば、『大宋国商客』として朱さんを陣定で審議しており、また十一月八日条によれば、明法家に対して「大宋国商客」罪名を勘申(調査・答申)する事を命じて、明法博士・令宗允正(よしむねのただまさ)公が勘申した記述があります。(罪名は不明)
長徳三年十月二十八日には『若狭守源兼隆(澄)が「大宋国商人(客)」朱仁聡らに陵轢(侮り踏みにじる事)された』という記述があります。(『小右記』・『小記目録』、『百練抄』十一十月日条)
十一月十一日には、明法家に若狭守を陵轢した朱さんの罪名を勘申させています(『百練抄』)
これらの罪状と陣定など公卿側の動きなどを参照に作中の通詞殺害事件は作られたのではないでしょうか。

『小右記』長徳三年十月二十八日条
『小記目録』長徳三年十月二十八日条

・まひろが揉め事を、明子が愛を押し付けてくる?

>道長はため息をつきながら、まひろの字で書かれた書状を見返しています。
道長卿はまひろさんが代筆した為時公名義の、『左府殿』と書かれた懸け紙を手に取っています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

そして道長卿は明子さまに「お前の父も左大臣であったな」と尋ねます。
道長卿と明子さまの間には、3人の子がいました。
「父が左大臣だった頃は幼くて覚えていないが、その父が失脚しなければ兄が左大臣だったかも知れぬと思った事はある」と明子さまが答えます。
明子さまは、「最近兄には左大臣は務まるまい」と思う様になっていました。
「俺とて務まってはおらぬ」と道長卿が言います。
「俺の決断が国の決断かと思うと…」と頭を押さえる道長卿は、かなりの圧力を感じている様子です。
悩む道長卿に明子さまは、殿に務まられば誰も務まりませぬ」と言い、道長卿は「近頃口がうまくなった」と驚いています。
明子さまは「自分は変わりました。敵(かたき)である藤原の殿を心からお慕いした、それが自分の唯一の目論見違いでした」と打ち明けます。
「目論み通りであれば俺は生きていなかったんだな…」と言う道長卿に明子さまは苦笑します。
「されど殿は生きておいで。お悩みもお苦しみも全て私が忘れさせて差し上げます」と言い、道長卿の盃に酒を注ぎ自ら飲み干しました。
そして「殿にもいつか明子無しでは生きられぬと言わせてみせます」と道長卿を押し倒すように抱きしめました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>今回についていえば、道長より俊賢の方が頼りになる気がしなくもありませんが。
源俊賢卿が「式部省に属していた男が殺人の裁きができるとは思いませぬ」「我が国の者が殺されたのを見逃すのもどうでありましょうか」と意見を述べており彼が頼りになるのは分かりますが、頼りになるからこそ道長卿は責任のある左大臣として公卿達の意見を聞き、適材適所で人材を配置する役目があるのですが。

・母の死に目にあえぬ伊周?

>藤原公任は、藤原実資の後任者として、検非違使別当になりました。
>その公任が「藤原伊周が母に会いに戻った」と道長に告げます。

藤原実資卿の辞任後、検非違使別当を公任卿が務めていました。
語りが「実資に代わって公任が検非違使別当を務めている」と言います。
武官装束の公任卿が「道長」と土御門殿を訪ねて来ました。
道長卿は公任卿から「伊周が大宰府から引き返している。病の母に会おうとしている」との知らせを受け「なんだと…?!」と驚いています。
公任卿は「どうする?」と尋ねながら「左大臣になど訊かずに、とっとと高階明信の屋敷を改めればよいのだが。俺って優しいからな。」と言います。
道長卿は公任に諸事を任せるつもりでいましたが、公任卿も「苦手だな…こういうの」と言い、荒事が得意ではありませんでした。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

高階邸へ戻って来た伊周卿は、無精髭が生え直衣も着崩れています。
検非違使から入室を止められ「速やかに大宰府に向かえ」と命じられています。
伊周卿は「ここまで来たのだ。せめて顔だけでも見させてくれ。母は俺に会いたがっておる」と公任卿に懇願しましたが「ならぬ!」と拒まれてしまいます。
公任卿は母・貴子さまに会うために土下座する伊周卿に根負けし、ため息をつきました。
公任卿は「分かった。別れを告げて参れ」と言い、伊周卿は貴子さまに会おうとします。
そこへききょうさんが現れ「ただいま御母君がお隠れになりました」と貴子さまが亡くなった事を伝えます。
伊周卿は膝をつき絶句しました。
貴子さまの側には定子さまが付き添っています。
伊周卿はふらつきながら母の遺体のもとへと向かいましたが、階(きざはし)を登ろうとして止められてしまいました。
伊周卿はうつむいて涙を流します。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

