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流されて円楽に 流れつくか圓生に 六代目三遊亭円楽・著 第1章(無料公開)


三遊亭円楽・著

はじめに 十郎ザエモン

テレビ番組「笑点」大喜利でのレギュラーも長く、その知性的な回答力とちょっとブラックなキャラで人気の六代目三遊亭円楽師、これをお読みの皆様のイメージはどんなもんだろう。テレビで見る円楽師匠はやせていて華奢に見える。また青山学院大学卒業という学歴を知る人はいいところの落語好きお坊ちゃんがそのまま落語家になったものだと思われているかもしれない。
実はかくいう私もおぼろげにはそんなイメージでテレビの師匠を拝見してい
た。だがお会いしてお話しをうかがうほどにそんな推測や思い込みが見事に壊されて行く日々となった。
 
 円楽師は偉業の人である。現在、落語界全体を見渡して仕事をしている師匠はこの方以外に見当たらない。もちろん落語協会や落語芸術協会などの枠にとらわれずに動くことが出来るという立場もあるだろうが、“博多天神落語祭”や“さっぽろ落語祭”などはこの円楽師以外どなたにもプロデュースできないだろう。東西の有名落語家を横断的に集合させて落語のお祭りに仕上げるという作業が簡単なことでないことぐらいは容易に想像出来る。社会人となって何か会社の一プロジェクトを任されたことがある人間ならわかるはずだ。
 
円楽師は下町の貧乏な家に生まれた。まるで落語の長屋暮らしだ。絵に描いたような貧乏と言っていいだろう。そんな中で育った師匠は肉体的にも精神的にもたくましかった。例えるなら「大工調べ」の棟梁の子供時代はこうだったのではないか?と想像してしまう。ただひとつだけ違ったのはたくましさだけではなかったこと。知恵と想像力も持ち合わせていたところだ。ある意味“天才”と言っていいだろう。本文を読み進めばその理由が見えてくる。高校から大学へと進むにしたがってその天才ぶりに磨きがかかるのだ。
 
 大学から五代目圓楽師への入門は“流されて”と表現しているが、嫌々落語家になったのでないことは一目瞭然だ。入門してからの円楽師は実に多くのベテラン落語家に可愛がられている。またその名人たちの落語に濃密に接していたのだ。嫌いでなれるはずがない。ところが円楽師はご自身の落語に対する評価が意外に高くなく遠慮がちである。それはおそらく綺羅星と輝くその時代の名人たち、桂文楽、三遊亭圓生、笑福亭松鶴、等々と身近に接しその芸を見てきたからだろう。頭のどこかにそんな名人たちを置いておくからかもしれない。
しかし現代を活写し、今の時代の笑いとは何かをとらえているその眼は確かなものだ。この数年に見舞われた病を乗り越えての円楽師はさらにその先を見据えている。まだまだ続きがある。
 
 
十郎ザエモン プロフィール
1952年(昭和27年)東京生まれ
1968年(昭和43年)都立日本橋高校にて落語研究会所属
1976年(昭和49年)獨協大学卒業、レコード会社に入社
2000年(平成12年)日本コロムビアにて落語CDを制作開始
2004年(平成16年)ゴーラック合同会社設立、
          落語CDのプロデュースを専門に現在に至る

編集部よりのおことわり

◆本書に登場する実在する人物名・団体名については、一部を編集部の責任において修正しております。予めご了承ください。
◆本書の中で使用される言葉の中には、今日の人権擁護の見地に照らして不当・不適切と思われる語句や表現が用いられている箇所がございますが、差別を助長する意図を以って使用された表現ではないこと、また、古典落語の演者である六代目三遊亭円楽の世界観及び伝統芸能のオリジナル性を活写する上で、これらの言葉の使用は認めざるをえなかったことを鑑みて、一部を編集部の責任において改めるにとどめております。


六代目三遊亭円楽

第一章 流されて円楽 平成二十年八月十七日

「楽(らく)や、おまえ、何時(いつ)になったら円楽になるんだよ?」

 

 ソファーに深く腰掛けたウチの師匠の眼が、真っ直ぐ俺を見ていた。

 時は平成二十年七月、場所は中野坂上のウチの師匠の御自宅。

 ウチの師匠とは、五代目三遊亭圓楽、御年七十五歳。

 俺の横には、師匠の事務所の藤野さんがソファーに浅く腰掛けて、師匠の視線を後押しするように俺を見ていた。

 そして、俺は三遊亭楽太郎、ウチの師匠から“圓楽”の名をゆくゆくは継ぐように約三十年前から命じられている弟子の身だ。この“ゆくゆくは”があまりにも遠い将来のことに思えていたので、最近まで全く実感が湧いていなかった。

