気持ちの持ちようとは。




飛行機に乗り


前のシートを無言でたおされたとき


嫌な気持ちになるだろうか?


ひとこと「倒していいですか」と言われたら



気分を害さないだろうか?


ではなぜ無言で倒されると嫌な気持ちになるのか


それは自分が無碍にされ


なめられ


承認欲求を満たさないからだろうか


というかまさにこれが私だ。


無言でシートを倒されたなら


なんだこのひとは!思いやりってもんがないのか!


と口には出さずとも思うだろう。


第一口に出す勇気はないが。


だが、ここで一度立ち止まる。


何も言わずにシートを倒したのがもし


私の時間を奪わまいという


思いやりだとしたら?


私が何かに集中していると考え


その集中を乱さないとするものだとしたら


なんて気の利く人だろうと



さっきの不快な気分とは180度変わって


私の気分は文字通り角度を変えると言っても過言ではない。


起きた事実は変わらずとも


認識次第でこうも変わるものか。


常識に縛られるとはまさにこのこと。


一度死角の意見をもらえれば


認識が変わり


今までの自分とは大きく変化する。


この認識の変化は


最近読んだ本から得たものだ。


読書は暗闇を照らすライト。



しかし自分で明るくできることもあるだろう。


全てはむりだから、


自分の頭と本


二つの脳みそがあるとかんがえるのは


どうだろうか。


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