見出し画像

オンライン・ゼミをめぐる「始まりの記憶」

 「オンライン化」に向けて走りだしたのは2020年2月27日の木曜日。その10日後に予定していたワークショップの中止を決定した翌日のことだった。そして、春学期のゼミを終えたのは、ぴったり20週間後の木曜日、7月16日のことだ。怒涛の20週間を走りきって、今はすっきりした気分だが、始まりは最悪だった。春学期のゼミを終えた今、intangibleな感情が私の中から霧散する前に、「始まりの記憶」を残しておきたいと思う。

 ネットワーク・メディアと「格闘する」のは20年ぶりで、当初は不安もあったが、ネットには溢れんばかりの関連情報があり、zoomの操作方法はあまり苦労せずマスターできた。ただ、「オンライン上でどんなゼミを展開するか」についてのヒントはなかなか見つからなかった。ネット上の情報の多くが「効果的な情報伝達(知識伝達)を実現するために」ということを前提としていたからだ。
 SNS上のグループにアップされた「zoomのブレイクアウトルームを使った双方向型演習の進め方」や「学生の参加意欲を刺激するオンライン・アイスブレーク集」といった情報からは、「学びを止めるな」という意気込みがひしひしと伝わってくる。でも同時に、「知識という情報を伝達すること」を授業の当然の目的と見なす「無意識」もまた伝わってくる。そこにあるのは、「情報をやりとりするために同じ時間に、同じ場所に集う」という視点から授業やゼミを考えるinstrumentalな学習観。だから、思わず呟いてしまう。「情報収集が目的なら、youtubeのビデオ・アーカイブを1.5倍速にして、好きな時間に一人で見る方がいいよね。」

 さて、「オンライン上でどんなゼミを展開するか」を考えるとき、「情報(知識)をやりとりするために同じ時間に、同じ場所に集う」というinstrumentalな学習観を受け入れるべきなのか? それが最初の4週間私を悩ませた問いだった。そもそも2019年度までは「知識伝達」とは縁遠いスタイルでゼミを運営してきたのだから。
 長岡研究室の活動のベースはフィールドワーク。特に、ソーシャル・デザインにかかわる活動をする人たちに出会い、言葉を交わし、一緒に活動することを通じて、新たなライフスタイル、ワークスタイル、ラーニングスタイルを発見していく。長岡研究室ではこのようなフィールドワークを「越境活動」と呼び、積極的に取り組んできた。週1回のゼミでは、越境活動の成果を持ち寄り、対話を通じてソーシャル・デザインに関する問題意識(ビジョン)を研ぎ澄ませていくことが「学習」だった。だから、合言葉は「問題解決より問題意識」。instrumentalな学習観から遠く離れたこの活動スタイルには、「情報をやりとりするために同じ時間に、同じ場所に集う」という発想が一切ない。

 今振り返っても、3月は本当に最悪だった。コロナウィルス感染があっという間に拡大していって、卒業式の中止が決まったのは、ゼミの追いコンをどうしようかと悩んでいる最中のこと。その直後には、入学式の中止も決まり、2020年度の授業開始が2週間延期された。その間、淡々とzoom操作方法の習得を進め、オンライン環境でゼミを運営することもオペレーション的には問題なくなったが、コロナ禍を言い訳にして、ゼミの目的と活動を「知識習得を目的としたインプット中心の活動」に変えることは、これまでやってきたことの否定になってしまうと、少し大げさに考えていた。でも、そんな「長岡研究室の事情」はお構えないしに、コロナウィルスの感染はさらに拡大し、越境活動を中心としたゼミ活動が無理だということは、誰の目にも明らかになっていった。

