リトル・ベアー物語
ながくきびしい冬の、こごえるような寒さもようやくやわらぎ、あたたかな日差しがふりそそぐ春の季節がやってきました。
巣のなかでながらくねむっていた動物たちはいっせいに目をさまし、草花はつぼみをふくらませてあたり一面に咲きほこります。春はあらたな生命がみちあふれる季節なのです。
そんなうららかな森のなかを、大きなクマがのっしのっしと歩いていました。
その大きなクマのすぐうしろを、生まれたばかりの子グマが、ぴょこぴょこと追いかけてきます。
子グマは冬のあいだに生まれたので、これがはじめて目にする外の世界です。あたたかくなるまでずっとうすぐらい巣穴にとじこもっていたので、太陽の光はずいぶんとまぶしく、見るものすべてがきらきらとかがやくように感じました。
「ぼうや、あんまりふらふら歩いてちゃだめですよ。ちゃんとお母さんについてきなさい」
お母さんグマが歩く足を止めてふりかえり、やさしく言いました。
「だっておかあさん、こんなにポカポカしてきもちいいんだよ。もっともっとたくさんあそびたいよう」
そのきもちは、お母さんグマにもよくわかりました。ながい冬が過ぎ去ったあとの春の陽気はなんともきもちがよいものです。ですが、お母さんグマのおなかはもうペコペコでした。いっこくも早く木の実や魚、やわらかく香ばしい草木の新芽などをおなかいっぱい食べたかったのです。なのに、子グマはあちこちいったりきたり、野に咲く花のにおいをかいだり、ひらひらと宙をまう蝶々を追いまわしたり、とにかく落ち着きがありません。
時間はかかりましたが、ようやくクマのお母さんと子グマはおいしそうな木の実がたくさん落ちている場所にやってきました。そこでお母さんグマはあそびまわっている子グマのことはいったん放っておいて、さっそく落ちている木の実をそのおおきなてのひらで器用にあつめると、一口にぱくりとやりました。また、鼻のさきで地面のにおいをかぎ、山菜や昆虫などをさがしあてると、それも一口にぱくりとやりました。
さて、なかなかおなかもふくれてきたところであたりを見まわしてみますと、ついさきほどまで元気にぴょんぴょん走りまわっていた子グマのすがたが見当たりません。
「ぼうや、ぼうや、どこにいるの? そろそろ帰りますよ」
お母さんグマは大きな声で子グマをよんでみましたが、へんじはありません。
「ぼうや、ぼうや、はやくでてこないと、おいて帰りますからね」
すると、うしろのしげみからガサガサと音がして、ぴょこんと子グマがとびだしてきました。
「どこにいってたの? 心配するじゃないの。さあ、帰りましょう」
しかし子グマはなんだかもじもじしながら、お母さんグマに言いました。
「お母さん、むこうにね、へんないきものがいるよ。話しかけても、ずっとわあわあ泣いてるんだ」
お母さんグマは、「はて?」とおもいましたが、たしかによく耳をすましてみると、どこか遠くのほうで、だれかがわあわあ泣いているような声がきこえてきます。なんだか気になったお母さんグマは、子グマにあんないしてもらいながらその声のするほうに行きました。すると、うっそうとしげる木立のあいだに、白い布でくるまれたふしぎないきものが、たしかにそこにいました。
ぱっと見たところ、おさるさんの赤ちゃんかとおもいました。ですがそれにしては体の毛がすくないし、顔はつんつるてんとして、まんまるとしています。
お母さんグマはハッとしました。この赤ちゃんにとてもよく似たいきものに心当たりがあったからです。
「あら、これは人間の赤ちゃんだわ」
「にんげんって、なあに?」
子グマが目をまるくしてたずねました。
「そうねえ、にんげんっていうのは、森の外にたくさん暮らしている、とてもかしこい動物のことよ」
「ふうん、ぼくたちよりもかしこいの?」
「たぶんね」
しかしなぜ、こんな森の奥ふかくに、人間の赤ちゃんがいるのか、お母さんグマにはまったく見当がつきませんでした。
あたりをきょろきょろ見まわしてみましたが、ちかくにだれかがいるような気配はかんじられません。
「お母さん、どうしてこの子、こんなに泣いているんだろうねえ」
「そうねえ、たぶん、おなかがすいているのかもしれないわね」
「じゃあぼく、木の実をとってくるよ。この子、たべてくれるかな?」
「だめですよ。こんなちいさな赤ちゃんには、まだ木の実はたべられませんよ」