「いろいろと準備をしなくてはなりませんので、暫く時間を頂きたいと思います」

「それは昨年から聞いている。あたしが落語家を引退したときに、ハッキリと、直ぐに圓楽はおまえ、楽太郎に継がせると言ったはずだ。それはもっと前から、圓生師匠が亡くなったときに、おまえに圓楽を継がせると話した筈だよ」

「ええ、でも、鳳楽(ほうらく)兄(あに)さんとも順番を相談して……」

「鳳楽には、七代目三遊亭圓生を継がせる! そっちは六代目のご遺族との時間がかかるから、おまえの圓楽を先に済ませるのだ。せめて世間に早く発表しておくれ」

(困ったな)

 とは、俺の率直な感想だった。今日呼び出された時から嫌な予感があった。楽太郎の名前を大師匠の六代目三遊亭圓生からいただいて三十八年、周りの助けもあったが自分の努力もあって、俺が五十八歳の今、大きな名前に育て上げたという自負もあり、その名前に愛着もあった。出来れば、圓楽を継がないで楽太郎のまま噺家人生を終えたかったし、ウチの師匠の衰えと老いを考えると、(忘れてくれないかな?)と一筋の希望の光があった。それほど、この数年は、五代目三遊亭圓楽は老いと衰えの坂を下っていたのだ。

 

 平成十三年の春、ウチの師匠が六十九歳の時に起きた小さな変化がはじまりだった。『笑点』の司会をしていたウチの師匠は、大喜利のコーナーが始まるや否や、

「先ずは二問目!」

 と言って、これには回答者メンバーが驚いた。ただし、客席の反応が良くて、

「さすが圓楽師匠! 司会者としての摑みのギャグが抜群に面白い」

 と、上手い具合に誤解してくれた。高座のメンバーも客席の雰囲気を読んで、笑いに変えたから、ディレクターもそのまま編集しないで使った。その第二問が終わったところで、未だもう一問の問題の収録が残っているのに、

「と、言ったところで『笑点』お開き! また来週のお楽しみ、ありがとうございました」

 っと、言ってしまった。その場は冒頭のフリがあったから客の大爆笑を誘い、俺を含めて他のメンバーが、直様に笑いの処理を行い、無事に三問目に進行した。笑点メンバー全員が落語家であったことに、俺は今更のことのように感謝した。何故なら、客席の“いい方向への解釈や誤解”を見ることにかけて、またそれを利用することにかけては落語家ほど機を見ることに長けた存在はいない。だが、ウチの師匠は気がついていたし、その誤解を利用もしなかった。それをするのは悪用だと思ったのだろう。その失敗が、脳梗塞の前兆の現れであることに気がついていたのだと思う。

 平成十七年には、大喜利で挙手をした林家たい平を指さしながら、

「え~と、……誰だっけ?」

 って、名前を思い出せないこともあった。ありがたいことに、たい平も直ぐに笑いに変えてくれた。おかげで、その後も、他のメンバーを指名してから名前が出て来るまで時間がかかることがあったが、老いを利用したギリギリのギャグと客に解釈させたことで、ウチの師匠の司会を延命させていたのだ。

 もともと当意即妙なアドリブを苦手にしていたウチの師匠は、度重なる『笑点』の司会の失敗に、自分でも嫌気がさしたのだろう。平成十八年の五月十四日放送分の収録を終えると、『笑点』を勇退してしまった。

『笑点』の勇退後、ウチの師匠は自分の落語家としての芸の熟し方に疑問がわいたのだと思う。これは、俺も同じで、若くしてテレビ・ラジオで売れっ子になった噺家全員が感じる疑問だった。

(俺は、テレビ番組(こんなこと)ばかりやっていて、落語を修行しなくていいのだろうか?)

 このことに早めに気がついた立川談志師匠や、若いときはテレビ番組で売れていた柳家小三治師匠は、落語家の本分を取り戻すかのように活動の主軸を高座に移し、芸を磨きあげて齢を重ねて行った。勿論本人の才能や環境の違いはあるが、高座に専念した落語家人生を送った方が、落語家としての世間の評価が高まるのは当たり前で、何よりも芸に対する本人の充実感が全く違うものと思う。高座に専念することが若いときから許されていたなら、落語家は己の人生に迷いが無い。その点で、ウチの師匠は落語家としての最晩年は、迷いに迷っていた。

 

