大河コラムについて思ふ事~『光る君へ』第15回~
4月中旬になりました。桜前線も徐々に北に移り、新年度に慣れ始めた頃でしょうか。
環境や気候の変化など、皆様健康には充分お気を付けください。
さて、光る君へ第15回。
今週も『武将ジャパン』大河ドラマコラムについて書かせていただきます。
太字が何かを見たさんの言質です。
御手隙の方に読んでいただければと思います。それでは。
・初めに
>公金を私費流用して藤原定子のサロンを盛り上げる藤原道隆。
永祚2年(990年)、前摂政・関白であった藤原兼家卿が逝去し、嫡男・道隆卿が摂政になりました。
道隆卿は、自らの政治的立場を強固なものとするため、一条帝に入内していた娘・定子さまを『中宮』に立后させようと画策しました。
太皇太后、皇太后、皇后の三后はすべて埋まっており、『中宮』が皇后と並び立つ事は前例の無い事でした。
しかし道隆卿は弟・道長卿他、公卿たちの反発をも押し切り、定子さまを中宮に立后させます。
『小右記』 正暦元年(990年) 十月五日条には『五日、丁未。内に参る。今日、立后の事有り。(内裏に参った。今日、(藤原定子さまの)立后の儀(りっこうのぎ)が行われた。)』とあります。
道隆卿は嫡男・伊周卿の他、懇意の者ばかりを出世させます。
また、道隆卿の北の方・貴子さまは『定子サロン』の充実を図るため、中宮に相応しい装束や調度品を要望しました。
道隆卿は公費を流用し、定子さまの取り巻きに贅沢をさせようとします。
身内贔屓人事の横行により、貴族たちの不満は高まる一方でした。
>叔父の道長を小馬鹿にしようとして返り討ちに遭う藤原伊周。
父・道隆卿の引き立てにより伊周卿は異例のスピード出世となりました。
正暦3年(992年)には伊周卿は19歳の若さで権大納言に任ぜられ叔父の道長卿と並ぶ事となります。
さて、作中では道長卿と伊周卿の『弓争い(競べ弓)』の場面が描かれました。
道隆卿が「今日は伊周の弓比べがある」と道長卿を誘います。
伊周卿は「叔父上もやりませぬか」と道長卿を煽ります。
弓比べの場では伊周卿が矢を次から次へと命中させ、若い貴族が「伊周殿の一人勝ち」とおべっかを使っています。
道長卿を引き止め、「願い事を言うてから矢を射るのはどうでしょう?」と提案します。
伊周卿が「我が家より帝が出る」と願を掛け矢を放つと矢が外れ、道長卿が「我が家より帝が出る」と矢を放つと矢は的に的中します。
動揺しつつ伊周卿が「我、関白となる」と願を掛け矢を放つとまたも矢は外れてしまいます。
道長卿が「我、関白と・・・」と願を掛け弓を構えたところ道隆卿が「やめよ!」と止めに入りました。
弓比べの時は中関白家が権勢を誇り、道長卿よりも伊周卿のほうが官位が高い状態でした。
道隆卿の地位は伊周卿に受け継がれていくと思われていました。
なので、容赦なく願掛けをした矢を当てる道長卿に場はすっかり気まずい雰囲気になったのでした。
>摂政となった藤原道隆は、公卿の反発をものともせず、娘の藤原定子を中宮に立てました。
>さらには一条天皇の母である藤原詮子を、職御曹司(しきみぞうし)へと出します。
『職御曹司』は『しきみぞうし』ではなく、『しきのみぞうし』です。
永祚2年(990年)道隆卿が摂政になり、公卿たちの反発をも押し切り、定子さまを中宮に立后させます。
一条帝と定子さまは扁つぎをして遊んでいます。
お二人が作られた漢字は『政』でした。
そして帝の母で皇太后・詮子さまは、内裏の外である(しきのみぞうし)へと遠ざけられてしまいます。
『職御曹司』とは中宮職の曹司で、中務省に属し皇后・皇太后・太皇太后に関する事務所のある場所(出典 精選版 日本国語大辞典)です。
「皇太后は内裏で苦労なさっていた」と労を労う道隆卿に詮子さまは「心にもない事を」と冷たく言います。
こうして中関白家の栄華が始まりました。
『小右記』正暦元年(990年) 十月二十五日条には『皇太后宮・藤原詮子さまは、戌二剋(午後7時~午後9時ごろ)、職御曹司(しきのみぞうし)に遷御された。檳榔毛(びろうげ)の御車に乗られた。』とあります。
・道兼の堕落?
>公任が「頭中将」と呼ばれたとき『あさきゆめみし』とのギャップが話題となりましたが、町田啓太さんはぴったりなイメージだと思えます。
『公任が「頭中将」と呼ばれたとき『あさきゆめみし』とのギャップが話題となりました』とありますが、具体的にどの様な話題なのか提示して下さい。
公任卿が蔵人頭の装束、禁色の青(麹塵)の袍を着ているのは15回が初めてです。
『あさきゆめみし』とのギャップで戸惑われていたのは藤原実資卿ではないでしょうか。
>藤原道兼が家にやってきて居座っているとか。>三日前に腹を空かせて現れ、何か食わせて欲しいと言ってきたとのこと。
道兼卿が公任卿の邸宅に来たのは3日前ではなく、5日前です。
執務中の道長卿の許に頭中将となった藤原公任卿が訪ねて来ました。
公任卿が「実は道兼殿が我が家に居座ってしまわれ…」と打ち明けます。
道長卿の兄・道兼卿が公任卿の屋敷に、5日前から居座っているとの事でした。
「腹が減っておる、何か食いたい」と道兼卿は言い、「お前、俺に尽くすと言ったよな?」とまで言うため、夕食と酒を出したところ出て行こうとしないと公任卿は迷惑そうにしています。
>繁子が道兼の屋敷から出て行ったように思えましたが、道兼が追い出されていたのでしょうか。>だとすれば婿取り婚の恐ろしさを痛感させられます。
藤原道兼卿の元妻・繁子さまは兼家卿の妹なので、道兼卿とは叔母甥の関係の婚姻関係でした。
『拾芥抄』には『町尻院、二条北、町東、関白道兼家』とあり、二条大路の北に屋敷を構え町尻殿(二条殿)とも呼ばれました。
また道兼卿は、大納言だった正暦元年(990年)に粟田山に別荘を造営して『粟田殿』と呼ばれ、『栄花物語』にも記されています。
東三条殿には兼家卿の跡を継いだ道隆卿と家族が住み、繁子さまは兼家卿の妹です。どこに婿入りをするのでしょうか。(因みに繁子さまは嫡妻ではありません。)町尻の邸宅か粟田山の別邸で宴を開いていて、繁子さまと娘の尊子さまが出ていき再婚相手である平惟仲卿の許に行ったのでしょう。
>そこで道長が道兼を引き取りに向かいます。
>もうここから先は、兼家の堕落を満喫する時間です。
>なんせ冠も烏帽子もない露頂(剥き出しの頭頂部)――
>パンツを脱いだような状態ともされますが、性的に恥ずかしいニュアンスというより、卑しいという意味合いもあるのでしょう。
>この道兼が実に面白い。
>服装がだらけきっているのです。
『堕落を満喫する』『(服装がだらけきっているのが)実に面白い。』
人が悩み心が荒んで一人ではどうする事もできない姿を見て満喫する、面白いは些か悪趣味ではないでしょうか。
公任卿の屋敷で道長卿は昼間から寝っ転がり酒を飲んでいる道兼卿の姿を目にします。
その姿は烏帽子が脱げ、髻が露わになった荒んだ姿でした。(烏帽子を脱ぐ事は下着を脱ぐ事と同じなのであられもない姿ですね。)
「帰らぬ」と言う道兼卿。
「この家の者が困っている」と道長卿が帰宅を促しますが、道兼卿は「公任め裏切ったな」と言うだけです。
道長卿に「兄上のこのような姿は見たくない」と言われ、道兼卿は「お前も腹の中では笑っておろう」と言い返します。
「笑う気にもなれない」と道長卿が答えると、道兼卿は「俺は父上に騙されてずっと己を殺して生きて来た。そして父にも妻にも子にも捨てられた。これ以上どうしろと説教するな」と反論します。
「兄上はもう父上の操り人形ではございませぬ。己の意志で好きになさっていい」と道長が言います。
すると道兼卿は「摂政の首は如何ほどか。摂政の首が取れたら魂だってくれてやる」と言います。さらに「俺はとっくの昔に死んでいる。死んだ俺が摂政を殺したとて誰も責められぬ。首が取れたら未練なく死ねる。浄土に行けずともこの世とおさらばできる」と言い出しました。
そんな兄に道長卿は、「この世で幸せになっていただきたい」と言います。
「心にも無い事を…」と道兼卿。
道長卿は道兼卿に「まだこれからではありませぬか。兄上は変われます。変わって生き抜いてください。この道長がお支えします。」と頭を下げました。
「自分に生きる場所なぞあるとも思えぬ」となおも言う道兼卿を「しっかりなさいませ」と諫め、道長卿は「父上はもうおられないのですから」と励まします。
道兼卿はその言葉に涙を流し、声を上げて泣きました。
『大鏡』によると、道兼卿は『自分は父に「功があったのだから、当然に関白を継ぐべきだ」と望んでいたのに道隆が後継に選ばれた』と甚だ憎み、兼家卿の喪中であるにも拘らず客を集めては遊興に耽ったそうです。
また、作中の「摂政の首は如何ほどか。摂政の首が取れたら魂だってくれてやる」については、『古事談』における藤原氏に仕える武士・源頼信公が仕えていた道兼卿のために道隆を殺めようと兄の源頼光公に持ちかけ諌められた逸話の仮託かもしれません。
>当時の衣装を分解した状態で見られるというのは貴重な機会でもあります。
>構造を知っていると映像にも反映できて、「光る君絵」を描く方たちも助かるはず。
嫌いな作品では視聴者によるファンアートやSNSでの盛り上がりを敵視し、『一部のファンが投稿を執拗に繰り返し、ときには複数のアカウントを使い、偏った“民意”が形成されることがあり、それが制作サイドに伝播することを危惧していました。』とさも視聴者が盛り上がる事を気に入らない悪い事のように吹聴していましたが。
何見氏にわざわざ言われなくとも絵師さんたちは書きたいもの、素敵な作品を描くと思います。
それに道長卿が迎えに来た時道兼卿が羽織っていた着物は直衣ではなく、襟の形状から見て女性の袿か単だと思います。
・悲しみの中に喜びが、喜びの中に悲しみがある?
