散髪屋にて

 髪の毛が伸びてうっとおしくなってきたので、散髪に行った。
 その日は平日だったので比較的店内はすいていた。すぐに座ることができた。
 いつもおなじ散髪屋に行くから、髪を切ってくれる人もだいたいいつも一緒だ。今回はちょっと小太りのおばちゃんがぼくの髪を切ってくれることになった。
「どのくらい切りますか?」とたずねられる。ぼくはいつも適当に、「横は耳が出るまで切ってください。あとはそれに合わせて短めにお願いします」といった感じに答える。常連だからだいたいそれで通じるのだ。容姿にそれほどこだわる性質ではないし、髪型も、生まれてこのかたほとんど変わってはいない。だからそんな感じでいいのだ。
 あとはただマネキンのようにじっとしている。たまに鏡に映る自分を見て、ああ、白髪がだいぶ増えたな……、と心の中でひとりごちている。理容師さんはあざやかな手つきでぼくの髪を切ってゆく。
 ぼくは二十歳すぎるまで街の散髪屋に行ったことがなかった。
 それは祖母が美容室をやっていて、幼少のころからいつも祖母に髪の毛を切ってもらっていたからだった。
 その後、祖母は高齢のため美容師を引退してしまい、それからしばらくは祖父がぼくの髪を切ってくれることになった。祖父はもちろんそのような免許など持ってはいない。ただ見よう見まねで、あれくらいわしにだってできると言って自ら買って出たのであった。自信家の祖父ではあったが、所詮は素人なので手つきは雑である。ぼくの髪の毛をグイッと引っ張ると、豪快に鋏でジョキジョキ切ってゆく。出来栄えはそう悪くないが、とにかく力任せに髪の毛を引っ張られて痛いので、そのうちぼくは祖父に髪の毛を切られるのが嫌になっていた。
 それからというもの、ぼくはお金を払って街の散髪屋に行くようになったのだが、そこはやっぱりそれでお金を稼いでいるプロの方である。いくら髪の毛を切られようがぜんぜん痛くはない。まあそれが普通といえばその通りなのだが、祖父の件を経験しているぼくにとっては余計そう思うのだ。
 散髪も終盤に差しかかってきて、今日はいつもよりていねいに切ってくれているなと思った。平日でお客さんも少ないから、余裕があるのかもしれない。これが土曜日や日曜日だと、店内は少し混んでいて、あとがつかえることが多いから、もっと作業的でスピーディーである。平日に散髪屋に来ることはこういった利点もあるのだなと思ったりした。
 やがておばちゃんは手鏡を取り、ぼくの頭の後ろを映して「このくらいでよろしいですか」とたずねた。ぼくは「はい、だいじょうぶです」と答える。
 おばちゃんはドライヤーを取り出して、頭についた短い髪の毛を吹き飛ばした。そのとき、ふとおばちゃんの服の裾に目がいった。おばちゃんのおしゃれな服には、黒や白の短い毛が、びっしりと付いていたのだった。ぼくはそれを見て、(今日だけで何人くらいの人の髪の毛をカットしたのだろう……)と思うのと同時に、ああ、これが職人の姿というものなのだろうな……などと感心したりもしながら、鏡に映るおばちゃんの姿をじっと見ていた。
 そうこうしているうちに散髪も終わり、首に巻かれたマントのようなものが取り外され、ぼくは解放された。床にはぼくの髪の毛がびっしりと落ちている。ぼくはそれをなんとなしに眺めていた。
(髪の毛ってやつは、あたまの上についているときはあんなにも綺麗に見えることもあるのに、床に散らばっているとなんで汚らしく見えるんだろう……)
 そんなことを考えていた。
「終わりましたよ、またお越しください」とおばちゃんが言う。
「ありがとうございました」とぼくも言って、店を出た。


(おわり)