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大河コラムについて思ふ事~『どうする家康』第43回~

11月中旬になりました。ようやく季節も進み寒くなってきました。
皆様健康には充分お気を付けください。
さて、どうする家康43回。
今週も『武将ジャパン』大河ドラマコラムについて書かせていただきます。
太字が何かを見たさんの言質です。
御手隙の方に読んでいただければと思います。それでは。


・初めに

>公式ブックのあらすじにはあった「問鉄砲」が放送されてないのはなぜ?
公式ガイドブック完結編の粗筋には下記の様に書かれています。
ガイドブックには『この粗筋は放送台本を基に構成されています。
内容が放送と異なる場合があります』と注釈がしてあり、あくまで台本の段階でありその後の時代考証や演出などにより変更があるのは織り込み済みなのではないでしょうか。

『どうする家康』公式ガイドブック完結編あらすじより

関ヶ原の戦い当日の布陣や戦闘経過の記録のほとんどは、合戦後幕府や大名によって作成された編纂物、または軍記物などの二次史料です。
近年の研究で問鉄砲はなかった事が分かってきているため、『どうする家康』ではそちらを採用したのではないでしょうか。

白峰旬(論文)2○/白峰旬(論文)2 (beppu-u.ac.jp)

フィクションとしての「問鉄砲」(パート1)
-家康神話創出の一事例(その2)-
白峰 旬

一次史料による記録(下記引用※1・※2)では『問鉄砲』の記述がなく、通説の典拠としては、『関原軍記大成』などの江戸時代の関ヶ原軍記なのだそうです。

※1
「先手」の井伊直政・福島正則隊に東軍各隊が続いて敵陣に攻め掛かった時、小早川秀秋・脇阪安治・小川祐忠父子が「うらきり」をしたため敵は敗走した。

慶長五年九月十七日 彦坂元正・石河安通連署書状写
(『新修福岡市史資料編中世1市内所在文書』堀文書)

※2
「先手」の兵数は、福島正則が1番、細川忠興が2番、金森長近が3番、田中吉政その他上方の兵が4万計、各方面に配置された。青野ヶ原で合戦が行われ、即座に攻め込み大勝利を得ると、機会を見て(番ヒニ)小早川秀秋が裏切った。その戦場で大谷吉継が討ち死にすると、そのまま切り崩された。上方より出陣した兵数は5万計、4・5千人も討ち死した。

注)青野ヶ原は関ケ原の事

慶長五年九月廿日
近衛信尹宛近衛前久書状

なお二次史料の『関原軍記大成』では、下記のような記述となります。

黒田長政の手引きで裏切る手筈であった小早川隊が動かないのを不審に思った家康は様子見のため小早川隊の陣に向け銃撃を行うが、それでも変化は表れない。しかし、藤堂高虎に内通していた脇坂とともに小川・朽木・赤座の各隊が大谷隊に攻めかかると小早川隊もこれに続く

関原軍記大成
宮川忍斎・著

>干し柿エピソードが無いってことは文春砲の記事は否定できず?
関ヶ原の戦い後の干し柿の逸話は享保年間(1716年~1736年)以降成立の『明良洪範』という逸話集によるものです。
文春記事では『三成の最期”を描くときに定番である「柿のエピソード」が、松本潤氏の意向により削られた』とありさも事実のように吹聴していますが、記事内容について関係者にウラを取って『記事は否定できない』と言っているのでしょうか。
干し柿の逸話は京への護送の途中という後世の創作であり、捕縛された三成さんと家康さまとの大津城での対面(9月23日)を重視したのではないでしょうか。
因みに大谷さんが41話で佐和山へ様子を見に来た時干し柿を土産に持ってきていましたが、三成公には横浜一庵という武士から柿100個が送られた際の礼状(某年10月7日付石田三成自筆書状)に「拙者好物御存知候(私の好物をよくご存知ですね)」と書いている逸話があります。

三成公が京都の町を引廻されている最中に水が飲みたくなったので、警護の者に伝えたところ、水がなかったので干し柿を差出された。
三成公は「痰の毒であるから食べない」と言って断った。
「間もなく首を刎ねられる人が毒を断つのはおかしい」と笑われたが、三成公は「そなた達小物には分からないだろうが、大義を思う者は、首をはねられる瞬間まで命を大事にするものだ、それは何とかして本望を達したいと思うから」であると答えた。

『明良洪範』

>何を選んで何を捨てるか。
>制作陣の全てがここに集結する!――と、思ったら冒頭の回想からして哀しくなるほど的外れ。
>「王道と覇道」が出てきました。
>テーマのように持ち出しておいて結局何なのか回収していませんね。
>一体なんなのか?
>本作の人物はマザーセナ教の信者であり、その教えのほうが重要なのでは?
ついに『マザーセナ教の信者』ですか。
本当はカルト宗教が好きなのではないですか?
貴方の考えの方が『哀しくなるほど的外れ』です。
アバンの回想はこれまで家康さまが家臣団と共に経験してきた戦の数々です。
『覇道と王道』は今川義元公が『松平元康(家康)』さまに教えた春秋戦国時代の孔孟思想です。
桶狭間で対面し「武を持って治めるは覇道、徳を持って治めるのが王道なり」と義元公の前で元康さまが暗唱していました。
義元公の王道の政は当時の家康さまからすれば『戦乱の世を終わらせる術』で大いに影響を受けた帝王学だったのだと思います。

第1回「どうする桶狭間」より <今川義元が説く王道と覇道とは> | 動画 | 大河ドラマ「どうする家康」 - NHK

『どうする家康』HP

戦死した家臣の夏目広次さん・本多忠真叔父上など多くの家臣の犠牲を払った三方ヶ原では『弱き主君は害悪』という武田信玄公の兵法を学び、長篠設楽原では織田信長公の武力による蹂躪と天下一統への思い、小牧長久手を経て秀吉公の経営術と人たらしの手法などを吸収し、家康さまは戦を前に「先に逝った者たち、今は遠くにおる者たち、みなここに集まっておる。皆と……共におる」と思いを馳せています。
数々の失敗や強敵との対峙から家康さまがこれまで学んだ集大成が関ケ原の戦という位置づけなのだと思います。

>そして慶長5年(1600年)9月14日へ。
>「関ヶ原の戦いは取捨選択が大事」とは申し上げましたが、本作はあまりにもすっ飛ばしすぎたため、何の感慨もないままオープニングに入ります。
>オープニングテーマも、アニメも、何も心に響かない。
本作はあまりにもすっ飛ばしすぎた』のではなく、貴方が誹謗中傷のための視聴に終始し、碌に内容を見ていなかったり調べればすぐ出てくる歴史的事項にケチをつけ歴史系レビュアーを名乗りながら何の解説も加えないのでは心に響かないのではないでしょうか。
・上杉景勝公による国元での動きとそれを詰問する徳川方、それに反発する直江状と上杉征伐。
・真田昌幸公・信繁公親子の西軍入りと稲さんによる沼田城入城拒否。
・東軍の北上の隙を突いた西軍の挙兵と『内府違いの条々』の流布。
・大坂の東軍諸将の妻子が人質に取られる
・東軍による小山評定と西上。
・第二次上田合戦
・伏見城落城
・福島正則公が岐阜城を攻め落とし西軍のいる大垣城に迫り、秀忠さまの本隊が着く前に戦が始まる恐れがある。(福島・黒田の協力確実)
・真田の策にはまった秀忠さまの大遅刻決定
・西軍が真田の足止めを知り『大きな蜘蛛の巣』を張り決戦は関ケ原と決める。
・東軍も西軍の動きを見て関ヶ原で雌雄を決する策に乗る
・関ケ原合戦(43話)
関ヶ原本戦に至るまでの東軍・西軍の動きは42話で描かれていました。

『どうする家康』より
『どうする家康』より
『どうする家康』より
『どうする家康』より
『どうする家康』より
『どうする家康』より
『どうする家康』より

>年が明けたら、視聴者の皆さんは本作のことなど綺麗さっぱり忘れてしまうでしょう。
『視聴者の皆さんは本作のことなど綺麗さっぱり忘れてしまう』
忘れてしまいたければさっさと忘れて視聴もレビューもやめてしまえばいいのではないでしょうか。
勝手に『視聴者の皆さん』と主語を広げ同意を求めるのはやめましょう。

『どうする家康』より

・どうする「女の戦い」?

>このドラマは、古臭い説を悪化させて扱うからたちが悪い。
>茶々が実質的な西軍総大将という描き方ですよね。
7月三成さんが佐和山城で挙兵します。
この時三成さんは大谷さんなどの進言に従って家康さまに次ぐ実力を持つ毛利輝元公を西軍の総大将として擁立します。
7月19日には毛利軍が東軍の会津出兵の隙を突き、徳川家の留守居役を追い出し大坂城西の丸に入城します。
大坂方の諸将が『内府違いの条々』を全国の諸大名に発し、徳川を反逆者とし東軍に宣戦布告します。
輝元公を総大将に据えた西軍は秀頼公を担ぎ、豊臣政権の事実上の第一人者・公儀の正規軍扱いになります。(42話で描写あり)

『どうする家康』より

>彼女が下劣な調子で怒り狂いつつ、毛利輝元に「出陣しないのか!」と問い詰めていますが、こんな描き方では「福袋の中身が気に入らないと店員にケチつけるモンスタークレーマー程度」でしょう。
>怖くもなんともありません。
東西両軍とも『豊臣秀頼公の天下を乱す逆賊を討つ事』を大義としており、大坂城には毛利輝元公が西軍の総大将として入り豊臣秀頼公が庇護下に置かれています。(本作の茶々さまは自ら両陣営に軍資金を配り諸将の潰し合いを仕向けているような暗躍をしていますが)
作中では9月14日、具足を付けた秀頼公が毛利輝元公に出陣について「毛利、余は出陣しなくてよいのか?」と尋ねていました。
慶長5年(1600年)時点で秀頼公は7歳ですが、豊臣の棟梁である秀頼公を担ぐ事で西軍の士気を高める狙いもあったのかと思います。
茶々さまは、「秀頼を戦に出す用意はある、必ず家康の首を取れ」と三成さんに檄を飛ばしていた事もあり、要請があればまだ幼い秀頼公を御輿として担ぎだすことも吝かではないのでしょう。
「時が至れば」と答えのらりくらりと出兵をはぐらかす輝元公に茶々さまは、出陣しない事で三成さんから矢の催促が来ており「今こそその時だ」と苛立ちをあらわにします。
「戦の動きを見定めているゆえ、お任せくださいますよう」となおもはぐらかす輝元公に「そなたが総大将の器であるか否かが問われておる。機を見誤るなよ」と茶々さまは釘を刺します。

>このあと寧々と阿茶は茶を飲んでいます。
>このドラマの不可解なところは、まるでこの二人が大坂城近辺にいるようなところですね。
>寧々と阿茶は大坂を離れているのでは?
>彼女らはテレポート能力でも習得しているんですか?