 ウチの師匠が四十六歳のとき、大師匠の六代目三遊亭圓生と共に落語協会を脱退し新協会を立ち上げた。所謂、「落語協会分裂騒動」で、以来東京のすべての寄席から六代目三遊亭圓生一門は追放されてしまった。そのため、ウチの師匠は大師匠を含め一門の活動の場を全国地方公演に求め、その仕組みをウチの師匠のマネージャーの藤野さんと一から作り上げたのだ。とても落語を修業する時間など取れなかったと思う。

 また、圓生師匠が亡くなった四年後、急死した三波伸介氏にかわり『笑点』の四代目司会者に就任、以降勇退まで二十三年間も同番組の司会を務めた。地方公演では全国区の知名度が無いと客の入りが期待出来ないので、一門の落語を演る主な場は地方公演が多かったウチの一門にとって、広告塔の役割を果たしてくれていたのだ。つまり、分裂騒動以降、ウチの師匠は、寄席に出演(で)れず、芸を切磋琢磨する同世代の他流派の落語家とも没交渉になり、一門を養う仕組みを試行錯誤した結果、高座に専念することが出来ずにいたのだ。そして老いと衰えから、『笑点』の司会を勇退した。つまり、生涯を通じて落語の修行にかける年月が圧倒的に少ないまま、最晩年に一噺家に戻ったかたちになった。

 もしも、ウチの師匠がこの段階で、己のことを“芸に磨きをかけられないまま老人になった落語家”と考えたのなら。恐ろしいほどの虚無感や敗北感に襲われたのではないだろうか。但し、ウチの師匠は恐ろしいほど大胆な自信家で、大雑把な人間だった。そして、その基本哲学は、

(落語家は、なめられてはいけない)

 と云うものだった。なので、この時点で、五代目三遊亭圓楽の最大の関心は、(あたしは、落語家としてなめられていないだろうか?)

 と云うものだった筈だ。もとより若いときから潔い即決を下す逸話を残して来た師匠だった。『笑点』の司会を勇退したすぐ後に、落語家の引退を考え始めていたのだと思う。

 

 ちなみに師匠が四十五歳のときに下した潔い決断が、未だ二十七歳の二つ目だった俺が『笑点』のレギュラー回答者に抜擢される理由となる。それは、師匠の師匠で、俺から見れば大師匠の六代目三遊亭圓生師匠が、大変に芸に厳しい人で、大師匠から見れば、『笑点』の大喜利なんて芸を磨く場所ではなく、遊んでいる場所だった。なので当然、圓生大師匠からウチの師匠は窘められることになった。圓生師匠は、新聞のインタビューで、

「圓楽(こいつ)は、『笑点』(あんなもの)に出て、ロクなもんじゃありませんよ」

 と、小言をこぼしてしまった。ウチの師匠は、その記事を読んで、

「冗談じゃねぇ、辞めてやる」

 と、テレビ局に無断で番組の収録を休むようになった。アシスタントで収録に行っていた俺は、

「紫の着物着て座布団に座っているだけでいいから」

 とディレクターさんに言われて、急きょ師匠の代理で大喜利に出演した。このことがきっかけで、『笑点』のレギュラー回答者に選ばれたのだ。

 

 話は、ウチの師匠が落語家の引退を考え始めたことに戻る。

 若いときの同時期に世間から高く評価された落語四天王の中の古今亭志ん朝師匠、立川談志師匠は、九十年代に更に落語家としての評価を急激に高めていった。逆にウチの師匠は若いときの評価で止まってしまっていると、当人は感じていたようだ。さっきも書いたように、芸に極端に厳しい大師匠の六代目三遊亭圓生の下で修業を積んだウチの師匠は、『笑点』を引退した後、己の落語家としての技量に疑問を感じてしまったのだと思う。それ程、プライドが高く潔い生き方をしてきたのだ。

「『笑点』の司会の引退後の圓楽は、落語もどうもね?」

 って、世間に言われるくらいなら、自分で引き際を判断しようとしたのが、平成十九年二月の国立演芸場の「国立名人会」。半年前から、若いときから得意にしてきた古典落語の名作人情噺の『芝浜』を“根多出し”をして稽古に励み、遂にはマスコミに、

「出来に納得がいかなかったら、落語家を引退する」

 と、発表してしまったのだ。

 これには落語界が驚いた。俺も含めて落語家がもっと驚いたのは、自身の進退をかけた演目の稽古方法だった。なんと、ウチの師匠は自分の若いとき三十代の『芝浜』の録音を手本にして、七十五歳の身でそれを完璧に再現、もしくはそれ以上の『芝浜』を演じようとしていたと云うのだ。