>摂政・道隆、道兼は内大臣に就き、道隆の息子である伊周は道長と並ぶ権大納言、公任は参議となりました。
書き方の問題でしょうけども。『摂政・道隆、道兼は内大臣に就き』では道兼卿が自身の力だけで内大臣になった様に見えます。
それと道隆卿は摂政であり関白にも就任しています。
2年が経ち正暦4年(993年)。
道隆卿に役職を譲られる形で道兼卿は内大臣に昇進しました。
伊周卿は道長卿と並び権大納言、道綱卿と公任卿は参議となっていました。
公卿が居並ぶ中、源俊賢卿が一条帝のお出ましを告げました。
除目が行われましたが多くが不満を残すものでした。
道長卿は藤原実資卿に呼び止められました。
実資卿は「摂政殿と昵懇の者が66人も位を上げられたがどう思われる?」と尋ねます。
「驚きました」と答える道長卿。
実資卿は「摂政殿の身内贔屓は今に始まった事ではないがのう。これで明らかに公卿らの心は摂政殿を離れる。えらいことだ。内裏の中が乱れれば世も乱れる」と言います。
そして、「心配じゃ、心配じゃ、心配じゃ、心配じゃ…」と繰り返して去って行きました。
『小右記』 正暦四年(993年) 正月六日条にはこの様に記述されています。
>「心配じゃ、心配じゃ、心配じゃ、心配じゃ……」
>四回も繰り返しているのは「天譴論」(てんけんろん)を踏まえてもいるのでしょう。
>中国由来の思想で、為政者が堕落すると、それを罰するために天意が禍を起こすという考え方です。
もともと天譴論は儒教に基づく思想であり、災害を、『王道に背いた為政者に対する天の警告』とみなす思想でした。
実資卿は、「これで明らかに公卿らの心は摂政殿を離れる。えらいことだ。内裏の中が乱れれば世も乱れる」と言っていますので、道隆卿の独裁政治により、摂政の意を汲んだ者で殿上人が占められ、公卿同士の健全な意見のやり取りや諫言もままならなくなり公卿たちが離反し、世の中に政が行き届かず乱れてしまうと言い、暗に身内である道長卿にも『摂政殿をお諌めしてくれ』と言っているのではないでしょうか。
何見氏が『天譴論』関係で、渋沢さん関係のリンクを貼っていますので。
関東大震災直後、天譴論を喧伝したのが実業家の渋沢栄一氏やキリスト教関係者の内村鑑三氏などでした。
ここでは『腐敗堕落した人間社会一般に対する天の戒め』と言う意味で用いられています。
何見氏は本当は渋沢氏の『天譴論』解釈に関して叩きたいのでしょう。
ここでは割愛されましたが。
>藤原為時邸では、官職をいただけないのも慣れたと為時が笑い飛ばしています。
その頃藤原為時公の邸宅では。
為時公はまたも除目に掛からず、「除目で官職がいただけないのも慣れてしまったのう」と笑いが漏れています。
いとさんは、惟規さまの大学寮の試験を気にしています。
「受かれば知らせに参ろう」と為時公は言いつつも、「狭き門故此度も無理やも知れぬ」と独り言ちています。
そこへ惟規さまが試験合格を知らせるため帰宅します。
「擬文章生になれば、文章生まであと一歩じゃ」と為時公が言います。
惟規さまは「姉上が男だったら、とうに文章生となって官職を得ていただろうけど」と言います。
いとさんは「いえいえ流石若様」と嬉しさでいっぱいです。
「涙が溢れて前が見えませぬ」と言い、この日のために隠しておいた酒を持ってこようとします。為時公は「酒などあったのか」と驚いています。
>酒というのは案外簡単に作れます。
>現代人がそう思えないのは酒造が法律で規制されているからでしょう。
奈良時代後半から平安時代にかけて、宮中での酒造が確立します。
何見氏が何を以て『酒は案外簡単に作れる』と言っているのか具体性がありませんが、宮中の酒造りは決められた部署で作る人も限られさらに民は酒造りも制限されているのですが。
延長5年(927年)に定められた『延喜式』には『造酒司(さけのつかさ)』の条文があり、酒の種類や仕込み配合等が詳しく記述されています。
造酒司は儀式や酒宴など朝廷貴族の為の酒を造る部署です。
『令義解』によれば、宮中の酒造りは造酒司で行われ、その長官である造酒正(さけのかみ)以下75名で、大和・河内の酒戸(さけべ)185戸の出身者に限られていました。
新米の納入が終わる旧暦10月(新暦10月下旬~12月上旬)から始まり、目的や季節に合わせて様々な酒が造られていた様です。
造酒司で作られた酒のうち『清酒』『浄酒』等は、上澄した酒又はもろみを布で濾過した酒で、主に宮中の公式宴会用や上級役人の給与酒として用いられ、下級官人や役夫へは『濁酒』『古酒』『粉酒』『白酒』等が支給されました。
庶民に対してはというと。
大化改新(645)の翌年、『魚酒禁令(ぎょしゅきんれい)』が初めて公布されその後も度々禁酒令が出されており、自由に酒を飲むことは許されていませんでした。
例外的に農耕儀礼(国見・歌垣による酒宴)・神への信仰(神饌の酒 直会)・狭域市場の開設(市の酒)・給酒(国府で造られ給付されたもの)などに限り酒を作り飲む事ができたそうです。
庶民は酒粕を湯で溶いた甘酒の様なものを飲んでいたとの事ですが、儀礼の酒も濁り酒の様です。
>どうして私は女というだけで、世に出られないのか――
>そんな女性文人の嘆きをこの作品ではしっかりと出してきています。
>この憂いは、決して過去のものではありません。
>なぜ、男ばかりが高等教育を受けられるの?
