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大河コラムについて思ふ事~『光る君へ』第26回

7月上旬になりました。真夏日が増え湿度も高いですが健やかにお過ごしでしょうか。
気圧変化もあり大雨になるなど、皆様健康や災害には充分お気を付けください。
さて、光る君へ第26回。 
今週も『武将ジャパン』大河ドラマコラムについて書かせていただきます。
太字が何かを見たさんの言質です。
御手隙の方に読んでいただければと思います。それでは。


・初めに

>せっせと贈り物は運んでくる
>家の修理代は嬉々として出す。
宣孝公はまひろさんと結婚後も贈り物を欠かしません。
お洒落に疎めのまひろさんでしたが、宣孝公は鏡を贈りました。

>しかし、身寄りのない子供に冷淡で、別の女と遊びに出たところでついでに土産を買ってきて、さらには「だから道長に嫌われるんだ」と言ってはいけない一言を。
都は水害の後、地震に襲われまひろさんの自邸も壊れてしまい、現山城守で富のある宣孝公の援助で平静を取り戻していました。
まひろさんは宣孝公の財で災害で孤児となった子供たちに炊き出しをしています。
宣孝公は集まった子供たちに「穢らわしい」と言い放ちます。
平安京には左・右京に官営の悲田院が置かれ病者・孤児などを収容していました。
しかし、貴族が庶民のための政策を打ち出す事は無くほとんど無関心でした。
宣孝公は悲田院ではなく家の前に孤児が集まったり、夫婦といえど自分(宣孝公)の私費から施しをしているまひろさんのやり方をあまり良く思わなかったのではないでしょうか。
土産もまひろさんに持ってきた物であると分け与える事を良しとしませんでした。

宣孝公はまひろさんからもらった文を教養豊かで文才に秀でた嫁を貰ったとあちこちの女性に見せて回り、まひろさんは「殿に送った文、すべてお返しくださいませ。そうでなければ、お別れいたします」と怒ります。
また、まひろさんは弟・惟規さまから宣孝公の新たな妾の噂を耳にしました。
惟規さまは清水の市でまひろさんよりはるかに若い女性に宣孝公が絹の反物を買ってやっているのを見かけたのです。
許す・許さない、別れる・別れないという文が幾度か交わされた後、宣孝公がまひろさんの許を訪れ清水の市で手に入れたという絹の反物を贈ります。
嫌味や苦言などの応酬の後、宣孝公は「そういうかわいげのないところに、左大臣様も嫌気がさしたのではないか? わかるな~」と言い放ちます。
そして、怒ったまひろさんは火桶の灰を宣孝公の顔に投げつけ、宣孝公の足はますます遠のいてしまうのでした。

『光る君へ』より

>長徳4年(998年)10月――
>日蝕と地震が同時に都を襲いました
長徳4年(998年)10月、地震と日蝕が同時に都を襲います。
「長徳4年10月、地震と日食が同時に都を襲った」と語りが入ります。
『権記』長徳四年(九九八年)十月一日条には『日蝕(にっしょく)は午剋(うまのこく/午前11時~午後1時ごろ)であった。或る説では正現(せいげん)しなかった。末に復したのは未剋(ひつじのこく/午後1時~午後3時ごろ)になった。その前に地震があった。』とあります。

『権記』長徳4年(998年)10月1日条
『光る君へ』より

まひろさんの自邸・堤中納言邸では崩れた土塀や屋根の部材を大工たちが片付け、まひろさんが調度品の片付けを差配しています。
まひろさんは夫となった宣孝公からの経済援助
で家を修繕し、生計を立てていました。
いとさんは「宣孝様がこんなにも裕福なお方とは」と感心しています。
福丸さんが皆を放置して逃げ出してしまった様でいとさんが「福丸は私をほっぽり出して逃げて行きましたけど、宣孝さまはお方さまを庇われた」と不満を口にしています。
そこへ福丸さんがきぬさんに連れられて戻って来たためいとさんが彼を叱ります。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

・宣孝は理想の夫?

>片付けを進めていると、宣孝が贈り物を手にやってきました。
片付けの最中、宣孝公が「取っておきの贈り物を持って来たぞ」とまひろさんを訪ねてきました。
地震後の修復をする大工たちに「頼んだぞ」と砂金を渡しています。
まひろさんは「毎度の贈り物はもう…」と言いますが宣孝公は「わしがしたいのじゃ。断るな」と答え、鏡を贈ります。
今までのよりも遥かによく映る鏡のため、まひろさんは「この様なよく映る鏡で自分の顔をまじまじと見た事はありませぬ」と鏡を覗き込みます。
宣孝公が「我ながらかわいいであろう?」と言いまひろさんは「まあ、思ったとおりでございます」と返します。
宣孝公が「自信があったのじゃな」と尋ねるとまひろさんが「またそのようなお戯れを」と返します。
宣孝公は御簾で仕切られた部屋の中で「もっと戯れよう。ふふふ」とまひろさんを抱きしめて倒しました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>贈り物とは、お高い鏡です。宋のものでしょうか。
日本において前近代に於いては鏡は銅(青銅)で作られるのが一般的でした。
銅鏡は溶かした銅を型に流し入れて作る鋳物です。
中国・漢の時代には幾何学的な文様や観念的な神仙世界の文様が好まれましたが、唐の時代になると、鳥や花といったモチーフが鏡背に表されるようになりました。
『光る君へ』16回では登華殿での帝と定子さまや中関白家の皆が居並ぶ中、藤原斉信卿が越前からの鏡を献上していました。
斉信卿が定子さまに献上した鏡は形状から八稜鏡と思われます。

『光る君へ』16回より

若狭・越前での宋人との交易・交流は民間でも活発に行われ、若狭・越前など日本海沿岸に宋船が入港した場合、直接都から『存問使』が派遣されたり、国司から直接太政官に報告させた後に公卿の審議となり、交渉窓口である大宰府に廻すなどしていました。

平安時代になると唐鏡をお手本にした鏡が日本で作られるようになります。
八稜鏡は唐鏡の八花鏡を元に日本で創作されたと考えられるそうです。
まひろさんの鏡は柄が画像からは分かりにくいですが、鈕が小さく文様などが表されない宋鏡を日本風にアレンジした和鏡の可能性があります。

『光る君へ』より

・道長の清らかな宝とは一の姫・彰子?

>藤原行成が帝に、安倍晴明の「天文密奏」を持ち込んできました。
内裏では陰陽師・安倍晴明公により『天文密奏』が一条帝に奏上されました。
「天文密奏とは異常な天文現象が起きた時、その占いの結果を内密に天皇に知らせることを言う」と語りが入ります。
晴明公が「日蝕と地震についての『天文密奏』にございます」と奏上し、蔵人頭・藤原行成卿によって帝に届けられます。
帝は天文密奏をお読みになり、「朕のせいなのか…」と仰り、大変深刻なご様子です。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

大水と地震による都での死者数は100人を超えていました。
道長卿は人夫の数を増やし、堤を急いで築き直す様に山城守と検非違使に伝えよ」と指示を出しています。
道長卿は雷雨の中、晴明公の邸を訪ねました。
晴明公に「天変地異 はいつまで続くのか?」と見立てを尋ねます。
晴明公は「帝の心の乱れが収まれば天変地異は治ります」と答えました。
「帝が定子さまの許に昼間から通い、政務をなおざりにしていることは先日お諫めした」とも言います。
晴明公は「天地(あめつち)の気の流れを変え、帝のお心を正しき所にお戻しするしかない」と言います。
「如何すればよい?」と問う道長卿に、晴明公は「左大臣さまは良きものをお持ちと申しました。良きものとは、左大臣さまの一の姫・彰子さまにございます」と答えます。
さらに晴明公は帝が職御曹司に入浸る事について「出家とは片足をあの世に突っ込むという事。最早后たり得ぬ中宮さまによって帝は乱心あそばされたのです」と定子さまのせいだと断定します。
さらに「今こそ穢れなき姫君を帝の許へ」と言う晴明公。
道長卿は「女御なら義子さまも元子さまもおられる」と言いますが晴明公は「女御さまたちとその父親には何の力もない、左大臣さまの姫君であらねば」と主張します。
「できぬ」と言う道長卿に、晴明公は「私には見えまする。彰子さまはこの先の朝廷を背負って立つお方。」と言います。
道長卿は「引っ込み思案で口数も少なく、何よりまだ子供だ」と反論しますが、晴明公は意に介さず「おそれながら…入内は彰子さまが背負った宿命である」と言います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>不吉な占いの結果が書かれていて、天皇しか読めないものです。
『天文密奏』は古代中国の上天思想に由来し、天文に関する現象は、国家の存亡に関わる予兆として捉えられていました。
異常な天文現象を見つけた時には、陰陽師はそれを天の啓示と受けとめ、異常現象と過去に発生した同様の事例から勘案して解釈を観測記録とともに奏書に認めて密封して、速やかに陰陽頭を通じて天皇に対して上奏されました。
蔵人所成立後は、天文博士らは陰陽頭を通さずに蔵人に対して密奏を提出して、蔵人から天皇に報告するようになりました。
『権記』長徳4年(998)10月3日条には『申剋(さるのこく/午後3時~午後5時ごろ)、(安倍)吉昌朝臣(あそん)が蔵人右衛門尉(藤原行正)を介して奏上させた。去る9月26日に月と填星(てんせい)とが同宿したこと、同日申剋に月蝕(げっしょく)があり、酉剋(とりのこく/午後5時~午後7時ごろ)に末に復したこと、今月1日未剋(ひつじのこく/午後1時~午後3時ごろ)の地震についての天文密奏であった。』とあります。