 運命の日となった平成十九年二月二十五日、国立演芸場で演じた『芝浜』の出来にウチの師匠は納得しなかった。弟弟子にあたる六代目三遊亭圓窓師匠が、

「袖から見ていても、まだまだ演(や)れるじゃないの? 高座に上がらない圓楽兄(あに)さんなんて考えられないですよ」

 と、ウチの師匠を説得しようとしたが、口演後の記者会見で、ウチの師匠は落語家としての現役引退を表明してしまった。師匠の決意は頑なで、引退記念の落語会も拒否したため、この日に演じた『芝浜』が最後の高座になったのだ。

 

「いったい何時(いつ)、発表するんだい?」

 話は、冒頭の平成二十年七月の師匠の家に戻る。

 ウチの師匠の“生前贈与”の意思は堅く、のらりくらりしている俺の心を見透かして、記者発表の席を用意して、俺の口から世間に約束させようとしているようだった。

「……師匠がそうおっしゃるのなら、すぐにでも記者発表したいところですが、会場がそうは簡単に予約(と)れませんし、会場の空き日と私のスケジュール調整もございますので、半年後を目安にしては如何でしょうか?」

「あたしはそんなに待てないよ!」

 ピシリとそう言うと師匠は眼を閉じてしまった。この眼が再び開くには、耳触りの良い解決策が聞こえて来るときだけだ。俺の横の藤野社長が座りなおして、口を開いた。

「師匠、一つご提案があるんですけどね。来月一門の孫弟子の真打昇進披露パーティーが浅草ビューホテルでございます。その前後の時間に空いてる部屋を借りて、マスコミ記者会見を開くと云うのは……」

 師匠の瞳が開いた。(まずい! 好二郎に迷惑がかかるかも知れない)と思う間も無く、

「それは良い。楽や、おまえも勿論出席するだろうから、日程は大丈夫だろう?」

 すかさず藤野社長が、

「はい、楽太郎さんにもスピーチをお願いしていますから。他にも芸術協会から小遊三師匠、落語協会からは林家木久扇師匠がスピーチに来てくれる予定ですので、記者会見も華やかになって、マスコミも大勢来ると思いますよ」

 俺は、何も疑問を感じないで、ことを進める二人を制したかった。

「ちょっと待ってください。好二郎のほうは、大丈夫なんですか? 一生に一度の真打披露の席ですよ」

 (何をバカなことを)とでも言いたげにウチの師匠は、

「だからいいんじゃないか? 一生に一度の真打披露の席に、一門の大きな慶事で花を添えるんだ。好二郎だっけ? 喜ぶんじゃないか?」

 (俺だったら、嫌だな。一生に一度の自分が主人公の日に、脇から一門の政治が持ち込まれるのは、……少なくても、事前に良いか悪いか相談ぐらいはして欲しいな)

 と思う間もなく、藤野社長が、

「わたしから好楽さんと好二郎さんに連絡しておきますよ。浅草ビューホテルのマスコミ用の部屋取りもお願いしておこうかな。新規に予約するより、向うの追加でお願いした方が安くなるだろうし、勿論差額はこっちで払いますから……。だから、楽太郎さんは何も連絡しなくて大丈夫です」

 (言われなくても、連絡し難いよ。)と思っているとき、師匠の視線がまたこっちへ戻ってきた。

「楽や、これで発表の日が決まったけど、襲名して“圓楽”にはいつなるんだい?」

 俺は腹を決めた。決めたからには、さっきのマスコミ発表のような“なし崩し”にはしたくなかった。

「師匠、わたくしが圓楽の御名前を頂くからには、師匠に喜んでもらえるように、大きく立派な襲名披露にしたいと思います」

「……うん、うん」

「襲名披露公演も、……難しいこととは思いますが、三十年前に我が一門が追放となった東京のすべての寄席で披露興行を行いたいと思います」

「ほぉー……」

 これには、ウチの師匠も藤野社長も驚いていた。それと同時に、(こいつなら実現するだろう)という目で見てくれていた。と云うのは、十九年前にウチの師匠が自費で建設した寄席「若竹」を経済的な事情で潰した翌週に、俺は単身、永谷商事に伺って、現在の圓楽一門会専用の寄席である「両国寄席」にあたる寄席の設立と運営の提案をして実現させた実績があるからだった。

「先ほど決めた来月の襲名発表を契機に、全国二百五十以上の会場で襲名披露興行を開催する準備に入りたいと思います。各イベンターの皆様にも手を挙げてもらわなければなりません」

