西成ライオット「最初の客は真っ赤な返り血を浴びて入ってきた」

母と掴み合いの喧嘩の末、肋骨を2本折った直後の父


2006年10月08日

半田

父の地元の貝塚の半田に来て、半田のだんじりを見ています(_´Д`)ノ~~
ここで、ハプニング発生!?
僕が、はっぴを着て歩いていると、高校生と間違えられ「ビールいりますか??」と言われました...



小学5年生で高校生と間違われるなんて、間違いなく老けすぎデカすぎだし、そもそも高校生はビールを飲んではいけない。

ここで私の両親のルーツに触れておく。母の地元が西成で、父は大阪の泉州地区(南勝久先生の『ナニワトモアレ』でお馴染み!)出身。岸和田や貝塚のだんじり祭りで知られる通り血気盛んな街である。そこで生まれ育ち、そこそこやんちゃブギしていた父が「焼鳥屋するなら大阪市内や!あっついで?!!(射駒タケシ風に)」と言って西成区に来たのが1988年、18歳のときだった。

西成区岸里駅に焼鳥屋をオープンした当時、父はビーバップハイスクールの影響を大いに受けており、腕っぷしには少し自信があってイキっていた。その若気の至りが、西成の大地を怒らせてしまったのだろう。怒らせてしまっていることに気づくこともなく、ナメきっていた父・ヒロフミに最初の洗礼が訪れる。

オープン初日。開店して間もなく。扉が開き「いらっしゃいませ〜!!」と声をかけると白シャツで小太りの中年男性が入ってきたのだという。カウンター席に座った男性を見た瞬間、父は困った。その白シャツは浴びたてホヤホヤであろう真っ赤な返り血で染まっていたのだ。

父は訊いた。

「お客さん。服にすごい血ついてますけどどうされました?」

「ほんま? どこに? ……うわっ! ほんまや、こりゃ大変や! うわ? なんでやろ? どないしよー。とりあえず、焼鳥と酒」

ここは焼鳥屋。警察じゃないし、クリーニング店でもない。美味しい焼鳥と熱燗を提供することが今の俺にできる唯一の仕事なんや! 父はそう意気込み、デビュー作“ねぎま”を披露した。その後も、最後の晩餐かと尋ねたくなるくらいの勢いで食べ飲みする男の姿を見ながら、父は(血ってこんな風に凝固していくんや……)とそこばかり気になっていたらしい。そして、お会計の時。

「あれ? ない? 財布がない! さっきのとこで絶対落としたんやわ! すぐそこやから、拾ってくるわ!」

その後おっさんが戻ってくることはなかった。初めてのお客さんが血だらけかつ食い逃げだった。父は西成で店を開くということがいかにデンジャラスなのかオープンして30分で気づいたが、時すでに遅し。我が焼鳥生涯に、いきなり悔いあり。

その後、母が常連客となり父と結ばれることになるのだが、この馴れ初めがまたヒドイ。オープンして数年経つとお客さんも増え、なぜか女性客が多く訪れるようになり、父に人生最大のモテ期が訪れる。そのときの求愛軍団の長を自ら名乗り出ていたのが母・ケイコだった。いかにしてこの男を自分のものにするか、母がとった行動は父にNOと言わせず他の女性客をふるい落とす卑劣極まりないもので、現代だったら間違いなくナントカ・ハラスメントと定義されていただろう。ここでは世の男性諸君のため(被害者を増やさないため)そのハラスメントを記すことを控えるが、女は強い。否、西成の女は怖い。それは肝に命じていてほしい。

私が離乳食から食べていたのは“つくね”。



シンハーTシャツにパンツスタイルは今の私にも受け継がれている。


2019.3.8

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