「無垢の花」


今より3000年ほど前、中国に「殷」という王朝があった。
この時代の政治はシャーマニズムであり、王もシャーマンだ。神に生贄を捧げて祈り、甲骨を焼いて吉兆を占った。生贄は、戰で捕らえた捕虜の人間たちであった。新月の夜と満月の夜、生贄が一人づつ、神へと捧げられた。

1 千里眼の少女

「早急にお返事をいただきたい。」
馬に乗った武官がやって来て、返事を待っている。
都の北部を領している有蘇氏に、娘を差し出せと言う、王の命令だ。
まだ暑い夏の終わりのことだった。
娘の名は申己。(姓が己、名が申)今年15になる。
その美しさが村で評判の娘だ。王都「商」の受王のところまで、その噂が届いたのだ。
しかし、父である有蘇氏は、娘が宮廷で暮らしていけるとは、とても思えない。
申は、その性格、奔放にして天衣無縫。踊るのが大好きで、地元の音曲を奏でさせ、いつも踊っている。手元に置いて、自由にさせておきたいと思っていた。
窮屈な宮廷に入っても、幸せになれるはずがない。
そう考えた有蘇氏は、娘は出せないと使者に返事をした。
使者は驚いた表情を浮かべたが、黙ってそのまま立ち去った。
有蘇氏は門まで使者を見送ると、ため息をついて、門を閉めた。
「お父さま、今の方はなんのご用だったの。」
申が無邪気な笑顔で近づいてくる。いつものことだが、有蘇氏は娘に心の内を読まれないように表情を作り直して、笑顔を向けた。
「どうと言うことはない。お前が心配することはない。」
(どうせもう勘づいているのだろうが)
「ふーん」
申は、父の目の中に潜む色を読み取るような視線を送ると、すぐに踵を返して走り去った。
(あの子だけは油断できん)
有蘇氏には7人の子供がいる。男が4人と娘が3人で、申は長女だ。他の子たちもそれぞれに個性があるのだが、申だけは赤ん坊の頃から異様だった。この子が泣くと何かが起きていることがよくあった。最初は偶然かと思っていたが、或る夜、盗賊が忍び込んで、誰も気がついていない時に申が泣き出した。乳母が起き出し、賊に気がついて、大声を上げたことで事なきを得た。
ふと見ると赤子はもう寝ている。乳母の紫青は、すでにこの赤子が普通では無いことに気がついていた。紫青は何か言いたそうな目を、慌てて伏せると部屋へ帰っていった。
有蘇氏はその時、今まで感じていた違和感の正体が、なんとなくわかったような気がした。
申はしかし、天真爛漫なまま育っていった。家族や村の人々はそんな彼女に惹かれるとともに、どことなく不気味さも感じていた。申は言葉をしゃべれる年齢になるや否や、人が転んだり、ものが落ちたりするのを、直前に言い当てた。そしてケラケラと明るく笑うのだ。
(不思議な娘だ)
父である有蘇氏は、胸中にある黒い不安の影を、拭い去ることができない。
(この子が王宮になど上がったら、一体どうなることか)
しかし、あの王がそのまま諦めるとも思えない。
庭でいつものように笑い踊っている娘を見ながら、父はため息をつくしかなかった。

しばらくしたある日のこと、砂塵を巻き上げて、騎馬の一団が街道を近づいてくると、物見から急報があった。有蘇氏の邸宅は、見晴らしの良い高台にあるため、街道は見渡せる。
(やはり来たか)
有蘇氏はすぐに妻を呼び、申の支度をさせるように言いつけ、自分の衣服を整えた。
門を開けてまもなく、騎馬隊が現れた。その数、百は下らない。その衣装から近衛隊と知れた。
「久しいな。息災か。」
馬首を巡らせながら、野太い声が響いてくる。受王だ。
(まさか王自らお越しとは)
冷や汗が脇を流れ落ちる。
下馬し、手綱を部下に渡した受王は、有蘇氏の前に仁王立ちになった。
商王受、筋骨は隆々として、革の鎧から太い腕がぶら下がっている。
虎を素手で倒したのが自慢の怪力は、まだ衰えてはいない。
「そんな青い顔をするな。最近馬に乗ってなくてな。遠出がしたくなったのだ。」
軽口を叩きながら、有蘇氏の後ろに立つ、夫人と娘に視線を向ける。
「なんだ評判通りの美人ではないか。」
有蘇氏は王の前に両手をついて、ひざまづいた。
「我が娘、申でございます。」
受はその横を歩いて娘の前に立った。申は無邪気に、にこりと笑って白い歯を見せる。
「どうだ。俺について来るか。」
娘は黙って笑顔を浮かべる。これが返事らしい。
「気に入ったぞ。明日、王宮へ寄越せ。」
受王は笑顔を妲に向けると、門前の馬にまたがり、王宮へと駆け出した。
有蘇氏はまだ両手をついたまま、動けない。妻が手を差し出して助け上げた。
去っていく馬蹄の音だけが、村の青空に響いていた。