 (これは大変なことになる)と反応したのが、イベンターでもある藤野社長だった。

「地方のホールの分だけでも、少なくても準備に二年はかかる。東京の寄席は、政治の問題だから、全く目途が立たない」

 俺は師匠の顔から眼を逸らさずに続けた。

「少なくても芸術協会が入っている寄席は、歌丸師匠に相談して二年後に興行をうてるよういたします。……それと、わたしは師匠との縁と、自分の節目を信じたいと思います」

「……何だい? 縁と節目ってのは」

 ウチの師匠の瞳から頑固な意思が消えた。これで、無茶苦茶に急く様なことは言わないだろう。

「わたしが何かの縁で師匠に乞われて弟子にしていただいたのが三十八年前で、わたしが二十歳の節目の年でございます。そして、わたしが二つ目になったのは三十二年前の三月で、この三月との縁を大事にしたいと思います。そして二年後にわたしの大きな節目として、還暦となります。大師匠の圓生師匠から頂いた楽太郎と云う名前も、その三月でほぼ四十年の節目でございます。ですので、平成二十二年、今から二年後の三月に襲名させていただくと云うのは、如何でしょうか?」

「分かった。……二年後か、命を繋がなくちゃねぇ、がっはっは」

 良かった。師匠の老いと衰えと名前を継承させたい焦りから、この部屋が鉛色に見えていたような気分だったのだが、よく見ると、この応接室の片隅は幼児用の玩具が幾つか転がっている。久々に聞く師匠の陽気な笑い声に、部屋の中の物が本来の色彩を取り戻していくようだった。特に原色が鮮やかに塗られた玩具から、ウチの師匠がお孫さんをあやす様子が伝わってきた。現役時代の師匠からは考えられないことだった。落語、落語、仕事、仕事で、自分の子供ですら可愛がる時間が取れなかったのだ。

 

 そう云えば、先日TBSの廊下でバッタリであった演芸評論家の川戸貞吉先生も同じようなことを言っていたのを思い出した。

「この間、全さん(圓楽の旧名の全楽からの呼び名)の家に久しぶりに訪ねたんだんだよ。近くまで行ったから、約束しないでね。昔は、そんな急な訪問でも、落語の話が尽きないから二時間でも三時間でも一緒に居てね。『居残り佐平次』のサゲの話なんかしていたんだ。そこへ子供なんか入って来ようもんなら、真っ赤になって怒ってね。

『仕事の話をしているから、出てけぇー』

 って、怒鳴ってたんだよ。それがこの間はさぁ、部屋中に玩具が転がっててね、ちょっと話しただけで、

『これから孫と遊ぶから、帰ってくれ』

 って、追い出されちゃったよ。孫バカって言うのか、あれは?」

 と、ウチの師匠と学生時代からの親友だった演芸評論家は、少し寂しそうな顔をしていた。

 

「勿論ですとも、師匠、長生きしてください。あっはっは」

 藤野社長が笑ったあとで、師匠に如何にも経営者としての事務的な質問をした。

「ところで、楽太郎さんが圓楽師匠を襲名したら、師匠は何て名乗られるのです?」

「あたしは、本名の吉河(よしかわ)寛海(ひろうみ)に戻るからね」

 それには。俺が驚いた。

「駄目ですよ、師匠。師匠は、五代目圓楽、ぼくは六代目円楽って名乗ればいいじゃないですか?」

「……圓楽が二人いたら、おかしいだろう?」

「じゃあ、世間も納得するように、『馬圓楽』と『黒円楽』にしますか?」

「……バカ野郎」

 師匠が目を細めている。喜んでいる証拠だった。こういう馬鹿馬鹿しいアドリブは、師匠が最も苦手だった。のちにある一つ名前を師匠に提案した。歌舞伎の猿之助襲名のエピソードにならって、

「師匠は、圓翁(えんおう)になりましょう。で、あたしが円楽になればいい。屋号はね、三遊亭亭はやめて、『澤瀉屋(おもだかや)』ならぬ『面長屋(おもながや)』にしましょう」

「おまえは、くだらねぇ。そんなことばっか考えてんだな。稽古しろ!」

 師匠は噴き出しながら、小言をくれたっけ。

 

 一か月後の『三遊亭好二郎改め三遊亭兼好真打披露』は、あっと言う間にやって来た。世間の話題は、連日のうだるような暑さと、開催中の北京オリンピック、そして、夏の甲子園だったと憶えている。

 この日に真打となり名前を兼好と改める好二郎は、三遊亭好楽さんの二番弟子で社会人経験があって入門が遅く、三十八歳での真打昇進だった。但し、落語的なセンスはずば抜けて冴えていて、ウチの師匠が発起人でもある二つ目奨励の落語会である『にっかん飛切落語会』で何年も賞を獲っていて、いつの間にかキャッチコピーが、「円楽一門会の希望の星」ってついている程だ。この日を境に名前を兼好と改めているので、今後は兼好で統一することにする。