寧々さまの住まいは京都新城という場所になります。
ここは豊臣秀吉公が聚楽第を破却した後、豊臣家の正式な邸宅として京都御所の東南に構えた秀頼公のための邸宅です。
秀頼公は大坂城に住んでいるため、寧々さまが隠棲した後の屋敷として使用していました。
慶長4年(1599年)大坂城西の丸に入った家康さまと入れ替わりで寧々さまが京都新城に入ります。
大坂からは40㎞以上離れていますが聚楽第や伏見城など豊臣家も住み慣れた土地であり7月に匿われて9月になっているのに『テレポート能力でも習得している』とは?
7月12日、西軍の挙兵による人質収監が始まり、徳川家が入った大坂城西の丸は毛利家の兵たちに囲まれましたが寧々さまの機転により阿茶さんは人質としての捕縛を免れました。
9月、京都新城では阿茶さんが「自分を匿って迷惑ではないのか」と寧々さまに尋ねます。
寧々さまは「自分はどちらかの肩を持っている訳でもなく、元を正せばこの戦は豊臣家中の喧嘩であり正直なところ、豊臣と徳川が一体となって天下を治めるのが最もよい」と豊臣家中の諍いに介入せずあくまで中立の立場を保っていました。

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>説明セリフでがーっと進んでゆきますが、別に阿茶は寧々のおかげで助かってはいませんし、大坂から脱出しています。
>先週「三成は女を人質にとって汚いぞ!」と家康が語っていますが、今回はこうツッコミたくなります。
>「こんな堂々とうろつく阿茶を見逃すなんて、西軍は優しいなっ!」
ここで42回に話を戻しますが、7月12日大坂では東軍諸将の妻子が人質として収監され始め、17日大坂城西の丸は毛利軍によって占拠されます。
鎧武者に取り囲まれ阿茶さんは短刀片手に抵抗しました。
実は阿茶さんたちを囲んだ鎧武者は阿茶さんたちを避難させるために入城した寧々さまの息のかかった者たちでした。
寧々さまは豊臣政権下に於いては人質である大名の妻子の管理を任されており、家康さまはその伝手を頼り上方の留守を守ってもらえる様に依頼していました。
寧々さまは「自分はどちらかの肩を持っている訳でもない」と言っているように豊臣家中で最も中立的と見られている立場であり、彼女の保証があったうえで阿茶さんは動いていたのではないでしょうか。

『どうする家康』より
『どうする家康』より

・どうするメリーゴーランド乗馬?

>序盤から突っ込まれていたメリーゴーランド乗馬は、結局、最後まで改善されませんでした。
>平服の信長と家康が、富士山の麓でチラッと本物の馬に乗馬する場面がありましたが、今にして思えばなんというアリバイでしょうか。
>初回から小栗旬さんが障害飛越をこなした『鎌倉殿の13人』の翌年がこの体たらくでは、酷いと言われても仕方ないでしょう。

◆ 【どうする家康】CG多用&高速展開の“新しい大河”に賛否「試みは良かった」「乗馬シーンに違和感」(→link

スポーツ報知

◆「本当にどうするの」松本潤主演の大河ドラマ『どうする家康』が低視聴率のスタート…韓国での反応は?(→link

サーチコリアニュース

小栗旬さんが障害飛越をこなした『鎌倉殿の13人』は称賛し、『どうする家康』で本物の馬に乗馬する場面があればアリバイ作りとは?
松本さんも岡田さんも乗馬のできる人ですし、岡田さんは武術やアクションに関しては指導に入るほどの手練れです。
スポーツ報知記事ではどうする家康」の初回放送、『ネット上では、最新CG技術を使った映像や、展開の速さに賛否の声が上がっている』という記事です。
また、サーチコリアニュースでは『話題性や若者に人気のある俳優で固められた布陣に疑問を抱く意見や、CGの多用に違和感を感じるといった指摘が多く挙がった』という記事です。
すでに43回まで放送が終わっており、なぜ今頃1月付の記事を引き合いに出してくるのでしょうか?
CGに関しては『「大高城周りの戦闘、インカメラVFXを取り入れた試みはとても良かった」「インカメラVFXとセットの融合がとても進化してたので良かったです」「ラスト、兜の上に乗るカラスの足がリアルだった…VFX素敵だったな~」など称賛する声と共に「CG多過ぎて安っぽさが目立つ。やっぱり外ロケだよ」「やっぱ乗馬シーンは違和感あるな」「CGには観てる方も慣れないとね」といったコメントも見受けられた。』と記事にありますが、賛否両論を加味せずにわざわざ韓国の記事まで挙げネガティブな感想を選んでいるのはなぜでしょうか?

>しかし本作の制作陣は恐ろしい神経をしている
記事の中ではご大層な狙いを語っていますが、2013年『八重の桜』では攻撃にさらされる鶴ヶ城の瓦一枚までVFXで描かれ、兵士もモーションキャプチャを使って描写されていました。
>その10年前より確実に劣化しているではありませんか。
どうする家康』で本格的導入された『バーチャルプロダクション(VP)』や『インカメラVFX』『LEDウォール』などの映像技術を多用した「どうする家康」の関ケ原の戦いについて演出統括&VP統括の加藤拓監督にVP導入の狙い、メリットや効果、制作の舞台裏などを聞いた記事ですが、『10年前より確実に劣化している』とはどこのどのような場面でしょうか。具体的に提示してください。
演出統括&VP統括の加藤拓監督は大河ドラマ『秀吉』『功名が辻』『八重の桜』スペシャルドラマ『坂の上の雲』第3部などを手掛けた方です。
下記引用のジャンニ シモーネ氏の記事では加藤氏が新しい技術についてこう語っています。

関ヶ原の合戦:大河ドラマ制作を支えるテクノロジー、エキストラもデジタル化(nippon.com) - Yahoo!ニュース

nippon.com

『恐ろしい神経をしている』とプロの仕事を馬鹿にしていますが、ならば貴方が一から自分の思う通りに映像を作ってみればよいのではないですか?

『どうする家康』より

◆ 「どうする家康」異色の合戦ロケなし&全編VFX関ヶ原「働き方、作り方、戦国の景色を変える」狙いと裏側(→link

スポニチ Sponichi Annex 芸能

・もう、心の底から、どうしようもない井伊直政?

>あんな風に不自然な髭があってたまるか!
井伊直政の髭に関してはこちらの記事で『毛先が天を向いているのは直政の兜をイメージしてみました』とメイクさんの髭への拘りが書かれています。
実際に髭を付け整えられているのですがメイク不可能ならともかく『不自然』とは?
大変失礼なのですが『髭が似合わない人の特徴』として髭が薄い、色白、長髪、中性的な顔立ち、痩せすぎor肥満体型などが挙げられるようです。

髭が似合う人と似合わない人の違いとは。若い女性290人に聞いたアンケート結果も発表 | PERFECT (perfectcorp.com)

PERFECT

「どうする家康」出演中の板垣李光人、上目遣いでヒゲを付けるショットが「可愛すぎ」とファン大絶賛(スポーツ報知) - Yahoo!ニュース

スポーツ報知

>あんなヒョロヒョロした体で甲冑を着られるか!
>失望感を通り越し、絶望感ばかりが募る井伊直政。
>腕も白く細いヒョロ政に、本物の島津が突撃したら瞬時に擦りおろしてしまうでしょう。
>赤鬼どころか、とにかく弱々しい。
>たった一言のセリフですら腹から声が出ておらず、どうしてここまで酷いのか……と、唖然とするしかありません。
(中略)
『たった一言のセリフ』とはどこの場面のどんなセリフでしょうか。
具体的に提示してください。
出陣の前に「おいらを家臣にしてよかったでしょう?」と一人称おいらに戻って家康さまに問い、家康さまが「ああ。」と答えると嬉しそうに「おいらもでございます。取り立ててくださってありがとうございます。」と礼を述べています。
ここでは家康さまの御前であり、特に声を張り上げる要素もないのですが。

『どうする家康』より

『あんなヒョロヒョロした体』『失望感を通り越し、絶望感ばかり』『腕も白く細いヒョロ政』
線の細さが嫌というのは所詮あなたの好みの問題であり、それを盾に板垣さんの容姿を『腕も白く細い』『失望』『絶望』などと侮辱するのは人の価値を外見だけで測る差別的な考え方です。
因みに板垣さん、自身が纏う赤備えの甲冑についてこう仰っています。

実際に鮮やかな陣羽織と真っ赤な甲冑を着用し、武田の残党を率いて声を上げるシーンは、これまでの直政の人生を思うと感慨深かったですし、僕自身の高揚感も重なったように思います。でも、甲冑はかなり重みもあるので、撮影で1日中着用していると地面に沈んでいくような感覚になりました(笑)。

「どうする家康」関ヶ原で獅子奮迅 井伊直政・板垣李光人“赤備え”の重さに苦労「地面に沈む感覚(笑)」(スポニチアネックス) - Yahoo!ニュース

スポニチアネックス

>邪推ですが、演じる方の性根が素直なのでしょうね。
>他の役者なら眉間に皺を寄せて「それはちょっと……」と抵抗しそうな間抜けなヘアメイクや演出でも、素直に従うとか。
演出や人物造形に関するプランが前もって提示されており、それに基づいて俳優さんと話し合ったり調整して役の扮装が出来上がるのだと思いますが。(下記引用はカツラの準備の様子ですが)
演出と相談の上で演出を調整しアドリブを入れるのは許せないのに扮装が気に入らなかったら素直に従わず拒否しろとは?

>このインタビューを読んでもウンザリします。
>これのどこが赤鬼ですか?
>氷ですか?