『小右記』長徳2年(996年)十月八日条では、戻ってきた伊周卿の様子を『左府(藤原道長)の直廬(じきろ)に参った。卿相が会していた。「権帥(ごんのそち/藤原伊周)が密々に京上し、中宮(藤原定子)の許に隠れている」と云(い)うことだ。「夜からその風聞があった」と云うことだ。』『外帥(がいそち/藤原伊周)は先日、出家したということを奏上させて、官符を改められた。「ところがまだ、やはり剃頭(ていとう)していなかった」と云(い)うことだ。狂偽(きょうぎ)のはなはだしいものか。』と記述しています。

『小右記』長徳2年(996年)十月八日条

・定子の腹には帝の子がいる?

>鈍色の喪服を身につけた道長は、高階邸を訪れます。
鈍色の直衣に身を包んだ道長卿が、高階邸を訪れました。
定子さまやききょうさんも鈍色の衣を纏い貴子さまの喪に服しています。
道長卿は定子さまに「お悔やみの言の葉もない」とお悔やみの言葉を述べます。
定子さまは道長卿の労を労い、道長卿は「亡き義姉上には、幼き頃からお世話になりましたゆえ」と述べます。
定子さまは、「帝の御心に背き続けた兄の素行を許してくだされ」と言います。
定子さまは道長卿を近くへ呼び寄せます。
これには定子さまの傍らのききょうさんが驚いた顔をしています。
廊下に座った道長卿は室内の定子さまと対面します。
定子さまは「帝のお子を身籠っております」と伝えます。
定子さまは「父も母も逝き、兄と弟も遠くにいて高階に力はなく、帝の子をどのように育てていいか途方に暮れております」と言い、「この子を左大臣様の力で守ってくださらぬか。私はどうなっても良いのです。しかしこの子だけは…」と訴えます。
道長卿は定子さまの頼みを聞いて苦しげに表情を歪めます。
この事は道長により一条帝に知らされました。
「今から高階の屋敷に行く」と仰る帝を、「お上!なりませぬ」と道長が諫めました。
「勅命に背き、自ら髪を下ろされた中宮さまをお訪ねになれば、朝廷のけじめは付かない」と道兼道長卿は訴えます。
帝は「ならば中宮を内裏に呼び戻す」と仰り、道長卿は、「朝廷の安定を第一にお考えくださいませ」と帝を諌めます。
「我が子を宿している中宮に朕は生涯会えぬのか!」とお嘆きになる帝に道長卿は「遠くからお見守りいただくことしかできませぬ」と答えます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

風俗考証・佐多芳彦氏によると、貴子さまの喪に服す定子さまを訪ねた道長卿は非公式の来訪でありながら敬意を表して自分も喪に服して『鈍色 (にびいろ)』の直衣を身に纏っているそうです。
平安時代において喪に服す際には、男女ともに家中の皆が立場に応じた鈍色の喪服を着てある一定期間生活をしていたそうです。
天皇が親族の喪に服する際に着用した鈍色のことを、特別に「錫紵(しゃくじょ)」と呼んだそうです。

>これがもしも兼家や詮子ならば、胎児を水にしようと呪詛でも毒でも用いかねません。
>まひろならば、
>窮鳥懐に入れば猟師も殺さず。『顔氏家訓』
と説明しそうなところです。

故事を引用したいならばきちんと意訳もつけて解説して下さい。中途半端です。

窮鳥懐に入れば猟師も殺さず
 『顔氏家訓―省事』

意訳:
追いつめられた鳥が懐の中に入っては、いくら猟師でも殺すことはできない。人が困窮して救いを求めて来れば、助けるのが人情であるという事。

出典 ことわざを知る辞典

兼家卿はすでに故人ですが、円融帝の御食事にどくを盛り体調を悪くさせ花山帝の女御・藤原忯子さまのお腹の子を呪詛しました。(お腹の子だけでなく忯子さま御本人も亡くなってしまいましたが。)また、詮子さまは定子さまと中関白家を追い詰めるために呪詛疑惑を印象付けました。(詮子さまは直接手に掛けるのではなく自演で追い詰めていく策ですね。)  まひろさんはききょうさんから定子さま懐妊を聞かされますが、高階家は恐れているとも耳にしています。前例があり、出家したといえどもまだ中宮が産むであろう唯一の一条帝の御子であり、危険が無いとは言えず定子さまは敢えて窮鳥の如く最高権力者・道長卿に守って欲しいと依頼したのでしょう。

