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大河コラムについて思ふ事~『光る君へ』第25回

6月下旬になりました。真夏日が増え梅雨入りしましたが健やかにお過ごしでしょうか。
気圧変化もあり大雨になるなど、皆様健康には充分お気を付けください。
さて、光る君へ第25回。 
今週も『武将ジャパン』大河ドラマコラムについて書かせていただきます。
太字が何かを見たさんの言質です。
御手隙の方に読んでいただければと思います。それでは。


・初めに

>一方、道長は、藤原定子に溺れる一条天皇を引っ張り出すため、ついに娘・彰子の入内を決定。長徳4年(998年)正月の時点で道長卿の子女・彰子さまは11歳です。
作中では、安倍晴明公は一条帝に新年の挨拶に参内します。
道長卿に本音を聞き出そうとされ、晴明公は「これからはしばらく凶事が続きましょう」とあらゆる災害を予言します。
また晴明公は「災いの根本を取り除かねば、何をやっても無駄にございます。帝を諌め奉り、国が傾くことを防げるお方は、左大臣様しかおられませぬ」
「よいものをお持ちではございませぬか。お宝をお使いなされませ」と言います。
この時点で晴明公は『お宝をお使いなされませ』と告げており、入内には言及していません。
彰子さまが入内したのは長保元年(999年)の事です。

『光る君へ』より

>越前名産「紙すき」の場面です。
長徳3年(997年)秋、越前。
藤原為時公とまひろさんの親子は、越前大掾・大野国勝公の案内で名産である越前和紙作りの視察のために工房を訪ねました。
和紙の材料である『雁皮』の繊維の塵を取った後、煮て柔らかくした繊維を砧で叩き柔らかくし、女性が漉船に水・紙料・ネリ(トロロアオイ)を入れた中に簀を入れ紙を漉き、圧をかけて水を切った後板に貼り付け立て掛けて丁寧に乾燥させています。
国勝公が「この村の者は秋は男が山で雁皮を集め冬は女が紙を漉くのでございます。越前は寒うございますからキッと目の詰まった艶のある美しい紙が出来上がるのでございますよ」と説明し、まひろさんは目を輝かせています。
為時公は「これが越前が誇る紙すきの技か、大いに励め」と職人たちを励まします。
まひろさんは優れた紙に関心を持ち目を輝かせています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>劇中で実際に紙すきをしている方は、現役の越前紙職人です。
為時公がまひろさんと共に視察に訪れた越前和紙の工房の場面は、『地元越前で和紙を制作されている職人の方々にリサーチの段階からご協力をいただきました。職人の方々には衣装を着ての出演だけではなく、簀桁(すけた)をはじめとする、紙を漉く際に使用する道具をスタジオに持ち込んでいただき、農家セットの飾り付けにも参加していただきました。』との事です。

『光る君へ』より

越前和紙の起源は定かではありませんが、即位前の継体天皇がまだ男大迹(おおど)と呼ばれ、越前にいらっしゃた頃(507年以前)、岡太川の上流に川上御前という美しい女神が現れ、村人に紙漉きを教えた、との伝承が残っています。
奈良の正倉院に所蔵されている古文書には、4世紀から5世紀頃には越前和紙は漉かれていたとの記述があるそうです。(天平9年(737)、正倉院文書『写経勘紙解』に「越経紙」。天平19年(747)正倉院文書『能登忍人解』に「斐紙四百六十七帳」とある)
『延喜式』によれば越前・若狭ともに中男作物として紙の納品が課せられ、また年料別貢雑物として製紙材料の紙麻を貢納する事になっていました。(出典『福井県史 通史編2』)
福井県の「越前和紙の里」には、全国でも珍しい「紙の神様・川上御前」を祀る「岡太神社・大瀧神社」があります。

>本作は、文房四宝じっくり描くのがいい。
>紙は材料が何であるか。
>かな向きか。
>漢字向きか。
>様々な書類があります。
>昨今話題の中国通販アプリの特徴として、アメリカ資本との違いに「文房四宝」の充実っぷりが挙げられます。
『文房四宝』は中国で、文人が書斎で使用する器具即ち文房具のうちで、もっとも重要な紙、墨、筆、硯の4種をいいます。(出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」)
『様々な種類があります』とありますが、必要のない中国通販アプリを引き合いに出したアメリカ資本へのマウントよりも和紙の材料や種類について具体的な説明をして欲しいものです。
和紙の素材には『楮(こうぞ)』『三椏(みつまた)』『雁皮(がんぴ)』『麻』があります。
作中ではジンチョウゲ科の植物である雁皮から作られる『雁皮』が使われ、『雁皮紙』と呼ばれています。
古代では斐紙や肥紙と呼ばれ、光沢があり、湿気・虫害にも強く、その美しさと風格から越前産のものは『紙の王』と評されました。
平安時代には仮名書きの発展により女性たちの間で薄手の雁皮紙である『薄様』が染色されたうえ、懐紙などとして愛好されました。
男性は厚みのある楮の檀紙を愛用したそうです。
『源氏物語』第二帖 「帚木」の五月雨の一夜、源氏の君や頭中将がたちが女性の品評をする所謂『雨夜の品定め』の場面では、『いろいろの紙なる文どもを引き出でて』と色とりどりの紙に書かれた女性からの恋文が出てきた事から女性談義に花が咲きます。
作中でも宿直中の道長卿、公任卿、斉信卿が色の付いた紙に書かれた恋文から品定めを始める場面がありました。

『光る君へ』より

・定着しきった贈収賄?

>まひろは「艶やかな紙だ」と、やはりうっとりしています
出来上がった紙が梱包されて、国府へ送られて来ました。
「これがあの紙なのか」とまひろさんは感心しています。
そして「誠に艶やかな紙ですね!一枚もらってもよろしいかしら?」と言います。
「ならぬ」と為時公に言われ、まひろさんは「一枚くらいよろしいのでは…」と父に頼みましたが、為時公は「民が納めた租税だから勝手に取ってはいけない。全て都に送るのだ」と娘を戒めていました。
まひろさんはムスッとしています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

そして「冬場のつらい手仕事に、このように重い租税をかけるのか」と為時公が役人に尋ねると、国府の役人は「毎年同じ量にございます」と答えます。
為時は役人を下がらせた後、あらかじめ決まっている租税よりも納められた紙の数が多い事に気付きました。
為時公は都に納められる紙の束を前に「越前では2000張を納める事になっているが、ここには2300ある…」と言います。
まひろさんは「これまでの国守は租税を納めた後に、残った分を売って私腹を肥やしていたのではありませんか?」と述べ、為時公は「流石まひろである」と言います。
まひろさんが「父上もお気付きだったのですか?」と尋ねると為時公は「わしは国守であるぞ」と答えます。
そして余剰分は返す事にしましたが、まひろさんは「ならば私に」と言い「それはならぬと言っておる」と為時公は渋い顔をして娘を窘めます。
為時公は、「その考えは宣孝殿に吹き込まれたのか?」とまひろさんに尋ねますが、まひろさんはそれを否定します。
しかし紙を納めた村人は、「お返しいただかなくて結構です」と為時公の返品の申し出を断りました。
「ここの役人共の顔色を窺っているのか?」と為時公が尋ねると、村長は「今のままでよろしゅうございます」と主張します。
為時公は「受け取ったからと言って嫌がらせなどを受けぬ様に厳しく目を光らせる故、案ずることはない」と言い聞かせます。
しかし村長は「役人がいなければ紙を捌く事はできず、都に運ぶ事もできません。余分な紙はそのお礼です」と伝えます。
なおも為時公は「わしは国守である。これ以上余計な搾取ならぬと皆に言い聞かせる」と主張しました。
村長は跪くと、「紙はお返しにならなくて結構です。恐れながら4年で都にお帰りになる国守様にはお分かりにはなりますまい。今のままにしておいてくださいませ」と懇願します。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>決められた租税より、納められた紙の枚数が多いではないか。
>越前紙は2,000枚のはずが、2300枚あるぞ
作中では都に納める越前和紙を『2000張を納める』ところ、2300張納入されているとあります。
『延喜式』の式年料紙条では『凡年料所蔵紙二万張』と規定寸法の和紙を制作する際に使われる原材料と備品の支給が記述されています。
こういう史料の記述も含め作中は『和紙2000張』の数詞になっていたのだと思います。