◆板垣李光人:いかにして“赤鬼”井伊直政となったのか 「どうする家康」美少年設定は「もうしょうがない」(→link

MANTANWEB編集部

史料に伝わる井伊直政公は『容顔美麗にして、心優にやさしければ、家康卿親しく寵愛し給い』と言われるほどの美男子と言われています。(『甫庵太閤記』、『徳川実紀』など)
下記※1の記事では『平八郎が炎とするなら、直政は氷のような』とあります。
異様に白い肌に異質さを感じたとの事で『史実でも部下からすごく恐れられていた』という逸話を踏まえ、平八郎さんの炎の様な熱量と差別化を図るために近寄りがたい『氷の様な』鋭利な井伊直政を演じていたのだと思います。

※1
「どうする家康」井伊直政役・板垣李光人、本多忠勝と異なる熱さ表現 「平八郎が炎なら直政は氷」(シネマトゥデイ) - Yahoo!ニュース

シネマトゥデイ
シネマトゥデイより抜粋

・どうしようもない二番煎じ?

>井伊直政役の彼については「『青天を衝け』の徳川昭武は名演だった」という擁護が入ります。
>確かに和室に飾っておきたい、かわいい人形のようでした。
>しかし、それだけでは?
>幕末もので徳川昭武を重視している時点で、あのドラマはイケメンを並べる乙女ゲーじみたドラマだっただけではないかと思います。
和室に飾っておきたい、かわいい人形のよう』『イケメンを並べる乙女ゲー』
女性を見ればエロ目線でセクハラ発言、男性を見ればイケメンを並べた乙女ゲー』、中性的な容姿の男性を見れば『可愛いだけの人形』『腕も白く細いヒョロヒョロした体』演技や物語や時代背景など全く見ておらず、自分が気に入らない登場人物どころか生身の人間さえ誹謗中傷するようになってはレビュアーとしておしまいだと思いますが。

・それでも『大奥』がある!?

>井伊の赤鬼については挽回できるチャンスが与えられました。
>『大奥』シーズン2の井伊直弼が、予告の時点で素晴らしいのです。
>津田健次郎さんの演技に期待しかない。
素直に『大奥』を見て楽しんで大河視聴もレビューもやめてしまえば楽になると思いますが。
『大奥』を叩き棒にして『考えてみれば、初手から大失敗を繰り返す、無惨な負け戦でした。』と井伊直弼公で徳川家康公や井伊直政公を叩こうとする、ドラマの役柄とは言え直弼公も家康公やご自身のご先祖を殴らされるのは本意ではないと思うし大変失礼だと思います。

・どうする……家康! じゃないんだな?

>三成がタイトルを呼ぶだけで「フラグ回収!」とか盛り上がるのもいい加減にしてください。
>内府だの、家康だの、呼び方一つとってもバラバラ。
>思えば、諱に呼びかけるタイトルをつけた時点で、このドラマは詰んでいたんですね。
>こんな提灯記事を読んでいるだけで脳みそが削られていくようだ。
脳みそが削られて無くなってしまった方が楽なのではないですか。
42回でも書きましたが、『内府(だいふ)』とは左大臣・右大臣に次ぐ太政官職である『内大臣』の唐名ですが、慶長元年(1596年)家康さまは豊臣秀吉公の推挙により正二位内大臣に任ぜられているので唐突でもなく慶長の役の頃にはもうすでに『内府』です。
小牧長久手の戦い後豊臣に臣従した際豊臣秀長公に『徳川中納言殿』と当時の官職で呼ばれており、秀吉公や寧々さまは『内府』『内府殿』と呼んでいます。
豊臣恩顧の諸将も『内府殿』と呼んでいます。
また三成さんは『治部』大谷さんは『刑部』と呼ばれているので
仕事上の立場や人物の関係性で呼び方も変えているのだと思います。
島左近は官職名ではありませんが諱の『清興』ではなく通称の『左近』で呼ばれていますね。
佐和山隠棲中の三成さんは『内府』と呼んでいますが挙兵後は『家康』になっています。
茶々さまも『家康』と諱呼びですが、これは個人的な恨みもあり敬意を払っていない意味でもあると思います。
因みに毛利輝元公、最初は職務上なのか『治部』と呼んでいますが西軍の負けが決まった途端『三成』呼びになっています。
※追記
『真田丸』の時代考証のお一人・丸島和洋先生によると、豊臣秀吉公の自筆遺言状の宛先は、幼なじみである前田利家公の「ちくせん」(筑前守)を除いて官途名ではなく名前で書かれているそうです。
戦国時代から江戸初期にかけては、『偉い人に関しては本名で呼んだ方が丁寧だった』例もあるようですね。

特集 さなイチ 別冊!インタビュー 時代考証 丸島和洋さん ~豊臣秀吉の残した遺言~|NHK大河ドラマ『真田丸』 (archive.org)

特集 さなイチ 別冊!インタビュー 時代考証 丸島和洋さん ~豊臣秀吉の残した遺言~
NHK大河ドラマ『真田丸』
2016年8月7日時点のオリジナルよりアーカイブ
『どうする家康』より
『どうする家康』より
『どうする家康』より
『どうする家康』より

◆ 【来週11月12日のどうする家康】第43話 ついに関ヶ原!三成も“タイトル回収”3人目にネット沸く(→link

スポニチ Sponichi Annex 芸能

・どうする天候?

>本作は序盤からずっと戦になると曇天ばかり。
>なぜか?
>「大垣城の兵糧入れを思い出す」とかなんとか家康が言いますけど、VFXの都合ですかね。
>青空より合成がしやすい。
>結果、常に異世界じみている。
>それもプレステ2ぐらいの表現力なので、チープなことこの上ない。
>お得意のVFXとやらは季節感のある空すら描けないのですかね。
信長公記』『大かうさまくんきのうち』などの著者であり、織田・豊臣に仕えた太田牛一が記した『太田和泉守記』によると、『その朝は霧が深く下りて雨も降り、物の色目も見分けられなかった。ようやく巳の刻 (9~11時) 計りに空も晴れわたる。』とあり、関ヶ原の戦いの当日9月15日は朝から雨が降り『物の色目も見分けられない』なのでかなり霧や雨で視界が遮られた状態だったと思われます。
巳の刻(9時頃)にようやく晴れ渡り戦いの火蓋が切られたのでした。
「大垣城の兵糧入れを思い出す」ではなく、「この空模様、大高城の兵糧入れを思い出すの・・・」です。
作中、関ヶ原では雷鳴がとどろき、雨が降り出します。
家康さまは桶狭間合戦の折降りしきる雨の中、今川軍の先鋒として大高城に兵糧を入れることに成功した頃を思い出したのでしょう。
『信長公記』の桶狭間の戦の記述では昼頃視界を妨げるほどの豪雨が降り『にわかに天が曇り、強風が吹き付け、大地を揺るがす豪雨となった』『石水混じり(雹?)』だったとあります。

『どうする家康』より
『太田和泉守記』

・どうしようもない兵法?

>本作の脚本家は、現代劇のコンゲームもの、つまりは詐欺師が騙しあうような話の技法で、よりにもよって16世紀最後を飾る大会戦を描くという無茶苦茶なことをしています。
関ヶ原の戦いは兵法で言う所の『勝兵は先ず勝ちて而る後に戦い、 敗兵は先ず戦いて而る後に勝を求む(勝利する軍は勝利が確定してから戦い、 敗北する軍は戦い始めてから勝利を追い求める。)』を実践する戦であり、東軍西軍合わせて数百通にも及ぶ書状が日ノ本を飛び交い、事前の調略がものを言う戦なのですが。

>兵法に必須である兵站とか、兵器性能とか、射程距離などを把握できていないのでしょう。
>関ヶ原の戦いって、実は世界史的にも重要な点があります。
>大砲です。
>当時、ヨーロッパではすでに大砲を用いた戦闘が定着していて、東洋では16世紀後期からようやく始まった。
>そんな新兵器を実戦に用いた大会戦ということで、注目を集めます。
>それなのに本作の脚本家は、何もわかっていないままテキトーに書いているのでしょう。
>大砲を効果的に使うようなシーンは一切なく、そんなんでドラマが面白くなるわけがない。
大筒は、攻城兵器としては有用であり戦国時代に伝来した大筒の一種で火薬の力で鉄球を飛ばす石火矢(フランキ(仏朗機)、国崩し)などが用いられました。
日本では豊後の大名・大友宗麟公が日本初の大筒『国崩し』として使っていました。
また伏見城攻めで島左近が使っていた矢状の飛翔物を大筒で発射する棒火矢もありました。

仏郎機砲(遊就館蔵)

関ヶ原の戦では京極高次公の守る大津城を西軍の立花宗茂公が攻めた際に使用されています。
9月13日、立花勢により大津城三の丸が落とされ二の丸まで突破されます。
同日、立花勢より大砲を城内に撃ち込まれ天守にも命中、城内は混乱したそうです。
『京極家譜』によると「立花勢、長等山より城中に大筒を打ち入れ、これより防戦難儀にをよぶ」と伝えています。
大津城は落ち、京極高次公は降伏し高野山へ向かいました。
関ヶ原の戦本戦では石田三成公が大筒を近江国友村に依頼して用意し、本戦で用いたとされています。
『どうする家康』では東軍中心の描写が多く、本格的な大筒の運用をしていた大津城攻めは描かれていません。
『葵徳川三代』では江守徹さん演じる三成公の合図で大筒が火を噴く場面があります。(1分59秒頃)

>このドラマの作り手って、いまだに「あのスゴイ戦略家のメッケルが、関ヶ原の布陣図を見て西軍が勝つと言い切ったんだって!」と仕入れたばかりの知識ではしゃいでいそうなんですよね。
>それは西軍贔屓、家康アンチな司馬遼太郎の創作ですよ。
明治時代にドイツ陸軍から陸軍大学校に教官として招聘さ れたメッケル少佐が関ヶ原の古戦場を訪れ、関ケ原の戦の布陣図を見て西軍の軍勢が東軍を包み込む陣形となっており、西軍の勝ちだと述べたという話があります。
司馬遼太郎氏が昭和 45 年(1970年)ににNHK総合放送『日 本史探訪』の『関ヶ原』の回で松本清張氏との対談でこの逸話を述べ歴史家・二木謙一氏が1982年の著書『関ヶ原(中公新書)』で紹介し、フィクションなどで広まったそうです。
歴史家・乃至政彦氏によるとメッケルの記述出典が存在せず、布陣図だけで勝利を判定することは慎重なメッケルの姿勢に適合しない事、さらに関ヶ原の戦いの布陣図が作成されたのはメッケル帰国後であることを挙げ、虚構であると判定しています。