>同じ行動をするにせよ、動機や心理背景を変えることで見方が変わってくる、そんな歴史劇の技法です。
>ここで道長が兼家のような笑みを浮かべ、あえて邪魔しているようにしたら、悪いヤツだと思えます。
>詮子のように冷たく毅然と言い放てば、冷酷に思えます。
>道長の場合、根は優しいので、本当はこんなことをしたくないと伝わってきます。
出家の身ながら懐妊した定子さまにお会いになりたがる一条帝に道長卿は「勅命に背き、自ら髪を下ろされた中宮さまをお訪ねになれば、朝廷のけじめは付かない」と諌めます。 
なおも中宮を呼び戻そうとされる帝に『朝廷の安定第一』をお考えになる様訴えるわけです。
越前に留め置いた宋人商人達の処遇など外交懸念も抱える中、国の頂点に立つ帝が私情から出家している中宮に逢う事は公人として憚られる事だからです。
平時なら兼家卿の様に自分の意を汲まない帝を退位させる事も詮子様のように自ら政を動かす事も有り得ますが、内憂外患を抱える道長卿はまだ余裕が無いのでしょう。

・周明は何ものだ??

>「越前のことは、越前でなんとかしろと……」
>為時が絶望的な表情を浮かべ、まひろも「左大臣は随分頼りない」と呆れています。
越前に左大臣道長卿からの文が届きました。
「越前のことは、越前で何とかせよと…」と為時公が絶句します。
まひろさんは「左大臣さまとしたことが、随分と頼りないものでございますね」と率直な意見をいいます。
為時は「その様な事を申すな」と諭しました。
その時、役人たちに追われながら周明さんがやって来ます。
周明は日本語で「話があって来た」と言います。為時公は役人たちに周明さんを放すように命じました。
周明さんは、「通事を殺したのは朱さまではない。自分といた日本人の男が証人だ」と為時公に訴えました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>父と道長の会話を横で聞いていたわけではないけれど、父がこうも悩むということは道長の密命がある。
>そんな重要な密命なら、もっと細かく具体的に指示してよ! と、イライラしているのでしょう。

渤海滅亡後の朝廷が認める宋との商いに関して、道長卿曰く「彼らに開かれた港は(筑前の)博多津に於いてのみ」です。
長徳元年(995年)9月に、若狭に宋人70名が来着し、新たな商いを求めて来たため、越前の松原客館に留め置いていましたが、道長卿は宋人70名を尖兵とした侵攻の可能性も考えており『度重なる異国の海賊行為を踏まえ、官人や戦人である可能性を鑑み、越前の松原客館に留め置いた商いを望む宋人70余名に博多以外では交易には応じないことを言い含め、彼らを穏便に帰国させる』事を為時公に命じています。
実際は鸚鵡などの愛玩動物や食料としての羊、織物、調度品、高価な香料の材料などもあり、まだ流れ着いた商人かどうか分かりかね、越前国府の役人も賄賂など私服を肥やす者がいる状態です。
そのうえ宋人に付いていた通詞が殺害され商人の長・朱仁聡さんに容疑がかかりました。
道長卿宛に書状を送りお伺いを立てますが、彼の処遇は国を跨ぐ大事であり、朝廷での陣定でも決まりません。
しかし、朝廷では出家した中宮定子さまの懐妊という問題が起こり、越前での事は保留になってしまったのでした。
都の朝廷と越前の様な地方の現場との意見のすり合わせや現状把握がうまくいかないための為時公親子の苦難かと思います。

・MVP:周明?