2 妃と太子

「姫さま、どちらへ。」
今後ろ姿が見えたと思ったのに、もう影も見えない。
(まったくもう、あの子は。どうしようもない)
乳母として15年も付き添ってきたから、その性格も癖も熟知している。こうなることは分かっていた。お館様も分かっていたから、王宮へ出さなかったのだ。
(一体どこへ行ったのか)
王宮は広い。王から預けられた侍女たちは、もう呆れ果てて、あきらめているらしく、誰も手伝ってくれない。二人が王宮に到着して三日が経っていた。
紫青はいつものように、うろうろと探し歩きはじめる。

「ねえ、誰なの。」
後ろから声をかけられて、申は振り返った。そこにはまだ幼い男の子が立っている。
「君こそ誰。」
ひざを抱えて男の子の前にしゃがみ込み、目をのぞき込む。
「僕は庚、太子だよ。」
精一杯の虚勢をはって威張っているのが、可愛らしい。
「そうなんだ。」
申はすっと手を伸ばして、男の子の頭を撫ぜた。真っ赤な顔をしているが嬉しそうだ。
「私は申。よろしくね。」
「僕と遊んでよ。」
「いいわよ。何して遊ぶ。」
そんな二人の様子を、少し離れたところから見つめている人影に、申は気がついた。
軽く会釈して、長身の男が近づいてくる。
「お初にお目にかかります、申妃。私は太子さまの教育係の師涓と申します。」
人の良さそうな目をしており、髪には少し白いものが混じっている。細身の体を質素な麻服に包んでいる。
「こんにちは。師涓さん。あなたも一緒に遊んでよ。」
師涓は少し驚いて、はにかんだような笑顔をあいまいに浮かべている。
全く邪気のない笑顔で、妃としてはあるまじき発言をする申妃に、どう対処して良いか迷っているのだ。下手なことをすれば、太子の教育係であっても、首が飛ぶ。
「あなたは何か得意なことはあるの。」
「師匠はね、音楽が得意なんだ。どんな楽器でも上手に鳴らせるよ。」
庚はまるで我が事のように、自慢げにしている。
「あらそれはいいわ。何か1曲お願いしてもよいかしら。」
妃は庚と並んで膝を抱えて座り込んでいる。
(音曲ならば、まあ良いか)
師涓は腰紐に挿している笛を取り出し、奏で始める。
「まあ姫さま、そんなところにいらっしゃったのですか。」
紫青が少し怒ったような顔で近づいて来る。
「ほら、紫青。おとなしくして。今始まったところなんだから。」
紫青は戸惑いながら、申妃と太子の後ろに立った。
宮中の伝統音楽が奏でられた。
「いい曲ね。でももっと面白い曲があるわ。私の故郷の曲なの。」
妃は笑顔で笛を奪い取り、吹き始める。
少し聞いてから、師涓はそっと笛を取り上げた。
宮中で伝統音楽以外を奏でることは、固く禁じられているからだ。
申妃は、驚いた顔で黙っている。
「ええっ。なんでダメなの。もっと聞かせてよ。」
太子が師涓の服をつかんで、抗議の声を上げた。師涓は笑顔を浮かべながらも、困惑している。
そんな様子を見ていた紫青は、ここが頃合いと妃の手を取った。
「さあ、姫さま。もう戻りませんと。」
「もう帰っちゃうの。」
太子は不満そうだ。
「殿下、休憩は終わりです。さあ参りましょう。」
師涓が太子の肩を抱いて、妃に挨拶をする。
「太子殿下、またお会いしましょうね。」
妃も、紫青に引きずられるように去りながら、太子に言葉をかけた。
「うん、またね。」
太子は悲しそうに、師匠に抱えられるように帰っていく。
静けさの戻った中庭には、涼しい風が吹いている。
(おもしろい娘だ)
中庭を囲む建物の中から一部始終を眺めていた受王は、嬉しそうにしている。
宮中に新しい風が吹いてきたことを感じるからだ。
申妃以外にも妃はおり、子供も何人も生まれたのだが、いずれも大きくなる前に亡くなってしまった。神への祈祷でも、必ず生贄を捧げて祈ってきたが、効き目はなかった。
子供が小さいうちに亡くなることは、珍しいことではなかったが、王朝の存続のかかる重い問題だった。やっと授かった庚もまだ10歳だ。しかも、庚の母は出産の時に、亡くなってしまった。彼は実の母を知らない。
(あの子が大きくなるまで、頑張らなくてはな)
王は立ち上がった。
「それにしても、あの音曲はいけません。」
側に控えていた比干が、苦言を呈する。この時代、神との関係が王の最重要課題だった。
雨乞い、洪水を鎮めることなど、どんなことであっても神に祈り、その神託を聞くことが王の使命だ。それゆえに音曲も舞も全て神に捧げるためのものであり、自分が楽しむためのものでは無い。神に捧げる曲は決まっており、宮中でそれ以外の曲が流れることはあり得なかった。
もちろん庶民の村々には、それぞれに固有の音曲があり、踊りがあったのだが、ここ王宮では固く禁じられていたのだ。
「分かっておる。叔父上、そう固いことを言うな。まだ村から来たばかりの娘だぞ。」
受は苦い顔の比干に笑顔を向けた。とても有能な男で信頼しているし、朝廷の重臣でもあるが、性格は頑固で、融通は効かない。臨機応変で柔軟な思考を持つ受王とは、ソリが合わない。
今晩は新しく迎えた妲妃の歓迎を兼ねた宴会だ。比干を従えて、王は広間へと戻っていった。