司馬遼太郎が話したメッケル少佐の逸話、元ネタは海音寺潮五郎のエッセイ? 近代戦術家は関ヶ原の西軍勝利を確信したか?(後編)(1/4) | JBpress (ジェイビープレス) (ismedia.jp)

ジェイビープレス

歴史学者・白峰旬氏によればこの逸話は昭和34年(1959年)に海音寺氏が書いたエッセイ『武將列傳 四』の一節『石田三成』が元ネタであり、ドイツの有名な戦術家が関ヶ原に旅行で訪れ布陣と兵数を聞いたところ西軍が負けるはずがないと不思議がったという話を記載しています。
なおメッケル少佐は、明治 18 年(1885年)12 月 29 日に「地理実査」のため 京阪地方へ出発し、1 月 8 日大垣から関ヶ原を経て滋賀県彦根を訪問しています。(私的旅行の形でしたが。)

メッケル少佐の関ヶ原視察とメッケル伝説 −司馬遼太郎⽒の発言を検証する− 白峰旬
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メッケル少佐の関ヶ原視察とメッケル伝説

・もう見ているだけで辛い関ヶ原?

>うっすらと霧がかかった中で、「殿大好き!」「殿ぱねぇ!」と褒め合う、ちょび髭コスプレイヤーがいるだけ。
>主演を褒めて気持ちよくなって欲しいだけのセラピーにしか見えません。
>勝つか負けるか全くわからない戦場で、ニタニタうっとりと「俺すげええええ!」としている総大将ってもう見ているだけで辛い。
>老けメイクもおざなりだし、発声は青年期から変えていないし、いつ見ても目は淀んでいる。
>二日酔いですか?
>井伊直政が「おいら」という痛々しい主語を使い、しかも死ぬことをわかっているようなことを言いだす。
うっすらと霧がかかった中』だったのは実際に『その朝は霧が深く下りて雨も降り、物の色目も見分けられなかった。(『太田和泉守記』)』からです。
関ヶ原の戦いで天候に言及するなら『VFXとやらは季節感のある空すら描けないのですか』ではなく、実際に史料を読んでその時にどんな天気だったか調べてはいかがでしょうか。
「殿大好き!」「殿ぱねぇ!」ではなく、平八郎さんの「我はやはり殿と共に戦う事が好きでござる」に対し直政が「同じく殿ここまで来たらじたばたしても仕方ない」です。
豊臣政権時代は自領の領国経営に力を入れていた徳川家臣団が再び殿のもとに集結して徳川軍として戦える事が嬉しいという感じでしょう。

『どうする家康』より
『どうする家康』より

『見ているだけで辛い。』ならゴタゴタとヒステリックに喚いて板垣さんの容姿を中傷していないでTVを切ればよいのではないですか。
挙句『こういう指摘をすると、必ずのように反論が出る。社会的影響や倫理を考えず、毎朝楽しでいるからって理屈はあまりにも幼稚。』と楽しんでいるところに踏み込んできて他人の内心自由を全否定し自分の意見ばかり押し付けてデモデモダッテとごねる、楽しんでいる人には非常に迷惑です。
井伊直政の一人称は小姓の万千代(虎松)時代は『おいら』でした。
元服し各地を転戦し交渉も請け負うようになり『私』になっていましたが、ふたたび昔の様においらに戻っていました。
井伊直政公は重装備で常に敵陣に突撃する戦法を取っており怪我が絶えない人だったそうです。
関ヶ原でも先陣を仰せつかれば命を懸けて突撃するため、『最後のご奉公』の言葉の様になったのだと思います。

>ペンキを塗ったばかりのような赤い兜に、天井の白い照明が点々と反映していて、スタジオ撮影だなって丸わかり。
井伊直政の天突脇立て兜は『おんな城主直虎』『西郷どん』で使われたものですがペンキを塗ったばかりとは。

『どうする家康』より
『おんな城主直虎』より
『西郷どん』より

・最低最悪の殺陣?

>本作は甲冑の重さや、制限される関節の動きを度外視しています。
>甲冑をつけていては絶対にできないような動きをしてしまう。
>甲冑の防御性能すらわかっていないのか、着ているところに刀身をぶつけにいく間抜けさも健在。
>そんなことしたら刀が折れるだけですよ!
甲冑の重さや、制限される関節の動きを度外視した甲冑をつけていては絶対にできないような動き』とはどんな動きでしょうか。
具体的にどんな場面のどういう動きか提示しないと分かりません。
実用的な当世具足の重量は15Kgから20Kgであり、(家康さまが初期に付けていた金陀美具足は11㎏と軽量らしいですが)雑兵や足軽ならばもっと軽いでしょう。
高い防御力を持ちながらも軽くて動きやすく、袖や籠手などで肩や上腕を保護しつつ自由に腕を動かせ、下半身は佩楯で太腿を保護しつつ足の動きを妨げないようになっています。
兜は頭部の鉢から伸びた錣(しころ)が完全に首を覆ってしまうことがなく、首は自由に動かせます。
全身を守ると言っても西洋のフルプレートアーマーと違い、首周りや脇や太腿は装甲が薄く、組討ちで十分刺突が通ると思います。

具足櫓 -ぐそくやぐら- 甲冑の重さ (oo7.jp)

具足櫓

日本武士と西洋騎士の鎧・甲冑の防御力と重量と動きやすさ (stonewashersjournal.com)

StoneWasher's Journaⅼ

どうする家康のアクション担当は諸鍛冶裕太氏です。

諸鍛冶裕太 – JAPAN ACTION ENTERPRISE

株式会社ジャパンアクションエンタープライズ

関ヶ原の合戦:大河ドラマ制作を支えるテクノロジー、エキストラもデジタル化(nippon.com) - Yahoo!ニュース

nippon.com

鎧は鉄板でできており、鎧をつけた敵に切りつけても殺傷できないため刀や槍で敵を叩いて押し倒す戦法になると思います。
集団で槍衾を作り長槍で上から叩く戦法も使われていると思います。
雑兵同士の組討ちでは押し倒したうえで防御できていない顔などに打撃を与えたり、それを防ぐため刀で防御したりしています。
また刀の打撃を槍の柄で止める後ろから組み付いて動けないようにしています。
組討ちでの近接戦では『鎧通し』などの短刀で敵の急所(首筋)などを掻き切る戦い方になると思います。
こちらの画像では大谷さんに対して東軍の雑兵が短刀で組討ちに行こうとして返り討ちに遭っています。
42話でも伏見城攻めで千代さんが敵将の首を掻き切っています。

『どうする家康』より
『どうする家康』より
『どうする家康』より
『どうする家康』より
『どうする家康』より

>もしかして本作は『青天を衝け』の感覚で作っているんですかね?
>あの作品も殺陣が酷かった。
>当たったら即死しかねない木刀を防具をつけずに振り回したり。
>土方歳三が池田屋にテレポートしたような登場をしたり。
>水戸藩士が薩摩ジゲン流特有の猿叫をしたり。
ここで『青天を衝け』叩きですが、ここは『どうする家康』のレビューではないですか。
別記事を立ててやってください。
現在使用されている剣道の防具や竹刀が発明されたのは、江戸時代のことですが、新選組で有名な天然理心流では防具を付けていない稽古も行われているようです。また、『青天を衝け』では血洗島の小さな町道場であり、防具が揃わなかったり他流試合の場合もあったのではと思います。

『青天を衝け』より

天然理心流公式サイト (tennenrishinryu.com)

天然理心流

『土方歳三が池田屋にテレポート』とありますが、池田屋事件の際土方歳三さんは別動隊を率い長州・土佐藩士の出入りしているという丹虎(四国屋)方面を探索しており、すぐさま池田屋の応援に駆けつけ直ちに突入せず周りを固めています。
『青天』では池田屋に駆けつけた先の路地で逃げてきた浪士と切り結んでいます。

『青天を衝け』より

『水戸藩士が薩摩ジゲン流特有の猿叫をしたり。』とありますが、貴方は2023/03/02付の『武将ジャパン』記事で『桜田門外の変と意外な事実~井伊の首を取ったのは薩摩藩士だった』という記事を書いており、分かっていて叩くために『水戸藩士が薩摩ジゲン流特有の猿叫をしている』と言っていますね。
嫌いな作品を叩くために知らないふりをして嘘をさも真実のように吹聴する、非常に悪質で信用が無くなると思います。
桜田門外の変は安政7年(1860年)3月3日、江戸城桜田門外で水戸脱藩浪士17名と薩摩藩士1名が登城中の彦根藩の行列を襲撃し、藩主・井伊直弼公が暗殺された事件です。
薬丸自顕流を学んだ薩摩藩士・有村次左衛門が水戸脱藩浪士たちの襲撃で瀕死になった直弼公を駕籠から引きずり出し猿叫と共に首を落とした後、槍にその首を突き刺し、悠々とその場を立ち去っています。

『近世義勇伝』 有村次左衛門
歌川芳艶

桜田門外の変と意外な事実~井伊の首を取ったのは薩摩藩士だった - BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) - 3ページ (bushoojapan.com)

・本当に弁当を食わせるセンス?

