平宗盛


               〜平家物語より〜


1 都落ち

北国より攻めのぼっていた木曽義仲の軍勢5万余騎は、すでに比叡山の麓、東坂本に集結していた。比叡山の僧兵もこの勢に加わり、すぐさま都に攻め入る気配であるとの情報が六波羅殿(平家の屋敷)に届いたのは、寿永2年7月22日の夜半のことである。平家の人々は慌てて追手を差し向けたが、その軍勢は6千余騎でしかなかった。しかもその半数は、ほんの数日前に肥後守貞能によって連行されてきたばかりの鎮西の武者たちであった。これでは多勢に無勢、かくなる上は一つ所で如何様にもなろうとすぐさま呼び返し、主だった人々が再び集まったのは24日夜のことであった。宗盛、知盛をはじめとする一門の人々は、今後どうするべきかを話し合うべく広間に集まった。知盛は京において戦い敗死する決意を固めていた。その他の人々も同調し、もはやこれまでと思い切った様子で黙って座っている。悲痛な面持ちで満座の人々の顔を眺めていた宗盛は「しかしながら」と言葉を発した。「女院、二位殿はいかがいたしたものであろうか。我らだけであったならば斬り死するも武士の習い、平家の滅するのも又時の運であろうと思われる。されどここは女院、二位殿をともかくも逃し奉り、法皇、主上をもお連れして西国へ落ちるべしと存ずる。いかに皆の者。」
満座の人々は態度を決めかね、ますます黙ったままうつむいている。
「西国には我らに志深き者もあるであろう。それらを束ね、今一度勢をつけ再戦の機を窺うが上策と心得るぞ。知盛いかに。」
宗盛はじっと弟に眼を注いだ。知盛は困惑したように兄を見返し「されば兄者に従いましょうぞ」と言葉少なく答え、目をそらした。西国落ちが無駄なあがきであることは宗盛にもよくわかっていた。だが明日にも攻め込まれ、捕らえられて打ち首になるのは堪え難かった。妹(女院)や母(二位殿)のことは口実でしかなかった。生まれた時から殿上人となるべく定められていた宗盛には、母や妹でさえ縁遠いよそよそしい存在だった。むしろ兄が死に、父が死んで自分が平家の頭領となった頃からは平家というもの自体が重荷でしかなかった。かといって一人逃げ出しても生きて行く術は無い。朝廷のことしか知らず武術すら身につけずに育った彼にとっては御所以外に生きられる場所なぞ無いのだ。
「法皇と主上さえ押さえておけば、我らの在所が御所となるのだ。」
宗盛は弟の横顔を眺めながら独り言のようにつぶやいた。
「明朝卯の刻に御所より出立する。皆の在家には火をかけよ。見苦しい物を残すな。」
宗盛は一門の人々に散会を命じた。知盛は一人座したまま動こうともしない。
「女院に逢うてくる。」
宗盛は弟に小さく声をかけると、背を向け室を出た。邸内は慌てふためく女房達や軍馬のいななき、侍どもの喚き声で虫の音すら聞こえぬ有様である。夜目にも落ち着かぬ風情の女房に案内され、宗盛は妹の待つ室へ入った。妹、徳子こと建礼門院は27歳。
「いかが相成りましたか。」
落ち着いたそぶりではあるものの、その口調に不安や恐れがにじみ出ているのを感じた宗盛はしばし黙って壁を眺めた。思えば政略の道具として使われ、女院という地位には昇ったものの、今また平家没落の流れの中に巻き込まれ溺れていくしかない妹も哀れであった。