『権記』長徳4年(998)10月3日条

>「朕のせいなのか……」そう嘆く帝。
>「天譴論(てんけんろん)」ですね(詳細は後述)
『天譴論』とは、『天が人間を罰するために災害を起こす』『災害とは天が人間に下した罰である』という儒教に基づく思想です。
また、『天人相関説(天人感応説)』という思想があります。
前漢の儒学者・董仲舒(とうちゅうじょ)が最初に組織的に論じ、人事と自然現象 (天) との間に対応関係があり、人間の行為の善悪が自然界の異変 (吉祥や災異) を呼起すという思想です。(出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
この場合の人とは天の代理人である皇帝など為政者です。
天子の所業は自然現象に象られ、悪政を行えば、大火や水害、地震、彗星の飛来などをもたらし、善政を行えば、瑞獣の出現など様々な吉兆として現れるとされました。
天変地異や疫病流行などの災害を防ぐため、君主は善政を布くことが模範として求められ、特別に行うそれらの施策は「徳政」と言われました。
中国王朝の歴代皇帝は災害が起きた時に、『罪己詔(自らの過ちを反省し、政策を変更するために出した自己批判を示す詔書の一種)』を発し、日本の天皇では具体的な減税・復興などの指示や仏教・神道・陰陽道による各種の祈願も加えられました。
藤原氏による摂関政治や武家政権になると『罪己詔』は為政者の責任による大政奉還をせざるを得なくなり権力が失墜してしまうため年号改元に留まり、江戸時代になると地震は天譴というより自然現象であるという認識が普及し、実質的な災害対策や復興が優先されます。

『源氏物語』第十九帖 「薄雲」では、天変が起こり源氏の君が『自分が冷泉帝の実父でありながら臣下として仕えている事』が帝の失政として凶兆に繋がると悟る場面があります。
そして藤壺宮の死後、冷泉帝は僧都から出生の秘密を伝えられ思い悩まれ、王統乱脈の先例を調べると源氏の君に譲位する事をお考えになります。

『源氏物語』第十九帖 「薄雲」

>道長は目の前の課題に取り組むことと、人脈を築くことを得意とします。
>ただし、発想に合理性が乏しいところが欠点。
>というのも、安倍晴明を呼び「天変地異はいつまで続くのか?」と尋ねてしまっている。
>道長は「既に帝を諌めている」とも付け加えました。
水害に都が見舞われながらもなお政に消極的な帝の目を再び政に向けたい道長卿は、すでに『左大臣である自分の責任である(政務が滞らない様帝にお戻り願いたい)』とすでに辞表を3度提出し自身が単独で出し得るカードを切ったつもりでした。
しかし辞表は受理されず、さらに日蝕と地震が襲い『天文密奏』が上奏されました。
道長卿は帝の治世が揺らがぬためにどうすれば良いか晴明公に相談しました。
晴明公は『天人相関説』に従い、帝が唯一人の出家した中宮に懸想するばかりでなく後宮の秩序を糺し徳政を施せる様、彰子さまの入内を促したのだと思います。
『内覧の権利を有した左大臣』は摂政・関白と違い、帝に変わり裁定を下す事はできません。
天文の動きを読み宮中祭祀に携わる陰陽師である晴明公に相談する事で彰子さまの入内に説得力を持たせる意味もありそうです。
『発想に合理性が乏しい』とありますが、具体的に合理性のある発想とは何でしょうか。

>この「子どもである」というのは肉体面での話なのか、あるいは精神面なのか。
>そこが重要に思えます。
>実際の年齢よりも幼く、年相応に思えないというのはあるのでしょう
『子どもである』という事が肉体面なのか精神面なのかでどの様に重要なのか具体的に提示してください。
晴明公が「彰子さまはこの先の朝廷を背負って立つお方。」と入内を勧め、道長卿は「引っ込み思案で口数も少なく、何よりまだ子供だ」と反論します。
この時彰子さまは11歳。
女性の成人式である『裳着』を済ましていませんでした。
裳着は通説では初潮を迎えた後の10代前半の女子が対象です。
まだ初潮を迎えたか否かという年で入内し即皇子を望まれ人々の好奇の目や嫉妬に晒される事に道長卿は父として偲びなかったのでしょう。

・道長も身を切るときがきた?

>藤原道長は、姉の詮子に相談することにしました。
道長卿は姉の東三条院・詮子さまに彰子さまの入内について相談します。
詮子さまは「そろそろそのくらいの事をしてはどうか」「身を切れ」と言います。
さらに詮子さまは「お前はいつもきれいな所にいる、今の地位とてあくせくと策を弄して手に入れたものではない。運が良かったのでしょ。何もかもうまく行きすぎていたのよ」と言います。
「身を切る覚悟は常にありますが彰子はまだ子供」と道長は煮え切らない態度です。
詮子さまは、「子供であろうともそれが使命であればやり抜く」と言い切りました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

道長卿は「むごいことを仰せられる」と言います。
しかし詮子さまは「娘を庇うよき父親の顔をして、お前は苦手な宮中の力争いから逃げている」と容赦無く弟の意見を否定し、「私は父に裏切られ帝の寵愛を失い、息子を中宮に奪われ兄上に内裏を追われ、失い尽くしながら生きて来た。それを思えば、道長もついに血を流す時が来たという事よ。朝廷の混乱と天変地異が収まるなら彰子をお出しなさい」と諭します。
道長は、「姉上に自分がその様に観られていたとは知らなかった」と言いますが、詮子さまは「大好きな弟故、よく見ておっただけよ」と返します。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

・あんな幼い娘を入内させるなんて…?

>源倫子のもとで道長の長男である田鶴が遊んでいます。
土御門邸では倫子さまに見守られ子どもたちが賑やかに遊んでいます。
別室で詮子さまと道長卿が話していると道長卿の嫡男・田鶴君が走り寄り、倫子さまがそれを窘めています。
田鶴君は「迦陵頻の舞を習いました」と道長卿に話し、彼の前で舞ってみせます。
道長卿は「今度ゆっくり見るゆえ」と言い、倫子さまも「父上はお疲れだからまたにしなさい」と言い田鶴を座らせました。
活発な田鶴君とは打って変わって彰子さまは道長卿から「彰子は何をしておったのか?」と訊かれても無言のままでした。
「姉上は何もしてません」と答えた田鶴君を、「父上のお邪魔をしてはいけない」と倫子さまが下がらせ、子供たちも皆下がっていきます。
道長卿は共に下がって行く彰子さまの姿を見ていました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>そこへ道長がやってくると、「迦陵頻の舞を習った」として踊り始めます。
『そこへ道長がやってくると』では子供たちが遊んでいる所に道長卿がやって来た様に感じます。覚えたての迦陵頻を道長卿に見せたかった田鶴(後の藤原頼通卿)は詮子さまと道長卿の話している部屋に駆け込んできて倫子さまがその後入ってきます。
田鶴が父に見せるために舞っていた演目は童子が四人で舞う童舞(わらべまい)の『迦陵頻』です。
極楽浄土に住むとされ上半身が人、下半身が鳥で非常に美しい声で鳴くという想像上の鳥・迦陵頻伽が舞う姿に準えた仏教行事の舞楽です。
番舞(つがいまい)として胡蝶があります。

『阿弥陀経和訓図会』より
迦陵頻伽と共命鳥(ぐみょうちょう)
舞楽『迦陵頻』
日本服飾史

>夫婦だけになると、倫子は道長のやつれた様子を見て、激務に追われていると気遣い、道長から「相談がある」と切り出されると「嬉しい」と喜んでいます。
『夫婦だけになる』というよりも夫婦の寝所での会話です。
彰子さまの母であり嫡妻の倫子さまに承諾してもらわなければいけない漏れてはいけない事だからこそ、道長卿は二人になる寝所で倫子さまに相談を持ちかけたのでしょう。
夜、寝所で倫子さまは道長卿が痩せた事に気付きました。
倫子さまは「大水、日蝕、地震以来お仕事が忙しすぎるのでしょう」と言い、肩を揉もうとしますが道長卿は断ります。
そして、倫子さまに「相談がある」と持ちかけました。
倫子さまは「いつもお胸の内を明かしてくださらぬ殿が、私に相談とは嬉しゅうございます」と微笑みますが、道長卿は「嬉しい話ではない」と言います。
道長卿は「彰子を入内させようと思うのだ」と倫子さまに告げました。
道長卿は「続く天変地異を鎮め、世の安寧を保つためには彰子の入内しかないのだ」と言います。
倫子さまは「お気は確かなのですか。入内して幸せな姫なぞおらぬといつも仰せでした」と反論します。
倫子さまは彰子さまの入内に反対で「優しい婿を貰い、穏やかにこの屋敷で暮らして欲しい」と言います。
道長卿もかつてはそう思っていましたが、「最早入内もやむなし」と考えています。
倫子さまは「中宮様は出家しても帝を思いのままに操る強かなお方、そんな負けの見えた勝負など嫌ございます!」と言います。
道長卿は「勝負ではない、これは生贄だ。手塩にかけた尊い娘だからこそ値打ちがある」と言い放ちました。
道長卿は「これ以上の帝の我儘は許す訳にいかない。何もしなければ朝廷は力を失って行く」と主張します。
倫子さまは「朝廷がどうなろうと彰子に関わりはない」と言います。
道長卿は「そうは行かぬ。私は左大臣で、彰子は左大臣の娘である」と答えます。
倫子さまは尚も不承知でしたが、それでもやらねばならない事です。
倫子さまは「相談でございませんでしたの?」と問いますが道長卿は「許せ」と頭を下げます。
倫子さまは、「どうしても彰子を生贄にするなら私を殺してからにしてください。私が生きている限り彰子を政の道具になどさせませぬ」と言います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

