【映画コラム/考察】『アネット』(2021)レオス・カラックス監督「他者の眼差しから逃れられない私たち」
『ホーリー・モーターズ』と同一直線上にある『アネット』
レオス・カラックス監督の『アネット』は、相変わらず、少しやり過ぎなほど、野心的な作品に仕上がっています。
そのため、一見、ミュージカル、舞台、音楽、特殊効果などを多様し、過剰で、落ち着きがなく、また、『ホーリー・モーターズ』同様に、小間切れで、感情移入がしにくい、観客を翻弄するかのような作風になっています。
しかし、『ホーリー・モーターズ』と合わせて見れば、レオス・カラックス監督が、映画で表現したいことは、一貫していると思われ、『アネット』においても、それは成功していると感じられます。
『アネット』と『ホーリー・モーターズ』との関係は、以前書いた『ホーリー・モーターズ』の記事でも少し触れています。
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『ホーリー・モーターズ』Chapter9
『アネット』は、特に、『ホーリー・モーターズ』のChapter9の場面を、拡張したかのような作品となっています。
それは、ミュージカルが採用されている点や、二人の男女のストーリーに、類似性があるためです。
このChapter9は、再オープン前の旧サマリテーヌ百貨店(廃墟)で撮影され、『ポンヌフの恋人』のアレックス役を演じた俳優オスカーが、ミシェル役を演じた女優ジーンと再会する場面です。
オスカーを演じているドニ・ラヴァンが、『ポンヌフの恋人』でも、実際にアレックス役を演じていますが、ミシェル役を、実際に演じていた、ジュリエット・ビノシュではなく、歌手のカイリ・ミノーグがジーン役を演じています。
『ポンヌフの恋人』の撮影中に、ジュリエット・ビノシュとレオス・カラックス監督は、破局しています。また、ドニ・ラヴァンは、レオス・カラックスの分身的存在として解釈されることがあります。
"私たち"を襲う"他者の眼差し"
このChapterで、特に、気になるジーンの発言が2つあります。二人が別れる場面で、「〈私たち〉だった"私たち"ではない」ことに言及して二人が別れる場面です。そして、さらに気になるのが、「私たちには子どもがいた」という発言です。
これは、そっくり『アネット』のヘンリーとアンの関係に当てはまります。
そこで、なぜ、〈私たち〉だった"私たち"ではいられないのかが、問題になります。
二人が愛し合っているときには、それぞれの"対自存在"または、自己理想が共存できるかのような二人の物語を創り上げます。これが、ミュージカル調で表現されています。"対他存在"と"対自存在"が一致するかのような幻想の中にいます。
しかし、破局するときには、その物語は崩壊し、それぞれの"対自存在"は相容れないものになっています。それは、"対他存在"の崩壊でもあります。
では、何によって、"私たち"が破壊されるのかというと、それは、"他者の眼差し"だと推測します。
それが、"子ども"の"眼"であり、"第三者"の"眼"すなわち、新たな"他者の眼差し"です。
人間は、常に新たな"他者の眼差し"晒されていて、同じ"私"ではいられない存在だと言えます。
オスカーは、"他者の眼差し"を恐れて、ジーンの相手役の男と、"眼"を合わせようとはしませんでしたが、ジーンは、相手役の男と "眼"を合わせることによって、屋上から飛び降ります。
これは、レオス・カラックスの妻であった『ポーラ X』のカテリーナ・ゴルベワのことが、連想されます。
このカテリーナ・ゴルベワとレオス・カラックス監督の間に生まれたのが、娘のナースチャで、『アネット』の映画の冒頭にレオス・カラックス監督と一緒に登場しています。映画の最後にも、ナースチャに捧ぐとあります。また、『ホーリー・モーターズ』にも、出演しています。
『アネット』と"他者の眼差し"
『アネット』では、さらに、"他者の眼差し"によって、二人の物語が崩壊する話になっています。
まず、主人公のヘンリーは、スタンダップ・コメディアンであり、観客の眼差しに常にさらされています。また、アンとヘンリーは、芸能人であり、常にメディア(不特定多数)の眼差しにさらされています。しかも、特に、オペラ歌手であるアンは、観客の眼差しによって、殺される(崩壊する)ことを、常に期待されています。
しかも、さらに、興味深いのは、不特定多数(世間)の眼差し以上に、二人の間に生まれた赤ん坊の、身近で、新たな"眼差し"によって、より、二人の物語が狂い出す点です。
これは、ヘンリーとアンにとって、“他者に眼差し”から逃れる場所がないことと、二人の物語が存在し続けることができないことを意味しています。
これは、レオス・カラックス監督自身のことでも、社会で生きている誰もが、程度の差はあれ、逃れることのできない現実です。
"孤独な存在"とエンドロール
常に"他者の眼差し"に晒されていることにより、"対他存在"も、さらには、"対自存在"でさえも、常に不安定で、常に変化を迫られていると言えます。
そして、さらに悩ましいことは、その"他者の眼差し"さえも、自己が創り出した虚像であるという現実です。
これは、アネットが人形として表現されているいたこと、最後の別れの場面で、人間になっていることからそれが推測されます。
また、『ホーリー・モーターズ』のチンパンジーを連想させる、アネットが持っている、サルの人形も、世界が虚構であることを暗示しているかのようです。
常に、人間は、"孤独"な存在であることを露わににして、物語は、終わります。
しかし、この『アネット』の作品として、凄みは、エンドロールにあります。
これは、入れ子構造で、冒頭と繋がっていたわけですが、一人一人が"孤独な存在"だとしても、互いに手を取り合うことができることを、観客を巻き込む形で示してくれていて、とても温かい気持ちにさせてくれます。
これこそが、レオス・カラックス監督の、新境地だったのかもしれません。
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