3 死の舞踏

(まただわ)
侍女たちは顔を見合わせて、口には出せない思いを共感しあっている。
一人の侍女が手を滑らせて、器を割ってしまったのだが、その直前に申妃が奇妙な事を口にしているのを聞いた者がいるのだ。
「まるで、前もって分かっているみたいなのよ。」
ささやくように顔を突き合わせて、3人がうなづき合う。これが初めてではない。
申妃が宮中にやってきてから、ひと月が経とうとしていた。
洗い物を干していると、そばを通りながら、雨が降るからやめたほうがいいなどと言う。
空は晴れて、雲もない。しかし、半刻もせぬうちに、雨が降り出すのだ。
そんなことが度重なる内に、侍女たちは申妃に、恐怖を感じるようになっていた。
申妃は憂鬱そうな顔で椅子にもたれかかっている。側には紫青が侍っている。
チラっと妃の様子を伺うが、その瞬間に妃は気づいて視線を向けてくる。子供の頃からそうだった。
(ほんとに勘が良いというか、なんなのかしらこの子は)
紫青は平気だが、他の侍女たちの目がどんどん恐怖の色に染まっているのは知っている。
「宮中って、本当につまらないわね。退屈だわ。」
このところ、妃は気がふさがって元気がない。音楽が無いし、踊ることも出来ない。
毎夜のように、受王がやってきて過ごしていくのだが、刺激と言えばそれぐらいだ。
「陛下のお越しです。」
庭にいた侍女が慌ててやって来る。後ろにはもう受王が立っていた。
「申妃よ。加減はどうだ。」
声音には精一杯の優しさがこめられている。
申妃は、まだ椅子に座ったままだ。紫青が慌てて椅子から立ち上がらせる。
しかし、ろくに挨拶もせずに、横を向いている。
「姫さま、いけません。」
紫青が必死にその場を取り繕うとするが、どうにもならない。
「構わぬ。」
受は紫青を制すると、横の椅子に腰掛けた。王は若くて美しい申妃に、もう夢中になっていた。
「このところ、元気がない様子だ。何か欲しいものでもあれば、言うが良いぞ。」
部屋の中には、王が毎日のように持ってくる財宝が積み重なっている。
「何もいらないわ。」
「姫さま、なんてことを。」
紫青は受王の顔色を伺っている。
「本当か。本当に欲しいものは何も無いのか。」
受王はなんとかして、笑顔の申妃を見たい一心だ。妲妃は、チラッと王の方を向いてから、深いため息をついた。
「今日はお前が喜ぶかと思ってな、太子と師涓を連れてきたのだ。」
受王は侍女に、庭で控える二人を呼びに行かせた。
「申妃さま」
大喜びの太子が、飛びつくようにやって来る。後ろには師涓が控えている。
「太子殿下」
やっと笑顔になった申妃が、太子の頭を優しくなぜている。
「申妃さま、いつか聞かせていただいた笛の曲をお願いしたいのです。」
太子は妃の膝の上で見上げながら、甘えている。
「ええ、いいわよ。師涓さま、笛を貸していただいてもよろしくて。」
妃が師涓に笑顔を向ける。師涓は動揺して、沈黙している。
「師涓よ。予が許す。貸してやってくれ。」
「わかりました。」