>このシーンは、日本における贈収賄文化の悪しき一面を映し出しているのかもしれません。
>強制はしない。
>けれども協力すれば見返りがある。
>そう圧力をかける手段は日本史上しばしば見られます。
越前では紙2000張を納める事になっていますが、国府にはあらかじめ決まっている租税よりも多い2300張が納入されました。
まひろさんは「一枚くらい」と紙を強請りますが為時公は積み重ねが不正に繋がると思ったのでしょう、娘を諌めます。
そして、『これまでの国守は租税を納めた後に、残った分を売って私腹を肥やしていたのでは』と為時公・まひろさん親子は思い、余剰分の返却を申し出ました。
しかし、職人を含む村人は返却を断ります。
村人の話を纏めると国府の役人から嫌がらせや搾取を受けているわけでもなく、役人が介入してこそ都への流通や商売が成り立っている事への礼の品として国守に納めているものの様です。
紙職人が「私達がただ持っててもうまく売り捌けない」となるのは雪深い冬の仕事として産業になっているとしても高級品である和紙を卸す手立てが無ければ稼ぎが無いわけです。
例え国守や役人が中間手数料で私服を肥やしたとしても流通を通して都との繋ぎができる事は利益に繋がる事だったのではないでしょうか。
なので越前介・源光雅公が宋の商人たちから越前の商人たちを守ろうとしたのだと思います。(手段は悪かったですが。)
また国府の役人は「毎年同じ量を納めている」と言っており、慣例に従い2300張の紙を納めているのでしょう。
国守は4年で任期満了になり交代するので、為時公の様に規律を重んじる国守だけとは限らず、毎年礼品としての余剰分を含め同量を納める取り決めが大事で、中途半端な善政で勝手に慣例を変えられる事は困るのだと思います。

>たとえば来年の『べらぼう』で渡辺謙さんが演じる田沼意次は、彼一人が極端に贈収賄に励んでいたわけでもありません。
>当時の幕政でも、話を通すとなればお礼のような感覚で贈収賄をする。
>それが潤滑剤になっていた。
>歴史とは自分たちの足元がどう積み上げられてきたのか、振り返る意味もあります
平安時代の受領と地方行政の話をしているのに、何故江戸時代後期の贈収賄の話になるのでしょうか。
『歴史とは自分たちの足元がどう積み上げられてきたのか、振り返る意味もある』と言うなら具体的に平安時代の受領について説明してください。
国司とは、朝廷から任命され地方行政官として任国に派遣された役人で、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の四等官で構成され、国司の長官である守を『国守』といいました。
『受領』とは、元々新任の国守が前の国守から役所の仕事を受け継ぐ(受領する)という意味でした。
国守の中には任命されても任国には行かない者もおり、『遥任国司』といいます。
奈良時代には律令制度により、朝廷が地方も戸籍ごと一人一人税を徴収していましたが、税負担が激しく戸籍から逃げる民衆が激増しました。
平安時代の受領は一定額の租税を国に納付すれば朝廷の制限を受けず、私的に富を蓄積する事が出来たので中流貴族などは積極的に摂関家などの有力貴族へ貢ぎ物をし、国司への任官を望みました。

『光る君へ』より

受領の中には私利私欲のために横領や重税を課すなど横暴な者もいました。
永延2年(988年)には郡司や地元の民が31か条の訴状を朝廷に提出し、尾張守・藤原元命卿が国守を解任される事例もありました。(尾張国郡司百姓等解文)
また、『今昔物語』には受領の貪欲さを示す様な信濃守・藤原陳忠卿の話があります。

信濃守・藤原陳忠卿が任期を終えて都に帰る際、落馬し谷底に落ちてしまい、家来たちは助けるため籠を降ろしました。
陳忠卿は片手に出来る限りの平茸を掴んでおり、籠にはたくさんの平茸が乗せられていました。
呆れ顔の家来たちに陳忠卿は「『受領は倒るるところに土をつかめ』というではないか。」と言いました。

『今昔物語』
『光る君へ』より

・まひろの帰洛?

>まひろは宣孝から手紙を受け取り、彼のことを思い出しています。
まひろさんは、宣孝公からの文を見ています。「都に戻ってこい、わしの妻になれ」と言う宣孝公の声が、まひろさんの脳裏を過ぎっていきます。

『光る君へ』より

まひろさんが縁先で雪が積もった庭を眺め雪の上を歩き月を見ている同じ頃、都では道長卿が同じ月を見ていました。
為時公が戻って来たので、まひろさんが出迎えましたが、為時公は浮かない表情です。
訝るまひろさんに為時公は、「わしは世の中が見えておらぬ。宣孝殿は清濁併せ飲む事ができる故、大宰府でもうまくやっておったのだろう」と言います。
為時公に「お前もそんな宣孝殿に心を囚えられたのか?」と訊かれ、「まだ囚えられてはおりませぬ」とまひろさんは答えます。
しかし為時公は宣孝公がまめに文を寄越しているのを知っています。
まひろさんは「宣孝さまがこんなに筆まめな男だとは知りませんでした」と言います。
為時公は「それだけ本気だと言う事であろう。都に帰って確かめてみよ」とまひろさんに帰洛を勧めます。 
そして為時公は「但しこれだけは心しておけ。宣孝殿には妻もいて妾も何人もいる。お前を慈しむだろうが他の女子も慈しむであろう。お前は潔癖ゆえ、その事で傷つかぬ様、心構えはしておけ」とまひろさんに宣孝公と一緒になる心構えを説きました。
「その事も都で考えてみます」とまひろさんはこたえました。
そして、まひろさんは供の者たちと越前を発ち、琵琶湖を南へ舟で下っていきます。
その間まひろさんは「私は誰を想って都に帰るのだろう…」と自問していました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>宣孝は清濁併せのむことができるから、太宰府でもうまくいっていたのだろう
何度も言いますが。(24回でも言っていますが)
歴史的な使い分けははっきりしないものの、現在の行政的な表記は明確に使い分けられていますので使い分けしてください。
宣孝公が築前守として滞在していた政庁は『大宰府』です。

・大宰府
古代の役所に関連する場合。歴史上の政庁・史跡。
・太宰府
中世以降の地名。現在の市名・天満宮は『太宰府』

>そのころ道長は、倫子との間に生まれた我が子を抱き上げ、あやしていました。
土御門殿では、帰宅した道長卿が倫子さまに出迎えられ、子供たちを順番に抱き上げてやってその成長を噛み締めていました。

『光る君へ』より

>まひろが家に着くと、いとが出迎えました。
まひろさん一行は京の家に帰って来ました。
乙丸が表で「姫様のお帰りでございます」と言うと、いとさんが走り出て来ました。
惟規さまが「父上と喧嘩でもしたのか」と姉をからかうと、まひろさんが「勉学は進んでいるかと父上が心配なさっていた」と惟規さまに父の言葉を伝えました。
いとさんから為時公の様子を訊かれ、まひろさんは「もう1人でも大事無い故、帰ってもよいぞと仰せになるので」と答えます。
まひろさんは見覚えのない男性が家にいるのを見つけました。
「誰?」と訝しがるまひろさんに惟規さまは「いとのいい人」と言い、まひろさんを驚かせます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

・いとと福丸、乙丸ときぬ、その幸せ?

>まひろは戸惑い、思わず「帰ってこない方がよかったか?」と言い出します。
まひろさんの見覚えのない自宅にいた男性は惟規さま曰く『いとのいい人』でした。
「帰って来なかった方がよかったかしら?」と言うまひろさんでしたが、いとさんは「そんな事はございません!この人は他に妻もございますゆえ、たまーに来るだけにございます!」と言います。
その男性は『福丸』と名乗り、帰ろうとしました。
しかし、まひろさんに「別に帰らなくてよい」と引き止められたためまた戻って来ました。
惟規さまは福丸さんに「姉上の荷物を運ぶのを手伝ってやれ」と言い、いとさんと2人で「お荷物お荷物」と言いながら、まひろさんの荷物を部屋へ運んでいきます。
惟規さまが「いとは俺だけがいればいいかと思っていたけど違ったな」とまひろさんに打ち明けます。
まひろさんは「今まで生きて来て驚く事もいろいろあったけど、この驚きは上から3つ目くらいかしら」と言います。
「いとも色々耐えて来たから許そう」と言う惟規さまに、「許すも何も。乙丸も越前から女子を連れて来たのよ」とまひろさんが言いました。
乙丸は越前から付いて来た『きぬ』という女性に、家について色々と教え、きぬさんは乙丸を労わっていました。
まひろさんが「お世話になった人には幸せになって貰いたい」と惟規さまに話していると突然宣孝公が「真に帰って参ったのだな」と声をかけてきました。
挨拶をするまひろさんと惟規さま。
「待ち遠しかったぞ」と宣孝公は言い、まひろさんの帰りを喜んでいます。
そして祝いの酒を持参していました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