>「宰相殿の空弁当」だからといって、本気で弁当を食べる吉川広家を映すセンスがわかりません。
>あまりにもくだらな過ぎません?
>本気で弁当をモリモリ食べさせるのではなく、目を光らせつつ、出撃要請を巧みに断るように描くこともできたのでは?
>この幼稚さには閉口するしかない。
>見るだけで精神状態がドロドロに溶けていくドラマだ。
>そしてこういう提灯記事が出る。
>「キターーー」って何年前の流行ですか。

◆大河「家康」三成悲惨 本当の黒幕が西軍壊滅 弁当モグモグで毛利2万出撃不能→家康余裕の進軍「やりよったw」「弁当キター」(→link

デイリースポーツ

ドロドロに溶けてなくなってしまえば見なくて済むのではないですか。
記事には『キターーー』ではなく『弁当キター』とあります。
『キターーー』自体は2001年ごろから使われているAAですが、待ちわびたものが訪れた時の視聴者の喜びの声であり、わざわざ論って流行が~と叩く程でないと思います。
井伊直政の先陣で火蓋が切られた関ヶ原の戦いはあちこちで戦闘が始まり西軍やや有利で進んでいましたが三成さんはずっと小早川勢の動向が気になっていました。
その小早川勢は早々と松尾山に陣取り秀秋公も「戦の成り行きのみを見極めよ」と命じます。
この時点で五分五分。
西軍では「吉川広家が敵の背後を突けば小早川も動く」と島左近が言い、東軍でも渡辺守綱さんが、「吉川勢が背後を突いて来たらどうなるか」と尋ね、家康は「おしまいよ」「毛利は家臣の広家らはおろか、小早川秀秋もまとめ切れておらず、調略の成果を祈るのみである」と答えています。
さらに家康さまは念入りに『小早川は徳川についた』という情報を、直政に流させます。
毛利家中の吉川広家公は黒田長政公と懇意であり西軍総大将である毛利輝元公に独断で東軍に内通しています。
そして9月14日毛利の戦闘不参加を誓う書状を長政公に送り、所領の安堵という密約を取り付けていました。
本戦には吉川公は西軍として参加し、南宮山に布陣。
毛利軍大将・毛利秀元公らの出陣を阻害する位置に陣取って毛利勢の動きを足止めします。
安国寺恵瓊、長宗我部盛親、長束正家など南宮山に陣取る西軍諸将から使者がやってきますが、吉川広家公は理由をつけ出撃を拒否、毛利秀元公は「兵卒に兵糧を食させている最中なり。」と言って時を稼ぎ要求を退けたというのが『宰相殿の空弁当』の逸話です。(『宰相』は毛利秀元公の事)
作中では本当に食事をさせわざと時間をかけて食べる様命じており、広家公は長宗我部勢からせっつかれますが、すました顔で「腹が減っては戦ができぬと言っておけ」と命じます。
広家公曰く『腹が減っては戦はできぬ』なので出撃せずとも糧食を食べ不測の事態に備えよという事だと思います。
時間的にランチではなくモーニングの時間だとは思います。

『どうする家康』より
『どうする家康』より

・「茶々のスマホ」でもやれば?

>あんなふうに茶々がリアルタイムで「不利だなんて!」とオタオタするわけないでしょ。
>スマホでも持っているのか?というぐらいに情報があっという間に伝わる本作。
>関ヶ原のポイントは、情報伝達のタイムラグではないのですか?
9月15日朝、火蓋が切られた関ヶ原の戦いでしたが、一向に出陣しない輝元公に業を煮やした茶々さまが鬼の形相で「負けは許さぬ」と不満をぶつけていました。
毛利輝元公は西軍総大将として大坂城に留まっていましたが、一向に出撃する気配がなく、「秀頼を戦に出す用意はある、必ず家康の首を取れ」と三成さんに檄を飛ばし幼い秀頼公を御輿とするつもりであった茶々さまはその態度に苛立ったのでしょう。
情報伝達のタイムラグ云々ではなく『動かない毛利』に対する怒りですね。

・何もかも勘違いした阿茶?

>自ら「男勝り」と語ってしまう阿茶の残念さが、今週も炸裂です。
>関ヶ原という見せ場で、阿茶がわざとらしく男装して、茶々にケチをつける――なぜ、こんなしょーもない場面が入りますか?
>これみよがしに「ワタシって男勝りだから」と言わんばかりに中途半端な男装をしているのも痛々しい。
>そのコスチュームをわざわざ仕立てたの?
>非常時に? 随分と余裕あるなっ!
公式によると阿茶さんは『武芸をたしなみ、家康が数々の戦にも同行させた、美しさと才覚を兼ね備えた側室』とあります。
実際でも奥向きの仕事だけでなく、戦場にも供奉したといいます。
阿茶さんの肩衣姿ですが、小袖はいつも着ている薄黄色の小袖であり、いつでも徳川の交渉窓口として活動しやすい様、手持ちの衣装の中に男性と同じような肩衣も含まれているのだと思います。
元々大名の妻子は大坂に住んでおり、西軍の人質となるのを免れ寧々さまの京の屋敷に匿われているのでわざわざ新調しなくても着用して出向けると思います。

>茶々に全く知性が無く、かつ剛毛とド派手メイクなので、阿茶がまだマシに見えるのが怖い。
>いずれにせよ最低のヒロイン決定戦です。

茶々さまが輝元公の煮え切らない態度に業を煮やしていると寧々さまの使いの者という客人が通されます。
その中に肩衣袴の阿茶さんもおり、片桐且元公から茶々との面会を許されます。
阿茶さんは茶々さまを封じるため大坂に乗り込みましたが、茶々さまは「徳川殿のご側室が乗り込むとは豪胆な、毛利に捕まってしまう」と圧をかけてきます。
阿茶さんは「その時は命を絶つ覚悟」と宣言します。
そして寧々さまも同じ考えと前置きし、「秀頼様はこの戦に関わらぬ方が良い。徳川の調略は西軍の深い部分にまで及んでおり、既に勝負も決する頃合いであろう」と茶々さまに告げます。
さらに『(毛利)輝元が未だ出陣しないことが、その調略の証』と論拠を述べ、「我が殿は信用できる、秀頼様を大切にお守りいたしますので、御身を徳川にお預けを」と言います。
茶々さまが動揺しながらも「過ぎたる物言いじゃ、身の程をわきまえよ!」と一喝すると周囲の武士たちが阿茶さんたちに刃を向けようとします。(ここは片桐且元公が制しましたね)
茶々さまは「なかなかハッタリがうまいようじゃ、秀頼を大切にしてくれて礼を言うぞ」と言いながら敵意は隠さず、「まことに不愉快なおなごよ。二度とお見えにならぬがよろしい」と伝えます。
そして「帰り道には気を付けよ」と優しい声色で釘を刺し、阿茶さんは礼を述べ帰ります。
阿茶さんが去った後の茶々さまは吐き出すように怒りを爆発させます。
また帰宅した阿茶さんは安心したかのように「おっかない女だわ~」と呟きそこへ寧々さまが現れ、「終わったみたいだわ」と戦の終わりを伝えます。

>こういう女性像って、要は制作サイドの趣味ですよね。
>受信料でフェチを作って垂れ流さないで欲しい

肩衣を脱ぎながら脱力する阿茶さんはさながら大きな営業先の怖い女性社長と対峙した後の女性社員の様でもあります。
『過ぎたる物言い』と茶々さまに一喝されますが、阿茶さんの肩衣の柄は『双葉葵』で徳川の紋。
徳川家を背負って彼女もまた戦っている故の衣装だと思います。
現代ならば所謂『バリキャリ』と呼ばれる様な仕事一筋に頑張っている女性の様に見える阿茶さんのどこが性的な魅力という意味の『フェチシズム』でしょうか。

『どうする家康』より
『どうする家康』より
『どうする家康』より

・どうしようもない劇伴?

>このドラマの間抜けさは、噛み合わない劇伴も相まってバカらしさがますます高まってゆきます。
>こんなくだらない展開なのに、無駄に勇壮で、かつ西洋ファンタジーじみた音楽がかかる。
>東洋の時代劇は、現在はその国ごとの伝統楽器を混ぜていくのが主流です。
間抜けで噛み合わないバカらしい劇伴』『無駄に勇壮で、かつ西洋ファンタジーじみた音楽』とはどこの場面のどんな劇伴でしょうか。
具体的に例を挙げて提示しなければ伝わらないと思います。
茶々さまと阿茶さんの対面の場面で流れているのはピアノのソロパートですが。
『平清盛』では『タルカス』、『鎌倉殿の13人』ではクラシックのドボルザーク『新世界より』やヴィヴァルディ『四季~冬~』のアレンジ曲を使用していますがその国ごとの伝統楽器に拘る必要があるでしょうか。

・何がなにやらわからない関ヶ原?

>わかりにくい布陣図。
>時間の経過も描かれない。
西軍は三成さんが笹尾山に陣を張り、その脇に島津義弘公、天満山には小西行長公と宇喜多秀家公、中山道筋に大谷吉継公となっています。
家康さまの陣は桃配山、その陣を守るように平八郎さんが陣を敷き、前線の平野部には井伊直政が配置され、福島・黒田・藤堂らの豊臣恩顧の諸将はそれぞれ中山道沿いの平野部を押さえています。
9月14日、布陣図の場面では美濃赤坂に諸将が集まってきます。
「早く城攻めを」と血気に逸る福島正則公に、「大垣城を崩すには兵が足らない」と藤堂高虎公が言います。
まだ秀忠さまの本隊が着かず、平八郎さんは「本軍がいまだ到着しないのは相手も同じ」と言いますが毛利勢が秀頼公を担ぎ、西軍につけば危うくなる懸念もありました。
家康さまは黒田長政公に、調略の進捗について尋ねます。
「既に吉川広家は東軍への内応を約束しており、その広家を通じて小早川秀秋、毛利輝元への調略を繰り返している」「実際に蓋を開けないことには」と長政公が答えます。
家康さまは直政に秀秋公への文を書かせ各陣所にそれをばらまき、『小早川は既に徳川に内応している』と言い触らすように命じます。
一方西軍の大垣城では、秀秋公が合流する手筈だったが『家康の誘いを受けている』との噂で持ちきりで「気弱そうに見えて狡猾であり、油断ならん」と宇喜多秀家公が評します。
家康さまは布陣図を見て黒い駒を動かし「西の関ケ原は大谷刑部がいるばかり、我らが西へ進み大谷刑部を攻めれば三成たちも城を出て追ってくるほかない」「前へ出る」と敵に時を与えず野戦に持ち込む事にしました。
長政公は「なるほど・・・野戦に持ち込める」と同意しますが、直政は「後ろを塞がれ、秀秋や輝元らが三成に合流すれば東軍が袋の鼠となる」と指摘します。