師涓は、自分の笛を紫青に手渡した。笛を受け取った妲妃は座ったまま、曲を奏で始める。
弾けるようなリズムと明るい旋律の舞曲だ。
「師涓さん、これ覚えたかしら。」
挑むような、明るい笑顔だ。
「はい、それは覚えましたが。」
師涓は語尾を濁らせた。妃が何を望んでいるかは明らかだが、それは禁制に違反することを意味している。黙って聞いていた受王が、師涓の前に立ってその手を取った。驚いた師涓は、かしこまってひざまづく。
「師涓よ。王として命ずる。申妃の願いを叶えてやってくれ。頼む。」
受王は覚悟を決めた。このままでは、申妃は心が死んでしまう。彼女を里へ帰そうかと考えていた。しかし、自分の執着を消すことはできなかった。責めは自分が負うつもりだ。
「承知いたしました。」
師涓は、断っても、うなづいても、死罪を免れない立場を理解した。その上で、自分の本当の気持ちで、やりたいことを選んだ。
(わたしは楽士だ。好きな音楽を奏でて、死ぬのなら本望だ。)
紫青が妃から受け取った笛を、持って来た。紫青も状況は分かっている。この笛を吹いたら、師涓は死ぬかもしれないのだ。笛を持つ手が震えている。
静かに笛を受け取った彼は、妃に笑顔を向けた。許されぬことではあったが、彼もまた出会ったその時から、彼女に惹かれていたのだった。
師涓が華やかな音曲を奏で始めた。スッと椅子から立ち上がった申妃は、軽やかに部屋の中で踊り始める。曲には歌もついている。自然と声が出て、歌がはじまった。紫青も声を合わせて、掛け合いをする。
「わーっ。」
事情を分かっていない太子が喜びの声をあげる。
踊りはそれでは終わらなかった。師涓は楽士としての修行で、各地を巡り、色々な音曲を聞いていた。妃から求められるがままに、彼は知る限りの曲を即興で吹き続けた。
やがて曲が終わり、申妃が踊りをやめ、満足そうに椅子に腰掛けた。
「妃よ。満足か。」
「はい。陛下ありがとうございます。」
申妃が久しぶりに心からの笑顔を、受王へとむける。
「師涓さん、ありがとう。」
「いえ、こちらこそ。」
師涓は、演奏の途中から、これが命懸けであることを忘れて、ただ音曲に没頭していた。そんな境地で奏でるのは、生まれて初めての事だった。彼自身が本当に満足したのだ。ふと頬を伝う涙に気がついて、師涓は慌てて頬を拭った。演奏して泣いたことは、今までなかった。
(この人が居なかったら、自分は決してこの境地に至らなかっただろう。)
師涓は心からの感謝の念をもって、妃を見た。
「紫青、酒を持て。この舞手と楽士に褒美を与えんとな。」
笑いながら、受王が命じ、紫青が侍女とともに準備にかかる。
受王は、太子とともに、このような楽しい時間を過ごしたことがなかったことに気がついた。
それどころか、自分の人生には、このような彩りは今まで無かったのだ。
「今日は侍衛や侍女たちにも酒を振る舞ってやれ。皆で楽しみを分かち合うのだ。」
受王が宣言し、仕えるものたちから歓声が上がった。
急なことであり、華やかではなかったが、喜びの宴は、夜遅くまで続いた。

