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【読書メモ】中井久夫著「分裂病と人類」#私の読み散らかし

(#私の読み散らかし とは、僕がたまにインスタに投稿してる個人的読書メモです。無駄に長文になる傾向が多いので、今年からはnoteベースに投稿して、SNSはこのリンクでお茶を濁そうと思います。)         

妄想する力、与太話・法螺話が良質な物語を紡ぐ力、嘘が誰かを救う力、そんな力を今迄どこかで信じて来たのは、それが芸術分野における ”創造の源泉” だと思ってるからなんだが、最近のポスト・トゥルースの情況を見てると自信がなくなってきた。

陰謀論を妄信する人達 / 加担する人達がSNSの普及で、(あくまでも少数派だとはいえ)それなりに居らっしゃることが可視化された。アメリカでは陰謀論Qアノン=トランプ支持者が連邦議会になだれ込んだ。

自分は勿論「陰謀論はアホらしい」と思ってる側のホモサピエンスだが、陰謀論を支持する人達にいちいち目くじら立てるスタンスでもない。「奇妙な霊長類がいたもんだ世界は広いなぁー」と思って距離を取ってるくらいだ。とはいえ、流石に最近はそんな人達のパラノイアなタガの外れ方にはいささかウンザリしている。

妄想による陰謀論の無限の接続を見ると、映画『ビューティフル・マインド』で描かれる数学者ジョン・ナッシュの統合失調症のシーンを思い出してしまう。荒唐無稽な陰謀の世界観を接続し過ぎるジョン・ナッシュの症例から演繹できるのは、「“陰謀論者はバカ”だけで片づけられる話じゃない」ということですね。ジョン・ナッシュは「ゲーム理論」を生み出した稀代の天才ですからね。ただし、バカではない代わりに、精神疾患、もしくは疾患とまでいかなくても境界例、精神病質の可能性はある。

近年は高度自閉症 / アスペルガー症候群、はたまた、サイコパス/ソシオパス(*ちなみにサイコパス/ソシオパスは医学用語ではないようで、ニアイコールでいうと「反社会性パーソナリティ障害」)、というワードはなにかと耳にする機会が増えた。最近の精神医学ではかつての境界例や精神病質にあたる概念の受け皿として、発達障害やパーソナリティ障害の分野を大きくフィーチャーしているような印象。

精神医療の現場では指針が2013年に改訂され、『精神疾患の診断と統計マニュアル第5版(DSM-5)』という診断分類が採用されている。こういう症例分類のワードは最近作られる物語にわりと頻出してますね。「秘密を握る天才の自閉症の少年が、反社会性パーソナリティ障害の悪のカリスマのがまとめる犯罪組織に誘拐される」なんていう映画もあった。役柄に普通の人いないんかい、と突っ込みたいところだが、ようするにこういう症例が市民権を得てるということなんでしょう。

だからこの精神科医の #中井久夫 先生の時代の精神病の範囲で語られてる「 #分裂病と人類 」(1982年)でのお題目は今読むには若干古いのかもしれない。そしてスキゾフレニア(統合失調症)からの論旨はニューアカ(≒ポストモダン)っぽい感じもあるかもしれない(念のため注釈だが「分裂病」とは現在は「統合失調症」と言われてます。)今だったら上記のDSM-5になぞった細分化された症例で論理展開できるのかもしれない。

が、久しぶりに読み返したら、逆にちょっと新鮮だった。第一章の同名タイトル「分裂病と人類」はハラリの『サピエンス全史』の感覚で楽しめた。 “狂気の種子”はそもそも人類が進化していく過程で内包していったもので、「人類は分裂病的親和性が強い動物なのではないか」という仮説は今読んでも唸るものがあった。

原始人類の狩猟採集民の精神は貯蓄型ではなく、複雑な祭儀もなかっただろうから、分裂気質をもたないですんだが、逆に農耕社会になっていく過程で「収穫と刈取りと蓄え」を意識する事が日常となった事で強迫的な神経症の前兆が始まった。つまりは、総じて人類は農耕社会の発展とともにこうしたさまざまの本質的倒錯を経て文明的な人間になった。

狩猟民が徴候に対して鋭い感覚を持つことは、「3日前のカモシカの足跡を乾いた石の上で識別し、かすかな草の乱れや風が運ぶかすかな香りから狩りの対象の存在を認識する」能力となる。そういう細かい徴候を読む取る感覚は、人類史での経験則として僕らの中に潜んでいる。陰謀論者が徴候を接続したがる欲望はみんな持ってるという事ですよね。

農耕社会になって未来を意識する事で生まれた「強迫的神経症の前兆」は前述した通りだが、と同時に統合失調症親和者から倫理的少数者、つまり、古くは王、雨司、呪術医、新しくは数学者、科学者を生み出した。未開社会におけるシャーマニズムにも統合失調症を培養する役割があった。

このような親和者が中世~近代では、ある者は騎士として勇猛果敢に戦場を駆けたり、イエズス会の伝道師として大航海時代に海を越えていく。更には「世直し」を志向して革命戦士として大義に命を燃やしたかもしれない。彼等に共通する気質は「歴史に選ばれた」という激しい妄信だった。

第二章は鬱病の病前性格とされる「執着気質」を二宮尊徳の『二宮翁夜話』から読み解きながら、日本の「勤勉の倫理」という通俗道徳が中世日本の農村社会から育まれてきた事を言及してます。

中井が別の本でも示唆していることが鬱病と統合失調症の対比だったりして、この第一章と第二章の組み方はそれに準じている。本来、鬱病の遠因として警戒されるべきこの気質は、日本社会では「美質」「徳目」となっていて、失調して初めて「病前性格」と解釈されている。一介の労働者としてこの章も大変興味深い内容なんだが、長くなるので割愛します。

第三章は精神医学史として、欧州の中世史、特に魔女狩りにフォーカスを当てて展開される。そして、精神医学が科学よりも宗教や革命との関連が深いのではないかが、第二の基調となってる。こちらも面白い。伊歴史学者ギンズブルグの「闇の歴史」と併読するともっと気付きがあるかもしれない。

中井が後書きで書いていた言葉が、ちょっと胸を打ちました。

「私は統合失調症の人の世界は他の隣人の世界よりも了解不能とは感じていなかった。むしろ「変数が少し違う」という感じだろうか。」

前述の精神医学の診断分類マニュアルのDSM-5には賛否両論あるようだ。「通常の悩みまで精神疾患にしていないか」という反発だ。僕もその意見には少なからず同調する。

芸術分野を愛好する者としては、「正常」と「異常」を区分けするような分類には懐疑的でありたい。上記の中井の言葉のように「了解不能ではない」事を信じたい。

#私の読み散らかし #読書メモ

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