>今もまひろのように悩む人はいることでしょう。
「ようやくこの家にも光がさして来た」とまひろさんが言います。
「姉上にそう言われると気持ち悪い。あまり期待しないでくれ」と言いつつ惟規さまも嬉しそうでした。
まひろさんが「お祝いに琵琶を弾くわ」と琵琶を弾きます。
惟規さまは父・為時公の酌を受けつつ、「私の祝いなのに琵琶ってなんだか悲しいですね」と言います。
為時公は惟規さまに、「まひろの気持ちだから黙って聴け」と言います。
まひろさんは琵琶を演奏しつつ、「不出来だった弟がこの家の望みの綱となった。男であったらなんて考えても虚しいだけ」と心の内で思うのでした。
>しかし、現に他国の高等教育機関では男女比が五分五分に近づきつつある
>日本では未だに東大生は男ばかりで、構造的な問題があると見なされている
『日本では未だに東大生は男ばかりで、構造的な問題があると見なされている』という問題提起をするなら未だに東大生が男ばかりという具体的な資料を提示してもらわないと論評できないと思います。
こちらのサイトによると、もっとも女性比率が高いのは教育学部45%、文学部は28%、法学部は23%で、男性学生の方がはるかに多いのだそうです。
『「東大合格校」トップ5には男子校が4校、全合格者の25.4%を占めている』そうで、進学校に合格するには小学生の頃から塾などに通って準備をしなければならないため、教育環境が偏るのではないでしょうか。
東大合格校トップクラス高校が男子校では女性はどう足掻いても入学できません。
それほど言うならトップクラスの男子校に女性が入学できる様にでも何見氏が改革すればよいのでは。
女性も他の大学への就学など選択肢があるのに『東大在学=男性に勝つエリート女性』の構図にしがみつく必要性はあるでしょうか。
学校に魅力が無ければそれまででは。
>今もまひろのように嘆く人がいる――
>そう突きつけてくる今年の大河ドラマは、かなり画期的なことに挑んでいます。
話が少し脱線しますが、清少納言は『枕草子』23段でこの様に書いています。
ききょうさんの夫(橘則光卿)の様に『恥ずかしいから出仕を辞めてくれ』と言う殿方など、男性の前に素顔を晒す事は無くとも後宮は男子禁制ではなく訪問客との取り次ぎもあるため、宮仕えははしたないと考える向きも強かった時代です。
男性の様に大学寮に入り、勉学に励み試験に合格し官吏になるルートではありませんが、平安時代の貴族女性は、第一に『書』、第二に『箏(楽器)』第三に『和歌』が重視されました。
また『女文字』といわれる仮名文字が発達したのも平安時代でした。
帝や后に学問、特に漢籍の知識を買われ御進講という講義を務める事もありました。
和歌や漢籍の才を活かし紫式部や清少納言や藤原道隆卿の嫡妻・高階貴子さま(儀同三司母)の様に後宮で活躍したり寧子さま(右大将道綱母)の様に私小説や日記文学や物語を書いたり、赤染衛門の様に貴人の子女の教育係として働いた女性たちもいたのです。
まひろさんは、まだ惟規さまが元服する前、彼よりも漢籍の覚えが早く、為時公に『お前が男子だったら…』と嘆かれていました。
『紫式部日記』では『「口惜しう、男子にてもたらぬこそ幸なかりけれ」とぞ、つねになげかれはべりし(「お前が男子であったら良かったのに口惜しい事だ」と常に嘆かれていた)』とあります。
実際、漢籍や和歌に通じた学者だった為時公から見ても紫式部の才が秀でたものだったのではないでしょうか。
しかし彼女は女性であり、宮仕えをしても左衛門内侍の『日本紀の局』の様な中傷もあり、才を人前では出せなくなったのでしょう。
因みに平安時代の文学では、平安時代後期に成立した『とりかへばや物語』という内気で女性的な若君と、男性的で快活な姫君がそれぞれ女装・男装をして生きていく事で展開する物語があります。
近代の一時期批判的に扱われていました(明治時代など)が、近年ジェンダーの視点から再評価されたそうです。
『とりかへばや物語』は氷室冴子先生の小説『ざ・ちぇんじ!』で少女小説にアレンジされ山内直実先生によって漫画化されています。
・中宮のつとめは、心を惹きつけること?
>笛を吹く美男はアジア時代劇の華。
>長い指の塩野瑛久さんは、アジア時代劇日本代表枠に入れると思える麗しさがあります。
>日本の時代劇は、もっと笛を吹く場面を積極的に入れるべきでは?
『日本の時代劇は、もっと笛を吹く場面を積極的に入れるべき』とありますが、大河ドラマでは篠笛はもちろんの事、笙や尺八の前身ともいわれる一節切(ひとよぎり)など様々な場面で登場人物が笛を吹いているのですが、お得意の10年ルール縛りでは確認もできませんか。
さらに言うなら『光る君へ』では、円融帝が笙をお吹きになっていましたし、藤原道隆卿が龍笛を、藤原公任卿が篠笛を吹いていたのですが、お忘れでしょうか。
>その貴子は、美しい青磁の香炉を定子に渡しています。
満月の夜。
月の光の下で麗しく成長された一条帝が片膝立てで篠笛をお吹きになり、定子さまはそれに聴き入っています。
しかし内裏の女房達は「摂政さまののやり方はあくどいわよね、中宮さまも帝を手玉に取っていい気なものだ」と口々に噂し合っています。
さらに母・高階貴子さまについても「この親にしてこの子あり」と言い合います。
定子さまは貴子さまから唐物の青磁の香炉を献上されました。
定子さま「大事にする」と受け取ります。
9回13回でも書きましたが。
平安時代には北宋や高麗などの外国商人らの検問・接待・交易などの海外交易の施設として、筑紫、難波、平安京に鴻臚館(こうろかん)が置かれていました。
筑紫の鴻臚館跡は福岡城の敷地内に遺構が見つかっている唯一の鴻臚館です。
1997年の平和台球場閉鎖に伴い、1999年から始まった本格的な発掘調査によって木簡や瓦類が出土。他にも越州窯青磁・長沙窯磁器・荊窯白磁・新羅高麗産の陶器・イスラム圏の青釉陶器・ペルシアガラスが出土しています。
商船の到着が大宰府に通達されると大宰府から朝廷へ急使が向かいます。そして朝廷から唐物使(からものつかい)という役人が派遣され、経巻や仏像仏具、薬品や香料など宮中や貴族から依頼された商品を優先的に買い上げ、残った商品を地方豪族や有力寺社が購入しました。
定子さまに献上された唐物も北宋や高麗などの外国商人から中関白家が買い付けた品であると思われます。
『源氏物語第6帖「末摘花」』には父の常陸宮が亡くなり落ちぶれ食事は貧しいのに食器だけは「御台、秘色やうの唐土のもの」を使っていると書かれています。
『秘色(ひそく)』は、中国の越州窯で作られた青磁の高級品なのだそうです。
貴子さまは、「中宮の一番のお務めは皇子を産み奉る事ながら、帝しか目に入らぬ様になってはなりません。昼間は後宮の長(おさ)として、揺るぎ無くここに集うすべての者を引き付け、輝かなければなりません」と教えます。さらに貴子さまが「中宮さまが輝けば、摂政様の政も輝きますゆえ」と言います。
「父上の政が…。帝を大切にし、仲睦まじく過ごすだけではいけないのですか」と定子さまは驚き貴子さまに尋ねます。
貴子さまは「いけません」と答えました。
>家でまひろが漢籍を学んでいると、あの声がしました。
まひろさんの邸宅。
漢詩の勉強に勤しむまひろさんが漢籍の写しを行っています。
そこへ「まひろさま!」とききょうさんが訪ねて来ました。
二人で干し杏を齧りながら談笑します。
ききょうさんが「中宮・定子さまの女房になる事が決まったの」と言います。
ききょうさんは摂政・道隆卿の北の方・貴子さまに呼ばれ、「中宮・定子さまの話し相手になってほしい」と言われたのでした。
ききょうさん曰く、「定子さまは漢詩も和歌もできるのにその相手を務められる女房がいない」のだそうです。
まひろさんは「内裏で女房として働く事はききょうさまのお志でございましたものね」と喜んでいます。
ききょうさんは、「私にはもう夫も子供も親もいないのでこの喜びを伝える人がおらず、まひろさまの所に来てしまいましたのよ。」と会いに来た理由を話します。
「急にごめんなさい」と言うききょうさんに、「私のことを思い出してくださって嬉しいです」とまひろさんは答えます。
>ききょうは祖父・清原深養父(きよはら の ふかやぶ)も、父・清原元輔も、天才肌の歌人として有名です。
清原深養父公は清少納言の曽祖父です。(元輔公を深養父公の子とする系図もあり)
ききょうさんの実家・清原家が天才肌の歌人の家系なのならば、代表的な歌を紹介しても良いのではないでしょうか。
清少納言の曽祖父・清原深養父公は歌が『古今和歌集』『後撰和歌集』などに収録され、小倉百人一首36番の歌人でもあります。
清少納言の父・清原元輔公は、『後撰和歌集』を編纂した梨壺の五人のひとりとして村上帝の御代から名声高く、藤原公任卿の撰による『三十六人撰(いわゆる三十六歌仙)』に選ばれるなどの高名な歌人でした。
また、小倉百人一首42番の歌人でもあります。
清少納言は倉百人一首62番の歌人です。
『『枕草子』「五月の御精進のほど」』では「有名歌人(清原元輔公)の子であれば人より優れ、あの時にはこんな歌を詠んだ、さすがは誰それの子であると語られるようであれば甲斐もあるが、歌がうまいと思い込み、少しの良い点もない歌を我こそはと最初に詠み出すようなことがあれば亡き父の名誉にも障る」と詠歌御免を願い出て定子さまもそれを許したという話があります。
>『枕草子』には「友情なんてどうせいずれ終わるさ!」みたいなことも書いてありますが……
その『枕草子』の出典を具体的にお願いします。
あまりにも適当過ぎて探すのに骨が折れます。
>頭の回転が速すぎて、他の人がすっとろく思えるし、まひろと違ってそれが顔や態度に出るし。
>キツくて嫌な奴と思われて友情は成立しにくいのかもしれません。
清少納言は『枕草子』の中で『男女をば言はじ、女どちもちぎり深くて語らふ人の、末までなかよき人、かたし。(男と女の間柄は言うに及ばず、女どうしでも固い約束を交わして親しくする人で、最後まで仲の良い人はめったにない。)』とは言っていますが、『他の人がすっとろく思える』などと他人を見下してはいないと思います。
他人を見下しては顔や態度に出す様な事をしていれば男女関係なく友好関係は築けないと思います。
>まひろは白居易『琵琶行』を読んでいます。
まひろさんは漢籍を写しながら、『琵琶行』の一部に目を留めています。
『声を尋ねて暗に問う。弾く者は誰そと琵琶声停(や)みて…』
そして後ろの琵琶に目をや遣り、心の中で「私は一歩も前には進んでいない」と独り言ちるのでした。
漢籍が得意なのに解説は一切なしでしょうか。
まひろさんはただ漢籍を読むだけではなく書写しています。
『琵琶行』は長歌なので、下記引用はまひろさんが書いている部分から声を出して読んだ部分の抜粋です。
・そうだ、私は清少納言!?