倫子さまは母・穆子さまに彰子さま入内の話をします。
穆子さまは倫子さまにも、「先の帝(花山院)に入内する話があった」と話します。
倫子さまは「入内せず道長さまの妻になれてよかった。だからこそ彰子にもそのような幸せを与えてやりたい」と言います。
しかし穆子さまは「入内をしたら必ず不幸せになるとは決まったものではないわよ」と言います。倫子さまは「帝は政も疎かになるほど、定子の色香に骨抜きにされています」と言います。
しかし穆子さまは「ひょっこり、中宮様が亡くなったりしたら?何がどうなるかは、やってみなければ分からない。それに定子は帝より4つもお年が上でしょ。今は首ったけでもその内お飽きになるんじゃない?」と述べました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>しかし、倫子にとって朝廷の力などどうでもいいこと。
倫子さまは「朝廷がどうなろうと彰子に関わりはない」と言っています。
倫子さまは源雅信卿の娘ですが、家族や自分の意思で望まぬ入内を避けられました。
倫子さまは『負けの見えた勝負』『帝は政も疎かになるほど、定子の色香に骨抜きにされている』と言っており、彰子さまがその様な所で張り合うよりも入内ではなく家格の釣り合う婿を取り土御門邸を継がせたいのだと思います。
もともと道長卿は若い時期に、「入内は決しておなごを幸せにはせぬ」と否定的で、突然の話に倫子さまが入内を逡巡してしまうのも無理からぬ事かと思います。

・彰子は事態を理解できているのか??

>道長は「改元すべきだ」と言い出しました。
道長卿は藤原実資卿を呼びました。
そして「年が明けたら改元しようと思う」と述べます。
『延世』『長保』『恒久』の3つの候補が提示され、実資卿は「『長保』が宜しかろうと存じます」と答えます。
実資卿は「左大臣様の世が長く保たれましょう」と言います。
道長卿は「帝の御代ではないのか」と尋ねますが、実資卿は「帝は傾国の中宮にお心を誑かされている故、このままでは…」と言いかけ言葉を濁してしまいました。
道長卿も実資卿の言いたい事は分かっていました。
実資卿は「もし、左大臣さまの姫君が入内されれば後宮の内もまとまり、帝のご運も上向いて御代も長く保たれるのではないか」と道長卿に彰子さまの入内を勧めます。
道長卿が「中納言殿は、真にそう思われるのか?」と尋ねると、実資卿は「もちろんにございまする!」と強く頷きました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

実資卿は小野宮の自邸で「入内…」と呟き、日記に書き付けます。
そして「ないな、ないない」と1人納得し、鸚鵡が「ナイナイ…」と口調を真似ています。
今週から再び鸚鵡の声を種崎敦美さんが努めている様です。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>帝は傾国の中宮に誑かされているけれど、左大臣の姫君が入内すれば後宮がまとまり、帝も上向いて保たれる。
藤原実資卿は世の乱れの原因について「帝は傾国の中宮にお心を誑かされている故、このままでは…」と言い、「左大臣さまの姫君が入内されれば後宮の内もまとまり、帝のご運も上向いて御代も長く保たれるのではないか」と入内を勧めます。
作中では定子さまが職御曹司に移った事で実資卿はじめ公卿たちから女房まで激しい宮中の反発の様子が描かれました。
『小右記』長徳三年(997年) 六月二十二日条には『今夜、中宮定子様は、中宮職の役所である職御曹司に転居なさる。宮中ではだれもが甘く見てはいない。「彼の宮(中関白家)の人々だけが(定子さまは)出家なさっていないと言い張っている」と云々。……ありえないことだ。』とあり、一旦出家し仏門に入った定子さまに対する風当たりは強かったのではないかと思います。
だからこそ清少納言が『枕草子』を書き、伊周卿が定子さまサロンを活気づけたかったのではないかと思います。

『小右記』長徳三年(997年) 六月二十二日条

>道長と倫子という、彰子に距離が近い両親が「まだ幼い」と判断している。
>一方で、距離が遠く、彼女の人となりを知らない晴明や実資は入内を勧めてくる。
>つまり、肉体の年齢としてはそこまで早いわけではないことがわかります。
時代考証・倉本一宏氏は『増補版 藤原道長の権力と欲望(文春新書)』に於いて『平安中期の醍醐から後朱雀までの十人の天皇の后のうち、初産年齢がわかる十四名について調べると、彼女たちの入内年齢は、平均して十六・四歳、最低では十二歳(彰子)という若さであるのに、初めて皇子女を出産した時の年齢は、平均すると二十一・四歳であり、最低でも十九歳に達しないと出産し得ていない』と仰っています。
彰子さまはまだ数え12歳で初潮を機に成人の証とする『裳着』も済ませておらず、両親が『入内し子を成すにはまだ幼い』となったのではないでしょうか。
それでも敢えて詮子さまを後ろ盾とし晴明公や実資卿に意見を求めてまで彰子さまをを入内させるのは、『傾国の中宮』から帝を引き離し、朝廷と後宮を清めるという公共利益のためなのかもしれません。(権力闘争の意味もあるかもしれませんが)

>日記には「入内はない」と記し、オウムが覚えるまで「ないないないない……」と口にしてはいました。
実資卿は「入内…」と呟いた後、日記に書き付けます。
そして「ないな、ないない」と言う後ろで鸚鵡が「ナイナイ…」と真似しています。
道長卿が娘の入内についてまだ周りの様子を伺っている状態で彰子さまも数え12歳のため、実資卿は『まだ入内は無いだろう』と踏んだのではないでしょうか。

・彰子は「仰せのままに」と受け止める?

>田鶴と妍子が毱遊びをしています。
>二人の姉である彰子はぼんやり。
土御門殿では、田鶴君が妹の妍子さまと毬で遊んでいます。
転がって来た毬を拾う倫子さまに田鶴君は、「姉上はぼんやり者故、婿も来ないのですね」と言い、倫子さまに叱られました。
しかし田鶴君は「姉上は琴も覚えておらず、琴の師匠が怒っていました」と口にします。
倫子さまは、「田鶴はこの家を継ぎ父上の跡を継ぐ大切な嫡男。姉上は帝のお后となるような尊い姫なのですよ!」と言い聞かせます。
しかし、倫子さまはふと口にしていけないことを言ってしまったと気付き「あら」と言います。
田鶴君もその言葉を真似、「あら」と言います。そして田鶴君は、「母上は父上と喧嘩しているのですか?」と尋ね、倫子さまは否定します。
田鶴君は「いつもぷんぷんしている」と言い倫子さまの否定の言葉を真似します。

『光る君へ』より

その頃、彰子さまは「父はそなたを帝の后にしようと考えておる」と入内の事を道長卿から聞かされています。
しかし彰子さまは「仰せのままに」としか答えません。
道長卿は「母上は固く不承知なのだが、お前はまことによいのか」と念を押します。
しかし彰子さまは「仰せのままに」と言うのみです。
「内裏に上がれば、母上や田鶴らとも気軽に会えなくなる。されどこの国の全ての女子の上に立つ事は、晴れがましき事でもある」と道長卿は言います。
道長卿は「私の言っている事が分かるか?」と尋ねました。
彰子さまは質問には答えず暫しの沈黙の後、またも「仰せのままに」と言い、道長卿は「分かるかと聞いておるのだ」と再度尋ねます。
彰子さまは目を伏せて黙ってしまいました。
道長卿は「今日はもうよい。また話そう」と決めましたが、「あの様に何も分からぬ娘を入内させられるのか…」と内心不安を覚えていました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>彰子は何も考えていないように思えますが……果たしてそうでしょうか?
>目は何か俯いている。
>考えているけれども、そのことに口が追いつかないか。
>どうせ説明しても聞いてもらえないと諦めているか。
入内することになった彰子さまは数え12歳。
憂いを帯び、「私の言っている事が分かるか?」と道長卿から尋ねられても「仰せのままに」と頼りなさげな彰子さま。
そんな彰子さまは「あの様に何も分からぬ娘を入内させられるのか…」と父を不安にさせてしまうのでした。
無表情で『仰せのままに』と言う、受け身でともすれば幼く見える彰子さま。
『栄花物語』によると彰子さまは『髪は背丈よりも長く、顔かたちは美しく、まだ少女というべき年齢なのに、落ち着いていて申し分のない姫君でいらっしゃった』との事です。
史実では彰子さまは87歳まで長生きし、上東門院として長く政権を支えます。
彰子さまのサロンには紫式部・赤染衛門・和泉式部・伊勢大輔といった超一流の女流文学を嗜む女房たちが集まります。
『小右記』では「賢后」と称賛されている方なので今後の成長が楽しみです。
視聴者の中には漫画『あさきゆめみし』の女三宮の様だと言う人もいました。

『あさきゆめみし』とは紫式部が書いた『源氏物語』を漫画化した作品で、女三宮は父・朱雀帝に甘やかされて育ち、表情に乏しくいつもぼんやりして何を考えているか分からないという人物です。
皇女として生まれ、父帝に誰よりも深く愛され、望めば何でも手に入る女三の宮は『何かを望む欲』を忘れ人形の様だったのでしょう。
柏木と道ならぬ関係を持った事でわずかに自分の意思を持つようになりますが…

