「風と雲 〜清宗異聞〜(十二)」

(十二) 臨安城

パクを護送する船団は臨安の河口へと向かった。そこから川を遡り、臨安へ着いたのはもう初夏のことだった。弥太郎は臨安河口に着く直前に、明州の趙長官に手紙を出した。内々に宮廷工作をしてもらう。清宗の決意に対して、もはや文句はない。今ではむしろ、そんな清宗に敬意を払っていた。朱や夏は友人たちの伝を頼って宮廷内の意見を探っている。この頃、宋の財政は金への多額の賠償で火の車だった。その中でなんとか国家を支えていたのは、専売品の貿易と貿易商を始めとする商人の税金だった。貿易の安全を確保することはそのまま税金の確保すなわち国の収入と直結している。海寇を警固衆として活用し、貿易の安全を図っている清宗の働きは決して小さくない。こたびも見事に海寇の親分を捕まえてくるという勅命を果たしている。朝廷内の気分としては、清宗を顕彰する動きこそあれ、追い落としたり、邪魔したりする動きはなかった。一つには清宗が宮廷から離れていることも関係している。もし宮廷内での出世を目論んでいるとしたら、違う見方にもなるだろうが、清宗は海にいて海軍指揮使という肩書きだけに甘んじている。宮廷の重臣たちからは、役に立つ番犬のようなものだと考えられていた。
(なんとかなるかもしれない)
清宗は希望を持っている。パクは船内では自由に振る舞っている。清宗がそうさせた。清宗は最近ではパクと良く話をしている。蓮香のことも話題になることがあった。パクも今では同じ女に惚れた男同士の絆を感じている。
(なんとか命だけは助けたい)
清宗は切実にそう願っていた。船が臨安に到着すると、役人が船に入ってきた。
「罪人はどこか。」
清宗は平伏している。
「ここに。」
平伏する清宗の横にパクは同じく平伏している。パクは宋の言葉は少ししかわからない。
「連れて行け。」
役人が冷たく命じ、パクは腕と頭を木で挟まれて拘束される。腰には縄がかけられた。
「お役目ご苦労様です。」
弥太郎が低姿勢で役人へ近づき、袖に金一両を入れた。驚いたような役人に弥太郎は耳元でささやく。役人は頷き、パクを連れて出て行く。これで少なくとも道中ひどい目に遭うことはない。長い船旅の中、パクと清宗の会話を聞いているうちに弥太郎の気持ちは少しづつ変わっていった。
(恨みは忘れ、恩を施す)
清宗が弥太郎に言った言葉だ。それを聞いた時に、弥太郎は心中悟るものがあった。何よりも弥太郎自身の心が少し軽くなっていたからだ。弥太郎と朱は今回の航海中、何度も山吹を交えて話をした。朱もやっと事実を受け入れる気持ちになっていた。姓を変えることはしないが、家族として付き合っていくことになった。弥太郎と清宗、朱と山吹の四人で、事態が落ち着いたら亡き妻と蓮香の墓、そして朱盈(しゅえい)の墓を訪れることになっている。