 余談だが、書籍の編集作業にはこうした名前の統一作業って奴が大事だそうだ。噺家で頻繁に改名している奴は、編集者泣かせということか。

 俺の気持ちが楽になったのは、兼好が俺の記者会見を、真打披露の同日に同じ場所で行うことについて、「あたしの披露目の良い宣伝になります」と喜んでくれたことだ。好楽さんに入門した時点で、既婚者で二人も娘がいる父親の顔を持つ落語家は、俺が思っている程弱くなく、強かで世渡りが上手いようだ。俺が同じ立場だったら、やはりこう答えるだろうなぁと思った次第。

 ウチの師匠は体力的な問題で、“三遊亭圓楽生前贈与記者会見”だけ出席することになり、兼好の披露目の先に記者会見用の部屋を借りた。勿論、ウチの師匠も俺も、兼好にお礼を言ったのだが、兼好がまた可哀そうなことになった。ウチの師匠が、兼好に話しかけたときのことだった。

「(真打に昇進してからの名前は)何になるんだい?」

「はい、兼好になります」

「(首をふり)兼好なぁ、うーん、……好太郎のほうが良いと思うんだけどな……」

「……私、好二郎なんです……」

「好太郎、良い名前じゃねえか」

 って、好太郎って、兼好の兄弟子で『好太郎』が居ることも覚えてないんだよね。

 この日の主役の兼好の襲名披露パーティには、何人か他の流派の落語家がゲストで呼ばれていた。他の流派と言っても、皆、『笑点』の仲間だったり、昔は同じ協会の同期だったりして、俺の圓楽襲名の記者会見の段取りを聞いても、驚いてはいたが不愉快な顔をする噺家は一人もなく、皆、喜んでくれた。その証拠に、兼好の祝いのスピーチに、俺の圓楽襲名の話題を織り込んでいてくれた。当時の世相もよく現していて、今、記録用のビデオを見ても面白い。ウチの業界では、

「噺家は世情のあらで飯を食い」

 と言うが、その感じも、各噺家の個性が出ているので、抜粋しようかと思う。

 

先ずは、兼好の師匠である三遊亭好楽さんのスピーチから抜粋すると、

「え~、皆様本日はご多忙のところ、そしてまた東西南北いろんな地方からお見えになってますけれども、『こんな早くから呼びやがって、馬鹿野郎』と思っている方もいらっしゃると思うんですけど、何せ九月一日に真打の披露目がはじまりますので、そのパーティをやらなきゃならない。

『と言うことは、師匠、八月のパーティーですね?』

 そうだなぁー。暑い日になるなぁー。嫌だなぁ。皆に迷惑をかけるだろうなっと思っておりましたら、どうです? (笑)わたくしは、雨男でございます(爆笑・拍手)見事に雨が降り、涼しくなりました(笑)。

 今日はめでたいことが二つ重なりまして、楽太郎が圓楽襲名と云う記者会見がございます。そのあと、好二郎が兼好になるんで二つの記者会見をにぎにぎしくやらさせていただきます。

 まぁ、『おめでたいことは、いくらあってもいい』という師匠の気持ちでございますので、こうやって大勢集まっていただきまして、本当に何よりのお祝いでございます……(略)」

 

 次にやはり『笑点』の仲間の三遊亭小遊三さんのスピーチでも話題に織り込んでくれた。この日は招待客だったので、明るいベージュのジャケットにネクタイ姿の小遊三さんだった。女性の司会者が小遊三さんを呼び込む。

「続きまして、社団法人落語芸術協会副会長の三遊亭小遊三師匠からご祝辞を頂戴したいと存じます」

「え~、副会長と申しましても、便所でお尻を副(拭く)会長でございまして(爆笑)、え~、(中略)、まぁ本当にあの先ほど木久扇師匠が仰ったとおりの圓楽襲名と云う大騒動、……騒動じゃないですね、これは(笑)。騒動じゃありませんが、大慶事でございますが、その中で真打昇進ということでございます。まぁ、例えますと北京オリンピックの中で、夏の甲子園やっているようなもんでございます(爆笑・拍手)。

 それでもね、甲子園がちょっと気になったんで、テレビのチャンネルを回してみましたら、甲子園超満員ですよ。ということは、世の中は圓楽ファンだけじゃないと……(笑)、ここにお集りの皆様が夏の甲子園のファン、え~、兼好ファンでございます。これが基礎票でございます(拍手)。よろしくお願いいたします」

 俺が師匠の家で、兼好の披露目に圓楽襲名を発表すると聞いたときに感じた違和感を吹き飛ばしてくれる見事なスピーチだった。

 