『源氏物語』の女三の宮は朱雀帝の皇女でありながら、出家の前に彼女の結婚を決めてしまいたい父帝の思し召しにより、臣籍である源氏の君の継室になります。
紫の上のこともあって源氏の君は当初は固辞しますが朱雀院は病で出家し、亡き藤壺の宮の姪という事もあり承諾せざるを得なくなります。
無邪気で幼子の様な女三宮に源氏の君はとても放っておけない様子でした。
女三の宮は柏木との不義密通の結果薫を産みます。

『光る君へ』より

>しかし、考えてみてください。
>弟からも、師匠からも、そして親からもうっすらと「頭が悪いから」と思われているとして、そういう相手に、自分の心情を話す気になれます?>どうせ小馬鹿にしたり、哀れんだ目で見てくる相手に、心を開いて話そうと思えるかどうか。
>この父と娘は、信頼関係が構築できていません。
公式で全く言及されていないのに彰子さまに勝手に属性を付け、『生きづらさをかかえるASDは素晴らしい!私と同じ!』と勝手に素人判断で決めつけるのは医学的科学的根拠が無いと思います。
また、田鶴君は親に甘えたい年頃の男の子であるのに周りの大人が急に入内するであろうおっとりした性格の姉・彰子さまに構いっきりになるため、わざと姉の事を意地悪く言たのではないでしょうか。
『姉上はぼんやり者故、婿も来ない』『琴も覚えておらず、琴の師匠が怒っていた』は田鶴君の意見で実際全ての人間が小馬鹿にしているかどうかは分かりません。
道長卿は入内を娘に伝えたもののその様子を心配していますし、倫子さまは入内自体を拒否していました。
田鶴君が倫子さまに窘められる場面を論い、『定型』への憎悪や偏見に繋げるのは如何なものかと思います。

・宣孝とすれちがうまひろの心?

>宣孝が、まひろの膝枕で寝ています。
都に雪が舞う様になりました。
まひろさんの邸では宣孝公がまひろさんの膝枕で眠り込み、まひろさんのくしゃみで目を覚ましました。
まひろさんは「お風邪を召されますよ」と言いますが、宣孝公は「こうしておれば風邪などひかぬ」とまひろさんを抱き寄せ、まひろさんも嬉しそうにしています。
まひろさんは宣孝公に抱きすくめられたまま、「静か」と言います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>「ああ、こうしておれば風邪などひかぬ」
>セクシーにそう言うわけですが、ここでもう宣孝はマイナス一点つけました。
>まひろがくしゃみをしたということは、相手に風邪を引かせかねなかった状況だったとも言える。
>贈り物はどんどんあげるのに、どこか思いやりが欠けているような……。
>なんでもかんでもセクシーさに持ち込めばよいと思ってないか?
夫婦の触れ合いとして膝枕している間に宣孝公は眠ってしまい、まひろさんのくしゃみで目が覚める訳ですが、具体的にまひろさんに何をするべきか提示してください。
まひろさんがくしゃみをしたので宣孝公が起き、まひろさんが「風邪をひく」と気遣うので抱き寄せ温め合ったというだけです。
当然冬の調度として火桶はあると思いますが、寝殿造りは板敷きで広い部屋を几帳などで仕切り蔀戸を下ろすくらいしかないと思います。
膝枕に関しては中関白家の集まりで子供たちの前で酒に酔った藤原道隆卿が妻・貴子さまの膝枕で眠る場面がありました。
まひろさんと宣孝公の膝枕やお互いに引き寄せ抱き合い肌を温め合う事もこれと同じ仲睦まじい夫婦の睦言のようなものではないでしょうか。
場面の意味も考えずに夫婦の睦言まで『セクシーさに持ち込めばよいと思っている』と叩くのは情緒がありません。
まひろさんは一人で自分の体温維持もできない世話されないと生きられない赤子や介護が必要な老人でしょうか。
女だからと何でもかんでも喚けばやって貰える訳ではありません。

『光る君へ』17回より

>『青天を衝け』の渋沢栄一です。
>彼は長いこと留守をさせていた妻の千代に再会すると、笑顔で「子作りするべえ!」と語りかけました。
>女の不満はエロいことをすればおさまるとでも言いたげな様子で……
>演じるのがイケメンならば許されると考えたのでしょうか。
長期の留守だったからといって夫婦が積極的に子作りして何がいけないのでしょうか。
元々渋沢氏は血洗島の豪農出身で士分を得た人です。
そして千代さんは正妻です。
跡継ぎを産み育てなければ家を盛り立てられません。
他人の夫婦のプライベートに踏み込み、『エロい事している!イケメンでも許されない!』と喚き散らす方が余程無粋です。
『「留守中、苦労をかけてすまなかった」最初に一言そう言えば良いだけなのに』と言いますが、最初に言おうと閨で言おうと夫婦の勝手だと思います。

>『どうする家康』もそうで、お市もその娘である茶々も、家康に惚れているという無茶苦茶な設定でした。
>まるで恋バナを絡めたら悲劇がロンダリングできると信じているかのようで。
>ジャニーズ主演ならばそれが通じるとでも考えたのですかね。
仕事である商業ブログで私怨から『私はジャニーズファンに楽しみを潰された!私の不快感と怒りをを煽った!ジャニーズとファンを口汚く傷つけてやる!』と不機嫌を撒き散らして喚来ているだけで何の論評にもなっていません。
『ジャニーズ主演ならばそれが通じるとでも考えたのですかね。』
作中で過去の思慕や憧れがあるからこそ助けを求めても助けがない事の怒りや絶望が増幅されていったのですが、逆に旧ジャニーズの俳優が演じて通じない理由は何でしょうか。
不機嫌を自分でコントロールできない文章は読み手にとっては下の下です。
みっともない。

武将ジャパン『どうする家康』48回

>その点、今年は「こういう男はクズだぞ!」と不穏さを滲ませるから良心的だと思います。
いい歳した大人の夫婦の睦言でパートナーのくしゃみ一つ防げなかっただけでクズ認定されるなどたまったものではありません。
女性は守られなければいけない自立できない人形ではありません。

・帝は嘆き、行成は説得する?

>帝は嘆いています。
内裏では帝が体調を崩され脇息に凭れられており、薬師が御前を下がって行きます。
帝は「朕が政を疎かにしたせいで多くの民が命を失った。このままでよいとは思えぬ。責めを負って譲位し中宮と仲良く暮らしたい」と仰います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

蔵人頭・藤原行成卿は「恐れながら、譲位をなさっても今のまま中宮様をご寵愛されれば、中宮さま・脩子内親王さまのお立場が危うくなります」と諌めます。
また、行成卿は帝に「ご譲位ではなくご在位のまま、政に専念なさるお姿を皆にお見せくださいませ」と進言しました。
そして「中宮さま以外の女御さま方をまんべんなく愛でられ、1日も早く皇子を設けられませ。帝に皇子が生まれなければ、東宮・居貞親王様の息子である敦明親王が次の東宮となり、一条天皇のお父上・円融院様の血筋は途絶えてしまいます。女院様とてそれはお望みになりますまい」と述べます。
帝は行成卿の言葉をを受け入れられ「譲位はしない。されど…我が皇子は中宮が産む事を朕は望む」と仰います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

行成卿は道長卿に「お言いつけどおりに円融院の御筋は絶えてはならぬという事をお伝えいたしました」と報告しました。
「その点は帝のお心にも届いたと存じますが、中宮様へのご執着はなかなか…」と言う行成卿。
道長卿は「いや、一歩進んだ。行成のおかげだ」と労いの言葉をかけます。
行成卿は「公卿たちは道長の娘が入内と聞けば喜び、公にすれば内裏の気配も変わります」と言いますが、道長卿は「それはまだ時期尚早」と考えています。 
そしてこの件に関して道長卿は「これからも行成の力添えが欠かせぬのだ」と行成卿の協力を必要としていました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>せっかくだから、文房四宝でも現物支給してあげていただきたいところです。
まず道長卿は帝に『在位のまま政に専念する事』『中宮以外の女御方をまんべんなく愛で、円融院の御筋を絶やさぬ様に皇子を設ける事』という朝廷の秩序を守る事を伝えるために蔵人頭の行成卿に取り次ぎを頼んでいます。
そして道長卿は言いつけ通り譲位を思い留まる様説得に成功した行成卿に『行成のおかげだ』と認め、『為政者を正しい方向へ導く』という公益のためにさらなる協力を請うたのです。
文房四宝とは文人が書斎で用いる道具のうち、筆、墨、硯(すずり)、紙の4種をいいます。(出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ))
何見氏が文房四宝で中華マウントが取りたいだけではないですか。

・中宮定子の懐妊、彰子の入内決定?