『どうする家康』より

その時、雷鳴がとどろき、雨が降り出した関ヶ原。
家康さまは桃配山で大高城の兵糧入れを思い出し、平八郎さんは「決戦の地関ケ原へ」と言い、直政が「いざ出陣」と声をかけて一同は立ち上がります。
一方西軍。
三成さんは徳川勢が関ケ原へと進軍を始めていることを知らされ東軍が大谷勢を攻めて関ヶ原におびき寄せるためと察し、『食いついた』とほくそ笑んでいました。
その時、小早川勢が松尾山に陣を敷いたという知らせが入ります。
「合流せず松尾山に陣を敷いたということは、どちらに転ぶにも賢い場所、最後の最後まで見極めるつもりでしょう」と左近が状況を分析し、大谷さんに秀秋公の動向を注視させ関ヶ原へ向かいます。
かくして9月15日を迎え西軍8万2千、東軍7万4千という大規模な軍勢配置になりました。
時間経過は下記YouTubeの2分ダイジェストでも流れが分かりますが。

合戦の街 関ケ原(関ヶ原の戦い)/ホームメイト
https://www.touken-world.jp/sekigahara-wars/
『どうする家康』より
『どうする家康』より

>武将はバストアップと絶叫ばかり。
バストアップはともかく戦場の喧騒の中で叫ばずボソボソ喋っていて指示が聞こえますか。

>合間に茶々と阿茶が挟まれる。
上記に書きましたが、阿茶さんは茶々さまに毛利との結託で豊臣家と秀頼公を危うくさせるなと釘を刺しに行ったのですが。

>駆け回るメリーゴーランド馬。
>マヌケな殺陣。
>ニタニタした家康。
>一人だけ真面目な三成。
>間の抜けた劇伴。
では貴方が一から脚本演出から殺陣からCGやVFXまで気の済むように作ればいいのではないですか。

>主語が「おいら」のちょび髭コスプレイヤー。
井伊直政を演じた板垣さんのインタビューからですが、「たぶん関ヶ原っていうのは本当に最後になるんだろうな。だからもう後半は虎松なんですよね。最後のところとかは殿と出会った時のままで終わりたい。一人称が今までずっと私だったので直政になってからは。(関ヶ原では)一人称がオイラになってたからそういう事なんだろうなと思って。」(下記YouTube 0:21)

>火縄銃も大砲も使わない兵士たち。
先陣は徳川でなければならぬ」と家康さまへ許可を取った井伊直政が戦の先陣を切り、直政の「放てー!」の声と共に井伊勢による宇喜多勢への銃撃から開戦しています。
先陣を井伊に取られた福島正則公は「後れを取るな、かかれ」と兵たちに命じ、あちこちで戦闘が始まります。
下記YouTube0:08辺りから井伊勢の宇喜多勢への銃撃が始まります。
また井伊直政は島津の銃兵による捨てがまりによって銃撃され重傷を負っています。

『どうする家康』より

>一体これのどこが関ヶ原なのか?
>答え:BBCが10年以上前に制作した『ウォリアーズ』を見てみましょう。
貴方が全くドラマの内容を見ずに適当な事を書いているのはよくわかりますのでずっとBBCとやらを見て一切見に来なければいいのではないですか。
BBCとやらのレビューを書いていた方がいい子いい子してくれる人が集まってくると思いますよ。
『パリピ孔明』もですがここでもBBC。
せっかくいい作品を作っても貴方の嫌いな作品を叩く叩き棒にされまともに見てはもらえない、双方の作品の製作スタッフを冒涜していると思います。

・結局、小早川秀秋はなんだったのか??

>実際、公式ガイドブックのあらすじには関ヶ原における「問鉄砲」の記述があり、担当編集者によると次のように展開しているとのこと。

陣を前に進め勝負に出た家康「決断せよ、小早川」
渡辺守綱「姉川を思い出しますな。あれ、やりますか、大筒でドカーン!と」
家康「あまり刺激するな、空に向けてカラ撃ちだ」

>というように当初の脚本家は、姉川を伏線として、今度は大砲を用いて、問鉄砲を描いていたんですね。
>しかし、実際の放送では完全に削られている。
>これは一体どういうことか?
上記『初めに』の項目で書きましたが、関ヶ原の戦い当日の布陣や戦闘経過の記録のほとんどは、合戦後幕府や大名によって作成された編纂物、または軍記物などの二次史料です。
近年の研究で問鉄砲はなかった事が分かってきているため、『どうする家康』ではそちらを採用したのではないでしょうか。
一次史料による記録では『問鉄砲』の記述がなく、通説の典拠としては、『関原軍記大成』などの江戸時代の関ヶ原軍記なのだそうです。

黒田長政の手引きで裏切る手筈であった小早川隊が動かないのを不審に思った家康は様子見のため小早川隊の陣に向け銃撃を行うが、それでも変化は表れない。しかし、藤堂高虎に内通していた脇坂とともに小川・朽木・赤座の各隊が大谷隊に攻めかかると小早川隊もこれに続く

『関原軍記大成』

東軍総大将である家康さまが前に出た時点で敵に囲まれるというよりも小早川勢に『ここが大勝負』と思わせるためでもあったのだと思います。
因みに火縄銃の射程は100mなので問鉄砲やっても徳川本陣から4.4㎞はなれた松尾山まで鉄砲は届かないと思います。

Googleマップ

>結果、小早川秀秋は自ら裏切りのタイミングを決断することになり、ネット上ではかえって新鮮だったという意見もあり、何がなんだかわかりません。
桃配山で家康さまは黒田長政公に、調略の具合について尋ねています。
既に黒田家と懇意である吉川広家公が東軍への内応を約束しており、広家公を通じて小早川秀秋公、毛利輝元公への調略を繰り返していると長政公は答えています。(小早川の陣には黒田長政公の親戚が戦目付として入っています)
さらに直政に、秀秋公への文を書かせ各陣にばら撒き『徳川に内応している』と言い触らします。
西軍では秀秋公が合流する予定になっていましたが、東軍との内通を疑われており合流せず松尾山に陣を敷いたという知らせが入ります。
島左近は「合流せず松尾山に陣を敷いたということは、どちらに転ぶにも賢い場所、最後の最後まで見極めるつもりでしょう」と見抜いており、大谷さんに秀秋公を監視させることにし関ヶ原で開戦となりました。
あちこちで戦闘が始まっても小早川勢は動かず。
小早川陣では『徳川についた』と言い触らされている事を家臣たちが気にしていますが秀秋公は意に介さず、「戦の成り行きのみを見極めよ」と命じます。
この時戦況は五分五分で『吉川広家が敵の背後を突くと小早川も動く』と東軍西軍両陣営が読んでいました。
家康さまは毛利が一枚岩でない事を家康さまは見抜いていますが「調略の成果を祈るのみである」と言っており、毛利勢の内応や如何にして行動を起こさせないかを重視していたと思われます。 
小早川も毛利も動かないと見るや家康さまは「一気に勝負をかける」と前へ出ることを決意します。
徳川と石田の直接対決が始まり、家康さまが松尾山の方に目を向け「決断する時ぞ、小早川」と言います。
松尾山からそれを見届けた小早川秀秋公は「山を駆け下って、一気に攻めかかる」様命じ、小早川勢は一気に大谷さんの陣に攻め込みました。

「先手」の兵数は、福島正則が1番、細川忠興が2番、金森長近が3番、田中吉政その他上方の兵が4万計、各方面に配置された。青野ヶ原で合戦が行われ、即座に攻め込み大勝利を得ると、機会を見て(番ヒニ)小早川秀秋が裏切った。その戦場で大谷吉継が討ち死にすると、そのまま切り崩された。上方より出陣した兵数は5万計、4・5千人も討ち死した。

9月20付 近衛信尹宛近衛前久書状
『どうする家康』より
『どうする家康』より
『どうする家康』より

・西軍ざまぁwwwと言いたいだけの処理?

>関ヶ原の無惨な描き方の後、ピアノをかけながら「西軍ざまぁwww」と言わんばかりの描写が辛い。
>キンキン声のナレーションでざざっと説明され、しみじみと最悪でした。
>しかし、もうこれ以上マヌケなドラマに関わらなくてよくなった出演者には朗報ですね。
もうすでに10月26日に全ての撮影を終えクランクアップしているのですが。
東軍勝利で関ヶ原の戦終結した後、西軍諸将の処遇がナレーションにより伝えられます。
三成さんと小西行長公は『京・六条河原にて斬首』(安国寺恵瓊さんも同時に斬首になりますが作中では出て来ないため割愛します)
宇喜多秀家公は『改易 配流』
上杉景勝公は『減封の上移封』
総大将・毛利輝元公は『徳川と交渉のうえ大坂退去 減封』
(作中では敗戦の知らせを受け取った大坂城の輝元公、「これは何かの間違い、こんなに早く決着がつくわけがない」と全ての責任を三成さんに負わせ、茶々さまに打ち据えられていましたが、この時本領安堵を条件に大坂城を退去する密約が徳川方と成っていましたが阿波や伊予への侵攻が原因で周防・長門の2か国に減封されます。)
真田昌幸公は『高野山配流のち紀伊九度山に蟄居』
大谷吉継さんは関ヶ原で『自害』

『どうする家康』より
『どうする家康』より
『どうする家康』より
『どうする家康』より
『どうする家康』より

島左近は『行方知れず』の扱いでした。
島左近は関ヶ原の戦いを脱して落ち延び、京都に潜伏し寛永9年(1632年)に没したとする説もあります。(『石田軍記』など)
黒田軍の鉄砲隊と交戦し銃撃され負傷しており、関ヶ原での逸話として下記のようなものがあります。

(島左近の)関ヶ原合戦での戦いぶりは、徳川方をして「誠に身の毛も立ちて汗の出るなり」と恐れさせた
『常山紀談』

『常山紀談』

江戸初期、筑前福岡城にて関ヶ原に出陣し左近を襲撃した老いた武将達がその服装について若侍相手に語り合ったが、指物、陣羽織、具足に至るまでそれぞれ記憶が違い、理由をその恐ろしさに記憶が曖昧であったとしている
『故郷物語』

『故郷物語』

・直政重傷、そらそうよ?

