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【映画解釈/考察】『ふたりのベロニカ』クシシュトフ・キェシロフスキ監督「異色の"分身"譚を探る」+『複製された男』

『ふたりのベロニカ』クシシュトフ・キェシロフスキ監督
『複製された男』ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督
『分身』フョードル・ドストエフスキー
『ふたつの手紙』『歯車』芥川龍之介

ドストエフスキー『分身』と"分身"譚の典型

『ふたりのベロニカ』は、本作でカンヌ国際映画祭女優賞を獲得したイレーヌ・ジャコブの不思議な魅力と、独特な色彩感によって、強烈な印象を残すクシシュトフ・キェシロフスキ監督の晩年の最高傑作と言うべき作品です。

そして、この映画に興味を惹かれる最大な理由は、不可解な謎が多く散りばめられた、異色の"分身"譚であるという点です。

分身(ダブル、ドッペルゲンガー)を扱った代表的な作品といえば、ドストエフスキーの『分身』がまず思い浮かびます。

ドストエフスキーの『分身』をモチーフにした映画は、ベルナルド・ベルトルッチ監督の『ベルトリッチの分身』やリチャード・アイオアディ監督・脚本で、ジェシー・アイゼンバーグ主演の『嗤う分身』などがあります。

このドストエフスキー『分身』の邦題は、元々『二重人格』が多く採用されていました。

分身(ダブル、ドッペルゲンガー)と二重人格の違いは、自分と同じ容姿の人物を、当人が、見ているかどうかで区別されます。

また、精神医学的には、分身(ダブル、ドッペルゲンガー)は、自己像幻視を指し、当人と分身が、会話することはありません。

ドストエフスキーの『分身』型の"分身"譚は、日頃、社会から抑圧されている人物が主人公で、分身は、日頃無意識下にある欲動(エス)が表面化したものと考えられます。

そして、目の前に現れた分身に乗っ取られることを恐れ、分身と対峙していくうちに、自分自身の身を滅ぼしていくというストーリーの構成が、一般的です。

そして、もう一つ気になる特徴が、分身(ダブル、ドッペルゲンガー)の契機となっている、異性(特に男性から女性)の存在です。

2010年代の映画で、この"分身"譚の条件を、比較的満たしているのが、『複製された男』です。


『複製された男』ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督(原作ジョゼ・サラマーゴ)

『複製された男』は、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、ジェイク・ギレンホール主演で、ポルトガルのノーベル賞作家ジョゼ・サラマーゴの小説を映画化したものです。

主人公の大学講師の男が、生年月日も同じ瓜二つの売れない俳優の男性の分身(ドッペルゲンガー)を見ることで、精神的な混乱に陥ります。

『複製された男』の映画の原題が"Enemy"であることからも、この作品も、分身(ダブル)が、自分の存在を脅かす存在として描かれています。

そして、この作品が、特徴的なのは、やはり、分身が出現する契機になっているのが、女性である点です。

この作品の冒頭で、男性たちが集まる秘密の部屋が登場します。そして、そこにいる女性によって、抑圧されていた、無意識下にあったエスのような存在が、開放されてしまいます。これが、分身として出現したと考えられるます。

その部屋の女性の足元には、大きな蜘蛛がいます。一部の蜘蛛には、カマキリのように、オスを食べる習性があります。

そのため、蜘蛛は、女性の存在が、男性を惑わすファム・ファタールのような存在であることを暗示する記号になっています。

本作のラストで、当初は、分身である俳優の男の妻と見られていた、妊婦の女性が、蜘蛛になっていたのは、この分身(ダブル、ドッペルゲンガー)という現象が、この妊婦の女性によって引き起こされたことを暗示するものになっています。


芥川龍之介『ふたつの手紙』


上記のドストエフスキーやジョゼ・サラマーゴだけではなく、東西問わず、多くの著名作家が、分身(ダブル、ドッペルゲンガー)を扱った作品を残しています。

 日本の小説で代表的なものとして、まず挙げられるのが、芥川龍之介の『二つの手紙』です。この作品も、妻である女性の不貞に関する噂が、主人公が、分身(ドッペルゲンガー)をみる契機になっているような構成になっています。そして、ドストエフスキーのように、主人公は精神を病んでいきます。また、妻自身の分身も見た上に、最終的に、妻も失踪してしまいます。

芥川龍之介は、実際に、分身(ドッペルゲンガー)を見たことがあると、公言していました。多くの著名作家に似たような逸話があることから、稀代の作家たちの、精神状態や脳と、分身(ドッペルゲンガー)関連作品の関係性は、研究や考察の一材料になるかもしれません。

そして、その延長上の話として、『ふたりのベロニカ』と関連して、芥川龍之介の遺作『歯車』も、後で少し取り上げたいと思います。こちらも芥川龍之介自身との関連性が指摘されている作品です。

『ふたりのベロニカ』の分身"譚"としての特殊性


 ここから、本題に入りますが、『ふたりのベロニカ』は、名前、容姿、才能がほぼ同じであるポーランドとフランスにそれぞれ住んでいる二人の女性が登場する物語で、まさに、分身(ダブル、ドッペルゲンガー)をテーマにした作品です。

『複製された男』のように、分身(ダブル、ドッペルゲンガー)の片方の存在が消えてしまうことから、多くの分身(ドッペルゲンガー)譚と同様に、死を意識させるストーリーになっています。

