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【001】2021年12月21日スペインはバルセロナ【冬至】より

友人がfacebookで「日本は明日(12/22)が冬至」と投稿していた。ちょうど来年のプロ向けの講座を告知しようとしていたので、それなら冬至に合わせようと準備をしていた。いつか本を出して欲しい、noteでもいいから始めて欲しいとfacebookにたまに長文を書いていた程度でたくさんの方に声をかけていただき、実際に出版の依頼もいただいたりしてから数年。放っておいたら一人でずっと喋ってるような人間にとって、文章も止まらなくなる時があるのだが、音を作る時のように何度も読める(聴ける)ようにそのリズムや体裁を気にし始めると細かいところまで目がいってしまう。facebookにアップするような長文も、ほとんどの人が気づかないような細いところを何度も直してしまう。やり始めるとあらゆる時間を費やしてしまいそうだと想い、なかなか重い腰を上げずにここまで来たが、この度自分の全活動を集結させたポータルサイトを日本の仲間が仕上げて来てくれたのでそれに合わせてnoteから始めることにした。

このサイトはまだ制作途中。それはサイトとして制作途中という意味だけではなく
⚫︎ イベントオーガナイザー
⚫︎ Body&Mental
⚫︎コンサルティング
⚫︎音(DJ/サウンドヒーリング/ヴォイストレーニング/Live etc)
⚫︎随筆(ココ)
この5本柱が相互にシナジーを起こしながら、最終的にこのサイトのど真ん中にある「祭」までにじり寄っていく

地球上の人々や生命とこの惑星に生まれたことを祝う祭

これを言い始めたのが24歳の頃。大学を卒業する前から就職予定だった某総合研究所でリサーチアシスタントとして働いていた。就職活動を目の前にする学生から「先行きの見えない今の世の中、将来のことを考えるとどの企業にすればいいのか悩みます。」と相談を受けることが多いが、どの会社にするか悩む前にもっと考えることがある。それは就職活動自体がたくさんある選択肢の中の一つだということ。親も周りも当然のように就職活動ムードになって流されるように会社選びと履歴書を書き始めて「先行きの見えない今の世の中」となるに決まってる。今から20年前に就職活動を始めたときは、生意気なことに社会に出るなら実現させたいビジネスモデルがあり、企画書を作ってそれをできる会社を逆面接して回っていた。当時は、通信と放送の融合が進む中で大学の教授と省庁の会議に参加して、今の SOFTBANKが参入するきっかけになった電気通信事業法の改正に関わるプロセスにも立ち会った。その時にできる限りのことをしようと意見書なども提出した。

政府サイドの方からだけでは大きくは変わらないことに気づき、これは自分が市場に入っていくしかないと思って描いた構想。規模と内容的に起業するより、既存の放送業界と通信業界全てを巻き込んでいくしかない。月額1,000円程度でIP網の上で、これまでの放送コンテンツも新たなインターネットコンテンツも全てみられる動画のポータルサイトを作る。利益の分配は、各ジャンルの視聴上位に対して順番に還元されていくシステム。このインフラの上では、テレビのあらゆるコンテンツもネットにアマチュアからプロが投稿するコンテンツも全て見放題。テレビのコンテンツ制作をして来たプロが自由に活躍する場所になってもいいし、素人がただただおもしろ動画を投稿しまくる場所になってもいい。音楽のPVだけでなく、音だけのコンテンツ、ラジオのような音声だけのコンテンツも自由にアップできるプラットフォーム。

今思えばyoutubeとspotifyを掛け合わせたような感じだが、2001年から2002年にかけて皆さんもご存知のような大手企業にアタックをしていった。ある人のアドバイスで、通信業界・放送業界だけでなくそこに機材を出しているメーカーなら横断できるかも知れないと某S社にも願書を提出した。さすが世界のSだと思ったのは人事担当の方から「君のお話はちょっと僕達では分からないので、今度別日にうちの経営企画部門のものとお話をしてくれますか?」と普通の面接プロセスを越えてなんと部長さんがお忙しい中時間を割いてくれた。「君の話を聞くように言われたんだけど、プレゼンしてもらっていいかな」どうもその部長さんもよく分からずに来てくれたらしい。30分時間があるというので、目の前のホワイトボードを借りてプレゼンさせてもらった。その後、何かを考え込まれるように暫く沈黙があった・・・

「僕がこの会社にいなかったら乗っていたかも知れない。確かに凄い。こういう時代が来るかも知れないと思った。でも、ちょっと早すぎる。申し訳ないけど、うちに来てもこれは業界のしがらみがあって実現できないと思う。」