>直政があの間抜けなヒゲのまま寝転がっているところは、こう思った方も少なくないのでは?
>「そらそうよ!」
>よく島津を相手に生きて戻れたなぁ……。
>チェストされてしまっても私は惜しみませんが。
>じゃっどん、こげんちょび髭コスプレイヤーを逃したなんて、島津に対すっ侮辱じゃなかじゃろうか?
ずっと井伊直政の事を『ちょび髭コスプレイヤー』と馬鹿にして演じる俳優さんが小柄で髭が合わない童顔というだけで『島津に対する侮辱』とは?
板垣さんの容姿を論って嘲って侮辱しているのは貴方のほうでは。

>この直政、重傷を負った割にはハキハキとした声音かつ笑顔で「天下取ったね!」とか言っている。
>重傷を負った人間とはとても思えません。
>アイテムを使えば回復するゲームのような描写で、まったくもってリアリティがない。
西軍の敗色が濃厚になり、徳川の家臣たちが家康の周囲にひざまずき、忠勝が祝勝の言葉を述べているところへ撤退中の島津軍が徳川に近づいて来ているとの知らせが入ります。
「放っておけばよい、前を蹴散らして逃げるつもりじゃろ」と平八郎さんが言いますが、井伊直政率いる井伊隊が島津を討ち取る気でおり、「目の前を素通りさせれば徳川の名折れぞ」と兵たちを鼓舞し後を追っていました。
しかし島津の捨てがまりによる銃弾を浴び、直政は落馬してしまいます。

捨てがまり
本隊が撤退する際に「しんがりの兵の中から小部隊がその場に留まり、追ってくる敵軍と死ぬまで戦い、足止めする。そうして小部隊が全滅するとまた新しい足止め隊を退路に残し、これを繰り返して時間稼ぎをしている間に本隊を逃げ切らせる」という戦法

西軍全体の潰走で退路を断たれた島津隊は敵中突破を試み、豊久を失い、わずか50名ばかりに兵力を減じながらも戦場を脱出。井伊直政は撤退中の島津隊の銃撃を受け負傷落馬する。『関ヶ原軍記大成』

『関ヶ原軍記大成』

弾は右脇腹の鎧に当たって跳ね返り、直政は右腕を負傷する。『井伊慶長記』

『井伊慶長記』

直政は右腕に重傷を負い、家康さまが自ら手当てをしました。
戦でかすり傷ひとつついた事がないと言う平八郎さんとは逆に、重装備ながら常に前線に立ち傷が絶えなかった井伊直政。
かつて小牧長久手の戦前に武田の赤備えを取り込み、その処し方に悩み傷を作りながら稽古する直政を家康さまは手当てしたこともあり、そんな殿の為に命を懸けて戦おうとしたのでしょう。
第31回でも書きましたが、平山先生によると家康公が負傷した家臣に自ら薬を塗ったり治療するなどの逸話は多くあるそうです。
また『吮疽之仁(せんそのじん)』という故事があり、一兵卒まで能力を信じ手当をする姿を直政の能力を買う家康さまに準えた描写もあったかと思います。

吮疽之仁
部下の苦労をねぎらって大切にすること
『史記』「呉起伝」
魏に呉起という将軍がいました。
ある時怪我をして苦しむ兵士を、将軍である呉起が自ら傷口から膿を出してやったところ、その兵士の母親は呉起の行動を喜ぶどころか『其方の子は一兵卒に過ぎない。それなのに将軍が自ら悪性の膿を吸ってくれた。彼は感激し敵に後ろを見せずに奮戦し父親と同じように戦死してしまうかと思えば、嘆かずにはいられない』と涙を流して悲しみました。

『史記』「呉起伝」
『どうする家康』より
『どうする家康』より

立ち上がろうとするも叶わず、座したまま「本陣前を行かせたら殿の名に傷がつくので、打ちのめしてやった」と言う直政を家康さまが労います。
「ついに・・・ついにやりましたな!天下を取りましたな!」「これから先が楽しみだ」と直政は主君の天下を喜ぶのでした。
直政は右腕を負傷し落馬したため、家康さまによって腕と頭に包帯を巻かれなんとか上体を起こせる程度です。
それでも殿の勝利を喜び、徳川家の未来を楽しみにしています。
しかし直政は戦後処理に奔走しますが、銃創がもとで亡くなり徳川の安寧の世を見届ける事はなかったのでした・・・
戦後処理や助命嘆願交渉などで奔走し過労もあったかと思います。
おそらく鉛中毒や銃創による外傷の細菌感染などもあるかと思います。
弾丸に用いられている金属には鉛が含まれ関節内腔や椎間板に鉛製の弾丸が残存した場合、長期間かけて中毒となる可能性があります。
また現代と違い抗菌薬投与もできないので敗血症による多臓器不全や破傷風などにもなりやすかったのではないでしょうか。

鉛中毒 - 25. 外傷と中毒 - MSDマニュアル家庭版 (msdmanuals.com)

MSDマニュアル家庭版

【現代医学】戦国時代の鉄砲の殺傷能力は高いのか? 撃たれると鉛中毒で死亡する可能性アリ | バズプラスニュース (buzz-plus.com)

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・どうする「天下を取る」?

>直政が大きな声で「天下を取った!」と喜ぶセリフにも違和感があります。
>本作は、無双系アクションゲームか何かと勘違いしていませんか。
>関ヶ原の戦いは、あくまで豊臣の忠臣はどちらか?を決める戦いでしょう
(中略)
>井伊直政が「ステージクリアだね!」みたいなことを言ったらもう、「君側の奸を討つ」名目すらわかっていないと証明したものでしょう。
>だから脚本家先生には何度でも問いたい。
>なぜ歴史が好きでもなく、勉強するそぶりすら見せないのに、大河ドラマなどという日本人にとって大事な作品に関わろうと思ったのですか?
時代考証の平山先生のポストを引用させていただきます。(平山先生ポスト引用させていただきます)

・井伊直政らの「殿、天下を取られましたな」と言う言葉は『三成らに奪われた「天下」(秀頼のもとにある「天下」)を奪還した』という意味
・家康は秀頼を支える天下殿(天下人)であり、それは豊臣体制の大老、そして「秀頼名代」としての資格のもと、衆目の一致するもの
・三成、大谷吉継らの挙兵と三奉行の同調により、「内府違いの条々」で家康は、ここでいったん「天下殿」(天下人)の地位から放逐されたため豊臣体制の「天下人」(秀頼名代)は、事実上空位だった
・毛利輝元、宇喜多秀家など有力大名が関ケ原の戦いで失脚し家康が再びその地位を奪回した
・誰がみてもその地位を揺るがすような相手がいないという、確固たる存在としての「天下人」(秀頼名代)となった
・家康はなおも、秀頼との主従関係を結んでいたことは瞭然(将軍宣下まで)

以上の事から『直政らが「殿、天下を取られましたな」と言ったとしても、それは豊臣体制のトップであり、秀頼の後見人として揺るぎない存在となったことを寿ぐものに他ならない』と言うのが平山先生の見解です。

>今年の大河は、終盤になっても弛緩しきっている。
>前回は地図上の本多正信表記が「本田正信」になっていて、後に修正が入っていました。
指摘を受けてもなお訂正せず放置なら問題ですが訂正がきちんとなされているのならよいのでは。
過ちては改むるに憚ること勿れ(過ちを犯したと気づいたら、自分の面目や他人の目など気にせず、ためらう事なく改めるべきである)』ができているのではないかと思います。

>家康と三成が向き合って、行き違いだのなんだのいう場面は必要ですか?
>三成にクローズアップしたというのはわかります。
>しかし、三成が戦乱の世を求めるのに対し、平和を求める家康ってのは、あまりに主人公補正が強すぎませんか。
>家康だけカッコつけて描こうとしているようで、恥ずかしくなってくる。
>「修羅の道」を行く宣言はなんだったのか。修羅修羅詐欺ですか。
人物が平和を求めるとすぐさま『マザーセナが~』『カルトが~』と言う人には『行き違いの不幸』は分からないと思います。
元々家康さまは戦嫌いの泣き虫白兎でした。
『修羅の道』とは『悪を一身に引き受け憎しみを引き受けて世界に平穏をもたらそう』という事です(要するにゼロ・レクイエムとかエレン・レクイエムなんですが)
家康さまは豊臣体制の大老として秀頼公の名代『天下人』として政を行うつもりでしたが、それを良しとしないものも多く三成さんの挙兵によって奉行衆が同調し『天下を簒奪するもの』とされ『内府違いの条々』によって天下人を下ろされた状態でした。
東軍からすれば逆に『三成を倒し秀頼公を取り戻す(これは長政公がはっきり言っています)』になりお互いの正義がぶつかった結果関ヶ原の戦になったのですが。
小西行長公は、雌雄を決しようと急く三成さんを『知恵ばかりの戦嫌いと皆お主を呼ぶが、ここまで熱き心があったとはな、紛れもなき乱世の武将ぞ』と評していました。
三成さんも確かに星見が趣味の泰平の世を望む人でしたが、『豊臣の天下の簒奪者を倒す』目的で採った手段が結果8000を超える犠牲を払う未曽有の悲惨な戦になり捕縛されたので家康さまは「なぜこのような無益な戦を引き起こした?死人は8000を超える。未曽有の悲惨な戦ぞ!」「何がそなたを変えてしまったんじゃ?わしはその正体が知りたい」と問うたんだと思います。
捕縛された三成さんは嘲笑するかのような笑みを浮かべ「思い上がりも甚だしい!」「自分は変わっていない、この私の内にも、戦乱を求むる心が確かにあっただけのこと、一度火が付けばもう止められぬ恐ろしい火種が」「それは誰の心にもある、ご自分にないとお思いか?」と言い、うぬぼれるなと家康さまを一喝し「この悲惨な戦を引き起こしたのは、私であり貴方だ」と声を荒げます。
三成さんが「その乱世を生き抜く貴方こそ、戦乱を求むる者!戦無き世などなせぬ、まやかしの夢を語るな」と言いますが、家康さまは「それでも、わしはやらねばならぬ」と静かに応えます。
三成さんは瞑目し、その後六条河原にて斬首されます。

『どうする家康』より
『どうする家康』より
『どうする家康』より
『どうする家康』より

・結局なかったぞ、干し柿が!?

