アヒルのトーマス #4
トーマスとダルトンは爆発の衝撃で勢いよく吹きとばされ、壁に頭をしたたかにぶつけてしまいました。
まわりにいた観客たちも、びっくりして机の下に身を隠したり、椅子ごとひっくり返ったりしました。
「ダルトンさん、だいじょうぶですか? ダルトンさん」
トーマスはぶつけた頭を手でさすりながら、車椅子でダルトンのもとへ駆け寄ると、ダルトンの体をゆすぶりました。やがてダルトンは目を覚ましましたが、うつろに見開かれた目は焦点があわず、心ここにあらずといった感じでふらふらと起き上がりました。そしてあちらこちらに空をつかむように手をさしのべると、こう言いました。
「お星様がたくさんたくさん目の前でチカチカ光ってきれいだなぁ。イヒヒヒ、なんとかして、あのお星様をつかまえられないものかなぁ、イヒヒヒヒ」
ああ、なんということでしょう。ダルトンの頭は正真正銘のぱっぱらぱあになってしまったのです。それから彼はゆっくりと立ち上がって、ゆらゆらと部屋のなかを行ったり来たりをくりかえしていましたが、ふたたびバッタリと卒倒してしまい、あわてて駆けつけたトーマスの従者たちによって運び出されてしまいました。
さて、一同はその様子をあぜんとして見守っていました。殊に、トーマスのばつが悪いことといったらありません。もしその場に穴があったなら、どれだけそこに入りたいとおもったことでしょう。
そのときです、とつぜん部屋じゅうに響き渡るほどのおおきな笑い声が起こりました。その声の主は、もちろんあのアルバートです。
「ガハハハハ、なんともじつにおもしろい見世物でしたよ、トーマスさん」
ふだんなら強気に言い返すところのトーマスでしたが、いまは意気消沈してそんな気力もありませんでした。
「いやいや、とてもよい勉強になりました。どんなにすばらしくて実用的な発明品であっても、安全性が保障されていなければなんにもならんということですな」
言わせておけば好き放題言いおって、とトーマスは吐き捨てるように言ってやりたい衝動に駆られましたが、ここはぐっと呑み込んで、こわれた機械の残骸をあつめていました。
そのとき、アルバートは上着のポケットから、ひとつの液体入りの小瓶を取り出しました。
「じつはトーマスさん、わたしもあなたと同じ研究開発をしていたのです。このくすりはですね、わたしの友人である薬草学者のテナガザル、マッカスくんと共同開発のもと完成した『飲むだけで頭がよくなるくすり』です。きみのつくったくだらない機械なんぞに頼らなくても、このくすりを飲むだけでガンコな物忘れなど、きれいさっぱりなおってしまうのです」
ふん、またはじまったぞ、とトーマスは思いました。アルバートがトーマスの発明にいちゃもんをつけ、代わりに自分の発明をひけらかすのは、これまでにも幾度となく繰り広げられてきた展開なので、すっかりなれっこになっていました。
「とはいえ、口で説明してもなかなか信用してもらえないことはとうに承知しております。どうですかな、だれか試してみたいという方はおりませんか?」
しかし、あたりはシーンと静まりかえって、だれも自分がと名乗り出るものはいません。それもそのはずです、さきほどの悲惨な光景を見せつけられたあとで、いったいだれが名乗り出るというのでしょう。
さて、だれも立候補するものがいないので、どうしたものかと困っていたアルバートは、部屋のすみで黙々とこわれた機械の片づけをしていたトーマスに目をつけ、コホン、とかるく咳ばらいをすると、こう声をかけました。
「どうです、トーマスさん。あなたもかねてより物忘れに悩まされていたではありませんか。ここはひとつ、このくすりを試してみませんか?」
せっかくの新作披露会が失敗に終わって内心むしゃくしゃしていたトーマスは、そんなものだれが飲むものかと思いましたが、そのとき、あるずるい考えがうかんできました。
――ふん、たかがくすりを飲んだだけで頭がよくなったり、わたしの筋金入りの物忘れがなおったりするものか。よし、それならひとつあのくすりを飲んで、まったく効き目がないことを証明してやって、やつの発明もたいしたことがないと赤っ恥をかかせてやろう。
トーマスはアルバートの手から薬瓶をひったくるように受け取ると、それを一気にぐいっと飲みほしました。
くすりは強烈な薄荷水の匂いと味がしました。なるほどたしかに、頭はすっきりと冴えわたって、なんだか効果はてきめんのような感じがします。しかしトーマスには、これくらいであのガンコな物忘れがなおったなどとはとうてい信じられませんでした。
「さあ、トーマスさん、いつまでもそんな車椅子に座っていないで、立ってごらんなさい。そして歩いてごらんなさい。きっとあなたの物忘れは、きれいさっぱりなおっているはずですからね」