目の前にいらっしゃった部長さんには頭が上がらなかった。相当お忙しい部門のお偉いさんが一学生の話を聞いてくれたばかりか、真剣に対応してくれた。それだけでもありがたかったし、今後他の会社に勤めたときにまたお世話になるかも知れない。これ以上迷惑をかけずに帰ろうとお礼を伝えたときに

「人よりも一歩も二歩も先に行っても着いて来てくれないものなんだよ。うちの製品が売れて来たのは人よりも半歩先ぐらいを見せて来たからかも知れない。参考になれば。」

と言ってくれた言葉を今でもたまに思い出す。それから紆余曲折あり、どの企業にも「うちではできない」と言われることが続いたが、当時自分が受けた通信業界から放送業界(各テレビ局)までのほとんどをコンサルティングしている人物がいることを知った。この通信と放送の融合の政策提言を教えてくれた先輩が就職した某総合研究所だった。そして、その方に会える部長面接まで登り詰めた時に人生で初めてディベートで惨敗した。3人の部長の真ん中にその方は座っていて、自分が持ってきた企画書をドンドン突っ込んでくる。「なぜ1,000円なら皆んなが払うという根拠は?」これは実際に100人以上にアンケートを取って来たのだが最終的にグウの音も出ないところまで追い込まれた。あの時忘れられないのは、隣にいらっしゃった部長が「いや〜。凄い筋の通ったこと言ってると僕は思うよ。ところで君、剣道二段なんだね。」「あ、すいません。剣道ではなく、剣玉なんです。」「あ!本当だ!剣玉じゃないか。そっちの方がいい!剣玉できるなんて珍しいね。小さい頃よくやったなー。どんな技ができるの?」と聞かれてあれやこれや回転灯台や回転ウグイスもたまにキマります。黒剣(二段以上から買うことができる玉が黒くて真ん中に金のラインが入った剣玉)も持ってます。というと「それは凄いなぁ〜」と喜んでもらえたと思ったら「それで、実際にこのプロジェクトでどうやってテレビ局の人たちを説得させていくの?」とど真ん中の質問が続いた。

惨敗
他の面接ではある程度の手応えを感じることができたが、初めてこれは負けたと思った。

後日。部長面接を突破して取締役面接へと進み採用していただくことになるのだが・・・入社前にリサーチアシスタントとして雇われていた時に、部長面接の前の主任面接で担当してくれた方が挨拶に来てくださった「星子くん。内定おめでとう!うちの部署に来たいんでしょ?」「はい!それ以外の部署でしたらやりたい企画ができないので辞退すると思います。」「そうか〜。来れるといいね。あの面接の時に聞いた企画の話だよね?覚えてるよ。どうだい。明日、空いてたらA部長と3人で飲みに行かないか?」後から知ったのだが、通信業界と放送業界のコンサルティングを横断して行っているA部長が僕をあの時採用してくれたらしい。あれだけコテンパンにされたのに、採ろうと言ってくれたのがA部長だったとは。次の日の飲み会まで時間がない。急いで帰って徹夜で企画書を練り直した。あの時に突っ込まれたところは全部リニューアルして、スーツを来て会社へ向かった。

クライアントの機密情報を預かるので各部門の扉を開けるにはICカードが必要だ。いつも配属を希望している当時最もコンサルタントの人数の多かった情報通信部門を通ってリサーチアシスタントをさせてもらっていた研究部門の部屋へと入っていく。ICカードで扉を開けると、いつもなら全員各机に座って資料の作成や分析に没頭していて声もかけられないようなピリピリとした独特のオーラがあるのだが、その日は机の上に座ったり、ネクタイを緩めて何人かで輪になって話をしていたり全く様相が違った。とても仕事をしているようには見えない。こんな光景は珍しいな・・・と思いながら働いていた部署へ入るとお世話になってる女性スタッフの方が「星子くーーーん!大変なことになったのよーーー」と駆け足でやってきた。「どうしたんですか?なんだかいつもと様子が違いますよね」と聞くと

「A部長が昨晩、急性心不全で亡くなったの」

え?
昨日まで部下150人近くをまとめ上げ、マッキンゼーやボストンコンサルティングなど競合がいる中、その業界でシェアトップを走ってきたカリスマと言われいるAさんが亡くなった?やっと今晩、あの時の話の続きができると思った矢先に・・・まだ44歳だったそうだ。お子さんも二人いらっしゃると聞いた。それから何人かの方に話を聞いたが、ほとんど寝る間もなく過労死に近い形だったと言われていた。その後、就職してから激務なのはよく分かった。1週間で睡眠の合計時間が7〜10時間程度。会社での業務以外に夜の街に繰り出しての業務もある。希望の部署に配属されたがAさんがいなくなったその部門はもうかつてのようには動いていなかった。