「ふうん、じゃあ、ぼくといっしょだ。この子にも、お乳をあげないといけないねえ」
「そうねえ……」
お母さんグマはこまってしまいました。もしかしたら、この赤ちゃんをさがしている人間が、まだこの森のどこかにいるのかもしれません。しかし、このまま赤ちゃんを置きざりにしてしまうと、ほかの動物におそわれてしまうおそれがあります。
そこでお母さんグマはちかくのしげみに身をかくして、しばらく様子を見ることにしました。もしだれかべつの人間が赤ちゃんを見つけてくれればそれでよし、ほかの動物におそわれそうになったら、すぐさまとびだして守ってあげることもできます。
お母さんグマは息をひそめてじっとしていました。ですが、まだちいさな子グマはなかなかじっとしていることができません。ガサガサと葉ずれの音がするたび、お母さんグマは「ぼうや、じっとしていなさい」と注意します。子グマは、なんだ、つまらない、といったようすでじっとしていました。
いくら待てども、人影はおろか、動物の一匹さえもちかくを通りませんでした。森の中は、赤ちゃんの泣く声だけがむなしくこだましています。
やがて、しとしとと雨がふりはじめました。
もうこれ以上ここにとどまっておくことはできないと、お母さんグマはおもいました。からだがぬれると、子グマも赤ちゃんもかぜをひいてしまうかもしれません。
お母さんグマはしげみの中から出てくると、赤ちゃんをくるんでいる布を口にくわえ、巣穴に帰ることにしました。
さて、巣穴にもどってきたのはよいのですが、これからどうしたものでしょう。赤ちゃんはあいかわらず泣きじゃくっていますし、子グマはおなかをすかして、お乳をのみたいとせがんできます。
しかたなく、お母さんグマはひとまず子グマにお乳をのませてあげることにしました。すると、お乳をのむ子グマのすがたを見た赤ちゃんがぴたりと泣きやみました。そして、そのようすをうらやましそうにみつめているではありませんか。
「お母さん、あの子にもお乳をあげようよ。ぼく、ちょっとだけがまんするよ」
「そうねえ、……でも、わたしのお乳をのんでくれるかしらねえ……」
お母さんグマは赤ちゃんを抱きよせると、お乳のちかくまで顔を近づけてみました。はじめはからだの毛がちくちくとして、ちょっといやそうなしぐさをしましたが、そのうち、ちゅぱちゅぱとお乳をのみはじめました。
「あら、よかった。これならもう安心ねえ」
おなかいっぱいになった赤ちゃんは、やがてウトウトして、そのままねむってしまいました。
すると、こんどは入れかわるように子グマがやってきてお乳をのみ、おなかがいっぱいになると、大きなあくびをして、赤ちゃんに寄りそってねむりました。
ようやくしずかな時間がおとずれました。ぐっすりとねむる幼いものたちの寝顔をながめながら、お母さんグマもしだいにウトウトしてきました。そして赤ちゃんと子グマをそっとうでのなかに抱き寄せると、お母さんグマもすやすやとねむりにつきました。
あくる朝、お母さんグマはふたたび巣穴の外に出て食べものをさがしに行きました。もちろん、子グマと赤ちゃんもいっしょにつれていきました。
お母さんグマが食べものをさがしているあいだ、赤ちゃんのめんどうは子グマがみていました。
子グマは赤ちゃんにハイハイのやり方や、これは食べられる木の実で、これは食べられない木の実、あのキノコはおいしそうだけど、食べたら口の中がヒリヒリするよ、といったことを教えていました。
子グマはすっかりお兄ちゃんになったような気分です。お母さんグマはそんな様子をほほえましく、ときにはすこしヒヤヒヤしながら見守っていました。
そんなとき、おなじく食べものをさがしにきていたキツネのおくさんとばったりはちあわせました。
「あらあら、ごきげんよう、クマのおくさま。すっかりあたたかくなりましたわねえ」
キツネのおくさんはていねいにあいさつをしました。
「ええ、そうですわねえ。いいお天気だこと」
キツネのおくさんはきょろきょろとあたりを見まわしました。
「おや、今日はかわいらしい子グマちゃんはいっしょではないのかしら?」
「むこうで元気にはしゃぎまわっていますのよ。あったかくなってきもちいいものだから、元気いっぱいでたいへんですわ」