>死を前にしても三成の毅然とした態度を表すエピソード――干し柿の話は、後世の創作とかなんとか、そういう問題ではありません。
>10月の週刊文春に掲載されていた文春砲の中身が正しいかどうか。
>この干し柿が一つの審査基準となっていたのです。
(中略)
>文春砲曰く「松本潤さんがやりたがらなかった」とのことで、それを親友の七之助さんは承諾した、というものです。
>干し柿エピソードは三成の意志の強さが表される見せ場の一つであり、役者としては演じたい場面でしょう。
>ゆえに私は注目していました。
>もしも干し柿のエピソードが出たら、文春砲はデマということになりかねない。
>結果、干し柿は……出ていません。
上記でも書きましたが、『干し柿は痰の毒』の逸話は享保以降に成立した『明良洪範』にある京への護送の途中での出来事という後世の創作であり、捕縛された三成さんと家康さまとの大津城での対面(9月23日)を重視したのではないでしょうか。
ドラマの制作は脚本が絶対というわけでもなく演出や俳優さんのアドリブ提案、撮影日程などの都合で変化する事もあるわけで、俳優さんたちもご自身の意見としてスタッフや考証の先生方と相談してアドリブを入れたり構成を変えるなど裏話をされています。
それなのに『干し柿が一つの審査基準』『文春に「松本潤さんがやりたがらなかった」と載っていたから』『役者としては演じたいに違いないのに』とは?
『干し柿エピなかったね』で済むところを史料の精査よりも文春記事が論拠とは?
一視聴者の貴方の妄想や我がままで勝手に変えられるわけではないですし、制作側の意向が反映されるのは当たり前です。

・文春砲の威力とは??

>ジャニーズ性加害の件にしても、他のメディアが沈黙していた頃から追い続けていたのが文春です。
>そして何より、NHKが『あさイチ』で文春砲を匂わせたことにより、結果的に「正しいのでは……」とアピールしたようにも思えます。
>さらには最終回のサプライズキャスティング報道により、文春砲が信頼性を増すことに。
>下手に反応したせいでますます深みにハマっています

ここでも論拠が文春砲とは・・・
本当に歴史系レビュアーの看板を下ろしてゴシップライターに変えた方がいいのでは?
宝塚の俳優さんは出演されていないのに宝塚の問題まで『どうする家康』のせいにするのは暴論過ぎると思いますが。
あさイチではMCの鈴木アナから「集中したい時に所属事務所をめぐる問題もあったりしたかと思うんですけど、その辺で色々考えたり悩んだりしたこともあったんですか?」と水を向けられた松本さん。
「この番組とかもそうですけど、自分たちが現場で作った作品がオンエアできないんじゃないかとか、今日も『あさイチ』も出演できないんじゃないかみたいなことも考える時期もありましたし」と不安な心境を語っていらっしゃいました。
これは彼の不安の吐露でありどこが『文春砲は正しかった!』になるのでしょうか。

松本潤「あさイチ」生出演で旧ジャニーズ性加害問題に初言及 大河「オンエアできないんじゃないかと…」(スポニチアネックス) - Yahoo!ニュース

スポニチアネックス

松本潤、大河オファー一度断っていた 嵐休止前「中途半端で受けられない」に華丸「先にどうする?があった」(デイリースポーツ) - Yahoo!ニュース

デイリースポーツ

・事は密なるを以って成り、語は泄るるを以って敗る?

事は密なるを以って成り、語は泄るるを以って敗る 『韓非子』
意訳:事を成功させるためには秘密のうちに運ばなければならない。
口にはくれぐれも注意せよ。

『韓非子』

>台本が週刊誌に漏洩しちゃうとか。
>SNSやインタビュー、関連番組で関係者がペラペラとお漏らしするとか。>そういうことしていてうまくいくと思ってんの?
関係者とやらが文春にベラベラと喋って書いたゴシップ記事をさも真実の様に喜んで吹聴し、俳優さんたちを誹謗中傷し続けている、そういうことしていてうまくいくと思ってんの?

>滑稽というか、物悲しいというか……。
>松本潤さんに忖度することで利益を得る立場の発言は、差し引いて考えねばならない。
>そういう基本的なことができていません。
>「でも、でも、松潤はいい人だもん!」という幼稚な信頼感ありきで、材料としては極めて信憑性が薄い。
>ファンでもなんでもないイチ読者から見たら、児戯に等しい発言に見えるでしょう。
>人間、利益を供与されれば何でもできる。
>猜疑心を働かせることも時には大事です。
文春砲は、そんな感情に依らない根拠があります。』
人間、利益を供与されれば何でもでき、猜疑心を働かせることも時には大事ですね。
松本潤さんを推しとして大切に思い応援しているファンや『どうする家康』の視聴者やキャスト・スタッフの頑張りや気持ちは平気で踏みつけにして自分は『文春砲が絶対!』ですか。
これでは貴方がいつも馬鹿にする『マザーセナ』と変わらないですね。
ファンクラブサイトでも『虚偽の事実でタレントを誹謗中傷する行為が続くのであれば、警察機関にも相談し、(中略)法的措置もやむを得ない』とありますがそれでもまだ続けますか。

ファンの皆さまへ注意とお願い | FAMILY CLUB Official Site (johnnys-net.jp)

FAMILY CLUB Official Site

>文春砲は、そんな感情に依らない根拠があります。
>ニコライ・バーグマンそっくりの押し花。
>そして今回の干し柿です。
>人は嘘をつくことができる。
>ましてや利害関係があればそうする。
>しかし、押し花や干し柿は嘘をつけません。
>文春砲はそうして二重にも三重にも兵法を駆使しているのに、『あさイチ』で不必要なことを話して、墓穴を掘っていませんかね?
押し花や干し柿は嘘をつけません。』
意味が分かりません。
押し花も干し柿も所謂小道具・消え物ですのでその場面に必要ならば使用されるし尺の都合でカットしなければならない事もあるでしょう。

・今年の大河は失敗作だ?

>ソロ写真集を出し、展覧会を開催する今年の主演とは大違いでは?
松本潤さんの写真集は書籍説明に『松本潤個人としては初の写真集。主演を務める大河ドラマ『どうする家康』の撮影が開始されて間もない、松本39歳の誕生日から、2023年10月26日のクランクアップまでの、約1年2か月間にわたる日々の記録。』とあります。
初となる展覧会『JUN MATSUMOTO EXHIBITION「PERSPECTIVE ‐時をつなぐ眼差し‐」』はご自身が選んだ、6人のクリエイターとのコラボレーションを通して松本潤さんが得た”言葉と視点”を体感する展覧会だそうですね。
これらは今まで大河ドラマを楽しんでくれたファンや視聴者に楽しんでもらいたいという松本さんの気持ちからのイベント企画でしょうし、このイベントを楽しみたい人が申し込めばいいわけですからそれを踏み込んできてネチネチと論って叩き続ける方が迷惑だと思います。

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松本潤「PERSPECTIVE ‐時をつなぐ眼差し‐」in 六本木 12月8日より開催! (collabo-cafe.com)

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>なんでも大河ドラマ館にも主演のパネルがあるそうで、紫尽くしとも聞きます。
>ここまで来ると特定の芸能事務所利益に受信料で貢献しているという図式にすら見えてきます。
大河ドラマの主役なのだから大河ドラマ館に主役のパネルがあるのは当たり前では?
毎年大河ドラマ館には主役を始め出演キャストのパネルが置いてあり撮影スポットになっていますし、別ジャンルでもコラボ展示などで等身大パネルはよくある事です。
大河ドラマ館どころか博物館・美術館すら行った事ないんでしょうか。

どうする家康 岡崎 大河ドラマ館|家康公生誕の地 岡崎 (okazaki-kanko.jp)

岡崎 大河ドラマ館

どうする家康 浜松 大河ドラマ館 館内案内|大河ドラマ館|徳川家康公ゆかりの地 出世の街 浜松 (hamamatsu-ieyasu.com)

浜松 大河ドラマ館

・後生畏る可し?

後生畏る可し。(こうせいおそるべし)『論語』
意訳:後から生まれてくる者は、これからどれほどの力量を示すかはかり知れないから、おそれなければならない。

『論語』

>若者の声はちゃんと聞け、尊重しろ。
>なんでも「シン・」をつけてる場合じゃねえぞ。
>SNSで「なぁぜなぁぜ」と書き込めば若者になれるとでも思ってんのか?
後生畏る可し』の本当の意訳はどこへ行ったんでしょうか。
本来の意味も示さずデタラメを提示して教養マウントができると思ったら大間違いです。

>先日、書店の歴史雑誌コーナーを見ました。
>大河の存在感が薄い……。
>番宣はNHKが謎の忖度をするせいか、11月になってもしつこいですが、雑誌はそんな忖度無用ですからね。
この下で延々と『パリピ孔明』を語っているんですが、大河レビューで語る必要性を感じませんのでやりたかったら別記事を立ててそちらでやってください。
『これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者にかず。(=知っているだけより、好きになる方がよい。好きなだけより、楽しむ方がよい)』
貴方のような知識マウントのための叩き棒や押し付けでは紹介されても楽しめないと思います。

>昨今の若者はライトノベルを読んでいないとか。
>そういった問題にも通じるものがある気がします。
>本作のファンダムは「頭の固い年寄りにはわかんないでしょwww」「嫌なら見なけりゃいいwww」などと自らに賛同しない者を嘲笑いながら、「シン・大河」だのなんだの言う。
>しかしその結果、視聴率はワースト2位なわけです。
>若者が見ていないどころの問題ではありません。
>大多数が、否定しています。
昨今の若者はライトノベルを読んでいない』
その論拠をお示し下さい。
『大多数が、否定しています。』
その否定している大多数とはどのくらいの母数の中から抽出された人数なのか具体的に提示してください。
「嫌なら見なけりゃいいwww」
全くその通りです。苦痛を伴うのなら、わざわざ土足で入って『私の嫌いなものを楽しんでいるファンダムは害悪!』『私の嫌いなものを応援する奴はカルト!』と荒らし続けるから賛同者が得られないのです。
自らに賛同しない者を嘲笑っているのは貴方では。

※何かを見た氏も『皆様も思うところあれば、NHKへ直接お伝えください。』と仰っているので『最高の大河』になるようファンの皆様で応援の言葉や温かい感想を送ってみてはいかがでしょうか?

NHKや番組についてのご意見・お問い合わせ | NHK みなさまの声にお応えします
◆NHK みなさまの声(→link

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