宣孝公が「〽関の荒垣や 守れども はれ守れども 出でて我寝ぬや 出でて我〜♪」と『催馬楽(さいばら)』を謡い、賑やかな宴になります。
惟規さまの戸惑いを余所に、いとさんと福丸さん、乙丸ときぬさんがそれぞれ楽し気に顔を見合わせています。
さらに「〽出でて 我寝ぬや」の節で宣孝公はまひろさんに目を合わせ、扇を彼女の方に向け色目を使います。
まひろさんはといえば、目をギュッと瞑り照れており、さらに惟規さまを戸惑わせます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>催馬楽は俗謡で、くだけた音曲です。
>宴会で歌われるようなもので、当時の人からすればセクシーでもある。
『催馬楽(さいばら)』は平安時代初期、庶民の間で歌われた民謡や風俗歌の歌詞に外来楽器の伴奏を加えた形式の歌謡で、9世紀から10世紀にかけて隆盛しました。
『歌いもの』のひとつで、琵琶・箏・笙・篳篥(ひちりき)・龍笛などの管絃楽器と笏拍子で伴奏し、多くの場合遊宴や祝宴、娯楽の際に歌われました。
宣孝公が歌っていたのは催馬楽の呂歌『河口(かはぐち)』です。

河口の 関の荒垣や 関の荒垣や まもれども ハレ まもれども 出でて我寝ぬや 出でて我寝ぬや 関の荒垣

意訳:
河口の関の荒垣よ 関の荒垣よ めざすあの娘を守っても ハレ 守っても 抜け出て私は寝てしまったよ 抜け出て私は寝てしまったよ 関の荒垣

催馬楽『河口』

『源氏物語』第三十三帖「藤裏葉」では、筒井筒の間柄ながら6年引き裂かれていた夕霧と雲居雁の結婚が許されます。
柏木の弟・弁の少将は内大臣(元・頭中将)が結婚を許したことを口惜しく思う気持ちから、『わが家の姫を盗んでゆくのは誰だ』と当て擦る様に催馬楽『葦垣』を謡います。
夕霧は雲居雁に「少将の歌われた『葦垣』の歌詞を聞きましたか。ひどい人だ。『河口の』と私は返しに謡いたかった」と言います。
催馬楽『河口』は、親の目を盗んで女がそっと抜け出して男と共寝したという内容の歌です。
宣孝公が謡うと何処となく六条の廃院で逢瀬を楽しんでいたまひろさんと道長卿の仲を皮肉っている様にも感じます。

『源氏物語』第三十三帖「藤裏葉」
『源氏物語』第三十三帖「藤裏葉」

・天災に見舞われる歳となる?

>安倍晴明は帝の御前にて寿ぎ(ことほぎ)の言葉を、立板に水の勢いで語ります。
年が明けて長徳4年(998年)、清涼殿。
安倍晴明公が一条帝の御前で新年の祝辞を述べています。
「新しき春を迎え、帝の御代はその栄えとどまるところを知らず、と天地の動きにも読み取れまする」
道長卿は人払いをし、道長卿は「仰々しく新年を寿いでおったが、真の様には思えなかった。嘘であろう。」と晴明公の本音を聞こうとします。
晴明公は「見抜かれましたか」と言い、道長卿は「やはりそうか」と納得しています。
晴明公は「これからしばらくは凶事が続きましょう」と予言します。
「凶事とは何だ?地震か、疫病か、火事か、日食か、嵐か、はたまた大水か」と尋ねる道長卿。
晴明公は「それら全てにございます」と答えました。 

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

道長卿はそれら厄災の全てを防ぐため「邪気払いをしてくれ」と晴明公に依頼しますが、晴明公は「災いの根本を取り除かねば何をやっても無駄にございます」と言います。
道長が「根本とは?」と尋ねると、晴明公は「帝を諫め奉り、国が傾くことを防げるお方は、左大臣さましかおられませぬ」と言い放ちました。
「私にどうせよと申すのか」と訊く道長卿に、晴明公は「よいものをお持ちではございませぬか。お宝をお使いなされませ」と意味深な事を言います。
「わからん!はっきり申せ」と言う道長卿に、「よーくお考えなされませ」と助言し晴明公は去っていきました。

『光る君へ』より

・傾国の美女と化した定子?

>御宝とは一体なんなのか――
>この謎かけは、藤原公任や藤原為時、そしてまひろならば即答できそうなところです。
全く国政に関与していない従五位下越前守の為時公やただの受領の娘であるまひろさんが後宮の詳細まで知る由もなく、殿上人である公任卿にしても道長卿が相談しない限り陣定で議題に上がる案件以外は知る手立てが無いと思います。

>国を傾けるもの。
>そして今、帝が政治を放置してまで溺れているものといえば、美女です。
>その美女から帝を引き離す“御宝”とは、別の美女ということになります。 
>これが血筋を問わない王族ならば、美女コンテストでも開催するところでしょう。
>しかし、日本はそうならない。
長徳の変により定子さまは出家し、内裏を出たため、新たに長徳2年(996年)藤原顕光卿の娘・元子さま、藤原公季卿の娘・義子さまが女御として入内しています。
美女コンテストは開催されませんでしたが、作中では倫子さまが道長卿に「殿が帝と女御様方を結びつけるべく、何か語らいの場を設けられたらよろしいのに」と提案します。
土御門殿に一条帝をお招きし、女院・詮子さま立ち会いの許、帝と女御たちの親睦会が企画されました。
この親睦会は女御同士が顔を合わせるのは気まずいためまずは、入内したばかりの元子さまから交流が図られました。
帝がお吹きになる笛に合わせて元子さまが琴の演奏を披露しますが、心が動く様子は少しも見られなかった様です。(第23回)

『光る君へ』より

>帝の妃とならば血統が大事であり、消去法で探していくと、道長しかその“御宝”を有していない。
すでに一条帝には藤原顕光卿の娘・元子さま、藤原公季卿の娘・義子さまが入内しており、長徳4年(998年)には前関白・藤原道兼卿の長女・尊子さまが入内します。
父は道兼卿、母は一条帝の乳母の繁子さまです。
繁子さまは道兼卿と離縁した後、平惟仲卿と結婚しているので後ろ盾はあります。
彰子さまが入内するのは長保元年(999年)の事です。

『光る君へ』より

>そのころ帝は職御曹司(しきのみぞうし)で、最愛の定子を腕に抱いていました。
その頃帝は職御曹司に定子さまを訪ねています。
帝は内裏にいた頃のように、皆が集まれる華やかな場を作ろうとお話になっています。
しかし定子さまは「もうかつてのようなことは望めません」と言います。
定子さまは「私と脩子の側にお上がいてくださる。それだけで十分でございます」と言います。しかし帝は、「朕はそなたを幸せにしたい、華やいだそなたの顔が見たい。今からでも遅くはないから失った時を2人で取り戻そう」と語りかけられます。
定子さまは「うれしゅうございます、されど…」と喜びを覚えつつも戸惑っています。
帝は戻って来た伊周卿の顔も見たがっています。
しかし伊周卿までが出入りすれば、内裏の者に何を言われるか分からず、定子さまは「ここを追われれば私と脩子はもう行く所がございませぬ」と言います。
帝は「誰にも何も言わせぬ」とこの逢瀬を楽しまれています。

>雨を帯びた梨の花のような顔を、咲き誇る桜にまで戻したいのでしょう。
例えが分かりづらいのですが、『雨を帯びた梨の花の様な顔』とは白居易の『長恨歌』の一節、『梨花一枝 春雨を帯ぶ』でしょうか。
楊貴妃が涙を流している様子が一枝の梨の花が、春の雨にしっとりと濡れている様に例えられ、転じて美しい女性が涙に噎ぶという意味です。
因みに桜には楊貴妃に準えた『ヨウキヒ』という品種があります。

白居易『長恨歌』

また、『枕草子』第三十五段 『木の花は』では『長恨歌』の『梨花一枝 春雨を帯ぶ』を踏まえた清少納言の梨の花評がでてきます。

『枕草子』第三十五段 「木の花は」

・隆家の自信?