「あらあら、おくさま、気をつけたほうがいいですわよ。ちかごろ、このあたりの森のなかを人間がうろついていたのを、ほかの動物たちが目撃したっていうじゃありませんか。ああ、おそろしい。人間って、とっても野蛮で、狂暴ないきものなんでしょう? このあいだも、イノシシの親子が、火をふく長い筒で、ズドンとやられたってききましたわ。おくさまたちも、あまりこのあたりをうろうろしないほうが賢明かもしれませんわよ」
それからしばらく世間話をしたあと、キツネのおくさんとクマのお母さんはわかれて、日がしずむ前にそれぞれの巣穴に帰っていきました。
夜、子どもたちが寝しずまったころ、お母さんグマはじっと考えごとをしていました。昼間、キツネのおくさんが言っていたことが、ずっとむねのおくに引っかかっていたのです。
(たしかに、あの子は人間の赤ちゃんだから、わたしたちとずっとここでいっしょにくらすわけにはいかない。でも、どうしたらいいのかしら……)
いちばんよい方法は、赤ちゃんを人間たちのすむところへもどしてあげることです。しかし、この山おくから人がすむ町までは、いくつもの山をこえていかねばならず、朝早く出発したとしても、たどり着くのはお昼をすこし過ぎたくらいになるでしょう。そのあいだ、まだちいさな子グマをひとりでここにのこしておくわけにはいきません。
かといって、お母さんグマに人間の赤ちゃんが育てられるでしょうか? 人間の赤ちゃんの育て方など、わかるはずがありません。
――では、どうすればいいのでしょう?
お母さんグマは一晩じゅうなやみました。そして、一睡もできないまま、夜が明けていきました。
つぎの日の朝、お母さんグマはとうとう決心しました。
(やっぱり人間の赤ちゃんは、人間たちのところにかえしてあげるのがいちばんだわ)
問題は、子グマをどうするかです。まだ小さいですし、ひとりでじっとおるすばんすることはできないでしょう。きっといっしょについていきたいと、だだをこねるはずです。しかし、人間たちのいるところまではかなりの距離を歩かなければなりませんし、外の世界は危険がいっぱいです。子グマをいっしょにつれていくことはできません。
いろいろと考えましたが、けっきょく子グマを巣穴にひとりのこして、お母さんグマだけで赤ちゃんをつれて人がすむ町をめざすことにしました。
「ぼうや、これからお母さんはちょっとお出かけをします。ぼうやはとってもいい子だから、ひとりでおるすばんできますね? けっして巣穴の外に出てはいけませんよ」
「いやだ、ぼくもいっしょに行くよう」
おもっていたとおり、子グマはわんわん泣きながらそう言いました。
「だめですよ。お外は危険がいっぱいなんです。ここでおるすばんしているのが、いちばん安全なんですよ」
「いやだいやだ! にんげんの赤ちゃんはいっしょにつれて行くのに、ぼくだけおるすばんなんていやだ! ぼくもいっしょに行くよう。ぜったいにぜったいにいっしょに行くよう!」
お母さんグマはなんとか子グマをなだめて説得しようとしましたが、子グマはなかなか言うことをきいてくれません。
しかたないので、子グマがおちつくまでしばらくようすをみることにしました。すると、子グマは泣きつかれてしまったのか、ウトウトしはじめると、コテンとねむってしまいました。
このままぐっすりねむっていてくれれば、おそらく夕方ちかくまで起きることはないでしょう。お母さんグマはこのあいだに、赤ちゃんをつれて人間たちがすむ町をめざして出発することにしました。
巣穴の外はすっきりと晴れわたり、まばゆい日差しが木の葉のあいだからふりそそいでいました。あつくもさむくもなく、快適な気温です。
森の中をずんずん歩いてゆくお母さんグマの調子も軽快でした。このぶんなら、思ったよりもはやく人間たちのすんでいるところに着くかもしれません。
と、そのとき、きのう出会ったキツネのおくさんに、またもやはちあわせました。
「あら、クマのおくさま、いそいでどこかにお出かけですか?」
「ええ、ちょっと……」
お母さんグマは口ごもりながらそう言いました。
「たいへんですわねえ……、あら、おくさま、口になにをくわえていらっしゃるの?」
キツネのおくさんが近づいてきて、白い布にくるまれた赤ちゃんを見ると、おくさんは「あっ!」と声を出して、「まあ! お、おくさま、これはいったい、どういうことですの?」と言いました。