一部のプロフェッショナルだけでなく、誰もがテレビ局のように発信局となって自分の表現を国内だけでなく世界中に発信できるプラットフォーム

と題していたが、いずれインターネットが広まればそのようなサービスは誰かが作るだろう。この会社でできないなら、自分はプレイヤーとして表現していく道を再び目指そう。とギターを一本担いで世界を放浪しながら、海外で通用するユニットやバンドを結成する道を歩むために、辞表を提出した。大変お世話になりました。ここから旅に出るまでの話も書き始めると止まらないので、また別の記事に綴るかも知れないが、最初にバリ島を目指して東南アジアを旅しているときに12歳の時からの親友を超えて最早分身でしかない男の窮地が日本で訪れたと聞いて、一時帰国した。

バンコクとカオサンから始まり東南アジアの数カ国を陸路で経て、最初の目的地であるバリ島について現地の奴らとバンドを組み、アフリカンジャンベを持って来ている昔世界中を旅してバンドをやっていたRUDYの店で毎日のように太鼓を叩きまくる日々。あのバリでの2ヶ月間は一つ異なった次元での世界のように感じることがたくさんあったが、2年もギターを触ってなかった上にステージにも立ってなかった錆びついた部分はだいぶ取り戻せたので真友の待つ日本へ飛んだ。そこで一生に慰安旅行へと沖縄と屋久島に行ってほとんどの旅の資金を使い果たす!ど阿呆!再び、歩合制のバイトで2週間で記録を塗り替えて2ヶ月で100超えを達成して再び日本から旅立つ前に読んだ本でこの惑星に何をしに来たかを全部思い出した。あの体験は今でも忘れない。そして、あの時にその話をしても誰にも通じなかったが、今なら分かると最近言われることがあるのも道理なのかも知れない。

その本の名前は『宇宙からの帰還』。今年の4月に亡くなられた立花隆さんの著作。人類にとってこれまで大きな進化が3つある。その一つは、二足歩行になったこと。もう一つはインターネットで個人個人が自由に繋がれるようになったこと。忘れてはならないのは、地球上の生命体として初めて生まれた惑星から外へ出るという偉業を達成したこと。生まれた惑星を出て帰ってくるという体験をした人たちにNASAは、当時身体的な前後の変化しか観察をして来なかった。立花隆が知りたかったのは肉体的な変化ではなく、精神にどれだけの衝撃と影響を及ぼしたかだ。生まれた星を出るということ。そして生まれた星を外から眺めるということ。無重力を体験し、脳圧にも変化が現れる。立花隆は実際にアメリカに渡って、宇宙飛行士たちにインタビューを繰り返し一体宇宙にいくとどんな感動体験をするのか、精神的にどのような衝撃と変化を遂げていくのかをまとめて行った。この中で最も衝撃的なのは、地球の大気圏外を外周するだけの宇宙飛行士と月まで行った宇宙飛行士との体験の違いだ。詳しくはぜひこの本を手に取って読んでもらいたいが、地球の大気圏外を外周するだけでは完全に地球から離れた体験にならないそうだ。完全に360度周りが全て真っ黒な宇宙空間になることがない。目の前には常に生まれ故郷である青い地球が広がっている。しかし、一旦地球を離れて他の星を目指すという体験をすると、完全に「個」として独立する体験をすると月を目指した宇宙飛行士は答える。生まれたところに帰れないかも知れないというかつて人類が体験したことのない恐怖が真の個をまざまざと体感させる。その真の自己と無限の宇宙を同時に体験することで何が起こるのか・・・

この本を読みながらあることを想い出した。それは生まれて来る前の記憶のようなものだった。この惑星に何をしに来たのか、全ての点と点が繋がって一気に想い出した瞬間だった。

その夢に向かって寄り道しまくりながらも歩き続けてきた20年。一気に加速させるために日本で出会った家族と共に飛んできたスペイン。世界一厳しいいロックダウンを経て、あの体験があったからこそ知った時空を超える術。

⚫︎ イベントオーガナイザー
⚫︎ Body&Mental
⚫︎コンサルティング
⚫︎音(DJ/ライブ/サウンドヒーリング/ヴォイストレーニングetc)
⚫︎随筆(ココ)

この5本柱は、その頂きにねじり寄っていくための一つひとつの柱です。

第一弾の投稿の最後に

「創りたい作品へ
 造る人達が
 可能な限りの到達点へと
 にじりよっていく。

 その全過程が、
 作品を作るということなのだ。」


『もののけ姫はこうして生まれた』より 宮崎駿

お前のその生まれて来てやりたいことってのは何なんだ!というのは完成した時にできます。それまで、にじり寄っていくために書きたいことを紡いでいくのでお暇な時にでもお立ち寄りください。

ということで、明日が冬至かと思ったらスペインは調べると本日12月21日が冬至だったので投稿!

VAMOS!

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