>藤原道長が焦燥感にかられた苦悩の表情を浮かべています。
一方その頃、道長卿は「鴨川の堤の修繕について勅命はまだ下りぬのか!」と蔵人頭・藤原行成卿に怒りをぶつけていました。
行成卿は「帝は急ぐに及ばずと仰せでございます」と伝えますが、道長卿は「大水が出てからでは遅いのだ」と焦り苛立っています。
さらに行成卿によると帝は「長雨の季節でもあるまい」とも仰った様で、道長卿は「あれほど民の事をお考えだった帝が…。情けない」と言いつつ、「一刻も早くお上のお許しを得る様に」と行成卿に命じます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>まだ雨季ではないと、帝が事態を先延ばしにしているため話が進まない様子。
『雨季』とは、1年の中で降水量の多い時期で逆に降水量の少ない時期を乾季といいます。
日本では6・7月の梅雨期と、9・10月の秋雨期、また日本海側の降雪期がこれに当たりますが、帝は「長雨の季節でもあるまい」と仰っており『雨季』とは言っていません。

>そしてここが道長の欠点でもあるのでしょう。藤原行成にゴリ押しするだけです。
>もしも父の藤原兼家や、姉の詮子ならば、同時進行で複数の手を使ったことでしょう。
「鴨川の堤の修繕」は国家予算が関わる公共事業です。
例え公卿が陣定で審議したとしても重要な議題については帝が審議を命じ、議事を記録した奏文が帝に上申され決裁を受けなければ施行できないのですが。
帝が職御曹司の定子さまの許に入浸りな以上、勅旨や上奏の伝達や帝身辺の世話一切を取り仕切る蔵人頭である行成卿に早く勅命を頂ける様命じるしかないのです。
『同時進行で複数の手を使う』とは具体的にどの様な手でしょうか。
詮子さまは国母として強い発言権があり、しばしば政治に介入したため、『小右記』では「国母専朝事」と非難されています。
女院といえど陣定の裁定に口を挟めば藤原実資卿など公卿から批判されるでしょう。
帝の説得に一役買って貰う手はあるかもしれませんが、この頃の詮子さまは病が重く動く事が叶いません。(後で出てきますが)
また父の藤原兼家卿は摂政・関白であり、帝と同じく決裁者であるため大臣であっても陣定に出席しませんでした。
道長卿は敢えて関白になりませんでした。
天皇に奉る文書や天皇が裁可する文書など一切を先に見られる『内覧』の権利を有した左大臣です。
職務権限が違いできる事が違うのに『複数の手が使えずゴリ押しで欠点』とは。
長雨の季節になる前に道長卿は堤防の補強をしておきたいので帝の勅命を頂きたいのに「長雨の季節でもあるまい」と治水を甘く見ている帝の事は批判しないのでしょうか。

>するとそこへあの「さがな者」の藤原隆家が、狩りにでも行かないか?と誘ってきました。
するとそこへ藤原隆家卿がやって来ました。
隆家卿は「叔父上、たまには狩にでも行きませんか?」と狩りに誘いますが、道長卿は「そんな暇はない」と断ります。
「息抜きもなさらねば」と言う隆家卿に道長卿は、「それより、そなたは職御曹司には行かぬのか?」と尋ねます。
しかし隆家卿は「あそこは虚な場です。私は遊びより政がしたい。出雲は遠くて知人もおらず、どうなる事かと思ったが、出雲守より土地の者たちと深く付き合いができました。こう見えて人心掌握に長けておるようで」と自慢げに自分を売り込んでいます。
道長卿は「己を買いかぶり過ぎではないか」と言います。
「買いかぶりかどうかお試しくだされ、必ず叔父上のお役に立ちまする」と言う隆家卿。
道長卿は「気持ちは分かった、今日は下がれ」と命じ、隆家卿は「また参ります」と出て行きました。
道長卿はため息をついています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>狩りとは……。
>音曲でも和歌でも漢詩でもない。
>蹴鞠や打毱ですらない。
>完全に武者向きですね。
隆家卿の言う狩りはおそらく『鷹狩』の事だと思います。
『鷹狩』の初見は『日本書紀』仁徳天皇の43年(359年)、百済から伝えられたといわれています。
律令制では兵部省に主鷹司(しゅようし)が置かれ、「鷹犬調習せむ事」とあり、のち民部省に移し放鷹司と改称されました。
仏教思想の影響もあり、禁止令も多く出ましたが、奈良・平安時代にたいへん盛んになりました。
嵯峨天皇は『新修鷹経(ようきょう)』を撰し君主の娯楽であることを明確にし、仁明、陽成、光孝、宇多、醍醐天皇など平安時代の歴代天皇が好み、北野、交野(かたの)、宇多野は狩場となりました。(出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ))
『源氏物語』第三十三帖「藤裏葉」、冷泉帝の六條院行幸では『御厨子所(みずしどころ)の鵜飼』と『院の鵜飼』を使った鵜飼を天皇がご覧になり、『蔵人所の鷹飼』が北野で狩した鳥一つがいを献上する場面があります。

『源氏物語』第三十三帖「藤裏葉」

・行成は右往左往するしかなく?

>律儀な藤原行成は、道長に代わって政治工作に励んでしました。
『励んでしました。』は『励んでいました。』でしょうか。
一条帝は職御曹司に入浸り、会うことさえままなりません。
そこで、行成卿は土御門殿を訪ねていました。
女院・詮子さまに帝に進言して貰うのが目的です。
しかし詮子さまは予想以上に病が重く、具合が悪いそうで、倫子さまも「詮子さまから鴨川の件を帝に進言するのは難しそうだ」と伝えます。
仕方なく行成卿は険しい表情で、職御曹司へ向かいました。
しかし「帝はお休みでございます」とききょうさんが言います。
行成卿は「左大臣さまから一刻の猶予もないと仰せつかっております」と伝えました。
そこへ現れた帝は、「この時分(こんな夜中)まで朕を追い回すとは無礼であるぞ」と行成卿を一喝なさいました。
追い返された行成卿は一旦引き下がり道長卿に「引き続き帝にはお願い申し上げます」とこの件を伝え、引き続き乞い願うつもりでいました。

『光る君へ』より

>『枕草子』にもよく出てくる行成。
>犬の翁丸を飾りつけていたとか。
犬の翁丸を飾りつけていた』だけではどういう状況で行成卿が翁丸を飾り付けたのか分かりません。
出典を書いてください。
犬の「翁丸(おきなまろ)」は誰の犬かは分かりませんが一条帝や定子さまにもかわいがられた犬です。
翁丸を飾りつける行成卿は『枕草子』第九段「上にさぶらふ御猫は」に出てきます。
帝の愛猫・『命婦のおとど』の世話役の馬の命婦が縁側で眠る命婦のおとどに翁丸をけしかけた事から帝が大層お怒りになり、「この翁丸を、打ちこらしめて、犬島へ追いやれ」と仰います。
ついに翁丸は滝口の武士などによって追い出されてしまいます。
女房たちが翁丸がこれまで得意そうに歩き回っていた事や三月三日の節句の日に頭弁・藤原行成卿が翁丸に柳の髪飾りを付けさせ桃の花を簪にして挿させ桜を腰に挿したりして歩かせた事を思い出し、「(翁丸が)こんな目に遭おうとは思はなかっただろう。」などと気の毒がるという場面です。

『枕草子』第九段
「上にさぶらふ御猫は」

>そして百人一首のこの和歌も、この二人のやりとりの際、詠まれました。

夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ

清少納言

>清少納言と藤原行成は、藤原斉信ほど深い仲ではない、友達同士のように爽やかな関係ではないかとされています。
こちらも清少納言の和歌の出典を書いてください。
『枕草子』一二九段「頭の弁の、職に参りたまひて」の中に出てきます
ある夜、職御曹司の清少納言の許にやって来た大納言藤原行成卿は、しばらく話をしていましたが、「宮中に物忌みがあるから」と理由をつけて早々と帰ってしまいました。
翌朝、行成卿は「関は関でも貴方に逢いたい逢坂の関ですよ。鶏の鳴き声にせかされてしまって」と言い訳の文を送りましたが清少納言は「嘘仰い。孟嘗君が逃げる時、一番鶏が鳴くまで開かない函谷関を、部下に鶏の鳴き真似をさせて開けさせた『函谷関(かんこくかん)の故事』の様な、鶏の鳴き真似でごまかそうとも、この逢坂の関は絶対開きませんよ」と答えます。