パクが連行されてひと月が経った。清宗はようやく皇帝に呼ばれて、臨安城へと入った。同行するのは朱隊長と夏隊長だ。以前呼ばれた時とは全く気分が違う。今回は人の命がかかっている。それも一人ではない。彼が殺されれば、島の配下たちは元の海寇に戻るだろう。そうなれば、彼らか襲った側かに関わらず、命が奪われることになる。清宗は深く覚悟を決めると謁見の場へと入っていった。
謁見の場所には、馴染みの枢密院の馬長官が待っていた。優しい笑顔を向けられて、清宗は少しだけ安心した。待つことしばし、大監の声と共に皇帝が現れ、清宗たちは平伏した。
「立て。」
大監の合図で皆は立ち上がり、皇帝に拝謁した。
「此度はご苦労であった。」
光宗はご機嫌だ。清宗と二人の隊長は見事に勅命を果たした。金との戦いが続く中、どれほど勅命を出せども、いつまで経っても金に奪われた首都は戻ってこない。清宗の活躍が国の財政を支える一翼を担っているという馬の説明も、光宗は受けている。
「褒美をとらせよう。」
高らかに光宗が宣言し、大監が目録を手に清宗に渡そうとする。
「恐れながらお願いの儀がございます。」
清宗に合わせて、朱と夏も同時に平伏した。皇帝をさえぎって自分から発言するのは無礼だ。大監は叱責し、発言を禁じた。光宗は少し怪訝な顔をしたが、清宗の武勲を考慮し、発言を許した。
「されば申し上げます。こたび賊の頭として捕らえし者を、私にいただきとうございます。」
光宗は驚いて返事もしない。
「なにとぞお許しくださいませ。」
重ねて清宗が発言した。沈黙が宮廷を支配する。前例のない願いにどう対処して良いかわからない。朝貢船への罪は死罪が決まりだ。
「何故じゃ。」
しばらく経ってから、光宗が聞いた。
「あの者が宋と高麗の交易の安全を守るために、どうしても必要だからでございます。」
「なぜあの者が必要なのだ。先だって高麗の朝貢船を略奪したのはあの者だろう。」
光宗は不愉快そうに言い捨てる。大監も頷いて、皇帝のご機嫌を取る。
「あの者は力ある海寇の頭でございます。多くの配下を抱えております。先ほどの戦いで私は彼を退け、配下ごと味方につけることに成功したのでございます。あの者が無事に帰れば、配下共々、この先交易の安全を守るための戦士としてこの国に尽くすと約束させました。そのためどうしてもあの者が必要なのでございます。」
「では賊どもを皆殺しにしたのでは無いのか。」
皇帝の顔色が変わった。激怒している。皇帝への朝貢品を略奪したのだ。もちろん罪人全員皆殺しになるのが常識だ。皇帝にとって海寇たち賎民の命になど価値はない。
「なにとぞお聞き届けくださいませ。今までの武勲と我が命にかけてお願いいたします。」
清宗は必死に説き続ける。皇帝が下がってしまえば、もう取り返しはつかない。
光宗は驚いている。目の前の男が、たかが賎民の命乞いに、自分の命を捨てるつもりだからだ。自分が命じれば、この男の首などすぐに斬り落とすことができる。
「私共からもお願い申し上げます。なにとぞ張指揮使殿の願いをお聞き届けくださいませ。」
朱と夏が素早く進み出て平伏し、言上した。二人も清宗と共に斬首される覚悟だ。
光宗は玉座に座したまま落ち着かない風情で沈黙している。気が優しく、悪く言えば気の弱いところがある彼は動揺していた。発言は無礼で話にならないが、功臣三名を斬首したとなれば、宮廷内外で外聞が悪い。政敵である皇太子に口実を与えることになれば、最悪の場合、廃位に追い込まれる可能性があった。光宗の地位は磐石という訳ではなかった。父の上皇が裏で実権を握っており、皇后が皇太子への譲位を目論んで暗躍していた。(事実この三年後、光宗は皇太子へ譲位させられ、退位することになる)
「私からも申し上げます。今後の宋と高麗の交易の安全は、我国にとって重要な問題です。張海軍指揮使はそれに対して責任を持つと申しております。どうかご再考をお願い致します。」
成り行きを見守ってきた馬長官が、ここぞとばかりに口を挟む。朝廷の決定は合議制が原則という建前があり、枢密院の重臣の意見を無視しては、弱い基盤の光宗政権は立ち行かない。
(馬までが申すか)
光宗が静かに目を閉じる。内心の葛藤を鎮めるためだ。決意はもう固まっている。沈黙が朝廷を支配した。
「よかろう。許す。」
光宗は一言発すると立ち上がり、後ろへ消えた。大監が早く下がれと合図を送りながら皇帝に続いて消えた。
「よかったですな。」
馬長官が清宗を立ち上がらせた。馬は清宗を海軍指揮使に任じる際に中心となった人物だ。今回も明州の趙長官からの手紙が事情を知らせて来ていた。馬は全力で彼らを助けるつもりでいた。四人はお互いに支え合うように朝廷を退出した。
(なんにせよ。よかった)
清宗は臨安城の門を出て、ようやくほっと息をついた。

パクが釈放されたのは三日後だった。馬長官の根回しのおかげだ。
役所の前に清宗たちがパクを迎えに集まっていた。役所の門からパクが出て来た。死罪と決まっていたので、拷問などはされず無事な姿だ。
「よかった。」
パクの肩を抱いて清宗は喜んでいる。パクはそんな清宗をじっと見つめている。
(こいつはどうも、馬鹿は馬鹿でも大馬鹿野郎だ)
自分のような皇帝に対する犯罪者、それも賎民が許されることなど、ある訳がない。パクは実は諦めていた。しかし、それでいいと思っていた。清宗の気持ちだけでも嬉しかった。仲間以外で自分と対等に話してくれた人間は初めてだったからだ。だが自分は許されて外にいる。清宗がなんらかの大きな代償を払ったのは間違いない。賎民の自分のためにここまでする人間がいると、想像したことすらなかった。生まれてから今まで、同じ賎民の仲間以外からはひどい扱いを受けてきた。海寇になり金を奪ってからは、金の力で人を黙らせ、差別するものは暴力でねじ伏せてきた。自分を見下している奴には何をしても良いと感じていた。だから人を殺しても金を奪っても平気だった。だがそんな自分を仲間にする為に、この男は己を犠牲にして助けてくれた。
(今、本当に俺は負けたな)
パクは地面に膝をついた。そして顔を上げ、天を見上げた。陽光に輝く雲が風に流されている。清宗が心配そうに見ているのも見える。
(これからはこの男を助けて生きよう)
なぜかもう天も清宗もかすんで見えないが、その決意だけが心の中で温かく灯っていた。

                  完


参考文献:
南宋略論 著者 何 忠 礼 訳 甲 斐 雄 一
宋代明州城の都市空間と楼店務地(上) 著者 山崎覚士
南宋期淅東海港都市の停滞と森林環境 1 著者 岡 元司


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