この後に鏡開きが失敗するという珍事があったので、記しておく。失敗と言っても、司会者が「よいしょっと言ったら割って下さいね」と合図の説明の時に、この「よいしょ」で全員が小槌を振り下ろして割ってしまったのだ。まるでコントの一場面の様な失敗に会場は大爆笑だった。むしろ普通の鏡開きよりも記憶に残って良かったと思う。俺は早速後のスピーチでこれを使うことに決めた。

 

 そして、俺のスピーチの順番が来た。司会の女性が、「今最も注目されている落語家」と俺を紹介した。いや、注目されているのは俺じゃない。名前の生存贈与を決めたウチの師匠だ。そこは勘違いしちゃいけないと俺は壇上に登った。

「え~、どうも兼好さんおめでとうございます。御一門の皆様には、ご迷惑をおかけしております(爆笑)。ウチの師匠が、存命中に、

『お前が圓楽を継げ』

 と、そういう厳命でございます。今、小遊三兄さんも言ってくださいましたように、騒動になりました。正直な話、師匠が居ないから言いますが、楽太郎のままでも十分だったのでございます(爆笑・拍手)。小遊三さんもそう言っていただけました。

『そのまんまでいいじゃない、面倒臭ぇ』

(面倒臭え)……、そういう発想もあるなと思いました(笑)。ですが、(最後の親孝行かな)と、こう思っています。

 親の老いは見たくない。ですが、一つの老いがあって、自分が高座に上がれない。そして、自分の名前を残そう。そう思っての遺言だと思ってます。それを受けないと子供ではございませんので、親の財産を引き受けて芸を精進してまいります。

……自分の披露目みたい(爆笑・拍手)私のは二年後を予定しております。その時には笑点のメンバーの皆様を含めまして、また、一門のご迷惑にはなると思います」

 よしこれで、圓楽襲名に関してのあいさつは終わった。あとは,噺家らしく笑わせて、兼好にお祝いの言葉を言うまでだ。早速さっきの鏡開きの珍事を取り入れた。

「ただあの、こういうそそっかしい会にはしません、ええ(笑)。鏡開きに合図が無いなんて(爆笑・拍手)。合図と云うのは大事なんです(爆笑)

 わたくしどもは東京出身です。ですから、東京の人間って云うのは非常に冷たいです。集合体ですから。

『東京出身? ああ、そう』

 それだけですよ。

そこへいくと会津はいいですね(笑)。(渡辺)恒三先生をはじめ、吉田後援会長、ねえ、行く度にさっき話にありましたが、僅かでもご祝儀をくれるんです(爆笑・拍手)。

言っときますが、全国を周っていまして、『地の物でございます』と言って、モノをもらったって迷惑なんです(爆笑)。中には、泊りなのに花束を持って来るバカがいます。枕元に花束置いて眠れるか(爆笑)? やはり全国で通用する……(笑)、軽いものが一番ですね(爆笑)。そう言ったら昔、四国で絵葉書をくれた人が居ました(爆笑・拍手)。その街には『笑点』メンバー絶対に行かないと、心に誓った次第でございます。

わたくしの名前が楽太郎でございます。太郎と云うのは寄席の符牒でお金のことなんです。

「太郎出たかい?」

「今日は、多めの太郎が出たよね」

 とか、ですから楽な太郎って非常に良い名前だったんです(笑)。それが今度は、円楽になるんでございます(笑)。……ねえ? 円が楽になる。

 ……兼好さんも、これ、兼好じゃなくて、金好(かねすき)したらどうですかね(爆笑・拍手)? 木久扇師匠が手を叩いて笑っていらっしゃいますけど、……木久扇師匠の好きな言葉は『入金』です(爆笑・拍手)。

 やはり国家を含めて、我々庶民を含めて、経済と云うのが一番の根幹でございます。中国は今一所懸命、北京オリンピックで頑張ってますが、これは、東京オリンピックを見て分かるように経済の富要素に過ぎません。アディダスを着ようが、ナイキを着ようが、あるいはそれこそ、ミズノを着ようが、着ているものが皆、偽物に見えるんです(笑)。あれは、紙で作ってんじゃないか? マークだけ入れたんじゃないか? そんな思いがする国であります。そこへいくと、我々は本物でありたい。

 我々には、圓生と云う名前を伝えています。出囃子が、『正札附(しょうふだつき』。……正札掛け値なし。本当に割引はしませんと云う意味の出囃子でございます。どうぞ、兼好さんも金好になって(笑)、そして家族を食わせ、そして一門に繁栄をもたらせていただいて、え~、師匠孝行をしながら、早く好楽を継げる日を……(爆笑・拍手)、頑張ってください。