『枕草子』一二九段
「頭の弁の、職に参りたまひて」

>さらに、ここでの道長は、ダメ上司全開でした。
>行成がしょんぼりしながら「また頼みます」と言ったら「うむ」ですよ。
>しかも、立派な眉が逆八の字になって威厳がある。
>道長はものすごく優しい時もあれば厳しい時もある。振り幅が広いんですよね。
>さらに饒舌でなく、それこそ実資なんか思ったことをガーっとしゃべりますが、道長はちがう。>一言だけの時すらある。
>それであの顔だから、どこまでも読もうとしてしまう。
>でも、行成に対しては、もうちょっと具体的な指示を出しましょうよ!
道長卿は「大水が出てからでは遅い」ので、鴨川の堤の修繕について勅命を頂ける様取り次げと蔵人頭・藤原行成卿に指示を出しているのですが、これ以上の具体的な指示とはどの様な指示でしょうか。
行成卿は勅旨や上奏の伝達や帝身辺の世話一切を取り仕切る蔵人所の長官である蔵人頭ですので公卿と帝の間を取り次ぐのが職務です。
なので行成卿自身の判断で土御門殿に詮子さまを訪ね帝への進言を頼もうとし、夜中に職御曹司に行き帝のお叱りを受けたのでしょう。
道長卿は左大臣であり、上司ではなく行成卿に帝の裁可を仰ぎ勅命を頂いてほしいと取次を依頼する側です。
今回は洪水が発生する季節の前に堤の修繕工事を行わなければいけないため道長卿も苛立ち命令口調になっていましたが、行成卿は帝の秘書官的立場です。

・伊周は政治復帰を画策 あの随筆を利用する?

>藤原定子を呼ぶために用意した職御曹司。
大宰府から戻った藤原伊周卿は、帝から職御曹司への出入りを許されました。
「大宰府から戻った伊周は帝から職御曹司の出入りを許された」と語りが入ります。
伊周卿はききょうさんの『枕草子』を「少納言が書いたつれづれ話は実に趣深く機知に富んでいて面白い」と評します。
定子さまは「真に、これに命を繋いで貰った様なもの」と言います。
「畏れ多い」と頭を下げるききょうさん。
伊周卿は、「そうだ、これを書き写して宮中に広めるのはいかがであろう?」と提案します。
ききょうさんは、「定子さまのためだけに書いたものでございます」と断ろうとしました。
しかし、伊周卿は「これが評判になれば、面白い女房がいると皆も興味を持つ。その結果この場が華やぎ、つれづれ話が流行れば、中宮様の隆盛を取り戻すことができる」と主張し、取り付く島もありません。
伊周卿は「早速、書写の手配をいたそう」と立ち上がり、ききょうさんには「少納言、お前は次を書け」と命じます。
ききょうさんは虚ろな表情で承諾します。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>藤原定子を呼ぶために用意した職御曹司。
>そもそもは藤原行成のアイデアで使われることになっていましたが、これが実は厄介な存在でした。
実は厄介な存在』とありますがどの様に厄介なのか具体的に提示してください。
職御曹司は内裏の外側にあり、中宮の身の回りの世話や事務などをする中宮職の庁舎で中務省所属の機関です。
穢れの回避のために皇后や中宮が仮住まいとする場合もありました。
定子さまの場合は、兄・伊周卿、弟・隆家卿が花山院を襲撃し、定子さま自身は事件後に出家し内裏の後宮に居続けることができなくなったので職御曹司を住まいとしていました。
出家後の隠棲場所だった所に一条帝が入浸り政務が滞る事から公卿の不満が溜まり、またかつての登華殿の様に華やかにしたいとお思いになっており、大宰府から戻ってきた伊周卿が出入りする様になります。

参照
『枕草子』職の御曹司におはしますころ、西の廂にて~情趣を楽しむこととマネジメントと

>こうして書き写し、広められることになる清少納言の作品。
>今回は冒頭で越前紙が登場しました。
>ただ、文字を書写するにせよ、当時は金がかかります。
>こうした工作にも紙は使えるのです。
>ゆえにああも重要視されるのです。
枕草子』の執筆動機等については巻末の跋文に『内大臣だった伊周卿が一条帝と中宮定子さまにまだ高価だった料紙を献上し、「帝は『史記』を書写されたが、こちらは何を書きましょうか?」との定子さまの問われた清少納言が「枕にこそは侍らめ(枕は如何でしょうか)」と答え、「ではそなたに与えよう」とそのまま紙を下賜された』と記されています。

『枕草子』跋文

伊周卿が献上した料紙がきっかけで『枕草子』が生まれ、中関白家が衰退していく不幸の中、ただただ定子さまの繁栄が描かれ写本により広まっていったため、伊周卿も清少納言のパトロンの一人といえるでしょう。
跋文には、『この草子は目で見て心で思った事を誰かが見たりするのだろうか?(いや、誰も見ないだろう)と思い、暇を持て余した実家暮らしの時に書きためてたのを、良からぬ事に人によっては都合の悪い言い過ぎたところもあるので、うまく隠しおおせたとは思っていたのだけど、全く思いがけず世間に漏れ出てしまった。』とあり、清少納言本人は人前に出す草子のつもりではなかったのかもしれません。

『枕草子』跋文

・藤原実資が、日記の中に「帝は軽率だ」と書き殴っています。 
その頃、藤原実資卿は自邸で文机に向かい具注暦を広げて筆を走らせていました。
「帝もはなはだ軽率である。中宮は恥を知らぬのか!」と口に出しながら日記に書き綴っています。
さらに何度も「非難すべし、非難すべし、非難すべし…!」と口に出しながら日記に書きつけています。
それを聞いた傍の鸚鵡が「スベシ!」と実資卿の言葉を真似していました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

因みに、鸚鵡の声は種﨑敦美さんから山村響さんに交代していました。(ただし、この鸚鵡が同じ個体なのか別個体なのかは不明。)

・鴨川の堤が決壊した?

>そしてついに、雷雨の季節が到来しました。
>鴨川の堤が決壊!
長徳4年(998年) 9月1日。
都は雷雨となり、「鴨川の堤が大きく崩れましてございます!」との報告が道長卿に入ります。
晴明公の予言通り次々と禍が都を襲い始めたのです。
語りが「晴明の予言通り、次々と禍が都に襲いかかります」と入ります。

『光る君へ』より

藤原行成卿の日記『権記』長徳4年(998年)9月1日条には、『雨であった。午剋(うまのこく/午前11時~午後1時)の頃、左府(藤原道長)の許に待った<上東門第[土御門第]である>。大雨によって一条の堤が決壊し、鴨河が横溢(おういつ)して京中に入ったことは、海のようであった。左府(藤原道長)がおっしゃって云(い)ったことには、「大雨については御祈祷を行わなければならない。・・・この堤については、宣旨を下した後も修理を行っていない。・・・(防鴨河使が)怠っていることについては、戒めないわけにはいかない」と。』とあります。

『権記』長徳4年(998年)9月1日条

>昨年の大河ドラマでもそのあたりを描いて欲しかったと、今更ながらにないものねだりをしてしまいますが、江戸を築くにあたって徳川家康が重視したのは“治水”でした。
何見氏の無いもの強請りはどうでもいいですが、私怨から『どうする家康』を穢として叩いている以上、例え利根川と荒川の分流や付け替え工事、神田上水など徳川家康公の治水事業が描かれたとしても『私の嫌いな作品に出すな!』という駄々っ子で、『どうせ扱えないだろうに、どうして伊奈忠次まで出すんですかね。歴史が嫌いだ嫌いだ!と毎週駄々っ子みたいにジタバタしておいて、急に上級者向け要素に挑むことだけはする。』とイチャモンを付けるだけだと思います。
叩き棒に使いたいだけのために今更『昨年の大河ドラマでもそのあたりを描いて欲しかった』と言っているだけにしか思えません。
家康公の治水事業については『家康、江戸を建てる』をお勧めします。
前編は『光る君へ』で藤原宣孝公を演じる佐々木蔵之介さんが大久保藤五郎公を演じています。