「もはやこれまでかと。」
宗盛は短く言って妹の顔を見つめた。真っ直ぐに見返してくる妹の瞳には悲しみの色は浮かんでいるが、驚いた様子はない。昨年来の敗戦の数々は地方の反乱まで引き起こし、もはや平家の没落は誰の目にも明らかであった。
「一門の者どもは都にて如何様にもなろうと申しております。されど今すぐに女院、二位殿に憂き目をお見せするのも心苦しく、法皇、天子様をお連れして西国へと御幸、行幸をもなし参らせてみようと思うております。」
「今はともかくあなたの計らい通りにいたしましょう。」
妹は目からはらはらと涙を流し、袖に顔を埋めて泣き崩れた。宗盛もそっと横を向き、袂で涙を拭く。女院のまわりにかしずく女房達も泣き崩れた。その時、突然慌ただしい足音が近づいてきた。
「申し上げます。」
若武者の声が悲鳴のように響いた。
「何事か。女院の御前であるぞ。控えよ。」
宗盛はとっさに怒鳴り返す。
「火急にございますればご無礼仕ります。それがし院の宿直を仰せつかる橘季康と申す者。院の御気色不穏にて注進仕ります。」
宗盛はさっと顔色を変え、立ち上がり御簾をかきあげた。
「申せ。」
廊下に平伏する武者に叩きつけるように言うと、宗盛は武者の眼前に仁王立ちになった。
「院が何処へか御幸になったとのことにございます。」
「そんなはずがあるか。季康ついて参れ。」
宗盛は血の気が引く思いで転がるように走り出す。そして門前の馬に飛び乗ると松明を用意させ法住寺殿(法皇の居所)へ夜道を駆け出した。先導の松明の炎が夜風にはぜ、火の粉が激しく舞い踊る。宗盛は馬の背に伏せるように駆けながら己の迂闊さを悔いていた。『なぜ法皇の身柄を押さえておかなかったのか。』法皇を失えば則ち平家は朝敵である。まだ幼い主上には政治的な実権は無い。賊軍になって西海をさまよう平家に味方するものなぞあろうはずが無い。宗盛は目の前が暗くなる思いであった。『たれか行く先を知るものがいるのではないか。』その望みだけが捨てられず宗盛は駆けに駆けた。法住寺殿の門前に馬を乗り捨てた宗盛は、「前内大臣従一位平朝臣宗盛」とのみ名乗って門内へと小走りに駆け入った。女房達の騒ぐ方を探し歩くが、日頃法皇のお側にいる者どもは誰もおらず、ただおろおろとする女官ばかりであり、たれも口を揃えて「行き先は知りませぬ。」と言うばかりであった。
宗盛は法皇の御座の間に上がりこみ、静かに腰を下ろした。
『もはやこれまでか。』薄暗い御座の間に目を虚ろに走らせながら、宗盛は庭から聴こえる虫の音にいつしか耳をかたむけていた。
翌7月25日早朝、それぞれの在所に火をかけた一門の人々は、主上を迎えるべく御所に集まった。東の空はすでに明るさを増している。卯の刻(午前6時頃)、御輿に主上、女院を迎え三種の神器などを急ぎ取り集めた一行は西国へと出立した。空は一点の曇りもなく晴れ渡っている。しかし在所にかけた火の為にすでに煙は空に立ち込め、きな臭い匂いの中に火に気がついた都の人々が大騒ぎしている。平家の人々はその喧騒に背を押されるように、静かに京の都から姿を消した。