4 血塗られた新月

申妃の宮における楽舞や宴会の話は、受王がかんこう令を引いたので、直接に話題にするものは居なかったのだが、楽音を聞いたものや、女の張り上げる声を聞いたものが噂を立て、それは静かに広まっていった。この時代、女が大声で歌うのは、淫声とされ、神官などからは忌み嫌われたからだ。申妃の宮の中では、先日の宴会で、ともに騒いだ負い目と感謝の気持ちから、侍衛・侍女たちは妃を守る立場は心得ている。公になれば、自分も罰せられるのは、間違いなかった。
ある夜、いつものように受王がやって来た。月が細い夜で、新月まであと二日だ。
申妃は、受が少し暗い表情なのが気になった。
「陛下、どうなさいました。」
黙って酒を飲み干す受に、酒をついでやりながら、じっと顔を見る。今までは自分が落ち込んでいたので、受の様子に気をつけていなかった。あれ以来、隠れてではあるが、紫青の手拍子で踊ったり、小さな声で歌ったりして過ごしている。ずいぶん楽になったのだ。
(なにか嫌なことがあるのだ。)
それは感じられるのだが、内容はわからない。ただ、暗い場所と血の匂いがする。
「良いのだ。これは王の責務だからな。」
短く言って、また酒をあおる。
「明日から三日はここには来れない。お前も、この間は舞や音楽は控えて、静かに過ごしてくれ。」
今までも、三日ほど来れないことは月に2度ほどはあった。他の妃たちのところへ行っているのだと思っていた。受が静かに遠くを見るような顔をしているので、申は、受の魂に集中した。しばらくすると、情景が浮かんできた。明日の夜の洞窟の中で、何かあるのだ。炎が見え、大きな石の上に寝かされた、縛られた人間が見える。そこにマサカリを持った誰かが近づいて行く。暗くて良く見えない。マサカリを高く持ち上げた瞬間、炎の灯りで引きつった受王の顔が見えた。
「陛下。まさか。」
驚いた申は、反射的に受の腕を握った。侍女たちからの報告や、紫青からの幼少期からの話などを受王は聞いている。申は不思議な力があり、未来が見えるのだろうと受は考えていた。
「やはりそうか。お前は未来が見えるのだな。」
盃を干して、受は申を見つめた。
「仕方ないのだ、それが王の仕事だ。そうして神に捧げ物をして、御神託を得るのだ。」
受は立ち上がった。
「今日はもう帰る。」
妃が見送る中、侍衛と侍女に囲まれて、受王は寝所へと戻って行った。

次に受王が申妃の元へ訪れたのは、一週間も経った夜だった。
妃は、この間、歌いもせず、踊りもせず、ただ受王を待ち続けた。
「すまなかった。寂しい思いをさせたな。」
受王はまず詫びた。
「いえ。」
申妃は短く答えると、紫青を下がらせて、王と二人きりになった。
「この間、愚かな身ながら、陛下とこの国のために考えておりました。どうかその話をお聞きください。」
申妃は、立礼をしてから、王のすぐ側に座った。
「御神託とは、主に雨乞いのことなのですね。」
「そうだ。」
「そのために、人身御供として生贄を捧げて祈っておられるのですね。」
「そうだ。」
「それならば、生贄を捧げないで済む方法が、あります。」
王はじっと申の顔を見つめた。
「申してみよ。」
「星読みをすれば良いのです。星読みをする場所を作り、星の動きを読んで未来を予測するのです。」
「しかし、そのような場所を作るには、時間がかかるだろう。その間はどうしようもあるまい。」
「動物の生贄を捧げる方法があります。それに私にも、雨がいつ降るかぐらいはわかります。」
侍女たちからの話で、妃がまるっきりの嘘をついているのでは無いことは、王にはわかる。
受王は、もう生贄の人間を殺したくないと、心底思っていた。
「分かった。それでは、次の雨がいつ降るか。私にだけ、そっと教えてくれ。それが当たれば、神官どもも、信じるだろう。」
「はい。」
 