 そして、3月末、悩み抜いた末に私が出した結論は、「instrumentalな学習観に立脚したゼミは行わない」ということ。「同じ時間に、同じ場所に集う」ことに対して、instrumentalな機能を求めることなく、consummatoryな動機で「同じ時間に、同じ場所に集う」。越境活動はできなくても、合目的的な発想から自由になり、「学ぶ」ということをめぐって、時間と場所を共有することの意味について、そこから生まれてくる「私たちのつながり」の意味について、そして、「学ぶ」ということ自体の意味について、春学期のゼミ活動を通じてゆっくりと対話を続けていくことにした。活動内容は昨年までと大きく異なり、ソーシャル・デザインというテーマは特に意識せず、通常は活動の背後に隠れている「学ぶ」や「集う」といったトピックに焦点を当てる、言わば「地と図の関係」を逆転させたゼミ活動だ。
 2020年度春学期にオンラインで行う長岡ゼミのイメージについて初めて語ったのは、3月22日・日曜日の夕方に開催した長岡研究室の緊急ミーティングでのことだった。コロナウィルス感染拡大に伴う大学の対応を説明するために開催したミーティングだったが、今思えば、それがzoomを使った最初の「同じ時間に、同じ場所に集う」経験だったことが、長岡研究室にとって大きな意味をもつのかもしれない。その1週間後、3月30日・31日に行った「オンライン・ゼミ合宿」から、2020年度のゼミ活動がスタートした。以後15週間、ゼミ生たちはzoomの画面越しに「同じ時間に、同じ場所に集い」、consummatoryな動機でゆっくりと本を読み、社会人ゲストのいろいろな話を聞きながら、対話を続けてきた。そして、この「地と図の関係」を逆転させた春学期の学習活動を通じて、いくつかの興味深い体験や発想を得ることができたように思う。

 さて、これらの体験や発想についての振り返りはこれから始めることになる。私たちは一体何を学んだのか? この学習活動をどのように評価すべきか? 「地と図の関係」を逆転させた学習や、「同じ時間に、同じ場所に集う」ことの意味について、あれこれと考えていくつもりだ。ただし、オンライン化をめぐる「始まりの記憶」はしっかりと記述しておく必要がある。

 自分の中では完全に捨て去ったと思っていた「instrumentalな学習観」がオンライン化をきっかけにふと蘇ってきたのが、2020年3月のこと。4月からのゼミでは、音読しながら長い時間をかけて1冊の本を読み進めたり、多くのゲストを招いて「ラジオ番組風」のオンライン対話を展開できたので、結果だけを振り返れば、「問題解決より問題意識」というビジョンが首尾一貫していたように見えるだろう。
 でも、実際のプロセスは全く違う。様々な感情、行為、出来事が複雑に交差していて迷路のようだ。「consummatoryな動機で同じ時間に、同じ場所に集う」や「地と図の関係を逆転させた学習活動」といった表現は、活動構想を練っていた3月中から使われていた訳ではなく、4月以降、ゼミ活動のオンゴーイングな状況の中で浮かんできたことを私は知っている。そして、自分たちのゼミ活動をポジティブな言葉で表現できるようになってきた5月以降、ようやく、新たな気づきや発見が私の前に現れてきたこともはっきりと覚えている。
 一方、2020年度の方針について、私の中で本当の意味で決意ができたのはいつのことだったのかを正確に示すことは困難だ。思い返してみると、3月22日の緊急ミーティング時点では、まだ迷っていたような気もする。3月29日、「オンライン・ゼミ合宿」の前夜に覚えた緊張感は、自分の決定に対する自信のなさからきていたのかもしれない。

 つまり、現時点で確実に言えることはふたつ。まず、2020年3月にinstrumentalな学習観を受け入れるべきか迷いつつ、「オンライン上でどんなゼミを展開するか」を考えていたということ。もうひとつは、その後、迷いながらもinstrumentalな学習観を排除し、新たな活動プロセスを歩んでいる途中で、「今、自分たちがやっていること」を表現できるボキャブラリーを獲得していったということ。
 言い換えると、コロナ禍から始まった「オンライン化」の軌道は、「考えながら動き、動きながら考える」のくりかえしだったので、その過程での様々な感情、行為、出来事の繋がりを綺麗に並べようとすると、何に焦点を当てて語るかによって、順序が変わってしまうということだ。だから、確固たる出発点としての「始まりの記憶」を記述しておかなければならない。2020年のオート・エスノグラフィーのプロローグとして。