2 壇ノ浦

「今日を限りの戦いぞ。者ども怯むな。世に並び無き名将、勇者といえども運尽きれば力及ばず。されど後代に残る名をこそ惜しめ。東国の者どもに弱気を見せるな。いつのために命を惜しむと言うのか。」
知盛は御座船の舳先に立ち、大音声をあげて全軍に下知した。
平家の総兵力は千余艘。約三十町(約3キロ)離れて源氏の軍勢は対峙している。その数およそ三千余艘。元暦2年3月24日卯の刻のことである。潮の流れは速く海峡が狭まるところでは、逆巻く波が渦を巻いている。平家の兵船は潮に乗って源氏の軍へと刻々と近づいていく。
「今日の侍どもの士気は奮っているように見受けます。ただ阿波民部重能は心変わりの様子。首を刎ねねばなりません。」
知盛は、鎧もつけぬまま一段と高い座に座している宗盛に声をかけた。阿波民部重能の息子はおよそひと月前の志度合戦の折、義経の配下伊勢三郎のはかりごとによって義経に捕らわれていた。
「証拠も無いのに首を刎ねる訳にはいかん。重能を呼べ。」
宗盛は知盛のはやる気を抑えるべく、殊更に落ち着いた声で命じた。戦に加わるべく参陣していた鎮西の兵どもの中、原田、菊池の軍はすでに姿を消していた。
『おそらく義経の軍に降ったのであろう。』宗盛は諦めと同情のこもった思いでいた。もう平家の滅亡は目前であった。そんな平家を見限って敵に降るのは所領や家族を抱える者にとっては当然の行為であると宗盛には思えた。重能は息子を人質に取られている。恐らくは裏切るだろう。しかし、都落ち以来1年余、数少ない味方として身命を顧みず助力してくれた重能を切ることは宗盛にはできなかった。
「重能か。」
宗盛は目前に畏まっている重能に声をかけた。
「心変わりでもしたか、重能。今日は元気がないぞ。四国の者どもによく戦うように下知せよ。臆するな。」
「臆してはおりませぬ。」
顔を伏したまま重能は低く答え、下がろうとする。知盛は顔色を変え、刀の柄を握りしめたまま、兄の方の気色をうかがう。宗盛は目だけで弟を押さえ、視界から消えていく重能の背中を見送った。
『重能殿。世話になった。』胸の中で宗盛は手を合わせた。知盛は一息深く息を吐くと、兄を見据え「されば参る。」と一声かけると兵船に乗り移って行った。
やがて攻め鼓の鳴り響く音と共に合戦が始まった。当初は船戦に馴れぬ源氏が押され気味であったが、阿波民部重能の裏切りを機に味方は総崩れとなった。源氏の兵どもが次々に平家の船に乗り移り、水手、舵取りまでも斬り殺してまわっている。知盛はもはやこれまでと覚悟を決め、後ろに控える御座船へと向かった。
「戦はどうなったので御座いまするか。」
女房達が口々に騒ぎ立てるのを尻目に、知盛は自ら見苦しい物どもを海に投げ入れ黙って片付けを始めた。
「中納言殿。」
そばに張り付くように喚き続ける女房に知盛は嫌気がさした。
「今から世にも珍しき東男というものをご覧にいれましょうぞ。」
知盛はことさらにカラカラと笑って見せた。
「今この時になんという冗談でしょう。」
女房達は呆れるやら口惜しいやらで泣き喚いている。後ろから黙って様子を眺めていた二位殿(宗盛の母)は、神璽と宝剣を手に取り、宗盛にそっと黙礼した。宗盛は一礼すると目を閉じ静かに息を吐いた。
「尼君、私をどこへ連れて行こうとするのですか」
今年8歳となる主上(安徳天皇)の声がする。二位殿は主上を抱いて小さな声で何事かを囁き続けている。やがて水音と共にひときわ激しい泣き声が起こった。
「父上。」
周囲の異常な様子に怯えた息子が駆け寄ってくる。亡き妻の形見となる次男、副将である。今年8歳。
「父上、私も海の底に参るのでしょうか。」
宗盛の袖にすがりつき、じっと父の顔を見る。
「大丈夫だ。乳母から決して離れないでいなさい。」
副将はコクリと頷くと、すぐ後ろに控える乳母にしがみついた。長男の清宗はさすがに取り乱した様子も見せず、副将に声をかけ落ち着かせようとしている。親子の周りでは女房達や侍どもが次々と海に身を投げている。或る者は源氏に捕らえられて引き上げられ、或る者は沈んでいく。宗盛は立ち上がると船端へと進んだ。流れの速い潮が船の周りで渦を引き起こしている。周囲には義経の軍勢が押し寄せ、もはや抵抗している兵すらわずかである。
『清宗、副将をなんとか助けねば。』宗盛にとって守るべきは二人の子供以外もう無かった。しかしこの状況では逃げることはもはや不可能だ。
『降人となるか。』屈辱を甘んじて受け、その中に生存の可能性を探ること、それ以外道はない。宗盛は降人となるに相応しい敵船を探して戦場を見渡している。
そんな宗盛の様子を見ていた武者は苛立っていた。戦おうともせず、ただオロオロとするばかりの宗盛は、滅びるべくして滅びる平家の象徴に見えた。身を投げるでもなく、生きる道を探しているらしい様子は武士の棟梁としてはありえなかった。「恥を知れ。」武者は後ろから近付くと、宗盛の背を思い切り蹴飛ばした。宗盛は船端を掴んだ手を離し、海中へと転落する。その様子を見た清宗が父を案じて自ら落ちてきた。二人とも水練上手な為、互いを見やりながら船のすぐそばで立ち泳ぎを続ける。そこへ伊勢三郎義盛の乗る船が近づき、熊手で親子を引き揚げた。
「平家の大将軍宗盛公を生け捕ったぞ。」義盛が大音声で敵味方に告げた。
「我が君を捕らえたるは何者ぞ。」小船に乗った宗盛の乳母子、飛騨三郎左衛門景経が急ぎ来て、親子の乗る義盛の船に跳び移り義盛に斬りかかる。間に割って入った義盛が郎党を二太刀で切り捨て、なおも義盛に迫る景経に隣の船から堀弥太郎が弓を放つ。景経は兜の内側を射られ、怯むところを堀弥太郎が飛び押さえた。堀が郎党が続いて船に飛び移って刀を刺し、ついに景経は討ち取られた。
『景経・・・』宗盛は声にならぬ呻き声を上げた。後ろ手に縛られたままにじり寄ろうとするが、義盛に抑えられ動くこともできない。
知盛は御座船の上で一部始終を眺め終えると乳母子の伊賀平左衛門家永を呼び、鎧二領を重ね着ると手に手を組んで入水した。
春の陽が照りつける海上には白旗を掲げた源氏の船ばかりが浮かんでいる。波間に浮かぶ赤旗は、浮つ沈みつ潮に流され、何処へかと漂い流れて行った。