この日から、御神託という形だけの祭祀は行われたが、雨の予想は、申妃の予言をそのままに公言した。
予言は驚くほど的中した。王の権威は増大し、重臣たちも畏まって王に従う姿勢を見せている。
そして、次の満月に二日となった日、受王は重臣たちを宮殿へと参集させた。
何事かと皆が惑う中、受王は高らかに、人身御供の禁止を宣言した。そして、今後の祭祀のために、星読みの施設である、摘星楼を国の威信をかけて作り上げることも宣言した。
また、そのための資金として、完成までの間、税を増額すると発表した。事前に三公には相談してあったので、反対もほとんどなく、王の意向を汲んで事業が始まることとなった。
施設の完成までの間は、王の祭祀場の周りで、動物の生贄が捧げられることとなった。また、摘星楼の建設に当たっては、北伯侯 崇侯虎が当たることになった。北伯侯は、申妃の父の親族で、王と王妃にとっては、心強いことだった。

「お前のおかげだな。」
受が申の肩に手を置いて、建設現場を眺めている。
「いえ、陛下のお優しいお心が導いてくださったのです。」
申妃は、この時幸せだった。

5 怒りの日

摘星楼は二年後に完成した。
建設の話を聞いた周の姜呂が、最初三十年はかかると言ったとか、噂になっている。
これは北伯侯の功績だ。申妃も父の親族の功績なので、嬉しく思っている。
これでもう動物の生贄も必要がなくなる。殺した動物を無駄にしないため、祭祀場には、大きな肉を焼くための金属製の炉まで用意していた。祭祀のたびに、そこで肉を焼き、皆で酒盛りをしたものだった。
完成式典は、周辺国からも人が招かれて、盛大なものとなった。
受王は、そこで「殷」王朝としての大きな方針を打ち出すことにした。人身御供の禁止はすでに発布しており、王朝内では守られているようだ。これをもう少し進めようと考えた。
式典で、受王は高らかに無益な殺生を辞め、今後は星読みによる御神託を重要視すべきだと発言した。そして、摘星楼の完成に功があった申妃を、今後は大妃と呼ぶように宣告したのだ。
しかし、これが大きな反発を呼ぶこととなる。

この頃、水面下では反殷の流れが強く流れていた。水流の源は、周の姫発だ。後の武王である。
父の文王が急死しており、次男である発は「殷」による暗殺ではないかと疑っていた。もともと独立して王国を建設することを志として持っている彼は、受王の腹心にも自分の配下を送り込んでいる。今は三公の地位にある微子啓だ。王朝の内情を調べさせ、時折、人を送って情報を得ている。また微子は、受王と申妃、今は大妃だが、この二人の悪い噂を流すことを、長年に渡って努めてきた。曰く、師涓に淫らな声と北鄙の舞、そして退廃的な音楽を演舞させた。とか、増税して摘星楼にお金を貯め込んでいる。とか、祭祀場の林に動物の肉を吊るして、夜遅くまで宴会をして騒いでいたなどだ。金を貯め込んだという噂以外は、全くのデタラメではない。今までの神官階級の価値観に照らすと、淫らな音楽や舞であったりするだけだ。肉を吊るしたのは、生贄の祭祀のためだから、事実を曲げて悪評に変えたと言える。肉を焼く炉で、人を焼いていたと言うような嘘まで、噂では流された。
だが、そんなデタラメな噂がほんの少しの加減で、爆発的になってしまうことがある。それは、大妃(申妃)に対する恐怖心だ。彼女の出身地でも、王宮でも、その恐怖心は共有されていた。故に、彼女が受王を狂わせて「殷」王朝をダメにしたのだという主張は、受け入れやすかったのだろう。噂は王都「商」だけではなく、周辺諸国にまで流布し、大妃が悪人だとする定説が出来上がっていったのだ。
自分たちの伝統(人身御供)が、否定されたことを恨みに思っていた神官たちが、その声を最大限に利用した。噂を広め、話を大きくし、重臣を動かして、大妃を排斥しようとした。
動かした重臣は、あの比干だ。堅物で融通が聞かないが、受王の叔父であり、王朝の中心人物として、中原に名が轟いている人物。
比干は、「殷」王朝の名誉に傷をつけたことを理由に、大妃の排斥を受王へと迫った。
もちろん受王がそれを受け入れるはずもない。受王は怒りに怒ってついに、比干を処刑してしまう。直前には、受王に自分の工作活動がばれることを恐れた微子啓は、周へと亡命する。
そして太師として軍権を握っていた伯父の箕子は、受王を諌めたため、獄に繋がれることになった。つまり、周の巧みな情報操作とデマ工作によって、受王は政権基盤の三公を失うことになった。後任には、媚びへつらうことだけが上手い費仲などの佞臣が選ばれた。
殷王朝没落の鐘が鳴り響いていた。