>年があけ、長保元年(999年)となりました。『年が明け、元号は長保となった。』
長保元年(999年)正月。
帝は事もあろうに秘密裏に中宮定子さまを内裏に呼び寄せていました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

晴明公は「中宮さまはこの正月にご懐妊あそばされた様にございます。今年の11月頃皇子が生まれましょう」と道長卿に報告しました。
道長卿が「皇子なのか?」と尋ねると、晴明公は「呪詛いたしますか?」と問います。
啞然としながらも道長卿は「父上のようなことはしたくない」と答えました。
晴明公は「よう申されました」と言い、道長卿は「自分を試したのか」と面白くなさそうです。
晴明公は、「呪詛せよとお命じあればいたしました」と答えます。
と言い放ちました。
道長卿はしばし考えた後、「分かった。中宮さまが子をお産みになる月に彰子の入内をぶつけよう」と言います。
そのうえで「よい日取りを出す様に」と晴明公に命じます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

彰子さまの入内の日取りが決まり、道長卿が倫子さまに「11月1日を彰子の入内の日と決めた」と告げました。
倫子さまは「中宮さまのお加減がお悪いとの噂がございますが、まさかご懐妊ではありませんわよね」と言いますが、道長卿は「ご懐妊であろうと、入内は決行する」と断言しました。
倫子さまは「ご懐妊ならばそのお子を呪詛し奉ってくださいませ、呪詛は殿のご一家の得手でございましょう?」と言います。
道長卿は「その様な事はせずとも、彰子が内裏も帝もお清めいたす」と言います。
倫子さまが「生贄として?」と尋ね、道長卿は「そうだ」と答えます。
「殿の栄華のためではなく、帝と内裏を清めるためなのですね」と確認して倫子さまは納得した様に「私も肝を据えます」と言います。
そして、倫子さまは「中宮さまの邪気を払いのけ、彰子のため艶やかな後宮を作りましょう。気弱なあの子が力強き后となれるよう、私も命を懸けます」と言います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

道長卿は彰子さまの入内を正式に帝に申し入れました。
帝は「鴨川の堤の決壊に始まる天災の数々は我が政の未熟さ故であり、左大臣には大層苦労をかけた」と仰います。
道長卿は「とんでもない、左大臣の務めを果たしただけでございます」と謙遜しています。
帝は「そなたの働きに報い、入内を許そう」と明言しました。
そして帝は「我が舅として、末永くよろしく頼む」と仰り道長卿は「もったいなきお言葉、痛み入ります」と礼を述べます。

>晴明にせよ、先の実資にせよ、道長を値踏みしているようだ。
>あえて道長を突き放すことで、自分で頭を使わせ、効果が出るように誘導したのでしょう。
>晴明は人の幸せなど踏み潰してでも、天道を正す使命を果たそうとしているようです。
>つくづく仕事ができる有能な人物です。
晴明公は『正月に中宮定子さまが懐妊した事、皇子が11月頃生まれる事』を道長卿に報告します。
そして、かつて道長卿の父兼家卿が花山院の女御・忯子さまが身籠ったお腹の子の呪詛を依頼した様に道長卿に定子さまのお腹の中の皇子の呪詛を持ちかけました。
後世の説話のため脚色も考えられますが、呪詛返しをした話はあっても晴明公が呪詛を行った例は無いそうです。
作中では道長卿が父のやり方を否定し、私利私欲ではなく『娘・を入内させ朝廷を清める』公益を優先した事で晴明公は満足げな笑みを浮かべたのでしょう。
「試したのか」と道長卿が言うように晴明公は道長卿の力量を値踏みしたのかもしれません。
道長卿が「彰子は入内して幸せになれるか?」と問いましたが、晴明公は「自分の使命は一国の命運を見定める事で、人一人の幸せなぞは与り知らぬ事でございます」と言い、あくまで『国のため、朝廷の清めという公の利益のために娘を差し出せ』という事なのでしょう。

>ただ、それにしても、道長は晴明のいいようにされすぎでは……。
庭先に祭壇が設えられている辺り、道長卿は彰子さまの入内のよい日取りを晴明公に占わせるために読んだのだと思います。
陰陽師の主な職務は『日時や縁起の良い方角の問合せに対して吉凶を占い、回答書の作成を行う事』『宮中祭祀や『泰山府君祭』などの祓いを執り行う事』『天文を読み暦を作成する事』『天変地異の際、天文博士が占星術により意味を占い、『天文密奏』を天皇に報告する』などです。
陰陽寮に所属する官人陰陽師は公的には朝廷の仕事以外はしません。
ただし、私的な悩み相談などを受けていた可能性はあり、『御堂関白記』寛弘二年(1005年) 二月十日条には晴明公に屋敷の引越先に適した土地を探すように相談したという記述があります。(80代のおじいちゃんな晴明公、遅刻しているのを書かれています)
『御堂関白記』晴明公の名がたびたび記されており、朝廷や貴族たちの相談役として人々の信望を得ていた事が伺えます。

『御堂関白記』寛弘二年(1005年) 二月十日条

・彰子の盛大な裳着?

>入内が決まれば、後はそこへ目がけて突き進むだけ――
>かくして道長は裳着を盛大に執り行いました。
長保元年(999年)2月9日
土御門殿では大勢の公卿が招かれ、左大臣・道長卿の長女・彰子さまの裳着の儀が盛大に行われました。
髪上げを済ませ緋袴を履き女房装束を着た彰子さまに腰結(こしゆい)の東三条院・詮子さまが裳の腰紐を結びます。
『道長は裳着の儀を盛大に執り行う事で彰子の入内を公のものとした』と語りが入ります。
裳着の儀が滞りなく済み、道長卿は「これも神仏の守護。そして皆のおかげだ」と出席者に礼を言います。
劇伴として鳴り響くパイプオルガンの音色がまるでミュージカル『エリザベート』の『不幸の始まり』という曲の様でしたが。

『御堂関白記』長保元年(九九九年)二月九日条には『姫(藤原彰子)の御裳着(もぎ)の儀があった。子刻(ねのこく/午後11時~午前1時)<戌剋(いぬのこく/午後7時~午後9時)>の頃早く、雨が降っていた。ところがすぐに晴れた。東三条院(藤原詮子)から装束二具(よろい)を賜った。』とあります。

『御堂関白記』長保元年(九九九年)二月九日条
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

裳着の儀式後の祝宴。
後に『一条朝の四納言』と呼ばれる四人が集まっています。
源俊賢卿は「見事であった」と言い、藤原斉信卿は「一番ボーッとしていた道長が左大臣で、俺たちはまだ参議。分からぬものだな」と言います。そんな斉信卿に、藤原公任が卿が「人の世とはそういうものだ」と言います。
俊賢卿が「そのうち帝の父になられるやもしれない」と言うと、公任卿が「それを言うな、中宮方に邪魔立てされるやも知れぬ」と窘めています。公任卿は「左大臣は己のために生きておらぬ。そこが俺たちと違うところだ。道長には敵わぬ」と言い、行成卿やも俊賢卿が同意しています。
しかし、斉信卿だけは1人欠伸をしていました。

『光る君へ』より

>かくして道長は裳着を盛大に執り行いました。 >まひろの裳着とはスケールが違う。
『裳着』は通説では初潮を迎えた後の10代前半の女子が対象とされ、女子に初めて裳を着せる儀式で裳着を済ませることで結婚などが許可されました。
裳を付ける役は腰結(こしゆい)と称され、徳望のある者から選ばれました。
その儀式の規模などは身分や状況によって従者の数や見届人の数が、まったく違変わってくると思います。
彰子さまの場合は入内を公のものとするため公卿たちを来賓として招き、女院・詮子さまを腰結として盛大に行われており、道長卿の日記『御堂関白記』にもその様子が描かれました。
まひろさんの場合は父・為時公が六位蔵人だったため、家族内での式であり、藤原宣孝公が腰結を務めました。

>このドラマでは、斉信が話を大きくしたことで長徳の変に発展し、藤原伊周と藤原隆家、そして定子が失脚しました。
>そんな事件の糸を引いておきながら、しれっとしていてなかなか恐ろしい男です。
>そして道長は、まんまと人にはめられた経験があるのに、いまだに流されやすいんですね。
『一条朝の四納言』の中でも出世欲の強い藤原斉信卿は「一番ボーッとしていた道長が左大臣で、俺たちはまだ参議。」と愚痴をこぼしています。
他3人が彰子さまの入内を公のものとした道長卿を褒める中、面白くなさそうに欠伸をしていました。
長徳の変では花山院への誤射事件に尾ひれを付け報告し中関白家兄弟の失脚に繋がりました。
道長卿も斉信卿の強かさに騙されたと脱帽していました。
斉信卿を演じている金田哲さんは『俊賢は行成と仲がいいんですよ。ふたりとも一癖ある感じが似ていて、斉信としては、ちょっぴり警戒しているところがありますね』と仰っています。

道長卿は流されているのではなく、娘の入内を公然のものと認めてもらわなければいけないので公卿を招いているのだと思います。
四納言それぞれ立場や性格の違いがあり、中関白家兄弟が左遷先から戻り定子さまが懐妊し内裏に戻ったので公卿を一人でも多く味方につける必要があるのではないでしょうか。

・太陽のように輝く定子?