3 都大路

元暦2年4月26日。京は若葉の照り返しが眩しいほどの晴天であった。
この日西海にて捕らわれた平家の人々が都大路を渡されるとあって、都の南 鳥羽院から六条に至る沿道は見物の人々でひしめき合っていた。法皇以下公卿、殿上人の牛車も六条東洞院に立ち、都のすべての人々が集まった観があった。
待つことしばし、人々のどよめく声と共に南から守護の侍三十余騎に囲まれた牛車がやってきた。前後の御簾を上げ、左右の物見を開いているので見物人からはすべてが見通せた。宗盛は白の浄衣を身につけ、怖じる風もなく四方を見まわしながら進んで行く。そのすぐ後ろに顔を伏して清宗が座っている。牛車を引いているのは宗盛が長く召使っていた三郎丸という男である。昨夜義経に会いに行き、頼み込んで今日の牛飼いを買って出たのであった。三郎丸は涙にくれ道も見えぬ有様で、ただ牛の歩むに合わせて泣く泣くついて歩いているのだった。宗盛は心細さと戦いながら座っていた。敗戦に次ぐ敗戦で、西海をさまよう身ではあっても、唯一の心を許せる身内であった知盛がいた。
『何故身を投げたのだ。俺を見捨てたのか。』そう愚痴りながらも、弟に甘え切っていたことに今更のように気がつく宗盛であった。戦に不慣れな自分の代わりにほとんどすべての戦場に赴き、身を挺して戦ってくれた知盛であった。そして最後の戦を終えると静かに永遠に去ったのだ。
『せめて堂々としていたい。』これが平家の頭領としての最後の務めであった。宗盛は顔を上げ、牛飼いの男の背を見た。泣きながら牛の横を歩く男の背中はまるでそこだけが下界から切り離され、宗盛を包み込む覆いのように見えた。都にいた頃親しくした人々や配下のほとんどは頼朝に憚り、声もかけようとはしない。宗盛は涙の浮かぶ眼を閉じると心の中で三郎丸の背に手を合わせた。牛車は都大路を北へ登っていく。牛車の軋む音と人々のざわめきに、護衛の馬蹄の音が単調に絡み合う。宗盛は住み慣れた街々を眺めながら、聞こえる音に耳をすませているうちに、自分がまるで空に浮いて身体から離れているような感覚に囚われ、だんだんと周りの音が聞こえなくなってきているように思った。
『何故自分は今ここに居るのだろう。』宗盛は、ほんの数年前に内大臣の宣下を受け、祝宴を開いた時のことを不意に思い出した。主だった殿上人がすべて集まり、管弦に歌に贅を尽くした宴の中心にいたのは果たして自分だったのか。今日牛車の上で痩せ衰え黒ずんだ顔を晒しているのは本当に自分なのか。突然牛車がぐらりと揺れ、宗盛は現実に引き戻された。牛車がようやく六条大路に到り、東へと曲がったのだ。この大路渡しは、六条河原が終着である。ふと周りを見渡した宗盛は様子が変わっていることに気がついた。見物の列が切れ、代わって牛車の列が連らなっている。恐らくは法皇もどこかの牛車の中から御簾ごしにこちらを見ているに違いない。宗盛は都落ち前夜の法住寺殿を思い出して、今度こそ見つけようと眼を凝らした。多くの牛車が立ち並び、人々の囁く声やすすり泣く声が聞こえる中、一際美々しい牛車が眼を引いた。宗盛はじっと御簾に眼を凝らす。向こうでもこちらを見ている気配がする。『法皇さえいれば・・・・』取り返しのつかない自分の失敗が法皇への憤りとなって胸の中から吹き上がってくる。宗盛は通り過ぎる牛車を埃に紛れて消え去るまでにらみ続けた。やがて牛車の列は終わり又見物人の列が始まった。宗盛は深く息を吐くと再び前を向いた。何もかも虚しかった。愛した妻も次男を産むとすぐに亡くなってしまった。その妻が忘れられず後妻も取らずに一人で子供を見守ってきた宗盛であった。今一族郎党のことごとくが討ち滅ぼされ、その頭領として立っているはずの宗盛ではあったが、彼にはその実感も責任も身に迫っては感じられないのであった。まるで大きな不吉な歯車に巻き込まれ、どうしようもなくただすり潰されてしまったように思えた。
『一体私に何ができただろうか。』壇ノ浦から都への途上、何度もそう自分に問いかけたが、宗盛にはわからなかった。ただ自分の無力さを噛みしめるばかりだった。権力家の後継として生まれたばかりに、短い栄華と引き換えに地獄を見る破目になったのだ。そう考えると自分の息子たちが哀れでならなかった。息子たちはその短い生涯で栄華も幸福も母の愛すら受けることなく、ただ死んで行かねばならないのだ。後ろを振り返ると、清宗は俯いたまま口を固く閉じて顔をこわばらせている。
「もうすぐ六条河原だ。もう少しの辛抱だ。」
そっと手を伸ばし、息子の乱れ髪をかき上げて小さく声をかけた。清宗はじっと父の目を見つめるとまた顔を伏せた。宗盛はしばらく息子の額を眺めてからゆっくりと前へ向き直った。牛の背ごしに東山の緑が鮮やかに迫ってくる。だが涙に霞む宗盛の目には、何もかもがぼやけてはっきりとは見えなかった。