6 断頭台への行進

12月、突然、東夷が反乱を起こした。受王は精鋭軍を率いて、この討伐に向かった。
東夷へ到着する直前、王都「商」から緊急の連絡が入る。周を中心とした8カ国同盟軍が王都を包囲していると言うのだ。受王は慌てて、軍を引き返した。そこへ後ろから、東夷の騎馬精鋭軍が襲いかかった。進軍路の両脇には林の中に弓兵を潜ませてあり、そこから弓の猛射撃が加えられた。受王はひたすらに王都への帰還を目指して進軍して行くが、後ろを襲われ、横から射られ、兵力は削られて行く。そして牧野の平原に着いた。ここから北へ迎えば都だ。
しかし、ここに周連合軍の主力の戦車部隊が鶴翼の陣を布いて待ち構えていた。
東夷の反乱も、伏兵もそしてこの待ち伏せも、全て周の軍師、姜呂の作戦だった。
受王は、中央突破戦術をとり、速度の早い騎馬軍を紡錘陣形にとって、自分が先頭に立ち、全軍を鼓舞した。受王率いる精鋭部隊のみは中央突破に成功したものの、後ろの軍隊は敵陣に取り残された形となり、もはや戦意を失った部隊は次々と降伏した。ここもデマ工作による心理戦の勝利と言えるだろう。恐ろしい軍師だ。
受王は王都に至るが、すでに王都「商」は陥落していた。精鋭部隊とともに王宮を目指して、受王は駆けに駆けた。隠し通路を通って、王宮に辿り着いた受王が見たのは、姜呂の指揮旗の先に吊るされた大妃(申妃)の首であった。
受王を見とめた姜呂は
「殷を滅ぼしたるは、この女なり。」
と大声で宣言し、軍隊に三呼させた。
もはや、生きる意味を失った受王は、二人の思い出の摘星楼に登り、自ら火をかけて焼け死んだ。

後書き

戦後、歴史の改竄が行われた。全てを周王朝に都合が良いようにするためだ。裏切り者の微子啓は、受王の親族と言うことになった。系図も書き換えられた。二人の悪行もこれでもかと言うくらいに書き加えられた。人身御供を禁止したことや、熱心に祭祀をとり行っていたことは、甲骨文字で刻まれた文章から事実だと分かっている。全て良い業績は、なかったことにされた。
受王は紂王に、そして大妃は妲己と名前も変えられた。殷から出土する、いずれの甲骨文字にも妲己の字は確認されていない。字自体が名前としては、ふさわしくないからおかしいと言う学者の意見もあり、私は完全に改竄されたものだと思う。申妃や大妃と言う名前は、私の想像に過ぎないが、もしかしたら、大妃はそうだった可能性はあると思っている。(音が似ているので)
息子の庚は許されて、二人の菩提を弔っていたが、武王が薨ずると、武王の親族と語らって反乱を起こした。(三監の乱)しかし、敗れて首を切られてしまう。
殷の文化は宋の国へ引き継がれて続いていくが、それもやがて戦乱の中、消えていくのである。


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