>着飾ったききょうが、貴子の推挙を受けて、定子の前に向かいます。
ききょうさんはただ『着飾った』のではなく、女房装束を付けています。
女房装束とは朝廷における後宮奉仕の女官で部屋を与えられた女房と言われた高位の者が着用する、男性の装束でいうところの束帯にあたる正装です。
別名を裳唐衣姿といい、後に十二単と呼ばれるものです。
女房装束を着付けたききょうさんが、貴子さまの推挙を受け、定子さまの御前に上がります。
貴子さま、そして伊周卿や女房達が控える中、中宮・定子さまの拝謁を受けました。
平伏するききょうさんに貴子さまが「中宮さまです。面をお上げなさい」と促します。
面を上げたききょうさんは定子さまを目にし、感激のあまり放心し、心の内で「きれい…」と呟きました。
定子さまが「定子である」と名乗ります。
伊周卿に「お答えを」と促され、戸惑うききょうさんに定子さまは「清少納言…。今よりそなたを清少納言と呼ぼう」と声を掛けました。
貴子さまは「流石中宮様、ききょうの父の姓は清原で、夫は少納言でございますゆえ」と褒めます。
ききょうさんは「夫とは既に別れましてございます。それに…元夫は少納言でもございません」と打ち明けます。
しかし、ききょうさんは「清少納言。素敵な呼び名なのでそれでお願いします」と定子さまに申し出ました。
定子さまは少し驚いたようにききょうさんを見ましたが「ふふふ、愉快である」と笑います。
「清少納言、末長くよろしく頼む」と定子さまはききょうさんに言いました。
ききょうさんは「はっ」と驚いた表情を見せた後、「仰せ畏まりました」と頭を下げます。
そして、定子さまを見て「この上なき誉れ、一身にお仕え申します」と言いました。
主君から贈り名を頂き、父由来でも夫由来でもない『少納言』を冠した『清少納言』は、定子さまの許に出仕する事になりました。
清少納言の初出仕の年は、正暦四年(993年)だったと考えられています。
『枕草子』には初出仕の日の事を記した記述があります。
流石の清少納言も初宮仕えの時の緊張は相当なもので、他人と顔を合わせる事に慣れていない彼女は顔を人に見られることが恥ずかしく、毎日夜にしか参上できない有様だったそうです。
>実はこれが謎のひとつでして。
>清少納言の「清」は「清原」からとわかります。
>しかし「少納言」に該当する人物が彼女の周囲にはいないのです。
清少納言は女房名(宮仕えするときの呼び名・通称)で、『清』『少納言』という区切りになります。
『清』は父・清原元輔公の名字『清原氏』から、『少納言』は官職名に由来すると考えられています。
父や夫の名字や官職名から女房名は付けられるのが通例ですが、清少納言の身内には少納言だった人がおらず『少納言』の由来は不明です。
>平服するききょう改め清少納言のなんという清々しさ。
『平服』は正装よりも砕けた略礼装の事です。
・道長、兄の横暴に悩む?
>なんでも中宮定子サロンの費用を、公で賄うのだそうです。
>税金で豪華な私邸を建てるようなものですね。
定子さまの住まう登華殿は一条帝や若い公卿が出入りする華やかな場になりました。
道隆は摂政から関白となりました。
そして、帝を大人と認める事で皇子を儲ける様に言います。
執務中の道長卿は、ある文書を前にして思い悩んでいました。
道長卿は権大納言と中宮大夫(律令制において中務省に属して后妃に関わる事務などを扱う役所に於いて中宮に関わる職)を兼ねていました。
その文書には中宮権大夫である道綱卿の書状も添えられていたため道長卿が呼んだのです。
「おお、何用か」と言う道綱卿に道長卿は、「これをお認めになったのは何故か」と文書を見せました。
「関白の兄上が仰せになったから」と道綱卿が言います。
「中宮様のご在所にこのような莫大な費用をついやすは、如何なものか」と道長卿。
文書には、登華殿の費用の内訳が記されていた。「登華殿の設え替えについては聞き及んでいたが、その費用を公費から出すとはまったく聞いていない」と、道長卿が語気を強めます。
「俺もやり過ぎだと思った」と道綱卿も言います。
「ならばなぜ?」と道長卿に尋ねられ、道綱卿は「関白様に言ってよ」と答えます。
さらに「俺がやりたいわけじゃないし」と道綱卿が言うので、道長卿は「関白様にお伺いします」と席を外しました。
『なんでも中宮定子サロンの費用を、公で賄うのだそうです。』のではなく、『登華殿の設え替えをするため、その費用を公費から出す』という決済書類です。
要するに内裏内の中宮の局を関白権限で勝手に改装し公費を投入しようとしているから道長卿が問いただしたのです。
>道長もこれ以上話しても無駄だとわかったのでしょう。
道長卿は東三条殿へ向かいました。
「今日は参内なさらないのですか」と尋ねる道長卿。
直衣を着崩した道隆卿は「朝から体がだるくてのう」といいます。
その日は伊周卿の弓競べが行われる予定でした。「では手短に申し上げます」と道長卿は前置きし、「公費で中宮様から女房達までの綺羅びやかな装束や、調度をたびたび誂えるは如何なものでしょうか」と尋ねました。
「そんな事か」と道隆卿。
道長卿は「朝廷の財政は必ずしも豊かでなく、関白が正しい道を示さないと、誰もが公費を私用するようになります」と道隆卿を諫めます。
しかし「細かい事を申すな。お前は実資か。はははは」と道隆卿は取り合いません。
「私は中宮のお世話を万事取り仕切る中宮大夫です」と道長卿が言います。
「そういう事を申さぬと思うたから、お前を中宮大夫にしたのだ。分かっておらぬのう」と道隆卿は言いました。
そして道隆卿は「お前も弓競べを見て行け」と道長卿を誘います。
>体がだるいからと参内していない道隆。
>彼もそろそろ糖尿病にでも罹っているのでしょう。
>なんせ当時の貴族は極めて不健康な生活であり、藤原実資のような極度の健康マニアでもなければ、なかなか長生きはできません。
藤原実資卿の一族は『小野宮流』と呼ばれ、邸宅であった『小野宮第』をはじめとする莫大な財産を伝領し、大変な資産家でした。
有職故実に精通し『賢人右府』と称えられ、永承元年(1046)数え90歳という長寿を全うしました。
『藤原実資のような極度の健康マニア』とありますが。
実資卿は当時としては大変な長寿でしたが、『極度の健康マニア』とはどの様な資料にあるでしょうか。
出典をきちんと明記してください。
平安時代の酒はアルコール度数は高いものでもせいぜい5%程度だったそうですが、アルコール化出来なかった糖類がそのまま残るため、現代の酒から比べものにならないくらい甘い酒だったそうです。
道隆卿は、お気に入りの 『カラスがとまっている形にした徳利』 にお酒を入れて持ち歩き、何かというと直ぐにお酒を飲み出す程の無類の酒好きでした。
摂関家の定例行事・賀茂詣で酒を飲み上賀茂神社へ参拝の道中、仰向けになり牛車に揺られて眠ってしまい、神社に着いてもなかなか起きず同行していた道長卿に袴の裾を引っ張られてようやく起きる姿も描かれています。
『大鏡』では『この殿の御上戸は、よくおはしましける。(道隆卿の飲みっぷりは立派でいらっしゃいました。)」と評されています。
道隆卿は糖度の高い酒の飲み過ぎなどからきた飲水病(糖尿病)の悪化が命を縮めたともいわれています。
>「日記を書け」とやたらと煽られる藤原実資。>しかし、道長も、行成も、日記をつけています。
>では、あの描写は何なのか?
>というと、実資の日記はやたらと細かく、愚痴が多いのです。
>行成も彼の几帳面さと優しさが伝わってくる。では道長は?
