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浜辺にて

 波打ち際に転がる石ころは、みんなことごとく角がとれて丸みをおびている。長年の潮の満ち引き、流動する砂利や小石のあいだで揉まれているうちに、徐々に角が削れて丸くなっていったのだとおもう。
 海岸の微細な砂は両手ですくいあげると指の隙間から風の吹く方向へ霧のようにこぼれ落ちてゆく。場所によって砂の細かさがちがうというのもおもしろい。
 ある場所では貝殻の残骸が砂利といっしょにたくさん混じっている。それを両手いっぱいにすくいとって、手のひらでこすりあわせてみると、チャラチャラジャラジャラと心地よい音をたてる。大半の貝殻が割れて細かな破片になっている。なかには完全な状態のものも見つかるが、そのうちの一枚をつまみ、軽く力をくわえると、かんたんにパキッと割れる。もとよりこれほど脆いものなのか、それとも長い年月を経ているうちに脆くなってしまったのか、わからない。
 そんななか、不思議な柄の貝殻をみつけた。トカゲやヘビの表面に似た柄の巻貝である。あまり大きくはないのでかつてはヤドカリの住処だったのかもしれない。とうの昔に主を失った愉快な柄の貝殻は、いまは数知れぬ貝殻の残骸や砂利や石ころにまぎれて波にのまれている。いったいどれだけの年月をそこで過ごしてきたのか。数年前か、それとも数十年前か、あるいはもっと以前からそこにあったのだろうか。
 そう考えれば、その辺りに落ちているたんなる石ころも、自分など及びもつかないほど以前から、そこにあったかもしれないのだ。ぼくは地質学について明るくはないから、海や川の底などに沈むごつごつした石の角っこが丸みをおびてくるまでどれだけの年月が必要なのか、知ることがない。しかし、ふだん気にかけることなくそこにあるものにも、長い年月を経てきた証のようなものをみつけたときには、なんとなくそれに想いを馳せないわけにはいかない。
 現代人はとかく新しいものに目がいきがちである。人工的なものにかこまれて暮らし、それが当然のようになっている。でもたまには自然の中でこういった悠久の時間を感じさせるものに触れてみるのもよいのではないだろうか。――そんなことを想う八月上旬のまだまだ暑苦しい昼下がりであった。