大河コラムについて思ふ事~
『どうする家康』第37回

>ともあれ、近世への入り口ともなればそこまで考える者もいましたが、当時はそうできなかったということです。
『当時はそうできなかった』とありますが、平安時代の鴨川の様子や治水の状況がこれでは分かりません。
具体的に書いてください。
延暦13年(794 年)の桓武天皇による平安遷都より、鴨川は四神相応のうち『東の青龍』にあたる重要な川でした。 
以来、鴨川 は神聖な川として尊ばれ、その水は古くから宗教的儀式に重用されました。
鴨川の名前は中流域に定住していた賀茂氏に由来するというのが一般的だそうです。
上賀茂神社と下賀茂神社に因み、高野川合流点から上流を『賀茂川』下流を『鴨川』と表記されます。
古来から鴨川は氾濫を繰り返す暴れ川として知られており、824年(天長元年)には治水を担当する防鴨河使(ぼうかし)という官職が設けられ築堤工事が行われました。
しかし、築堤工事が盛んに行われたにも関わらず、鴨川の氾濫は止まらず暴れ川となりました。
花山帝は陰陽師・安倍晴明公に鴨川の治水を命しじ、晴明公が祈祷をするとたちまち『水が去って土が成り』ました。
晴明公は鴨川の中州に寺を建立し法城寺と名付けます。
平安末期に権勢をふるった白河法皇は、自らの意に沿わないもの(天下三大不如意)として『賀茂川の水、双六の賽子、そして比叡山の山法師(僧兵)』と鴨川を挙げました。
1591年(天正19年)天下人となった豊臣秀吉公は洛中を囲む24kmの『御土居』を作り、五条橋の架け替えを行います。
また1670年(寛文10年)には今出川通から五条通までの区間に寛文新堤が設けられました。

『京都市平安創生館』平安京復元模型

>朝廷の無策ぶりは、この後の公卿の会話でわかります。
殿上の間では、長雨による大水に打つ手のない公卿たちが控えています。
平惟仲卿は、「中宮さまが職御曹司に入ってから悪いことばかりだ」と言い、藤原公季卿は、「左大臣(道長)が帝にきちんと意見を申されぬ故、帝が好き放題になされている」と言います。
そして公季卿は右大臣・顕光卿に「右大臣さまからきちんと申し上げてくれ」と頼みます。
惟仲卿は顕光卿と公季卿に「左大臣様の兄上がおられます事をお忘れなく」と小声で注意しています。
隅には道綱卿が居て唐菓子を食べながら「私、お邪魔かな」と呟きます。
顕光卿は「自分に任せよ、左大臣にきつく言ってやろう」と立ち上がりました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

道長卿は、普請を請う旨の文を作らせていました。
そこへ顕光卿がやって来ました。
顕光卿はきつく言うつもりがご機嫌伺いの挨拶をし、雨にもかかわらず「今日は良い日でございますな」と言いました。
道長卿が訝りながら「雨ですが」と答えると顕光卿は「あれ?いつから…」と言います。
「鴨川が再び水かさを増すと厄介だ」との道長卿の言葉に合わせるように、「厄介な事ばかりで左大臣殿もご苦労なことですな」と言います。
道長卿が「何か御用ですか」と尋ねると顕光卿は「お忙しかろうと励ましに参っただけで」と言い下っていきました。

『光る君へ』より

>道長のアピールがもっとハッキリしていれば、あるいは対策に動いていれば、右大臣でなく左大臣を頼りにするのでは?
何度も藤原行成卿が職御曹司に足を運んで帝から勅命を頂く事が難しく、道長卿が普請を請うための書類を作成している最中、大雨による洪水が起きてしまったのですが。
平惟仲卿も帝が職御曹司に入浸り勅命が下りなかったため、『左大臣が帝にきちんと意見を申されないから帝が好き放題になされている』と原因を語っています。
道長卿に強く言ってもらうため右大臣・顕光卿に丸投げな時点で皆責任を取りたくない事が分かります。
藤原顕光卿の人物紹介では、『儀式での失敗など、その無能ぶりはしばしば嘲笑されていた。しかし、競争相手である公卿たちが早く亡くなったことで、政治の中枢に残る』とあります。

『光る君へ』より 

長雨が降り続き鴨川が増水して堤が切れた状態で何をアピールするのでしょうか。
公卿たちが増水する川に行き堤防を作れとでも言いますか。 
行成卿の日記『権記』長徳四年(998年)九月一日条には『道長卿曰く「大雨については御祈祷を行わなければならない。・・・この堤については、宣旨を下した後も修理を行っていない。・・・(防鴨河使が)怠っていることについては、戒めないわけにはいかない」』とあり、宣旨が下っても普請が行われていない事が分かり、祈祷で大雨を鎮める事先決だったのが分かります。

『権記』長徳四年(998年)九月一日条

>道長の異母兄である藤原道綱はこの場にいても、何の役にも立っておりませんでした。
清涼殿の殿上人が控える部屋である殿上の間でたまたま陣定の無い時に唐菓子を食べ控えていたところ顕光卿・惟仲卿・公季卿の会話に出くわしたのですが。何見氏は休憩している人に向かって『役立たず』と言うのでしょうか。

・公任が下の句を詠み 清少納言が上の句を?

>藤原公任が職御曹司で、帝と中宮を前にして笛を奏でています。
宮中の冷ややかな視線を浴びながらも、職御曹司では藤原公任卿が招かれ、一条帝と定子さまが公任卿の龍笛の音色に耳を傾けています。
傍らには伊周卿やききょうさんも居り昔に戻ったかの様です。
帝が公任の笛をお褒めになり、公任卿は「お上には及びませぬ」とます。

『光る君へ』より 

伊周卿は公任卿とききょうさんが歌のやり取りをした話を持ち出し、公任卿も、「噂の少納言殿に挑んでみたくなった」と言います。
下の句を公任卿、上の句をききょうさんが作っており、帝は関心を示されます。
まず公任卿が「すこし春ある 心地こそすれ」と下の句を詠み、ききょうさんが「空寒み 花にまがへて 散る雪に」と詠みました。
定子さまが『空寒み 花にまがへて 散る雪に すこし春ある心地こそすれ』と上下の句を併せて口にします。
帝は公任卿の『すこし春ある』について「白楽天の『南秦雪』か?」とお尋ねになり、公任卿は頷きました。
伊周卿は「公任の才知に憧れている、師として歌の指南をしてほしい」と言いますが、公任卿は伊周卿に「十分腕を磨いておられましょう」と答えます。
伊周卿は定子さまに、「ここで公任の歌の会を開いてはどうでしょうか」と提案します。
「男女ともに学べる場所を設けたら、皆喜ぶ」と伊周卿は言い、帝と定子さまもその提案に乗りました。
公任卿は「畏れ多いお言葉、痛み入りまする」と帝に謝意を述べます。

『光る君へ』より 
『光る君へ』より 

公任卿とききょうさんが歌のやり取りをし、下の句を公任卿、上の句をききょうさんが詠みました。
『枕草子』一〇三段「二月つごもりころに」では、旧暦2月のある時公任卿から『上の句を付けて下さい』という意味で下の句だけが届けられます。
清少納言はあまり和歌が得意ではなかったともいわれ、困った清少納言は中宮定子さまに助けをもとめますが、すでに一条帝がお越しになっているため相談できぬまま『相手が公任卿だけに下手な返しができず、返事も遅かったらいけない』と返歌をしたためました。
結果『空寒み 花にまがへて 散る雪に すこし春ある心地こそすれ』という雪を花に準えた春の訪れの兆しを感じる技巧的な゙歌ができます。

『光る君へ』より
『枕草子』一〇三段「二月つごもりころに」

すこし春ある 心地こそすれ
藤原公任

意訳:
少し春らしい気持がすることよ

『枕草子』一〇三段「二月つごもりころに」

空寒み  花にまがへて  散る雪に
清少納言

意訳:
空が寒いので、花と見間違えるように散る雪で

『枕草子』一〇三段「二月つごもりころに」

この歌の背景にあるのは白居易(白楽天)の『白氏文集』に収められた『南秦の雪』という詩です。
清少納言は、公任卿の下の句「少し春ある心地こそすれ」が第4句『二月山寒少有春』を踏まえた歌と見抜き、自らは第3句の『三時雲冷多飛雪』を引用して上の句を作るという漢籍知識と和歌の才があってこその高度な返しといえます。

『南秦の雪』白居易

・道長、辞表を提出し、諫言する?