4 鎌倉

宗盛父子が義経に具せらせて、鎌倉に到着したのは元暦2年5月24日のことである。宗盛らは金洗関にて頼朝の手兵に預けられ、義経は腰越へと追い返された。義経は宗盛父子に対して好意的だった。宗盛はその好意にすがる事で事態の打開を図ろうとしていた。去りゆく義経一行の後ろ姿を見送りながら、宗盛は寄る辺のない身の心細さに打ちのめされていた。
「父上。」
格子窓に張り付いていつまでも義経一行を見送っている父に清宗は声をかけた。清宗は助かることなぞ決してないと思っていた。
「もうお座りください。」
宗盛はそれでもまだ未練がましく、土ボコリの舞あがる街道を眺めている。空はどんよりと曇っていて、激しい浜風が父子を閉じ込めている小屋の内外を吹き抜けて行く。
「頼朝には我が平家に対して恩義があるはずだ。」
宗盛は外に向かったまま独り言のようにつぶやく。
「平治の乱の折、池殿の北の方(宗盛の叔母)の声がなかったら頼朝は生きてはいられなかったのだ。」
ゆっくりと振り返りながら腰を落とした宗盛は板の間に目を落としたまま、つぶやき続ける。
「我ら父子も法師となり、深き山奥あるいは遠き島なぞに流されるとも仏事に専念するならば、どうして生かしておけぬはずがあろう。」
『それでこそ平家が滅ぼされたのに、同じ過ちを頼朝が犯すとでもお思いですか。』清宗はあえて声には出さなかった。これ以上父を追い詰めることはできなかった。自分の為に父があえて屈辱を甘受しているのだと承知していた。
『今となってはただその時を待つばかりだ。』清宗は自分の胸にそう言い聞かせると目を閉じ、波風の音に耳を傾けた。
半月あまり閉じ込められた末、ようやく頼朝との対面が実現したのは月も変わった6月7日のことであった。対面は庭一つ隔てた建物の中で行われ、頼朝は御簾の向こうにその影すら見えない。口上の使者として比企藤四郎能員が宗盛の前に座った。宗盛は畏まって口上を聴き、その上で様々に命乞いをしたが能員は聞く気もない様子で、宗盛が沈黙すると立ち上がり出て行った。宿所に戻った宗盛は一言も口をきかず、出された食事にも手をつけようとはしなかった。清宗は父の顔を見るに忍びず、ただ目を閉じて小さな声で念仏を唱え続けた。
翌々日、腰越に送られた父子は再び義経に具せられて街道の客となった。以前とは打って変わったように義経は口も聞こうとはしない。お供の侍達も固く沈黙し、ただ馬のひずめの音だけが街道を流れていく。宿場に着くごとに『今日こそは。』と思うのであったが、三河を過ぎ尾張を過ぎ、何事もないかのように旅は進んでいく。宗盛はもしや助かるのではないかとそれでも希望を捨ててはいない。
『暑い頃だから首が腐らないように京近くで切るつもりなのだろう。』清宗はそうは思うものの父には言えず、ただ念仏を唱えるのみであった。