>さて、その中宮側はどうしているか?
内裏では伊周卿は定子さまを訪れていました。
伊周卿は「左大臣の娘が裳着を行ったらしい」と伝え、「まだ子供故、入内しても恐れる事はないと思うが」と言います。
定子さまは「恐れてなどいない。帝のお心は揺るがぬと信じている」と伊周卿に話します。
伊周卿はさらに「裳着に参列した者の話では、左大臣の娘はろくに挨拶もできぬうつけらしい」と言い、定子さまは兄を窘めます。
定子さまは「入内を受け入れるのは内裏の安寧をはかろうとする帝の覚悟の表れ」だと思っていた。
伊周卿は「ほう~…ずいぶんと中宮らしくなりましたな、のう少納言」と感心し、ききょう(清少納言)さんに同意を求めました。
ききょうさんは。「唐の国では皇帝は太陽、皇后は月と言われておりますが、私にとって中宮さまは太陽でございます。軽々しくお近づきになりますと火傷されますわよ」と言い、定子さまの笑いを誘っています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>裳着に参列した者が、藤原彰子は挨拶もろくにできぬうつけだと語っていたというのです。
>そんなことを漏らすのはいったい誰なのか。
>斉信辺りが怪しいですかね。
彰子さまは長保元年(999年)2月9日、裳着を終えた後、同11日に一条帝から従三位に叙せられています。
作中では『甘やかされて育ち、表情に乏しくいつもぼんやりしている』という女三の宮の様な女性として描かれています。
まだ数え12歳で裳着を終えたばかりの彰子さまは見る人によっては非常に幼く見えたのかもしれません。
実際の彰子さまは『聡明で優しく、ライバルとされる中関白家にも贈物など礼儀や援助をかかさず生涯面倒を見た。』と言われ、藤原実資卿の日記『小右記』では『賢后』と賞されています。
一方、定子さまについては『小右記』長保元年(999年) 十一月七日条には『落飾しながら子を儲けた中宮は『横川皮仙(よかわ・かわひじり)』と陰口を言われていた事』が記されています。

『小右記』長保元年(999年) 十一月七日条

『横川皮仙』とは、比叡山の横川において常に鹿の皮衣を纏い巷で庶民に教えを説いていた行円という僧の事です。
出家の身でありながら一条帝の寵愛を受けて子まで出産したと皮肉っていたのだそうです。
時代考証・倉本一宏氏は『紫式部と藤原道長』中でこう書いています。

「落飾しながら子を儲けた中宮は『横川の皮仙』と陰口を言われれいた事が記されており、彰子の入内に公卿の多くが行列に付き添ったというのも、彰子の入内が宮廷に安定をもたらす要因として、公卿社会から歓迎された結果によるものであろう」

『紫式部と藤原道長』

この様な背景があり、作中の伊周卿は定子さまの名誉のためにわざと『まだ子供故、入内しても恐れる事はない』『裳着に参列した者の話では、左大臣の娘はろくに挨拶もできぬうつけらしい』と吹聴しているのではないでしょうか。
もちろんこのネガキャンは定子さま自身により『入内を受け入れるのは内裏の安寧をはかろうとする帝の覚悟の表れ』と窘められていますが。

>「唐の国で皇帝は太陽、中宮は月だけれども、私にとっては中宮様こそ太陽です。軽々しく近づくと火傷しますよ」
>こうも自信満々のセリフが出さえるのも『枕草子』により己の地位を高めたからのように思えますが、この先、その太陽が消えたら、彼女はどうなってしまうのでしょうか。
四字熟語に『金烏玉兎(きんうぎょくと)』という言葉があります。

金烏玉兎

「金烏」は太陽の異称。「玉兎」は月の中に兎がいるという伝説から、月の異称 
 日と月。月日。転じて、歳月をいう。

出典 精選版 日本国語大辞典

古代中国の伝説では太陽に三本足の烏が棲むといわれそこから”金烏”は『太陽の異名』となりました。
同じく伝説上の月に棲む兎から”玉兎”も『月の異名』となりました。
これは『楚辞』天問の王逸注にも「日中の烏」という語がみられるそうです。
転じて『金烏玉兎』は太陽と月、または月日や日月の喩えとなります。
日本神話では『東征』に於いて神武天皇を案内したと記述されている八咫烏(やたがらす)に「天照大神が遣わした」という点から金烏と結びつき、平安時代以後にそのすがたが金烏のような三本足の姿になったのだそうです。
ききょうさんが定子さまを太陽に例えたのは太陽神・天照大神の様な人であると思ったからではないでしょうか。

・広がるまひろと宣孝の距離?

>まひろが、いとと共に子どもたちへ握り飯をふるまっています。
まひろさんの邸では、まひろさんがいとさんと共に大水と地震を生き延びた子供たちに握り飯を振舞っていました。
まひろさんは腕を怪我した子供に手当をしています。
戻って来た宣孝公が「何事だ」と尋ね、まひろさんは「大水と地震を生き延びた子供たちに食べ物を与えておりました」と答えます。
事の次第を聞いた宣孝公は「汚らわしい」と口にします。
まひろさんは「子供たちは孤児であり、誰かが食べさせてやらねば間違いなく飢えて死にます」と言うまひろさんに、宣孝公は「それも致し方ない。子供の命とはそういうものだ」とそっけないものです。
そして贈り物の丹波栗をまひろさんに渡します。皆に分け与えようとするまひろさんに宣孝公は「皆はよい。お前に持って来た」と言います。
早くも夫婦に綻びが生じます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>ここの場面を見ていて『鎌倉殿の13人』の北条政子を思い出しました。
>人を救うにはどうすればよいのか――政子が御家人一の知恵者である大江広元に相談すると、施餓鬼(せがき)を名目に施しができると教えられたものです。
(中略)
>つまり、あそこまで時代がくだっていると、仏教がより深く浸透し、人を助けたいと願う発想が出てくるのですね。
『鎌倉殿の13人』では三代将軍源実朝公の死後、尼御台・北条政子さんは「御所の外に出てみたい。外の者たちと話がしたい。どのような暮らしをしているのかこの目で確かめたい」と思い立ち、大江広元公の提案により餓鬼道に堕ちた死者供養のための法要や民に食べ物などを施す『施餓鬼供養』を行いました。

一見すると、まひろさんが行っていた被災した子供たちへの施しと似ています。

『鎌倉殿の13人』より

施餓鬼の由来はお釈迦様の弟子の阿難(あなん)尊者が瞑想していると餓鬼道に堕ちた餓鬼が現れ、尊者に「お前の寿命はあと三日で尽き、私のような餓鬼に生まれ変わるだろう」と言いました。
驚いた尊者がお釈迦様に相談すると、「食物をお供えしお経を唱えて加持祈祷すれば食物は無限に増し、多くの餓鬼に施され救われます。施主であるあなたの寿命も延び悟りを得る事ができるでしょう。」と仰いました。
早速その通りに法要を営むと尊者は寿命が延びて救われました。
自分の行いによって因果応報の苦しみを受けている餓鬼に食べ物や飲み物を施すのが、『施餓鬼』です。
『施餓鬼』は遣唐使で中国へ渡った僧侶によって日本へ伝えられます。
最初は密教の僧侶が行っていましたが、やがて禅宗でも行うようになります。
鎌倉時代の終わり頃になると、それ以外の宗派でも行われるようになりました。

>優しく先進的なまひろは自然とそれができるけれど、宣孝はそうではないのです。
平安時代、民など恵まれないものに対する施しは密教の僧など仏門の者や貧しい民や孤児を収容する『悲田院』などの仕事でした。

貴族の中には宣孝公の様な民にあまり関心のない方も多かったのではないでしょうか。
作中では、まひろさんを訪ねて来たききょうさんが文字を教わっていた民の子のたねさんを「誰ですの?今の汚い子」と言い、「あのような下々の子に教えているの?何と物好きな」と驚く様子が描かれました。

『枕草子』第42段「似げなきもの」では、身分の低い者、年取った者、容貌の優れない者に対する手厳しい評価が書かれています。

『枕草子』第42段「似げなきもの」

・まひろが難しいのか? 宣孝が単純すぎるのか??

>宣孝は、ある女にまひろの文を見せたと言います。
宣孝公はまひろさんに、「そなたの文をある所で見せたら、その女が見事な歌だと感じ入っておった」と言い、得意げです。
まひろさんが「ある所で誰にお見せになったのですか?」と尋ねると宣孝公は「ある女だ」としか答えません。
さらにまひろさんが「男か女か」と訊くと、宣孝公は「女だと言うだけの女だ」と言い、しれっと栗を勧めてきます。
宣孝公にまひろさんは、「2人だけの秘密を見知らぬお方に見られてしまったのは、とんでもない恥辱でございます。見せられた方もいい気はしなかったに違いありません。そんな事を殿はお考えにならないのですか?」と宣孝公を責めます。
「お考えにはならないよ。よいではないか。向こうも褒めておった」と宣孝公はまひろさんの気持ちを慮ってはくれません。
「考えが浅すぎる」と言うまひろさんに宣孝公は「わしはお前のような学のあるおなごを妻に迎えたことを自慢したいのだ」と平然と言ってのけます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

どうやらまひろさんの文を持ち歩き、あちこちで見せているらしく、「それほど自慢されて、本望であろう」と嬉しそうに言う宣孝に、まひろさんは「殿に送った文、すべてお返しくださいませ。そうでなければ、お別れいたします」と言い出しました。
宣孝公は「何を言っておるか分からぬ」と苦笑するばかりです。
まひろさんは宣孝公の顔を見る事もせず、「今日はもうお帰りください」と拒絶しますが、「まあまあ、まあまあ…怒った顔も可愛いぞ」と宣孝公はまひろさんを抱き寄せようとしました。
しかしまひろさんは「おやめください!」とさらに拒絶します。
「難しい女だ、せっかく褒めておるのに」と宣孝公は不満そうに「またな」と言って去ろうとしました。
まひろさんは宣孝公に「今度来る時は、これまで送った文を全て持って来てください。でなければ会いませぬ」と言います。
まひろさんは宣孝公からの贈り物を前に考え込んでいます。
まひろさんが宣孝公を追い返したその日から宣孝公の足は遠のいてしまいました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>宣孝は他の女と同じようにまひろを見ていた。贈り物を与え、セクシーに迫れば落とせる――そんな目で見ていた。
>そう悟り切った侘しさがあります。
>彼は、自分の心など見ていないのだと。
宣孝公がまひろさんの気持ちや個人的に秘匿したいものについて無頓着で配慮が無く、それがまひろさんを怒らせる元になったのは認めます。
「なんでもかんでもセクシーさに持ち込めばよいと思ってないか?」『セクシーに迫る』とセクシー以外の語彙は無いのでしょうか。
人物の人格や教養を知る手がかりになるのが、文です。
文を見た他の妻から自分の人格判断をされるのは大変屈辱的な事です。
現代ならDM(ダイレクトメール)を「俺の妻賢い」からとトロフィーの様に勝手に公開される様なものでしょうか。
なので紫式部は自分の送った文を全部回収し、「返してくれ」と宣孝公に要求したのです。
このくだり個人的に中島みゆきさんの『化粧』の歌詞が浮かんだのですが。

『紫式部集』32歌詞書には宣孝公が紫式部からの文を見せびらかして紫式部が「殿に送った文、すべてお返しくださいませ。そうでなければ、お別れいたします」と言う程怒った逸話がありますが出典も無しですか。

『紫式部集』32歌詞書

・まひろは宣孝を許す気はない?