>と、これが雑なのです。
>筆跡からして汚らしい。
>文字を書き損じた時の消し方が雑。
>雑なので透けていて、それゆえ解読することができる。
>後で書き足そうと思っていただろうに、結局そうしなかったと思われる箇所がある。
>文法が崩壊している。
>他に書くべきことがあったであろう日も、天気のことしか書いていないなどなど……
>ともかく雑です。
道長卿の『御堂関白記』は文体や筆跡には道長の性格のおおらかさが看てとれるのだそうです。
内容は簡潔。当て字、脱字、誤字、また重ねて字を書いていたり、塗抹(塗り潰し)、傍書、省略、転倒などが散見する特異な文体で、文の意味が不明だったり、文法的な誤りが多い事も特徴だそうです。
道長卿は一条、三条、後一条の3代の御代にわたって摂政・太政大臣を務め、『御堂関白記』ではその間の詳細を綴り、藤原実資卿の『小右記』藤原行成卿『権記』などと共に、当時の貴族社会を知る重要な史料となっています。
2011年5月、道長卿の『御堂関白記』が『ユネスコ記憶遺産』に推薦され、2013年6月18日に登録されました。
平安貴族の日記は日付だけでなく、季節の移ろいや日々の吉凶などの情報が載った『具注暦(所謂カレンダーや和暦ダイアリー)』に書き込まれる『歴日記』のスタイルでした。
暦は日付と曜日だけわかればよいというものではなく、例えばどの方角にどの神がいるかで様々な行いが制限され、暦に神のいる方角が書かれていました。
日々の事や思いだけでなく、子孫や後進が儀式などで失敗する事のない様、宮中儀式や作法、政務の記録を残す事を目的にしていました。
また、日記はその日その場で書くものではなく、次の日に書くものでした。
何見氏はこれだけ長々と各人物の日記について評していて、結局実資卿や行成卿を叩き棒にして道長卿の独特の筆致や記録が特徴であるゆえに貴重な史料として評価された『御堂関白記』を叩きたいのでしょうか。
事あるごとにドラマ作中の道長卿の文字フォントだけでなく実際の史料を揶揄していますが文字にコンプレックスでもあるのでしょうか。
『では、あの描写は何なのか?』がどこに掛かっているのか分かりません。
『あの描写』とは何を指しているのでしょうか。
>道隆としては、道長の雑な性格と身内であることを任命の力点としておいて、不正もスンナリ見逃すだろうとたかをくくっていたのでしょう。
『関白権限で勝手に登華殿の設替えを公費で改装しようとした』事に対し、諌めに来た道長卿に道隆卿が「お前は実資か」と言ったのはそれまでにも陣定などで何か話し合うごとに実資卿が意見をしたり諫言を挟んできたのを道隆卿が疎ましく思っていたからではないでしょうか。
道長卿は『登華殿の設替えについて』だけでなく『検非違使の民に対する扱いの改革』についても直言しており、自分に賛同してくれる身内として見ていたからこそ、実際は身内だから構わず意見を言う弟であったため道隆卿は実資卿の様に煩がったのだと思います。
作中では直言しなければいけなかった事だったので道長卿は道隆卿を訪ねたのであり、日記は関係ないと思います。
『御堂関白記』は政権を獲得した長徳元年(995年)から何回かの中断を経た後、寛弘元年(1004年)からは継続的に書き続けていた事が分かっています。
・弓競べに天意が降臨する?
>話題をそらしたかったのでしょう。
>しつこい道長に対し、道隆は弓競べを見ていけと告げます。
道隆卿は『登華殿の設替え』について直言に来た道長卿に「お前も弓競べを見て行け」と誘いました。
この弓競べの模様は『小右記』 正暦四年(993年) 三月十三日条にも記述があります。
女性達が見守る中、伊周卿は次々と的の中心に矢を当てて一人勝ち状態になっていました。
若い貴族が「伊周殿の一人勝ちでございますな」とおべっかを使います。
「皆も本気を出せ、遠慮することはない」と言う伊周卿。
そこへ道隆卿と道長卿が現れました。
伊周卿は道長卿に、「叔父上もやりませぬか」と誘いました。
「皆私に気を遣って、本気を出さないので面白くないのです」と伊周卿が言います。
「相手をせよ」と道隆卿は促しますが、道長卿はそのような気分ではありませんでした。
「怖気づかれずとも宜しいではないですか」と、道長卿を挑発する伊周卿。
「関白様と大事な話があって参ったのだ」と言う道長卿。
道隆卿は「話はもうよい」と言ったために道長卿は甥と弓競べをする事になってしまいました。
道長卿との弓競べでは、伊周卿は順調に的の中心に矢を当てる一方で道長は外し続けています。
伊周卿の勝ちとなり、道長卿は引き上げようとしました。
しかし「まだ矢は残っておりますぞ」と伊周卿が引き止めます。
そして伊周卿は「この先は願い事を言うてから矢を射るのはどうでしょう?」と提案し、道隆卿も同意します。
伊周卿が「我が家より帝が出る」と言い矢を射ましたが中心を外れます。
今度は道長が「我が家より帝が出る」と言い矢を射ると、的の中心を射抜きました。
願掛けで力が入り緊張した面持ちの伊周卿と不測の事態に慣れず明らかに動揺する道隆卿。
伊周卿は「我、関白となる」と言い矢を射ると的から大きく外れてしまいました。
道長卿は矢をつがえ「我関白と…」と言いかけましたが、道隆卿が「やめよ!」と中止を命じました。
道長卿は矢を戻し「先ほどの話は改めて」と道隆卿に告げ弓矢を渡して去りました。
>そしてセット、音楽、照明まで、「天意」を示すように作り込まれていると思いました。
どの様なセットや音楽や照明が『天意』を表しているのか分かりませんが。
打鞠の際にも客席として設えてありましたが、道隆卿が控えていたテントの様なものは、『幄舎(あくしゃ)』といいます。
神事や朝廷の儀式などの折に、参列の人を入れるため臨時に庭に設ける仮屋です。
『年中行事絵巻 鶏合の図』では鶏合の関係者や客のための幄舎が設えられています。
嫌いな作品ならば、セットについて『肝心の合戦映像がいつも同じ曇天で背景が白くなることには、どうしたことでしょうか。(関ヶ原合戦且つ朝方なのに)』『本物の馬がロケで駆け抜けない関ヶ原の戦いに意義はあるのでしょうか?大河ドラマで乗馬ができないなんて単なるサボり。(大規模ロケの実施がどんどん厳しくなり、制作費の兼ね合いで合戦シーン撮影も人は100人、馬は20頭が限界)』
照明について『今回もまたツルツルテカテカの兜に、ピカピカと天井の照明が反射していました。 今どきメルカリの出品者でも“映り込み”のケアをする人は多いのでは』
劇伴を『ピロピロBGM』『ニコライ・バーグマンのボックスフラワーオルゴールにとても似合いそうな曲調』『カフェ調のピアノを流して何がしたいのでしょう』『日本が舞台でスカンジナビア風味』
と執拗に叩くのではないかと思います。
>この弓競べは『大鏡』からの場面ですね。
>聖徳太子が主人公の漫画『日出処の天子』にも似たようなシーンがありました。
『大鏡』『日出処の天子』での具体的な出典を提示してください。
13回でも『道長の弓のシーンはありましたが、伊周がお稽古をする場面はなかった。今後、出てくるのかどうか?』と調べる素振りさえありませんでしたが。
13回でも書きましたが。
『大鏡』には道長卿と伊周卿の『競べ弓(弓争い)』の様子が描かれています。
因みに、山岸涼子先生の『日出処の天子』にも賭弓の儀に於いて厩戸皇子をよく思わない大王(崇峻天皇)の命で弓を射る事になった厩戸皇子が見事に的を射てみせる場面を彷彿とし、話題になっていた様です。
>そのため日本に限らず、多くの文化において神話には弓が登場します。
>つまり神との対話という意味も有する弓術は、武芸というより神事という意味合いが大きいものでした。
鎌倉の御家人は、神社に土地や田畑を寄進して収穫を祈ったり、戦で破壊された寺社をきちんと直すと願文出して修繕していたり、流鏑馬などを奉納して神事を大切にしていました。
上総広常公が上総国一宮・玉前神社に奉納していた甲冑一領から出てきた願文には、頼朝の大願成就と東国の平和を祈る目的で、神社や神事を大切にする旨が書かれています。
また『御成敗式目』では第1条に『可修理神社専祭祀事(神社を修理して祭りを大切にすること)』とあります。
いくらレビューで言い繕っても、御家人達の信仰を穢す様な事を歴史ライターが言うのは如何なものかと思います。
・道長の妻たち?
