すべての”平凡な日常”は非凡なコンテンツ性を持つ
深夜作業中、ふと何かしらのコンテンツに接したくなる。昔ならテレビをつけていたタイミング。最近、そんな時間にtwitchを開いている。
twitchは、リアルタイムゲーム配信をメインに発展してきたサービスで、24時間、配信者が各々の得意なゲームを配信している。軽妙なトークと共に。
リスナーは、素晴らしいプレイを魅せてくれた配信者に対しその対価としてスポットで投げ銭する。あるいはお気に入りの配信者と毎月固定額を支払う契約を交わす。これを敢えてこれまでの言語に当てはめるなら、大道芸2.0とでも言うべきだろう。
しかし、そのスケールはあまりにも違う。
大道芸の効果範囲はせいぜい数百メートル。一方で、配信者の効果範囲は全世界だ。トップ配信者となると、一配信・一プレイに数十万、数百万円のお金が舞い散る。スーパープレイを賞賛するように、チャットログが膨大な投げ銭ログで埋まる様子は、ぜひ一度見て欲しい。きっと呆気にとられると思う。
パソコンとネット一つで大成する、現代のゴールドラッシュがそこにある。
しかし、今回はゲームの話はしない。今回の主題は”Just chatting”というコンテンツジャンルだ。
このコンテンツではゲームはプレイされていないが、ほとんど全員、顔出しでトークを繰り広げる。メインコンテンツもなく筋書きもなく、補助するスタッフもいない。コメント欄とトークだけが友達だ。
このチャンネルの配信の多くは英語で話され、中国語、韓国語と続いていく。当初は英語リスニングの練習になるかなと思い、たまたま目に付いた綺麗な女の子のチャンネルを開いた。
その子はイギリス在住の大学生だった。もちろんプロゲーマーのような特殊技能も備えておらず、イギリスでは恐らく平均的な大学生なのだろう。
しかし、トークを聴いているとすごく面白い。彼女の話す大学の話、毎晩の夕食の話、すべてが日本に住む自分とは全然違う。
例えば食生活、彼女は夕飯にサンドイッチとソフトドリンク、そしてクリスプと呼ばれるポテトチップスを食べる。ポテトチップスなんて、僕は夕食に食べたことがない。
紅茶よりもビールを飲む、自分の知らない種類のビールだ。調べると日本では商社が少量輸入している、紀伊国屋にはあるらしい、今度買ってみよう。
別の日には韓国人の男性の配信を見てみる。
街中を配信しながら自撮り棒を持って歩いている。
街中の一つ一つの説明、特別なものはなく、スーパーや八百屋のような、どこにでもある施設についての説明ではあるが、自分の知らない土地で、現地人の話を聞きながらだと楽しい。観光案内してもらっている気分になる。知らないフルーツとアイスを食べた。どんな味がするんだろう。
また、別の日に見た日本好きの台湾人は、配信が縁で日本在住の日本人と仲良くなり、念願の日本旅行が決まったらしい。一番楽しみなのは鞆の浦で、崖の上のポニョで似た風景が出てきたことが理由だそうだ。
鞆の浦なんて行ったことのある、あるいは知ってる日本人がどれだけいるだろうか。
配信者の多くは、別に特別なことはしていないし、特別な技能も持っていない。
しかし、全世界に配信していると、様々な視点から観る人が出てくる。スポットライトのあてかたによって、日常がプリズムのように綺麗な光を拡散させる。
世代も生きる場所もそれぞれ違う、違いを知ることは楽しい。世代も場所も同じであっても全く同じ人間はいない。同調や共感で楽しめる。
僕らの世代は、ネットは危ないものと教育されてきたし、今も実名や顔をネット上に公開することには抵抗がある。デジタルタトゥーや忘れられる権利のような根深い問題もある。
しかし、自らをコンテンツとして適切な形で放出させ、時には自己実現を果たす”普通の人たち”を見るにつれ、果たして匿名の傍観者で生き続けることが正しいことなのか、これからの世代に伝えていくべき教育なのか、どうにも疑問に思えてくる。
デメリットから回避できても、同じくらいのメリットを失っている気がする。
表現すれば願いが叶う。そんな青臭いことを言うつもりはないが、発しなければ誰にも何も伝わらない。
肩肘ははらなくてもいい、なんでもいい、動画でも音声でも文字でもいい。まずは自分の好きな方法で、情報を流してみる。
「生きている限り個性は誰にでもある。それが表から見えやすい人と、見えにくい人がいるだけだよ。」
色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 /村上春樹
ご主人寝てるので変わりにいぬが書きます。サポート、サポートですか。ホントにいいんですか?ジャーキーとか金額によってはガジガジ噛むおもちゃとか買っちゃいますよ?やったー!