>そこへズカズカと現れたのが道長でした。

その時、女房がききょうさんに何かを囁き、ききょうさんは「左大臣さまがお越しです」と帝に伝えました。
職御曹司にいた一同の表情が一変し、やがて女房に案内されて道長卿が局に入って来ました。
ききょうさんが下座へ下がり、公任卿も脇へ控えました。
道長卿は帝に頭を下げ、「お上、お願いがあり参上しました」と伝えます。
帝は「この場で政の話はせぬ」と仰り、下がろうと立ち上がりかけた定子さまに「中宮もここにおれ」とお命じになります。
道長卿は帝に「一昨日の雨で鴨川の堤が崩れ、多くの犠牲者が出て家や田畑が失われました」とまず伝えます。
そして皆が沈黙する中、「堤の修繕のお許しをお上に奏上しておりましたがお目通しが無く、お願いしたくともお上は内裏におられず。仕方なくお許し無きまま修繕に突き進みましたが、時すでに遅く、一昨日の雨でついに大事に至りました」と述べます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

道長卿はさらに「早く修繕を始めなかった私の煮え切らなさゆえ、民の命が失われました。その罪はきわめて重く、このまま左大臣の職を続けてゆく事はできぬと存じます」と言います。
道長卿の言葉に、帝は驚かれ「何を申すか!朕の叔父であり、朝廷の重臣であり、朕を導き支える者はそなたでなくして誰がおろう。朕が悪い。此度の事は許せ」と仰います。
しかし道長卿は、「お上のお許し無きまま勝手に政を進めることはできず、その迷いがこたびの失態に繋がりました」と述べます。
「このまま左大臣の職を続けることはできません。これ以上は無理でございます。どうかお許しを」と頭を下げる道長卿に「左大臣の言いたいことは分かった。許せ、左大臣」と帝が仰って自らの過ちをお認めになりました。
しかし道長卿は既に辞表は蔵人頭・行成を介して提出しました。内裏に戻られたらご確認ください」と言って下がろうとします。
その道長卿を帝が「待て」と呼び止められましたが道長卿は去って行きました。
そして「道長は三度にわたり辞表を提出したが一条天皇は受け取らなかった」と語りが入ります。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>道長はそうではありません。
>「左大臣は務められない」と言い始めました。どうあっても関白に固執したい父や兄・道隆とは違います。
道長卿の辞表提出については、何度も提出しており、そのたびに帝から引き留められています。
『権記』長徳4年(998年)三月三日条には『権中将<(源)経房>が慌(あわただ)しく来て、云(い)ったことには、「相府(藤原道長)の御書状に云ったことには、『出家を遂げるということを(一条)天皇に奏上するように』とのことでした」と。すぐに時剋(じこく)を問わせた。』
『権記』長徳4年(998年)三月五日条には『左大臣(藤原道長)は、右近権少将(藤原)兼隆を遣わして第二度の上表を奉献した<「内外の章奏を内覧する臣を停め、左右の随身を本府に返すことを申請する」と云(い)うことだ>。』
『(藤原道長の上奏を)伝え三月五日条には聞いて奏聞した。勅によって、右大臣(藤原顕光)に下した。(一条)天皇は、奏請したところは許さないということをおっしゃった。直答を賜うことになった。』 
『権記』長徳4年(998年)三月十二日条には『左大臣(藤原道長)、重ねて民部権大輔(源)成信朝臣(あそん)を遣わして上表した。』とあり、道長卿は三度に渡り辞表を提出しています。

『権記』長徳4年(998年)三月三日条
『権記』長徳4年(998年)三月五日条
『権記』長徳4年(998年)三月十二日条

>仮に兼家や道隆のように居丈高であればまた別なのでしょうが、道長は自らを弱く見せることもできます。
『権記』での辞表提出の理由は腰痛発病によるもので長徳4年9月の大水によるものではありません。
作中では、災害公衆衛生対策の不備による自らの失政とする事で、暗に『天子の徳が薄いため』と諌めています。
『本朝文粋』によると道長卿はこう言っています。

「臣、声源浅薄にして才地荒蕪なり。偏に母后の同胞たるを以て、不次に昇進す。また父祖の余慶に因りて、徳非ずして登用さる。」

意訳:
声望浅薄な自分は才能もいい加減。母后の兄妹の為また父祖の余慶により徳もないのに序列を超え昇進してしまった

『本朝文粋』

>伊周にあんなに媚びておいて、道長に期待をかけるなんておかしい? 
>いや、公任ならばこう言いそうですよ。
公任卿は伊周卿に媚びているのではなく、帝と定子さまの御召しで龍笛の演奏のために職御曹司を訪ね、ききょうさんが同席したため歌の披露になったのですが。
あと自分の発した言葉の責任も取らないのに、『勇者ヒンメルならそうした』構文で自分の意見をぼかすのはやめたら如何でしょうか。
故事を引用するなら出典もきちんと明記しましょう。

良禽は木を択んで棲む

意訳:
賢い鳥は木を選んで巣をつくる。賢い臣下は君主を選んで仕える。
『春秋左氏伝』哀公十一年

デジタル大辞泉(小学館)

・ウニが結んだ縁?

>泥だらけになった自宅をまひろが片付けています。
まひろさんの自邸も水害に見舞われ、皆で水をかき出す作業に追われています。
そこへ鴨川を見に行っていた乙丸が戻って来ました。
乙丸曰く、「泥の塊があちこちにたまっており、修繕がはかどらない」との事です。
まひろさんは家を失った者の事を案じます。
乙丸は「皆途方に暮れていた」と話します。
「大水は今に始まった事ではない。いずれ持ち直します」と福丸さんが言います。
いとさんが福丸さんに次の仕事を命じています。
まひろさんが「よく尽くすのね。福丸は」と言うといとさんは「この人は私の言うことをなんでも聞いてくれる。そこがよいところです」と答えます。
まひろさんが「のろけてるの?」と尋ねると、いとさんは「のろけておりません!」と否定し「、私なりの考えでございます。私のいうことを聞いてくれるこの人が尊いのです」と答えます。
いとさんは「皆歌がうまいとか、見目麗しい男がいいとか、富がある男や話の面白い男がいいとか言いますが、自分は何も要りません。言う事を聞くこの人が尊いのです」と言い、「そうなのね」とまひろさんは納得しています。
そしていとさんは、乙丸ときぬさんの馴れ初めを知りたがります。
乙丸は「こいつは元々ウニを取る海女でございます」と答えます。
まひろさんがウニが好きだったため、乙丸はいつもきぬさんの許にウニを求めに行っていたのだっそうです。
まひろさんは「私が食べていたウニもきぬがとったものだったのね!」と感慨深げです。
きぬさんは「私の得意な技は海の中で息を長く止める事」と鼻をつまみ実際にやってみせます。
乙丸が「海女は息を止めて海に潜りますので」と説明し、「頼もしいのね」とまひろさんが笑います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>そういう水利の悪い土地に対し、どうしてこうも無策なのかとは思わず言いたくもなりますが、当時ならば限界はありますよね。
上記でも書きましたが、古来から鴨川は氾濫を繰り返す暴れ川であり、824年(天長元年)には治水を担当する防鴨河使(ぼうかし)という官職が設けられ築堤工事が行われました。
しかし、築堤工事が盛んに行われたにも関わらず、鴨川の氾濫が度々起こりました。
『権記』長徳四年(998年)九月一日には勅命が下った後も防鴨河使が堤の普請を怠っているため戒めなければならないという記述もあり技術の限界以外の要因もありますが。
因みにまひろさんの自邸・堤中納言邸(現・廬山寺)は曽祖父に当たる藤原兼輔卿の邸宅で、東京極大路東の鴨川堤にありました。
このため兼輔卿は『堤中納言』と呼ばれました。

>道長のもとに、ウニが好きな宣孝が挨拶に来ました。
道長卿が土御門殿に戻って来ると、藤原宣孝公の姿がありました。
道長卿は宣孝公に構わず、「鴨川の堤の修理の費用がどのくらいになるのか答えを出せ」と恒方公に命じています。
「右衛門権佐兼山城守藤原宣孝殿でございます」と紹介され宣孝公が通されます。
道長卿に宣孝公が「お忙しいところ申し訳ない。川岸の検分に自らお出ましと聞いて恐れ入っていました」と言います。
道長卿が「何か用か?」と尋ねると、宣孝公は山城守就任の礼を述べ、さらに越前の為時公の事を話題にしました。
そして宣孝公が「為時の娘も夫を持てることになりました」と言います。
「それはめでたいことであった」と、道長は動揺しつつも無表情を決め込みます。
宣孝公は何かを含んだ様な笑みを浮かべ、「実は私なのでございます」と言います。
そして「為時の娘の夫にございます」と告げます。
道長卿は瞬間驚き思わず書状を持つ手に力が入りますが、すぐに「ふっ…それは何より」と言います。
宣孝公は嬉しそうでした。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