>スピリチュアルなところのある明子は弓競べの話に喜んでいます。
道長卿は明子さまの許に通っています。
弓競べの話を聞かされた明子さまは「本当に帝が出ることになるかも知れない」と喜びますが、道長卿は「8歳も年下の甥相手にバカなことをした」と後悔しました。
明子さまは懐妊しており、だいぶお腹が大きくなっており、「今(胎児が)蹴りました、男子(おのこ)のような気がします」と嬉しそうです。
道長卿は「どちらでもよい、大切にいたせ」と明子さまを労わります。
平安時代当時の宗教観や信仰を一緒くたに『スピリチュアル』と片付けず、父が失脚し皇太后・藤原詮子さまの庇護下で道長卿と婚姻した明子さまの置かれた立場、安和の変で失脚し失意のまま父を失いその仇である兼家卿への恨みから命懸けで行った呪詛、体を労り気持ちを慮ってくれた夫・道長卿への思慕や気持ちの移り変わりを今一度考察してはいかがでしょうか。
明子さまの表情は兼家卿を仇と狙う時は心から笑う事も無く、扇を手に入れて仮面の様な笑みを浮かべたのみでした。
しかし、2年が経ち懐妊し道長卿の活躍を心から喜んでいます。
>するとここへ、土御門から「左大臣が危篤だ」との知らせが届きました。
(中略)
>出世は十分だと言いたいのでしょう。
仲睦まじい道長卿と明子さまの許へ土御門殿から「土御門殿より火急の知らせ。左大臣様ご危篤と」との知らせが届きました。
明子さまに促され道長卿は土御門殿へ戻り、義父に面会します。
死の床にある雅信卿は「婿殿の出世もこれまでじゃな…不承知といい続ければ良かったな。不承知…」と道長卿に言います。
しかし「権大納言なら素晴らしい」と穆子さまが言い、倫子さまも父に「私は幸せでございます。ご心配なく」と伝えます。
そして左大臣を16年間務めた源雅信卿は、74歳でこの世を去りました。
藤原家の氏長者であった兼家卿と権力争いを繰り広げた宇多源氏の長・雅信卿はこれ以上の藤原氏の権力拡大を恐れ、婿の道長卿の急激な出世を望まなかったのかもしれません。
それでも根が優しく家族思いの雅信卿は言えなかったのでしょう。
・石山寺参詣?
>藤原惟規が文章生になり、官職を得たら婿入りして欲しいと言いたいものの、あの父と母では無理だろうとぼやいている
まひろさんの家をさわさんが訪れています。
さわさんは「惟規さまはいないのか」と訊きますが、「擬文章生(ぎもんじょうしょう)になったら忙しいみたい」とまひろさんが答えます。
「官職を得られれば、どこかの姫に婿入りされてしまうんですね」とさわさんは寂しげです。
「式部省試(しきぶのしょうし)に受かればね」とまひろさんが答えます。
『式部省試』とは律令制下で式部省が大学・国学から推挙された者に対して行った官吏任用試験の事です。(出典 小学館デジタル大辞泉)
さわさんは「うちに婿入りしてくれと言える様な家ならいいけど、あの両親では…」と言います。
さわさん曰く「最近家にいるのが嫌な病になりましたの。父と今の母の子供たちが成長して、父までもが、私をますます邪魔者扱いするようになって来たのです。」との事。
そしてさわさんは「気晴らしに旅に出よう」とまひろさんを近江の石山寺詣でに誘います。
「私をあの家からさらってくれる殿御に会えますように。祈願に参りますの」と言うさわさん。
「そういうお寺なのか」と尋ねられ、「そうらしい」とさわさんは答えます。
さわさんは為時公が愛した高倉の女・なつめさんの娘でさわさんは父の屋敷で他の妻(嫡妻?)やその子らと暮らしていて今の生活の打破を殿方との出会いに賭け祈願しようと思ったのでしょう。
平安時代、石山詣が貴族や女房の間で盛んとなりました。
清少納言の『枕草子』二百八段には『寺は壺坂。笠置。法輪。霊山は、釈迦仏の御すみかなるがあはれなるなり。石山。粉河。志賀』とあり、藤原道綱母の『蜻蛉日記』では天禄元年(970年)7月の記事に登場し、『いと暑きほどなりとも、げにさ言ひてのみやは、と思ひ立てて、石山に十日ばかりと思ひ立つ』とあります。
まひろさんは為時公に「さわさんと石山寺にお参りに行ってもよいでしょうか?」と石山詣への許可を取ります。
「いいではないか、気晴らしになるなら。何を驚く。そのくらいのかかりならなんとかなろう」と為時公も快諾しました。
壺装束姿のまひろさんとさわさんは、それぞれの従者を供に旅に出ました。
旅にでたまひろさんとさわさんは壷装束に虫の垂れ衣の付いた市女笠、そして寺社参詣の女性が、物忌みのしるしとして用いた赤い掛帯という旅姿です。
何見氏はこれまでに何度も壷装束と市女笠を被衣と間違えていましたが今回は言及しないのでしょうか。
>歴史をたどれば、こういう女性同士のシスターフッドも当然あったはずなのに、なかったことにされがちだと思います。
壺装束姿のまひろさんとさわさんは、それぞれの従者を供に旅に出ました。
途中2組の主従は川辺で休み、水を飲みます。
「私たち、このままずっと夫を持たなかったら一緒に暮らしません?年とっても助け合いながら」とさわさんが言います。
「まことにそれはよいかも」とまひろさんが答えます。
「石山寺では殿御とのご縁より、私たちの末永いご縁をお願いしましょう」と2人は笑い合います。
『歴史をたどれば、こういう女性同士のシスターフッドも当然あったはず』とは。
どんな事例があるのかどんな史料のどの様な記述なのか具体的に提示してください。
12回で書きましたが。
為時公の妾なつめさんの娘・さわさんにはモデルになった女性がいるそうです。
平安時代中期の武士・平維将公の娘で紫式部の親友といわれた方です。
平維将公は桓武平氏で、平将門公を討った平貞盛公の子息で、その血筋は伊豆の豪族・北条氏に連なるのだそうです。(自称であり、最近の研究では北条氏が桓武平氏の子孫とする説は疑問視されている)
歴史学者・角田文衞氏の説によれば、維将公の娘は紫式部の親友・『筑紫へ行く人のむすめ』であるそうです。
紫式部の父方の従姉妹(生母が為時公の姉妹)で、『紫式部集』によると二人は同時期に姉妹を亡くしており、紫式部は筑紫の君を「姉君」と呼び、筑紫の君は紫式部を「中の君」と呼んでいたのだそうです。
>背景にあるのは「女はドロドロしていなきゃ」という強い偏見ですね。
>『光る君へ』の関連記事にしても、やたらと「女同士でドロドロしている」と誘導するものが出てくる。
『『光る君へ』の関連記事にしても、やたらと「女同士でドロドロしている」と誘導するものが出てくる。』
こちらもどの様な内容の記事なのか具体的に記事を提示して論評してください。
何見氏がそういう『女同士でドロドロしている』という意見を主張したいために論調を誘導したいのではないでしょうか。
>今放映中の朝の連続テレビ小説『虎に翼』にしても、嫁と姑はドロドロ対立するものだと予測する記事はあります。
>こういう偏見に由来する記事が、ますます偏見を強める悪循環に陥っているんですね。
>女同士となれば「ドロドロー!」と年がら年中はしゃいでいて、虚しくならないのでしょうか。
『嫁と姑はドロドロ対立するものだと予測する記事』
『こういう偏見に由来する記事』
こちらも問題提起したいのならどの様な記事内容なのか提示してください。
該当記事も無く、『読者に検索しなさい・察しなさい』と丸投げしておいて『女同士となれば「ドロドロー!」と年がら年中はしゃいでいて、虚しくならないのでしょうか。』と存在しない『年がら年中はしゃいでいる人間』に勝手に憤るのではまともに論評できません。
>二人の旅は、女性同士で寺に参拝するもので、これも重要です。
>日常から離れて女同士で旅をする、こうした仏事はとても楽しいものであったとか。
>日本各地には女性のみのささやかな仏事が伝統として残っているものです。
>シスターフッドの跡は決して失われてはいません。
石山詣など所謂『物詣で』は日常のほとんどを屋敷内で顔を合わせず過ごす平安貴族の女性たちのめったにない泊りがけの長旅でした。
物詣の目的である寺社参拝の中でも観音菩薩を本尊とする寺は特に女性に人気だったといいます。
あくまで寺社参拝が大半の名目で、必ずしも女性二人の友情を深めるだけではないと思います。
様々な不安から、藁にも縋る思いで参籠に来た方もいたのではないでしょうか。
因みに、『蜻蛉日記』の作者・右大将道綱母は兼家卿が自分の家に渡って来なくなり、新しい女ができたのかという侍女たちの話に疑心暗鬼になり、『突然夜明けに一人で石山詣でに出発。気付いて、供が追い付いてきた。
逢坂の関を越えて打出浜から船に乗り、石山寺に着いたのは夕方だった』というあまりお勧めできない出発でした。
・藤原寧子は書くことで己の悲しみを救った?