>『麒麟がくる』の望月東庵と駒はかなり高度な技術を持つ医者という設定でした。
>「実在しない、たかが医者のくせに、なぜあんなに重要人物のそばをうろついているのか?」という意見もありましたが、むしろ医者だからこそできた役割です。
『麒麟がくる』の望月東庵先生とお駒ちゃんについての辛辣な意見として挙げると。
『活躍と影響が大きすぎる(回を重ねるごとに歴史上の重要な人物と会ったり、物語への影響が大きくなっていった)』『出番が多すぎる』など医療者としての役割よりも架空人物としての出演割合のバランスが不満の原因と思われます。
『オリキャラのエピソードを入れるぐらいなら、本筋を充実させてほしい』という事なのかもしれません。
東庵先生については、最近の研究で明智光秀公に医学の心得があったという事や当代随一の名医・曲直瀬道三先生の影響もあったのかなと思います。(正親町帝の診察に御所に上る逸話など)

足利義昭公が織田信長公から理不尽な要求を突きつけられた事を駒に吐露する場面では『町医者の助手が将軍と蛍観賞するなんてあり得なさすぎて興ざめする』との意見がありました。
『コロナ禍によりスタジオ内では少人数での撮影がどうしても増えてしまい、語り部的な役割の駒や東庵のシーンが目立ってしまった』という現場の意見もあります。

>しかし、そんな周明がどうして殺人事件の捜査ができたのか、そこも気になってきます。
>これも医師であるということが関係していると思えなくもありません。
(中略)
>周明も三国の屍を見て、何か異変に気づき、さらに証人を見つけ出したのかもしれません。
周民さんは「通事を殺したのは朱さまではない。自分といた日本人の男が証人だ」と為時公に訴えただけでまだ詳細は分かりません。
周民さんは医師見習いですが、彼が医療に携わる官人であるのは宋国内であって三国さんの事件は日本の越前で起きた事です。
周民さんが医師である事と共に国籍やルーツだけの言及だけでなく『彼がなぜ日本語を話し理解できているのか』という件には思い至らないのでしょうか。

>『鎌倉殿の13人』は、『ゲーム・オブ・スローンズ』を意識して作られたドラマです。
三谷さんは執筆にあたり、『日本史を知らない海外の人が見ても楽しめる「神代の時代」のドラマを書くことを目標とし、歴史書『吾妻鏡』をベースに、特に『ゲーム・オブ・スローンズ』を手本とした。また、物語の全体像は『ゴッドファーザー』、部分的に『アラビアのロレンス』『仁義なき戦い』などの影響を受けた。』とあります。
『特に『ゲーム・オブ・スローンズ』を手本とした。』とはありますが、『意識して作られたドラマです』と都合よく切り取って断言するのは如何かと思います。

>数年前、大河に関わってきた方が「東アジア唯一の本格的な歴史ドラマ」と自画自賛する姿を見て、危うさを感じました。
>隣国の時代劇がどれだけの速さで伸びているか――その現実を踏まえねばむしろ危ういと私は思っていたのです。
『「東アジア唯一の本格的な歴史ドラマ」と自画自賛する大河に関わってきた方』とはどこにいるどの様な方なのでしょうか。
記事なり意見なりを具体的に提示して下さい。
『マックの女子高生構文』が多すぎます。

・あまりに無責任な平安京?

>この無知ゆえに外国人を過剰に恐れる害悪は、現在も進行しております。
>ともかく連日、中国への警戒心をあおるような報道がでています。
>本当にそうなのかと思い、自分で調べてみると大仰なデマであることが少なくありません。
>そんな間違った情報で誰かを攻撃するとなれば、それこそ国際問題になりかねないでしょう。>平安京の道長は、根は優しいけれども、現実の把握が甘く、無責任な人だと思えます。
何見氏の見解は宋人が商人か否か、平安時代中期当時の日本を取り巻く世界情勢(ユーラシア大陸中心)や国内情勢を史料から読む事よりも現代の情勢や兵法に無理やり当てはめている様に思います。
お気持ちで『中国への警戒心をあおるなんて酷い!』『大仰なデマ!』『間違った情報で誰かを攻撃するとなれば、それこそ国際問題』と他人を攻撃する理由にしているだけで本当に当時の貴族の日記や史料を読んで、簡単な世界史知識をまなんでいるのでしょうか。

・「歴史総合」に配慮ある大河ドラマを?