自信たっぷりなアルバートの口調に、トーマスは少しばかりむっとしながらも、ここで試してみぬは発明家の恥といわんばかりに勢いよく椅子から立ち上がると、おそるおそる歩を進めました。一歩……二歩……三歩……。するとあらふしぎ、いつもならきれいさっぱり忘れてしまうような事柄も、逐一もらさずおぼえているのではありませんか。
この事実を受け入れられないトーマスは、何度も部屋のすみを行ったり来たりしました。けれどもいくら歩こうが、その結果は変わりませんでした。
これはいよいよまずいことになったぞ、とトーマスは思いました。なぜなら、ここで物忘れがなおってしまったという事実を認めてしまったら、アルバートの発明したくすりのほうが、自分の開発した機械よりも優秀であるということを認めてしまうことになるからです。それは同じ発明家であるトーマスにとって耐えられぬほどの屈辱でした。
「どうですか、トーマスさん。その様子では、すっかり物忘れなどなおってしまったようですな」
アルバートはすでに勝ち誇ったような表情でそう言いました。それがトーマスにはたいそう癪でした。さて、なんと答えたものだろう、と頭を悩ませましたが、そんな都合よく逃げ口上が思い浮かんでくるわけもなく、苦しまぎれにごまかしました。
「ああ、うん。頭のほうはじつにはっきりとしてるんだがね……、物忘れのほうはどうもだめみたいだ。さっきからずっと歩いているけど、ついさきほどのことなんかもうきれいさっぱり忘れてしまったというありさまでね。いや、ほんとうだよ」
アルバートはおかしいな、と首をかしげました。
「ほんとうかね? うーん、このくすりの効き目はてきめんのはずなんだが。……トーマスくん、まさかウソを言っているんではなかろうね?」
「まさか、まさか、ぼくがウソを言うはずがないだろう。ほんとうさ、ほんとうだとも。つい数分前のことだって、もうすっかりさっぱり忘れてしまってるんだ。ほんとうだよ」
「なるほど、なるほど。どうやらきみの物忘れはよほど深刻なようだね。ふむ、よろしい。このくすりはまだいくつか手持ちがあるのです。さあ、もう一本お飲みなさい。これですっかりよくなるから。さあ、さあ」
なおっていないとウソをついてしまった手前、ことわるわけにもいかないトーマスは、やけくそぎみに言われるままもう一本のくすりを飲みほしました。
「どうです、こんどこそ物忘れなどすっかりなおってしまったはずです。なに、まだ効かないですって? そりゃおかしい、もう一本飲んでみたまえ。こんどこそまちがいはないはずだから。……え? じぶんは今なにを飲んでいるのかって? そりゃいけない、物忘れもそこまでいくともはや危険だ。さあ、もう一本飲みなさい。さあ、さあ」
なんとかウソをつきとおすために何本もくすりを飲みつづけていたトーマスでしたが、しだいに様子があやしくなってきました。頭はキンキンしだして、目はチカチカ、足はブルブルふるえだしてきたからです。そして、いま手渡された最後のくすりを飲もうとしたとき、トーマスは口から泡をふきだしてぶっ倒れてしまいました。……
さて、その後、トーマスはすぐに動物病院へ担ぎ込まれて、なんとか命に別状はありませんでした。しかし、意識をとりもどしたときには、その日に起こった出来事はすべてきれいさっぱり忘れていました。
さらに気の毒なことには、彼の物忘れはいっそう悪化して、以前は三歩あるくまでは忘れなかったことも、ふとした瞬間にはすっかり忘れてしまうようになりました。
ある日、アルバートたちがお見舞いにやってきたときにも、トーマスは彼らの顔を見てもだれだか思い出せず、「なんだね、きみたちは? そろいもそろってみんな阿呆な顔をして。ぼくはいま新しい発明品を考案しているところなんだ。用がないならさっさと出て行ってくれ」と邪険に追いはらってしまいました。
なんともあわれなことになってしまったトーマスでしたが、その後も創作意欲だけは尽きることなく、自分の名前すら忘れてしまうようになってからも、つぎからつぎへとあたらしい発明品を発表しつづけました。しかし、できあがる発明品はどれもこれも役にたたないへっぽこな失敗作ばかりでした。けれども彼はそんなことなどいっこだにせず、発明品を作りつづけました。そして、そのなにごとにもめげない姿勢が評価され、史上もっとも多くの役にたたない発明品を世にうみだした発明家として、後世までその名前を残すことになりました。
いっぽう、ライバルであったアルバートは、じぶんの開発したくすりが原因でトーマスがあのようになってしまったことをいたく反省し、しばらく研究や発明を自重していましたが、その後多くの支援者たちの後押しもあり、無事復帰することができました。そして、つぎからつぎへとすばらしい発明品をうみだし、かがやかしい功績を残しました。
(おわり)