5 篠原

一行が琵琶湖のほとり、近江国篠原の宿に着いたのは6月の中頃であった。義経は平家ゆかりの僧を呼ぶ使いを出し、その到着を待っている。琵琶湖を船で渡って僧が到着した朝は、弱々しい雨が宿場を包み込んでいた。昨日までは父子は一処に置かれていたが、今日は別々の部屋へと引き離された。元暦2年6月23日の朝のことである。
『ついにか。』宗盛は室の中で落ち着けず、狭い板間を動き回っている。人の歩く音に驚き、格子窓から外を覗き、戸が開きはしまいかとそっと押してみる。戸の隙間に顔を押し当てわずかに周りの様子を知ると、又ウロウロと動き回る。
『清宗はどこにいるのか。』宗盛の思いはそこに集中していた。何か聞こえぬかと耳を澄ますが、軒から滴る雨音が邪魔で何も聞こえてこない。わずかに時々人が歩くのか、板の軋む音がするばかりである。その時二人が歩いてくる足音が近づき、戸の前で止まった。宗盛は息を飲み青くなって、まじろぎもせず戸を見つめる。戸の向こうでは侍が守衛の兵に錠を開けさせる声がしている。急ぎ戻る足音と共に錠の開く音がして、ガタリと大きな音を立てて戸が開く。静かに一礼して僧が入ってくる。後ろから続いて侍が入り、また戸を閉めた。宗盛は力が抜け、膝を落として僧を見つめる。
「宗盛殿、お覚悟を。」
僧は低く、しかし力を込めるように宗盛に言うと腰を落とし宗盛の前に座る。
「清宗は。」喉が詰まり、声が続かぬ宗盛は咳き込むように「清宗はどこでしょうか。」とだけ言うと、膝でにじり寄り僧の手を取った。
「たとえ首を斬られるとも骸は同じ筵の上と思うておりました。あの子故に海底にも沈まず、ここまで憂き名を流してきたのです。」
宗盛はやっとそれだけを言うと僧の手を握りしめ、涙を流して僧の顔にこすり付けんばかりに訴え続ける。僧もあはれには思うものの如何する事も出来ない。
「念仏を唱えなされ。念仏を唱えなされ。」とただただ繰り返すのみである。
やがて如何にもならないことを悟った宗盛は、力なく下を向くと僧に背を向け筵の前に座った。僧は立ち上がると壁際に退き、代わりに侍が刀を抜きながら前に出る。宗盛は諦めたように静かに手を合わせる。左後方に侍がにじり寄る。
「清宗はすでに斬られたのでしょうか。」
振り返り問いかけるそのままに、宗盛の首は前に落ちた。
清宗は別室でただ父の事のみを思い、念仏を唱え続けている。やがて廊下を渡る足音が聞こえ、静かに戸が開いて僧と侍が入ってきた。
「大臣殿の最期はいかがでしたでしょうか。」
清宗は念仏を止め、前を向いたまま問いかける。
「ご立派でございました。ご安心なさいませ。」
僧は清宗の後ろ姿に、せめてもの優しさを込めるように返した。
「今は思うこともない。どうぞ。」
清宗は父の姿を思い返すと手を合わせ目を閉じた。

翌日 二人の首は三条東洞院にある獄門前の木に掛けられた。三位以上の身分に昇ったものとしては、生きて六条大路を渡されたのも、死んで三条に首を晒したのも史上類を見ないことであった。「生きての恥、死しての辱、何も劣らざりけり。」と平家物語は結んでいる。なお篠原に残された二人の骸は、宗盛の思いを汲んでどこかの一つ穴に埋められたのだとか。


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