 しかし、この『ふたりのベロニカ』が、他の"分身"譚と異なる唯一無二の作品になっているのは、"分身"との関係性が特異的であるためです。

『ふたりのベロニカ』では、フランスのベロニカ(主人公)が、ポーランドのベロニカ(分身)の存在を、強く感じる "不思議な絆"に、焦点があたっています。

 ポーランドのベロニカは、先に世界から消えてしまいますが、まるでフランスの彼女よりも、少しだけ先行して生きているような、描かれ方がされています。

『ふたりのベロニカ』のラストは、他のドッペルゲンガー譚と同じく、フランスの彼女が、ポーランドのベロニカと同様な運命を辿ることを暗示したものと捉えることもできますが、ポーランドの彼女と共に生きていることを感じさせるラストともとれるのではないでしょうか。

この異色の分身譚の描かれ方の謎について迫っていきたいと思います。

離人症と『ふたりのベロニカ』


まず、一つ目が、ベロニカが離人症(離人感・現実感消失症)でこのある可能性です。離人症とは、自分が自分ではないように感じたり、自分が、自分の体から離れているように感じたり、体の半分が存在しないように感じるなどの精神状態が見られる解離性障害の一つです。特に、若い女性に多いことが分かっています。

原因としては、幼少期の喪失、過剰なストレス、脳の一部の異常などがあるようです。ベロニカは幼少期に母親を亡くしていることや、心臓が弱いことなどから、死に対する恐怖感が、常に付きまとっています。

『二人のベロニカ』には、具体的な離人症的な描写が、いくつも見られます。

一つ目は、ベロニカが、ビー玉を覗く場面です。世界と自分との間に膜やレンズがあるように感じられることが症状としてよく見られるようです。

二つ目は、『二人のベロニカ』の映画全体を通しての独特な色彩感です。これは、前述の『複製された男』にも見られますが、世界が色褪せているように感じる症状があるようです。

三つ目は、自分が見られている(つけられている)、自分の背後に存在を感じる、自分がもう一人の自分に覗かれている(見られている)ような描写がいくつか見られます。これも、離人症のよくある症例のようです。

四つ目は、ポーランドのベロニカが最期に歌っていた曲で、劇中で繰り返し流れ、ラストにも出てきます。自分の頭の中で、声が聞こえるという症状がよく見られるようです。

五つ目は、現実と非現実が曖昧な描写がいくつか見られます。叔母の家の出来事や人形遣いの男の家での会話などが挙げられますが、ポーランドのベロニカとフランスのベロニカの境界が曖昧な描写があるのも特筆すべき点です。


『歯車』と光視症と『ふたりのベロニカ』


この映画で少し気になる場面が、オーバーコートの男が登場するシーンです。これはベロニカの不安のメタファーであると考えられますが、ここで、ふと思い出したのが、先述の芥川龍之介の『二つの手紙』です。『ふたつの手紙』中にも、分身(ドッペルゲンガー)のオーバーコートが強調されています。前で、紹介した通り芥川龍之介自体が、分身(ドッペルゲンガー)を見たことがあると公言していたのが知られています。

そして、芥川作品のコートで思い出されるのが、芥川の遺作である『歯車』です。この中にも、レインコートが不気味な存在として描かれています。このタイトルにもなっている歯車ですが、閃輝暗点のこと表現したもので、実際、芥川自身にも見えていたようです。これは、光視症の症状で、ギザギザ状の光が、視野の外側に見える症状で、脳の異常が関係しているようです。

『ふたりのベロニカ』にも、窓の外からチカチカとした光が、ベロニカの顔に注がれるシーンが登場します。これは、閃輝暗点を描いたものではないかと連想してしまいます。


量子のもつれと『ふたりののベロニカ』


しかし、それらだけでは解決しない、いくつかの描写があります。例えば、ポーランドのクラクフで撮った、もう一人のベロニカの写真です。これは、離人症のメタファーとも取れますが、この写真が出てくる場面は、現実的な描写を強く感じさせるものになっています。

これらを解決してくれる仮説が一つあります。

それが、量子力学の量子のもつれという現象です。量子のもつれとは、至極簡潔に説明すると、離れた場所にある二つの物質が同時に同じ情報を共有しているという現象のことを言います。この現象は、映画『バスターの壊れた心』などにも使われています。

二人のベロニカは、情報を共有するしていることも説明がつきます。

この現象をさらに強調するかのような描写が、人形使い(絵本作家)のアレクサンドルとベロニカの邂逅と再会です。ベロニカとアレクサンドルは自然と運命的なつながりを強く感じていているような描写がされています。それが、顕著に表れているのが、まるで鬼ごっこをしているようにベロニカがアレクサンドルから逃げるシーンです。アレクサンドルはベロニカを見つけることで、お互いが強い結びつきがあることを再確認します。

これは、もう一人のベロニカを失ったベロニカの救いにもなっています。

二度出てくる老女も、分身(ドッペルゲンガー)であり、また、ラストの描かれ方も、この現象を表したものと考えられます。

 つまり、私たちは、離れた場所にいる存在を、常に感じ取っているかもしれないというメッセージが込められているのではないでしょうか。 

『Love Letter』岩井俊二監督と『ふたりのベロニカ』

この『ふたりのベロニカ』同様の異色の分身譚が、日本映画にもあります。それは、岩井俊二監督の『ラブレター』です。

函館と神戸の別々の場所に住む、分身的な二人の女性が主人公である点、二人がすれ違いになる場面(クラクフと小樽)など共通点が多くあります。

この二人の分身と一人の男性の不思議な結びつきについても、『ふたりのベロニカ』と同様の解釈ができるのかもしれませんが、以前の記事では少し異なった解釈及び考察をしています。


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