>まひろが洗濯をこなし、いとが厨(台所)へ向かってゆきます。
まひろさんは結婚後もきぬさんと共に家事をこなします。
まひろさんが勿忘草色の小袖姿で洗濯物を干していると、弟の惟規さまが尋ねて来ました。
惟規さまはまひろさんの様子を見に来たのでした。
まひろさんに「惟規の方こそどうなの?」と訊かれ、惟規さまは「思った通りまだまだ官職は得られない」と答えます。
まひろさんに「父上が戻られる前には頼む」と言われ威勢よく返事をする惟規さま。
「そういうのは素直なのにやるべき事をやらない」とまひろさんに言われた惟規さまは「あのさ、男のそういう痛いとこを突かない方がいいよ」と姉を諭します。
「宣孝様は、いつもプンッとしている私がいいと仰せだ」とまひろさんは言い、惟規さまは「自信満々だな」と驚いています。
まひろさんは「そうでもないの。このところ放っておかれている」と言います。
それを聞いた惟規さまは、「それ、新しい女ができたからだよ」と答えます。
さらに惟規さまは「この間清水の市で、姉上よりも遥かに若い女ににやにやしながら絹の反物を買ってやっていた。」と言います。
自分だって宣孝よりはずっと若いのに、その自分よりもかなり若い女なのだそうです。
「お盛んねえ」と呆れるまひろさん。 
「怒らないんだ」と訊く惟規さまに、「怒っているけど惟規に聞いたとは言えないから今回は黙っておく」とまひろは答えます。
惟規さまは「家はいいなあー」と言いつつ、「帰るよ」と立ち上がりました。
「今来たばかりなのに」と言うまひろさん。
惟規さまは「姉上がつつがないならそれでいいんだよ。宣孝様を一度ひっぱたいてやりなよ。それでもあの方は姉上のこと手放さない」と言って去って行きました。
まひろさんは思い詰めた真顔になり、物思いに耽っています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>許す、許さない。
>別れる、別れない。
>それから、そんな文のやりとりが繰り返されたのだとか。
それから2人の間では、『許す許さない、別れる別れない』といった文のやり取りが繰り返されました。
文を勝手に公開した事で仲違いした時の歌のやりとりは、紫式部が自分の歌を纏めた『紫式部集』に入っています。

閉ぢたりし 上の薄氷(うすらひ) 解けながら さは絶えねとや 山の下水
紫式部

意訳:
氷に閉ざされていた谷川の薄氷が春になって解けるように、折角打ち解けましたのに、これでは山川の流れも絶える様にあなたとの仲が切れてしまえばよいとお考えなのですか。

『紫式部集』

東風(こちかぜ)に 解くるばかりを 底見ゆる 石間(いしま)の水は 絶えば絶えなむ
藤原宣孝

意訳:
春の東風によって氷が解けたくらいの仲なのに、底の見える石間の浅い流れの様に、浅い心のお前との仲は切れるなら切れるほうがいい

『紫式部集』

言ひ絶えば さこそは絶えめ なにかその みはらの池を つつみしもせむ
紫式部

意訳:
もう手紙も出さないと仰るなら、その様に絶交するのもいいでしょう。どうしてあなたのお腹立ちに遠慮なんかいたしましょう

『紫式部集』

>「これを見たとたん、まひろに似合うと思うてなぁ」
>宣孝がそう言いながら、反物を持ってまひろのもとへきました。
宣孝公が絹を三反持って、まひろさんを訪ねてきました。
宣孝公は「清水の市で見つけた。あの市はよい反物が出るのだ」と言いまひろさんに反物を贈ります。
「若い女子に反物を買われたついでに私にも。ありがとうございます」とまひろさんがチクリと嫌味を言い、礼を述べた後「多淫は体によろしくないそうですよ」とまで言ってしまいます。
「可愛くないのう。誰に聞いた?」と宣孝公が訊きます。
まひろさんは「誰でもいいでしょう」と言いますが、宣孝公は「あの宋の薬師に聞いたのか?」と尋ねます。
まひろさんが肯定すると、宣孝公は「あの男とも怪しげであったのう」と言ういます。 
まひろさんに「嫌らしい勘ぐりをしないで」といわれ、宣孝公は「絡むな、わしが悪かった」と謝罪します。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

そして「久しぶりに来たのだ、甘えて来ぬか」と誘う宣孝公に、「私は殿に甘えたことなどございません」とまひろさんが拗ねた様な態度になりました。
宣孝公は「お前のそういう可愛げのないところに左大臣さまも嫌気がさしたのではないか。分かるなー」と言い出し、堪忍袋の緒が切れたまひろさんは立ち上がり、火桶の灰を宣孝公の顔にぶつけました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>酒と色は男の寿命と健康を損なう二大悪とされます。
>これまた渋沢栄一絡みで変な誤解をしている方を時折みかけますが、儒教文化圏では多淫への戒めがないというのは違います。
>西洋由来のプロテスタントほど厳密ではないというだけです。
古代中国では房事は保健医学の重要な要素として位置づけられました。 
房中術は後漢末の張道陵の五斗米道(天師道)に取り込まれ、唐代編纂の『隋書』『経籍志』に経典が道経に属するものとされ、文献が遣唐使の留学生によって日本に持ち帰られました。
永観二年(984年)、鍼博士の丹波康頼が中国伝来の医学書を編纂し『医心方』として朝廷に献上し房中術は「房内篇」として再編されました。

人はすべて男女の営みをしないでいるのは良くない。性交しないでいると、『癰(よう)』や『瘀(お)』の病気にかかる。(中略)とはいえ、欲情の赴くまま思う存分に性交すれば、せっかくの寿命を短くしてしまう 

『医心方』「房内篇」

道徳的な印象の強い儒家ですが「孝」の論理からは『孟子』「離婁上篇」に「不幸に三あり。後無きを大となす(親不孝は三つある。その内子孫が無いのが最も重大な不孝である)」とあり、子孫が絶える事は、祖先に対する祭祀が絶える事と考えていた様です。
宋代になると朱子学が生まれ、「存天理、滅人欲(天の理にしたがい、人の欲をなくす)」の思想が房中術を誨淫の書と見做す様になりました。

>『源氏物語』では、髭黒が北の方に灰を撒かれる場面があります。
>髭黒が北の方を放置し、若い玉鬘に夢中になったせいで、北の方が怒ったのです。
宣孝公の浮気に怒ったまひろさんが宣孝公に灰をぶつける場面は『源氏物語』第31帖「真木柱」を翻案したものです。
尚侍として出仕を控えていた玉鬘は、その直前に女房に手引きされた髭黒大将と強引に契りを交わす事になります。
玉鬘を得て有頂天の髭黒を、源氏の君は動揺しつつも婿に迎えます。
その後玉鬘を迎える支度をしている髭黒に見捨てられた北の方は絶望し、突然狂乱し香炉の灰を浴びせます。

にはかに起き上がりて、大きなる籠の下なりつる火取りを取り寄せて、殿のうしろに寄りて、さと沃(い)かけたまふ

意訳:
北の方は突然起き上がると、大きな伏籠の下にあった香炉を取り寄せ、髭黒の殿の後ろにまわって、パアッと灰を浴びせかけられます

『源氏物語』第31帖「真木柱」

・もう、腹を立てても無駄だから?

>いとはそんなまひろに、宣孝へお詫びの文を出すよう促します。
まひろさんが宣孝公に灰をぶつけて以後、宣孝公はまひろさんの許を訪れなくなってしまいました。
いとさんは「お詫びの文を出してはどうか」と勧めます。
まひろさんは「悪いのはあちらだ」と主張し、いとさんは「ご自分を通すのは立派だが、殿様の気持ちも思いやる様に」と諌めます。
「どう思いやれと言うのか」と言うまひろさん。
いとさんは「お方様は賢くていらっしゃいますので仰ることは正しいのですけれど、殿さまにも逃げ場を作って差し上げないと」と言います。
「なぜ?」と問うまひろさんにいとさんは、「夫婦とはそういうものだからでございます」と答えます。
さらにいとさんは「思いを頂くばかり、己を貫くばかりでは誰とも寄り添えませぬ」と言います。
「己を曲げて、誰かと寄り添う…」と呟くまひろさんに、「それがいとおしいという事でございましょう」といとさんは説きます。