>寺にたどり着くと、誦経をするまひろとさわ
まひろさんとさわさんは近江の国・大津の石山寺に到着しました。
『蜻蛉日記』を参考にすると、まひろさんとさわさんの旅路は。
まひろさんの邸宅(廬山寺)〜A逢坂の関〜B打出浜(舟に乗る)〜C石山寺
だいたい5時間くらいですね。
『石山詣は都の人々の間で流行っていた』と語りが入ります。
寺では夜通し誦経をするまひろさんとさわさんでしたが、さわさんは早くも飽きて来たようです。
すると、2人の私語を叱る尼削ぎの女性がいました。
それは藤原道綱卿の母・藤原寧子さまでした。
『誦経』とは声を出して経を唱えたり経文を暗記して唱える事です。
石山寺公式Xによると、『夜通しお経を唱えてお参りするので寝てしまう人がいたり、夢を見る人がいた』との事です。
『石山寺縁起絵巻』にも夜通しの参籠に疲れて居眠りしてしまい、すでに横になってしまっている人がいたり、居眠り中の男性の烏帽子が落ちているなどの様子が描かれています。
>まひろは、憧れの寧子と話すことになったのです。
その後寧子さまは、まひろさん・さわさんと話します。
まひろさんは「『蜻蛉日記』をお書きになった方でしたか」と感慨深げです。
さわさんに「道綱様のお母様よ」と教えました。そしてまひろさんは「幼い頃から蜻蛉日記を幾度も幾度もお読みして、その度に胸を高鳴らせておりました」と語り、「随分おませなお姫様だったのですね」と寧子さまが言います。
「でも幼い頃には分からなかった事が多かったです。兼家さまが何日かぶりに訪れたのに門をお開けにならず、『嘆きつつ一人寝る夜の明くる間は 如何に久しき者とかは知る』という切ない歌を贈られた意味なぞ分かりませんでした。今は痛いほど分かりますけど」と言うまひろさん。
さわさんは少し驚いた風で彼女の方を見ます。
に寧子さまは「心と体は裏腹でございますから」と答えます。
まひろさんは六条の廃院での道長卿との逢瀬で、『心の中では一番でも、いつかは北の方が』と言いかけ道長卿がそれを否定した事を思い出していました。
「殿との日々が私の一生の全てでございました」と寧子さまが言います。
寧子さまは「私は日記を書くことで己の悲しみを救いました。あの方との日々を日記に書き記し公にすることで妾の痛みを癒したのでございます」と話します。
そして、「不思議な事にあの方はあの日記が世に広がる事を望みました。あの方の歌を世に出してあげた。それは私のひそかな自負にございます。そこまでして差し上げても妾である事に代わりはないのだけれど」と言います。
寧子さまは2人に「貴方方はお独りなの?」と尋ねました。
「ハイ」と頷く二人に「命を燃やして人を思うことは素晴らしいことですけど、妾は辛うございますからできる事なら嫡妻になられませ。高望みせず嫡妻にしてくれる、心優しき殿御を選びなさいませ」と助言します。
>まひろが幼いころからあんなドロドロ日記を愛読していたのか。
>当時はまだそんなに選べる作品がありませんから、ともかく文字であれば読んでしまう少女だったのでしょう。
倫子さまの姫君サロンに出入りしていた時に『自邸に写本があります。』と自ら勧めていたので、好きに読める環境だったのではないでしょうか。
作中ではかつて姫君サロンでまひろさんが『蜻蛉日記』を、寂しい独寝の女の嘆きを綴ったものではなく『身分の低い私が身分の高い殿御に愛され煩悩の限り激しく生きた・・・という自慢話やも』と評していました。
『あんなドロドロ日記』はあくまで何見氏の感想であって『蜻蛉日記』自体の評価の様に言うのは如何かと思います。
>それにしても兼家は、なぜあの日記が広まることを喜んだのでしょう。
>こんな女にモテる俺ってすごい!といった自慢の類でしょうか。
>以下の記事にもありますが、あの日記に書かれた兼家はともかく最低なので、実に奇妙なことにも思えます。
>度量が広いのか、価値観の違いか……。
兼家卿は認知機能が落ちても『蜻蛉日記』の寧子さまの和歌を覚えており、「懐かしき日々であった」と穏やかに微笑んでいました。
寧子さまは「不思議な事にあの方はあの日記が世に広がる事を望みました。あの方の歌を世に出してあげた。それは私のひそかな自負にございます。そこまでして差し上げても妾である事に代わりはないのだけれど」と言っています。
妾の苦しみや兼家卿の女性遍歴に嫉妬心が掻き立てられた事は忘れられるものではないけど、それでも愛憎含めて二人には大切な日々だったのではないでしょうか。
兼家卿に愛された経験は寧子さまにとって特別のものであり、『書く事で己の悲しみ、痛みを癒やした』と言っていました。
寧子さまは『書く事』で己や誰かの心を癒やし救う事をまひろさんに伝えたのではないでしょうか。
何でもポリコレだ、不適切だと複雑な男女の営みまで忌避すると、女流文学作品すらも『男のモテ自慢!最低!』になってしまうのでしょうか。
>すると、寧子の子である藤原道綱がやってきました。
>寧子がこの二人にお世話になっていたと紹介され、まひろとさわが挨拶。
寧子さまは今までまひろさん・さわさんと話しているので『紹介され』はおかしいですね。
東屋へ道綱卿が現れました。
道綱卿が来るのが遅れたため、寧子は2人と話をしていたのでした。
2人は道綱卿に挨拶をします。
まひろさんは「日記に出てきた道綱さまにもお会いできるなんて来た甲斐がありました」と嬉しそうに話します。
その夜、寝ていたまひろさんは起き出して月を見ながら、「書くことで己の悲しみを救った…」という寧子の言葉を思い出していました。
>まひろが石山寺で月を見て執筆するとは考えにくい。
>もっと最新研究を反映させて執筆に向かわせると思われます。
>かといって、石山寺で月を眺めるまひろの姿は入れておきたい。
>そこで前倒しをして入れたと思えるのです。
寛弘元年(1004年)、中宮彰子さまの『新しい物語』の依頼を受けた紫式部が石山寺参籠中に本堂から松や建物ごしに琵琶湖に映る月を眺め『源氏物語』の構想を得て起筆したと石山寺には伝わっています。
『まひろが石山寺で月を見て執筆するとは考えにくい。もっと最新研究を反映させて執筆に向かわせると思われる』
その論拠となる最新研究とはどんな研究成果でしょうか。
具体的に提示してください。
・間違った相手へ忍んでくる道綱?
>石山寺では『源氏物語』の嫌なシチュエーションを彷彿とさせるシーンもありました。
まひろさんが月を眺め寧子さまの言葉を思い出している頃、2人の寝所を道綱卿が夜這に訪れました。
「寝てしまわれましたか?」と小声で訊く道綱卿。
すると寝ていたさわさんが寝言で「道綱さま」と口にし、道綱卿はさわさんを抱き寄せます。
さわさんは道綱卿を見ても動じる様子はありませんでした。
しかし、道綱卿はさわさんに気付き、「すまぬ。間違っておった。すまぬ!」と謝ります。
「まひろさまだと思われましたの?」とさわさんが尋ねますが、道綱卿は「俺には妻も妾もおる。ゆえにそなたを抱こうとしていたのは間違っておったと今気付いたのだ」と言います。
訝しがるさわさんに、道綱卿は「これ以上悲しむ女子を作れない」と言います。
しかし、道綱卿は「まひろ…あ…さと」としどろもどろ。
さわさんに「さわにございます」と指摘され、「許せ!」と謝ります。
名前を間違われたさわさんは、不満そうに「さわでございます!」と言います。
翌日も2人の旅は続きます。
道綱卿に夜這いを掛けられるも、何も無いどころか人違いで抱かれそうになったさわさんは「私には才気もなく殿御を引き付けるほどの魅力もなく家とて居場所がなく、もう死んでしまいたい!」といきなり走り出しました。
後を追うまひろさんは川辺まで彼女を追いかけましたが、その川には死体が浮かび、川辺にも多くの死体がありました。
「この頃より都近辺では疫病が流行り始めていた」と語りが入ります。
>これも深読みかつ、下劣といえばそうですが、旅先で思わぬアバンチュールは往々にしてあります。
さわさん、当初は『私をあの家から攫ってくれる殿御に会えますようにと祈願に参る』と言っていました。平安時代、男女の逢瀬は文のやり取りをしたり両親公認のケースばかりではなく、所謂『夜這い』といわれり場合もあり、こっそり女性の部屋に忍び込む事もありました。その場合、警護や両親に見つかりトラブルになる事もあったそうですが。道綱卿の場合、他所であっても警護の目を掻い潜り夜這いをしたが、まひろさんとさわさんを間違え事に及べないという状況でしょう。
>光源氏も流刑先で明石の君に出会っています。
源氏の君と明石の君の場合は明石の君の父・明石入道がご信託により、『源氏の君が須磨へ来たのは娘と結ばれる因縁があるのだ』と考えており、明石の君の両親は積極的に結び付けたいと考えていて、明石入道は文の代筆もやりました。