・道長、藤原為時の娘の結婚を知る?
>まひろは、白居易の新楽府を詠んでいます。
宣孝との結婚を控えたまひろさんが自邸で白居易の『新楽府』を読んでいます。

君之門兮九重閟
君耳唯聞堂上言
君眼不見門前事

君の門は九重閟(きゅうとちょう)ず
君の耳はただ聞こゆ堂上の言
君の眼は見えず門前の事

意訳:
天子の門は九重に閉じている
天子の耳にはただ殿上人の言葉が聞こえるだけ天子の眼には門前の出来事も見えていない

新楽府『採詩官』
『光る君へ』より

そこへ宣孝公がやって来ました。
宣孝公は「越前では忙しそうだったが、都では暇そうだな」と言い放ちます。
まひろさんは「書物を読むのは暇だからすることではないものよ」と答えます。
それを聞いた宣孝公は「またしくじった」と笑う。
「随分とご機嫌なご様子」と言うまひろさんに宣孝公は「先ほど内裏で左大臣さまに目通りし、山城守拝命のお礼を申し上げて来た」と言います。
そして「お前を妻としたい旨もお伝えしたら恙無くと仰せであった」と話します。
「その様な事を何故左大臣さまに」とまひろさんが言いますが、宣孝公は「挨拶はしておかねば、後から意地悪されても困るからな」と答えます。「そんな嫌らしいものの言い方は何なんですか」とまひろは呆れ抗議しますが、「お前の事が好きだからだ」と宣孝公に言われてしまいます。
まひろさんは戸惑った後「お帰りください!」と言います。
宣孝公は「はーい」と返事をして立ち上がり、「また叱られてしまったわ」と哄笑して帰っていき、まひろさんは考え込んでいます。
一方、執務中の道長卿は、「迎えの車が来た」という知らせを受け「今日は帰らぬ」と一旦口にしたものの、「ああ」と頷きました。
何度も瞬きを繰り返し道長卿は何かを思案します。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>ただし、暇とは言っても、まひろとしては白居易の作品から政治批判を探したという気持ちはあるのでしょう。
『新楽府』民衆の歌の形を借りて、時の政治や社会を批判したり風刺したりするものです。
作中ではまひろさんが惟規さまが借りた『新楽府』を書写していました。
後に彰子さまの女房になり、紫式部と名乗る彼女ですが、後宮では『新楽府』を彰子さまに講義しています。(漢籍知識を表に出すのを憚りこっそりとですが。)
まひろさんが、自宅で読んでいた白居易の詩は全50編からなる『新楽府』の「採詩官」です。
作中で読まれた部分は『その天子の御堂は 人民から千里も離れた場所にありその御堂の門は 九重に閉ざされたままになっている。天子の耳に入るのは 朝廷の中の話だけで宮門の外の様子などは目にするべくもない。』という意味で、鴨川の洪水で多大な被害を出しても宮中に隔てられ、民の声を聞いて様子を見て顧みる事も無いという社会批判なのかもしれません。

『新楽府』採詩官

>考えた結果はまひろへの結婚祝いでした。
まひろさんがきぬさんを伴い自邸に戻ると百舌彦さんが訪れていました。
また縁先には道長卿からの祝いの品物が並べられ祝辞を述べます。
百舌彦さんは以前に比べ、水干と折烏帽子から狩衣と立烏帽子に変わり、立派な身なりになっていました。
まひろさんは「偉くなったのね」と百舌彦さんの出世を喜びました。
百舌彦さんは「長い月日が流れ、諸々お話ししたい事もあるが本日はこれにて」とまひろさんに道長卿からの文を渡します。
まひろさんは文を見て「あの人の字ではない…」と道長の字でない事に気付きます。 
まひろさんは文を書き、リンドウの茎にそれを結び付けて乙丸に持って行かせました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

その夜。 
まひろさんの許に宣孝公が訪れました。
「私は不実な女でございますがそれでもよろしゅうございますか」とまひろさんが尋ねます。
宣孝公は「わしも不実だ。あいこである」と答え、「まことに」とまひろさんは言います。
そして宣孝公はまひろさんを抱きしめ、床に押し倒していき、まひろさんは宣孝公の袖に手を伸ばしました。
翌日は日食が起こりました。
「翌日は日食。不吉の兆しである」と語りが入ります。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

・MVP:藤原道長?

>もしも本当にアイデアマンならば、それこそ「宋の技術者でも呼んで、治水対策ををしよう!」となってもおかしくない。
>けれども道長は、帝のお許しを求めて右往左往するばかりです。
>それもそのはず、道長が有効な治水工事をしたら歴史の改変になりますからね。 
結局、歴史の流れや作中の物語や物の道理や職務権限などどうでも良く、自分の思う通りに人物が動いたり事が運ばないと自分の考えを押し付け気に入らない人物を無能と馬鹿にしたいだけではないかと思います。
鴨川の治水に関しては現代でいうところの河川課の様な防鴨河使という役職が置かれ長い堤防を築いていました。
鴨川は,しばしば洪水を起こす暴れ川で、防鴨河使は鴨川の水害対策として,堤を修理するための令外官でした。
天長元(824)年に設置されたのが防鴨河使(ぼうがし)ですが,成果はあまりなかった様です。
作中では長徳4年9月の大水は職御曹司にいらっしゃる帝から勅命を頂く事が難しく、道長卿が普請を請うための書類を作成している最中、折からの長雨で一条の堤が決壊しました。
いくら宋の技術者を呼んでも普請を請う行政文書の作成が滞っては現場が動けないのです。
これは帝の補佐として全権を委任されている摂政・関白と違い、内覧の権限を有した左大臣の立場である道長卿が越権できる訳もなく彼一人の職務権限では事が進まないのも確かです。
『権記』によれはこの頃の道長卿は腰痛のために休みがちで3度の辞表を提出しています。
歴史改変の前にきちんと史料を確認して時代背景やなぜそうなったのかを考えるのも大事だと思います。

・注目すべき政治劇?

>すると、道長の政治家としての力量とその限界点が見えてきます。
>一方でまひろは鋭く、政治センスもあることがわかる。
>越前編で、まひろは道長の決断力に不満を感じていた。
>いずれまひろが道長の政治センスのなさに失望するのではないか。
まひろさんが漢籍知識に精通した女性で特に白楽天の『新楽府』の様な民衆の暮らしや政治への関心があったとしても彼女は受領層の娘という身分です。
越前国守の立場からすれば宋人の扱いなどについて越前の事は越前で解決する様差配され不満でもこの件は『出家した中宮定子さまの懐妊』という国政や秩序に関わる問題が起き、優先順位が変わったから為時公に一任されたのです。
しかし、平安時代では都から越前の距離など物理的問題もあり、道長卿の意図など双方の意思疎通は難しいと思います。

>けれども、根本的に何かが不足していることもわかります。
>誰かが、堤の技術を大きく改善しようと言い出さないのはなぜなのか。
>戦国時代の後半と比較してみると、その差は明らかでしょう。
>各地の戦国大名たちは、戦闘術、そして石垣の積み方はじめ築城術をどんどん改善し、改良し、変えてゆきました。
>そうしないと生き延びることができない。
>競争があればこそ革新は訪れる。
>止まっていたら追い抜かれるだけなのです。
『誰かが、堤の技術を大きく改善しようと言い出さないのはなぜなのか』
言うだけなら誰でも言えます。
京都の街作りは治水の歴史でもあり、技術的に出来ないものに現代視点で『できないのは怠慢!無能!』と言ってもどうする事もできないと思います。
平安京では堀川の様な人工的に開削した水路をつくり、運河や生活用水に利用していました。
また、鴨川の下流域である桂川との合流地付近には港が置かれ、地方との流通を促しました。
堤防の新設・修築を担う防鴨河使が置かれ、堤防が築かれました
しかし平安時代の鴨川の一帯は荒涼たる川原で、川幅は東は大和大路、西は河原町まで(約東西、四百米、南北、八百米)の広範囲に広がり、中央に中洲がありました。
「洛中洛外図屏風」でも五条橋付近(現在の松原橋)の鴨川に島が描かれています。
安土桃山時代、豊臣秀吉公は洛中を取り囲む延長約22.5kmの『御土居』を作り巨椋池や宇治川周辺の整備が行われました。
1670年(寛文10年)には今出川通から五条通までの区間に寛文新堤が設けられます。
昭和に入っても洪水は起き、1935年(昭和10年)6月29日未明に発生した鴨川水害では死者12名・負傷者71名・家屋の全半壊482戸、37.2平方kmが浸水。このほか鴨川にかかる26橋のうち五条大橋など15橋が流失しています。

千年の都の水の文化


※何かを見た氏は貼っておりませんでしたが、今年もNHKにお礼のメールサイトのリンクを貼っておきます。
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