『光る君へ』より

まひろさんは宣孝公の文を前にして考えていました。
送られてきた文にはそれにはこう書かれていました。

たけからぬ 人かずなみは わきかへり みはらの池に 立てどかひなし
藤原宣孝

意訳:
立派でもなく人かずの身分でもなくて、腹の中では、波が湧き立つ様に腹が立つが、お前には勝てないよ

『紫式部集』

>宣孝がうれしそうに読み上げておりますが、「ごめんなさい」とも「許します」でもない。なんなんですかね。
>全てを投げたようにも思える。
>まひろが逃げ場を作る前に、宣孝は腹を見せて降参してきたように見えます。
>宣孝には別の女もいることだし、どこか投げやりにも思えますね。
まひろさん(紫式部)が宣孝公に贈った「言ひ絶えば さこそは絶えめ なにかその みはらの池を つつみしもせむ」に対して宣孝公が贈った歌が『たけからぬ 人かずなみは わきかへり みはらの池に 立てどかひなし』です。
『もう何もおっしゃらないと言うのなら、そのように関係を断ってしまうのも良いでしょう。どうして、あなたのお腹立ちに遠慮などしましょうか。』と言うくらい絶交を仄めかすまひろさんに対し、宣孝公は夜中頃に文を贈ります。(詞書には『夜中ばかりに、また』とある)
『たいした者でもなく、人並みな者でもない私なので、いきり立って(貴方に)腹を立てたところで、何の効果もありません。降参致しました。』と言い、自分が折れ謝る事で相手も引かざるを得ない状況に持ち込み、この喧嘩を鎮めようとしたのではないでしょうか。

>まひろは、いとと福丸、乙丸ときぬを連れて、石山寺に参詣すると言い出しました。

 まひろさんはいとさんと福丸さん、乙丸ときぬさんを集めて「石山寺に行きましょう!」と言い出します。
いとさんは「殿様がお見えになったらどうするのです」と心配します。
まひろさんは「お見えになったらその時はその時の事です」と言い、きぬさんや福丸さんも乗り気です。
まひろは「行って、殿がまだ来てくださるようお願いする」と言い、石山寺ではいとさんと誦経に励みます。
他の従者たちは参籠中疲れから居眠りをしています。
まひろさんはお堂で祈願しています。
するとお堂の扉が開き何者かが現れました。
月明かりに照らされた直衣姿の男は紛れもなく道長卿でした。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>昔「子宝祈願」で寺に参詣した女が願いが叶って妊娠することがありました。
>神仏のおかげ?
>いやいや、その寺には美青年僧侶がいて……といった伝説の類ですね。
子宝祈願や美青年僧侶が出てくる『伝説の類』の出典を具体的に提示してください。
因みに『枕草子』第33段「説経の講師は」には仏法を説く僧侶はイケメンのほうがいい(ただしイケメンに限る)という記述があります。

『枕草子』第33段「説経の講師は」

・MVP:藤原彰子?

>今の彰子は歪んだ鏡しかないような状態です。
>誰も理解してくれない。そう心を閉ざしています。
>父母ですら理解していない。
>弟は小馬鹿にしてくる。
作中の彰子さまは数え12歳。
無表情で『仰せのままに』と言う、受け身でともすれば幼く見える彰子さま。
『源氏物語』の女三の宮(あさきゆめみし寄り?)をモチーフにした性格付けの様です。
かく言う道長卿も童子の頃はぼんやりした三男だったのですが。
父の道長卿は入内はおなごを幸せにしないと思っていましたが、周りに望まれ『天変地異を鎮め、世の安寧を保つためには彰子の入内しかない』と彰子さま入内のために身を切る覚悟をしました。母の倫子さまは当初彰子さまに婿を取らせ土御門の家を継がせるつもりであり入内に反対していましたが、道長卿の私欲による栄華のためではなく、帝と内裏を清めるための生贄であると知り、ならば『艶やかな後宮をつくり力強き后となれるよう、命を懸ける』と入内を承諾したのですが。
田鶴君は姉を小馬鹿にしているというより、それまでお帰りを皆でお出迎えしたら父上(道長卿)が抱っこして喜んでくれたのに彰子さまの入内が決まり道長卿はせっかく覚えた迦陵頻も見てくれない。
倫子さまの前で彰子さまの悪口を言っていたのも「お姉ちゃんばっか見ないで僕も見て!」という試し行動だったのではないかと思います。

>まひろは父の為時がそばにいて、己の才知を伸ばす環境があった。
まひろさんは為時公が学者で惟規さまが漢籍の勉強をしている脇で講義を聞いて内容を理解していしまったので『お前が男なら』と言われていました。
また独学で書物を読んだり若い時は倫子さまのサロンに出入りするなどしています。
漢籍は貴族男性が習得すべき学問でしたが、女性は後宮に出仕する以外学才をひけらかすのは良くないと見る向きもありました。

>しのぶは彼女に理解ある家で育てられ、自らの価値を知った。
>頭の良さをアピールでき、仲間のためにそれを生かしている。言うことは辛辣。
胡蝶姉妹は幼い頃に鬼に襲われて家族を殺され、カナエさんとしのぶさんだけは間一髪で岩柱・悲鳴嶼さんに命を救われて親戚の許での普通の暮らしを捨てて鬼殺隊入りしているんですが。
薬草から独学で薬を調合するなど、薬学に関する凄まじい才能を発揮したけどカナエさんも鬼に殺されているんですが。

>カナヲは自分を押し殺す幼少期を送った。
>カナエとしのぶに引き取られてからも受け身で、ぼーっとしているように見えます。
>自分の意思を発揮することがなかなかできないのです。
カナヲちゃんは幼少期貧困から両親から死ぬ間際の虐待を受けながら育って泣くと虐待され死んでいく兄弟を見たり虐待の苦しみから逃れるために『ある日ぷつんと音がして 何も辛くなくなった』と感情を閉ざしています。
人買いに売られるところを胡蝶姉妹に引き取られ継子になり名を付けられますが成育環境から自力判断ができなくなりコイントスで決定しています。

>なまじ地味だの、ボンクラだの思われているから、こういうタイプが本領発揮すると周囲が困惑するんですよね。
>そんなの本質を見抜けなかった側が迂闊なだけなのですが……
公式設定にないキャラ設定や属性を勝手に付けてさも『私だけが本質を見抜いている。見抜けない周りが迂闊なんだ』と思想のための叩き棒にしたり嘘を吹聴して回るのはやめたら如何ですか。

・天譴論と生贄?

>「天譴論」(てんけんろん)が背景にあります。
>天譴論とは儒教思想で、天命を受けて世を治める君主が不届なことをすると、天が罰を与えるという考え方です。
>これについては『青天を衝け』の渋沢栄一が曲解をしており、芥川龍之介が反論しています。
>詳しくはこちらの記事をご覧ください。

『青天を衝け』の作品批判と渋沢氏批判)に繋げたいだけのために一条帝の徳を利用しているだけに過ぎないと思います。
(最早中傷ですし、渋沢氏の子孫はたくさんいるのですが…)
頭から悪と決めつけて批判のための批判でしかありません。
陰陽師・安倍晴明公により『天文密奏』が一条帝に奏上され大水と地震による都での死者数は100人を超えた事が判明します。
晴明公は「帝の心の乱れが収まれば天変地異は治ります」「出家とは片足をあの世に突っ込むという事。最早后たり得ぬ中宮さまによって帝は乱心あそばされた」「天地(あめつち)の気の流れを変え、帝のお心を正しき所にお戻しするしかない」と言い、左大臣・藤原道長卿に娘・彰子さまの入内を勧めます。
『天文密奏』は古代中国の上天思想に由来し、天文に関する現象は、国家の存亡に関わる予兆として捉えられていました。
『天譴論』とは、『天が人間を罰するために災害を起こす』『災害とは天が人間に下した罰である』という儒教に基づく思想です。
また、『天人相関説』という思想があります。
『天人感応説』ともいい、人事と自然現象 (天) との間に対応関係があり,人間の行為の善悪が自然界の異変 (吉祥や災異) を呼起すという思想です。 
この思想は漢代の儒家が盛んに唱え、広く流行したものですが、人事のうち特に政治の良し悪しが天に感応して天変地異の現象となって現れると説きました。
作中では出家した中宮定子さまの許に一条帝が入浸り乱心し国政が滞り災害が起きたという帝の徳に関する事で『天人相関説』の方が近いのでないかと思います。

>なかなかぶっ飛んだ話ですが、来年の『べらぼう』に関係あるかもしれません。
>いよいよプロットがあらわになってきたあの作品では、曲亭馬琴が大きく取り上げられるることになります
べらぼうについての予想解説がしたいなら別記事を立てるかnoteで書いてください。

>道長がまだ幼い彰子を入内させることは動かせない。
>「彰子がかわいそうだから、年齢をいじろう」>「道長でなくて、詮子のゴリ押しにしてしまおう」 
>こういう時系列をいじることや、行った人物を変えることは禁じ手です。
嫌いな歴史上の人物を叩くためなら実際の史料があるにも関わらず自分の思想に合わせ都合よく歴史改変している人が何を言うのでしょうか。

『青天を衝け』第19回より
武将ジャパン『青天を衝け』
第19回レビュー

>史実では、徳川慶喜の決断によって大量処刑された天狗党。
>それをドラマでは、田沼意尊が無断で勝手に殺したことになっていました。
>無理にでも慶喜を“イイ人”として描こうとしたからでしょう。

初めての藩札が渋沢氏由来でない事も、一橋家当主だった慶喜公が水戸藩の内部抗争である天狗党の乱の裁量権利を有していないため、武家政権のトップである江戸幕府の裁可を仰いだ事も碌に確認せず『時系列をいじることや、行った人物を変えることは禁じ手』とは?

武将ジャパン『青天を衝け』
第19回レビュー


※何かを見た氏は貼っておりませんでしたが、今年もNHKにお礼のメールサイトのリンクを貼っておきます。
ファンの皆様で応援の言葉や温かい感想を送ってみてはいかがでしょうか?









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