どうぞ、皆さんありがとうございます(拍手)」

 

 ステージから降りると、(立川)ぜん馬が渡してくれたグラスを受け取って一口飲んだ。ぜん馬は同期の入門で、他の一門の中では一番仲の良い噺家だと、俺は勝手に思っている。二十歳の頃からの知り合いだったから、ぜん馬の顔を見ると若い頃を思い出してしまう。色黒のぜん馬が白い歯を見せて言った。

「圓楽師匠にも、兼好にも、いい挨拶だったじゃないか」

 俺も、お礼にぜん馬のスピーチを褒めた。

「ぜんさんのスピーチも洒落がきつくて面白かった。あのジョークはあのまんま、談志師匠をウチの師匠に置き換えても使えるから、今度どこかの会で演ってみようかな?」

ぜん馬のスピーチの冒頭は、こんな感じだった。

「あの……、携帯に連絡が入りまして、ウチの師匠・立川談志でございますが、……長年糖尿で苦労していたんでございますが、(腕時計を見る)先ほど、一時十五分に、自宅で、おかみさん、二人の子供、孫に囲まれて、……静かに(会場静かになる)、お昼ご飯を食べていたそうです(爆笑・拍手)」

 談志師匠は、芸術の女神が舞い降りたと云われる『芝浜』を演って以降は、燃え尽きたように高座を休みがちになり、この初夏から長期休暇に入っていた。なので、このジョークは、不謹慎ながらタイムリーな緊張感が具体的だった。しかし、ブラックジョークを放った当の本人のぜん馬は、真顔でこう言った。

「あれは、ウチの師匠だから笑えるんだ。弟子に厳し過ぎて有名な立川流の家元と、その理不尽な仕打ちに耐えている弟子の関係じゃないと成立しない。楽ちゃんには無理だよ。普通、圓楽ほどの大看板の名前は、継ぐ本人が欲しくて欲しくて、師匠が亡くなってから根回しして、やっとの思いで継げるものでしょう? それを生前から、当人が自ら望んでいないのに、師匠命令で生前贈与してもらえるんだから、そんな大恩人の生き死にを笑いに出来る? 楽ちゃんには、無理だよ」

 ぜん馬の口から、「楽ちゃんには無理だよ」ってセリフを聞くのは初めてかも知れない。三十八年前、ぜん馬がまだ前座で(立川)孔志だった頃、(春風亭)小朝と、(古今亭)八朝との四人で、『四天王弟子の会』と云う落語会を開いたことがある。俺たちは、今で云う、早朝寄席、深夜寄席の先駆者だった。

 前座や見習いが四人会を開くなんて、落語界でも前代未聞の試みだったので、問題は山積みだった。誰が席亭と話をつけるのか? 誰がガリ版を切って宣伝チラシを作るのか? 落語協会には誰が説明するのか? 結局ほとんど俺が引き受けざる得ない状況になった。ぜん馬は必ずこう言った。

「お席亭との交渉は、楽ちゃんなら出来るよ」

「チラシのガリ版切りは、楽ちゃんなら出来るよ」

「落語協会との調整は、……楽ちゃんなら出来るよ」

 自分で云うのも自慢になりそうで嫌なのだが、自分でもかなり年配の名人と呼ばれる師匠方に可愛がられる才能があったし、難しい交渉事も敵対せずに相手の懐に飛び込むように交渉してまとめる”人たらし“の才能もあったと思っていた。元々器用だったから、ガリ版切なんか一晩で覚えた。俺の人生の大半は、「楽ちゃんには、出来るよ」って言われて来たようなものだった。それが、ここにきてぜん馬から「楽ちゃんには、無理だよ」って言わるとはね……。確かに、今の落語家としての俺を形作ってくれた大恩人は、ウチの師匠だ。立川流の弟子が談志師匠の生死を笑いのネタにするようなことは、俺には出来ない。

 ぜん馬の言葉に刺激されたのか、落語家になってからの人生で、自分から望んで手に入れたものは何もないことに気がついた。すべて、五代目三遊亭圓楽が与えてくれたのではないか?

鞄持ちのアルバイトから、師匠から乞われて入門した。

師匠に乞われて、二つ目になった。

真打も、師匠のほうから言い出した昇進だった。

今度の圓楽襲名も、師匠の望み通りの継承だった。

落語家になってから、俺が乞うたことなんて、何一つなかったように感じる。俺が最後に、何かを誰かに望んだことは何だったんだろう。俺は、学生時代の両国を思い出すことになる。(第二章へ続く)


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