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毎週一帖源氏物語 第二十三週 初音

 これより第四分冊に入る。不思議なことに、第二分冊にはなかった増刷の記録が、第四分冊にはあるのだ。「令和二年十月二十五日 二刷」。気づいていなかったが、実は第三分冊も同じ日に二刷が発行されていた。さらに、この先は最終第八分冊まで事情は同じである。要するに、私が昨年末に買い揃えたシリーズは、第二分冊だけが初刷のままなのだ。第二分冊だけ飛ばして読む人が多いとは思えないので、第三分冊以降は初刷の発行部数が抑えられていて、順調に売りさばけたのだろう。

初音巻のあらすじ

 雲一つなく晴れた新春の朝、六条の院の庭は実に見事である。とりわけ、春の御殿の庭が素晴らしい。大臣の君と上は「末遠き御契り」(13頁)を歌で交わす。「今日は子(ね)の日(び)なりけり」(同)。童女たちは築山の小松を引いて遊んでいる。
 北の御殿より姫君に宛てて届いた歌に「初音聞かせよ」と詠み込まれていたことを受けて、源氏は姫君に歌を返すよう促す。
 源氏は夏の住まいを訪れ、それぞれの女君に贈ってあった晴れ着の似合い具合などを眺める。暮れ方には明石の御方のもとに渡り、「咲ける岡辺に家しあれば」という手習いなどを眺めて御方の気持ちを推し量り、そのまま泊まる。しかし、南の様子が気になるので、夜が明けきらぬうちに帰る。二日は臨時客が多い。
 数日後、源氏は二条の東の院に赴く。常陸宮の御方は、髪も衰えて白いものが混じり、寒そうにしている。仏道に励む空蝉とは、恨み言を交えながらも、さまざまに語り合う。このように、源氏はどの女君も大事にしている(「いづれをも、ほどほどにつけてあはれとおぼしたり」(25頁))。
 今年は男踏歌がある。内裏と朱雀院を経て、夜明け方に六条の院にも来る。西の対の姫君も見物に訪れる。源氏は中将の声を褒め、私的に後宴を行おうと決める。

子の日の小松引き

 正月の子の日に、小松を根ごと引いて長寿を祈る風習があったらしい。今でも残っているようだが、私は知らなかった。新潮日本古典集成では「子の日」を「ねのび」と読ませている。これが「根延び」に通じる。『日本国語大辞典』の項目「子」の下位項目「ねの日」には、そのように説明されている。『日葡辞書』への言及があったので、実際にそれを確かめてみよう。

Nenobi. ネノビ(子の日) 正月(Xŏguachi)に松の木を根のついたまま抜き、それを家の中に入れて行なう儀式、または、祝い。松の木が長く枯れないように、長寿を保ちたいとの願いをこめてするもの。

『邦訳 日葡辞書』、項目「Nenobi」

ヨーロッパからやって来た宣教師たちの目にも、面白い風習と映ったのだろうか。
 ここで暦の観点から子の日について考えてみたい。仮に旧暦のひと月が常に三十日であれば、一年は三百六十日となり、十二で割り切れる。すると、翌年の同じ日も同じ十二支になる。しかし、月の満ち欠けに合わせるため、実際のひと月は三十日だったり二十九日だったりする。閏月が設けられることもある。したがって、元日が子の日になるとは限らない。逆算すれば、この初音巻の年を歴史上の年に同定することは可能なのではないだろうか。そういう暦学的研究を試みた人はいたに違いない。その成果を知りたいものだ。

岡辺の家

 明石の上が実の娘から受け取った「初音」に心を動かされて書きつけたことは、頭注によると、直接的には「梅の花咲ける岡辺に家しあれば乏しくもあらず鶯の声」という歌をふまえるらしい。しかし、それですべてではないだろう。明石巻において、入道は浜辺の家に住んでいたが、娘時代の明石の上は母とともに岡辺の家に住んでいたのだ(「娘などは岡辺の宿に移して住ませければ」(明石巻、第二分冊、269頁))。そのことを思い起こさずにはいられない。

他の女君に引き合わされる玉鬘

 夏の町に住む花散里に預けられた玉鬘は、男踏歌見物の際に春の町に呼ばれ、紫の上や明石の姫君に引き合わされる。源氏が慎重に、そして着実に、事を運んでいる。

結ばれた女君たちを忘れない

 今の感覚を持ち込んで源氏を女たらしだと批判することに、意味があるとは思えない。あの頃の貴族の生き方はそういうものだったと思うしかない。
 その中にあって、源氏の美質として称えられているのは、一度関係を持った女君を見捨てないことだろう。若い頃の源氏は、空蝉、夕顔、末摘花と相次いで契る。空蝉と末摘花は、二条の東の院で不自由なく暮らしている。夕顔本人は目の前で亡くなってしまったが、遺児の玉鬘を引き取っている。六条の院に暮らす明石の上や花散里は言うまでもない。そして、別格の紫の上がいる。こうして見ると、源氏は立派に務めを果たしていると言えるだろう。

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