>2022年に設置された高等学校科目として「歴史総合」があります。
>扱う時代は近現代であるものの、日本史と世界史を組み合わせてみていく視点は、遡って取り入れることもできます。
「歴史総合」を叩き棒に嫌いな作品を罵るくらいなら高校レベルの歴史や地理をきちんと頭に入れては如何でしょうか。
漢籍に限らず出典された古典、摂関政治や受領国司と地方の実態や平安時代の貿易事情などの基礎知識は中高生向けのものも出てきますが。

>2015年以降の近代史大河は、最新鋭研究が都合よく持ち出されるアリバイ的な使われ方をするようになっています。
>『セクシー田中さん』の報告書報道を見ていて大河のこともふと思い出しました。
大河ドラマで最新研究の史料や発掘結果を採用する事と脚本家が原作者の了承を得ず原作者が命を断つ事件になった『セクシー田中さん』事件とどんな関連性があるでしょうか。
『私の嫌いな作品に私の知らない最新研究を使うのは歴史に対する冒涜!』とでも言いたいのでしょうか。
『私はこの作品が嫌いなので近づきません』で済む事なのに、穢れと言いながら蒸し返して攻撃しているのはなぜでしょうか。

>2015年『花燃ゆ』は脚本家が何度も交代しています。
『花燃ゆ』の脚本担当は最初から大島先生と宮村先生の複数人脚本制で、途中参入で金子先生が入り、小松先生が脚本を引き継いでいるのですが。
複数人脚本制の何がいけないのでしょうか。
『スタッフやキャストは適正な扱いを受けていたのでしょうか。検証の必要があるのかもしれません。』
得意の陰謀論でしょうか。

『花燃ゆ』Wikipedia

・君子豹変す?

>周明が日本語を話し出した瞬間、「豹変」という言葉を思い出しました。
>今は悪い意味で使われることが多いものの、本来の『詩経』ではこうなります。
『君子は豹変す』の出典は『詩経』ではなく、『易経・革卦』からの出典です。

君子豹変、小人革面

君子は豹変す、小人は面(めん)を革(あらた)む

意訳:
(豹の毛が抜け替わってまだらの模様が鮮やかになることから)
君子(人格者)は過ちを速やかに改め、鮮やかに名誉を一新する

易経・革卦

>昨年は「清洲城が紫禁城のようだ」という困惑が広がりました。
>私はあんな彩度の低い紫禁城はありえないと思いました。
>朱塗りの柱がないはずがありません。
>あの清洲城は地球上に存在しない、AIが描いたデタラメな絵のようでした。
室町時代、尾張国守護・斯波義重が、守護所であった下津城(稲沢市)の別郭として建てられたのが清須城の始まり。
織田信長公が入城し尾張を統一掌握したころの清須城の基本構造は、守護の館と同じで朱塗りの柱も天守もありません。
天守を備えたのは清須会議の後、城主となった信長公の次男・信雄公によって改修されてからです。

『どうする家康』より
中世守護館時代の清洲城

>人間の大半は、平均値に近づくことで己は正しいのだと思おうとします。
>この平均値が変動する変わり目にぶつかると、人間は混乱し、怒りと苦痛を感じます。
>八つ当たりをする人もいます。

>そんなことを言っている時間があれば、認識を改めればよいではないですか。
表現の自由どころか子供を背負うためのおんぶ紐に対して『おんぶ紐を強調する見せ方が一種のフェチシズムを感じさせる』と怒りと苦痛を感じている様な人を常に性的な視点でしか見られない人間に『認識を改めればよいではないですか』と言われる筋合いはありません。

大河コラムについて思ふ事~
『どうする家康』総論~

>『虎に翼』のヒロインはとても気が強い。 
>「こういう女性の権利をきっぱり主張する主人公が、ずっと見たいと思っていた!」
>そんな意見が毎朝SNSやニュースに流れてきます。 
『虎に翼』の話がしたいなら別記事を立てるか自分のnoteでやって下さい。
大河ドラマレビューでわざわざ長々と朝ドラの話をするのは蛇足です。

>今年になってからのNHKの動きを見ると、去年の時点でNHKも問題を把握できていたと思えます。
>それではなぜ、放置したのか?

>検証は必要でしょう。
>受信料をおさめる身としては、そう主張したい。
>諸葛亮は信賞必罰を示すために馬謖を斬らせました。
>NHKにもそんな果断が必要ではありませんか?
個人ではSTARTO社から独立して、嵐5人での会社を設立した松本さんにしつこく粘着してゴシップをばら撒く事に何の意味がありますか。
根拠のない噂などを徒にばら撒くのは誹謗中傷でしかありません。
事務所から独立して新しく事業を起こす人に対してなぜ理不尽な理由を付けて侮辱してNHKに斬り捨てさせなければいけないのですか。


※何かを見た氏は貼っておりませんでしたが、今年もNHKにお礼のメールサイトのリンクを貼っておきます。ファンの皆様で応援の言葉や温かい感想を送ってみてはいかがでしょうか?


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