文のやり取りをしたあと、8月の十三夜、初めて明石の君を訪ね結ばれたので、『夜這い』ではなく懸想文のやり取りのあと明石入道の屋敷に通っています。
>光源氏は空蝉を契ろうとして忍び入り、途中で相手が別人の軒端荻と気づいたものの、「ま、いっか」と続行しました。
>それでも後朝(きぬぎぬ)の文は送らない。
>弄んだだけで終わったのです。
>道綱は、そうしないだけマシでしょうか。
>あるいは大河でそんなことはできないという配慮か。
空蝉は紀伊守の継室(人妻)であり、同じ邸内にいる軒端萩は紀伊守の妹姫でした。
つまり、軒端萩は空蝉と同じ位の歳の義理の娘。
源氏の君(17歳)は、紀伊守の邸での酒宴で空蝉に惹かれ、彼女の弟・小君を使い、文を届けますが空蝉は会う事を拒みます。
源氏の君は空蝉と軒端萩の眠る寝所に夜這いをかけますが、彼の香りに気付いた空蝉は単衣を一枚羽織っただけで床から逃げ出します。
源氏の君が空蝉だと思ったのは軒端萩でしたが、心ならずも契を結びます。
源氏の君は空蝉に心が残り、残された薄い衣を持って帰りました。
軒端萩は源氏から便り(後朝の文)がいつ来るかと待ちますが音沙汰なく。
軒端萩はその後蔵人少将と結婚します。
女性と一夜を共にした男性はなるべく早く後朝の文を送るのが誠意でしたが、それが無い場合は一夜限りの関係だったそうです。
『源氏物語』47帖 「総角」では大君に懸想し、夜這いした薫が彼女と妹・中君を間違え語り合い夜を明かす場面があります。
源氏の君の(不義の)子・薫からの求愛を、頑なに拒む大君。
使用人の老女・弁の手引きで、大君の寝室に忍び込んだ薫。
気配をいち早く察した大君が、妹・中君を残してどこかに逃げ隠れました。
薫と中君、二人は何事もなく語り合い夜を明かしました。
中君も美しい姫ですが、大君に『妹でもよかったのか』と思われたくなかったからです。
中君に手を出さないのは薫なりの大君への誠意なのかもしれませんね。
間違えても何もせず話をして終わるエピソードならば『光る君へ』作中の道綱卿はこちらかもしれません。
>野村麻純さんの愛くるしさもあって、道綱にあらためて呆れてしまいます。
>母の姿を見て、男の不実に苦しむ姿に胸を痛めていたというシーンがありましたが、あれはなんだったのか。
>日記では悲しんでいるのに。
妾である母・寧子さまが夫・兼家卿の女性遍歴に嫉妬し、悲しんでいたのを見ているからこそ道綱卿は『嫡妻にも妾にも気を遣っているが足りないし常に辛い』と言っていたし、「これ以上悲しむ女子を作れない」と人違いから行きずりでさわさんを抱く事ができなかったのではないですか。
・MVP:藤原寧子と高階貴子?
>本作における藤原寧子(藤原道綱母)は、もう愛に燃えた時代は終わっていました。
>何かといえば道綱、道綱、道綱……そればかりです。
>あの日記を記していた頃の憂いを帯びた姿はもうないのか。
>厚かましいおばちゃんになっちまったな!
>そう毒づかれそうで、実はそうではなかった。
嫡妻の子である道隆卿、道兼卿、道長卿と庶子の道綱卿を同列に扱うことはできず、兼家卿は「時姫を母とする三人と同じとは思わない様、法外な夢を抱かず控えめにしておれ、さすればよいこともあろう」と言っていましたが、寧子さまは「あれは道隆さまの次の子です。道綱をよろしく」と常に道兼卿に頼んでいました。
道綱卿は庶子ですが、嫡妻の子より厚遇されなかったものの、最終的に正二位大納言まで登ります。
これには庶子ながら摂関家が後ろ楯になり少しでもいい暮らしをしてほしいとの寧子さまの親心もあったのではないでしょうか。
寧子さまの『蜻蛉日記』では夫・兼家卿との結婚生活や正妻である時姫さまとの競争、夫に次々とできる妾のため嘆きつつ一人寝する夜の寂しさ、他の女性が子を産んだと聞き嫉妬する姿ばかりではなく、我が子・道綱卿の成長や兼家卿の旧妻の娘を養女にした話などが39歳の大晦日まで描かれています。
道綱卿は『蜻蛉日記』でも「大人し過ぎるおっとりとした性格である」とあり、弓の名手で宮中の弓試合で少年時代の道綱の活躍により旗色が悪かった右方を引き分けに持ち込んだという逸話が書かれています。
>私は『いだてん』を全く評価しません。
>それこそ金の流れが不透明な東京オリンピックを推進する一環として、受信料を用いてあのドラマを作ることは正しかったのかどうか?
>そういう構造問題を指摘したいのです。
>けれどもあのドラマについて投げかけると、返ってくるのは「視聴率は低かったし、世間では好かれていないけど、私は好き。最低だけど最高」といった感情論ばかり。
>好き嫌いの話は二の次であり、腐敗の構造をどう思うのか?と問い掛けたいのに、今回の道隆みたいにはぐらかしてばかりだ。
>そういう不誠実なことは物事の構造そのものを悪くします。
(中略)
>私利私欲に走り、好き勝手なことをしていれば、いずれ報いがある。
>権利の濫用は報いがある。
>そう信じたくなります。
何見氏が『いだてん』を評価しないのは別に構いませんが、『私が気に入らない作品が受信料で作られた事は悪であり、その作品を好きな人は感情的で不正に向き合わない。報いを受ける』と言っているようにも見えます。
余計な御世話です
『いだてん』はプロパガンダでもなんでもなくスポーツを通して市井の人々やアスリートを描いただけでなく、戦争の影や政府に五輪への大量の資金援助を取り付けたところ、政治家の介入を受け入れなければいけなくなるなどの負の面も描いた群像劇だと思います。
2021年の東京五輪も終わっているのに今更掘り返し、全く関係のない平安時代大河でそれを問う、全くの要らない話題ですのでnoteか記事を立てて論じてください。
『光る君へ』のレビューをする記事であり、何見氏の私怨を振りまく場ではないと思います。
『いだてん』を評価しないなら一切関わらず作品を好きな人たちに絡まない様にしてもらいたいものです。
・新しいNHKドラマの時代へ?
>朝の連続テレビ小説『虎に翼』が話題です。
アフィリエイトブログでお金を頂いているのに大河ドラマレビューで朝ドラの感想をやるのは如何かと思います。
自身のnoteで論じてください。
>ここでも語られていますが、嫌いなものを無理やり無難にほめて、ニコニコするのって、できる人とできない人がいるんですよね。
自己紹介でしょうか。
決め打ちで無理やり褒めるあまり、自分で決めた10年ルールとやらの制限を無理やり破って昔の大河ドラマを引き合いに出しても事実誤認が多かったり、具体的に古典の出典を明記或いは論拠の提示をしないのではレビューの説得力がありません。
嫌いな作品でも無難でいいのでせめて歴史史料は調べましょう。
>神聖視するのも、見下すのも表裏一体だという旨のことが語られていて、私が『どうする家康』で許せない点を思い出しました。
いい加減『穢れ』というのなら絡まずに忌避したらいかがでしょうか。
いつまでもジャニーズ憎し、主役憎しで『デモデモダッテ』と駄々を捏ねている様で見苦しいです。
>その結果、歴史漫画の画像や大河の字幕付きキャプチャを無断転載し、歴史知識と冷笑をひけらかし、論破したつもりになっている謎の存在がSNSに登場する。
>大河ドラマとなると女性主人公、登場人物、脚本家を貶す。
『大河ドラマとなると女性主人公、登場人物、脚本家を貶す。』
そっくりそのまま何見氏にお返しします。
『歴史知識と冷笑をひけらかし、論破した』と自分が言い負かされた相手に向かって喚いても詮無いので、きちんと史料や古典の内容を具体的にろんじてください。
いつも『それはどこのどの様な史料ですか』が多すぎます。
歴史知識を語っても、間違いだらけで指摘されたらマンスプレイニングだと逆ギレではいただけません。
>歴史から少しでもはみ出したと思ってしまうと、ともかく貶す。
>来年の大河ドラマ『べらぼう』も今から貶している。
『べらぼう』が貶されているという論拠を具体的に提示してください。
まだ放送が始まってもいないどころか出演俳優さんが発表されているだけの時点で何を批判しろというのでしょうか。
俳優さんの容姿批判や中傷でもしろと?
もしくは主人公の出身が吉原遊廓であるのを批判しろとでも?
ノイジーマイノリティーの声にばかり耳を傾けマウントや中傷ばかりして歴史をどうせつまらないと思わせているのは何見氏の方では。
※何かを見た氏は貼っておりませんでしたが、今年もNHKにお礼のメールサイトのリンクを貼っておきます。
ファンの皆様で応援の言葉や温かい感想を送ってみてはいかがでしょうか?
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?