お母さんグマは、しゃべりにくいので、口にくわえていた赤ちゃんをゆっくりと地面におろすと、わけを説明しました。
「どうりで、さいきん見なれない人間がうろうろしているとおもったら、そういうことでしたのね。わるいこと言わないわ、おくさま、そんな人間の赤ちゃんなんて、そのへんに捨てておしまいなさい。いまはまだ赤ちゃんだから、わたしたちに危害をくわえることはないでしょうけれど、いずれ大きくなれば、きっとわたしたちをおそうようになりますよ。ああ、考えただけでもおそろしい。いいですこと、さっさとそんな赤ちゃんは捨てておしまいなさい。ああ、おそろしい、おそろしい……」
それだけを口早に言って、キツネのおくさんはすたこらと去ってしまいました。
お母さんグマはしばらくその場にたたずんでいました。
――そうなのです。この子は赤ちゃんとはいえ、人間なのです。人間はとても頭がよくて、敵にまわすとおそろしいいきものです。この赤ちゃんも、大きくなれば森にすむ動物たちにとって危険な存在になるかもしれません。それなのに、わざわざこの子を人間のところまでとどけにいく必要があるのでしょうか? キツネのおくさんの言うとおり、赤ちゃんをこのあたりに捨てて、巣穴にもどったほうがいいのではないでしょうか?――そんな考えが、いっしゅんお母さんグマの頭にうかんだのです。
ですが、赤ちゃんはそんなお母さんグマのきもちなどおかまいなしに、あどけない顔で手をのばしながらキャッキャッとわらっています。
そのとき、かわいい子グマのことが頭にうかんできました。
――たしかに、この子は人間ですが、子グマとおなじ、まだ赤ちゃんです。だれかが守ってあげなければ、生きていくことができません。おなじ子どもを育てる母親として、このまま見捨てることなど、できるわけがありません。
お母さんグマは赤ちゃんをくるんでいる白い布を口でくわえると、ふたたび人のすむ町をめざして歩きだしました。
たびかさなる山の傾斜をこえていくと、なだらかな平地にたどり着きました。
川の水がながれる、すずやかな音がきこえてきます。
人のすむ町は、この川をこえたさらに先にあります。ながれはおだやかな川ですが、かなりの水深と川幅があります。ふだんならおよいで向こう岸まで行くところですが、今回は赤ちゃんを口にくわえているため、およぐことができません。
そこでお母さんグマは、どこかに対岸へとわたる橋がかかっていないかさがしました。ですが、どこにもそれらしいものは見当たりません。
すっかりこまりはててウロウロしていると、川辺で水浴びをしている一匹のビーバーにでくわしました。
「ビーバーさん、この川をわたりたいんだけど、なにかいい方法はないかしら?」
ビーバーはまるい目をきょろきょろさせながら答えます。
「およいでわたればいいじゃない、クマさん。およぎがとてもおじょうずでしょう?」
「それはそうなのだけれど……、わたし、この赤ちゃんを人間たちがすむところまでとどけてあげなくちゃいけないの。この子を口にくわえながらおよぐことはできないわ。おねがい、たすけてくれないかしら?」
ビーバーはお母さんグマが口にくわえている白い布にくるまれた赤ちゃんに目をやると、
「うわっ! にんげんだ! にんげんの赤ちゃんだ!」
とさけんで、あわてて逃げだそうとしました。
「だいじょうぶよ。この子はまだ赤ちゃんだから、あなたにかみついたりしないわ。それより、この川をわたって、人間たちがすむ町までいきたいの。なにかいい方法はないかしら?」
「そんなこといってもなぁ……にんげんの赤ちゃんをたすけるなんて、できっこないよ」
「そういわないで、なんとかおねがいできないかしら」
「そんなこといってもなぁ……」
ビーバーはモジモジして、なかなかはっきりと答えてくれません。
「あなたに小さな子どもはいないの? もしも自分のかわいい子どもたちがあぶない目にあっていたら、たすけてあげたいとおもうでしょう?」
「たしかに、おいらには八匹の小さな子どもがいるけど……でも、にんげんの赤ちゃんをたすけるのはなぁ……」
「人間だって、わたしたちと同じ動物のなかまよ。なかまなら、こまっているときは、たすけあうものでしょう?」
「わかったよう、わかったよう、ともだちをよんでくるから、まっててよう」
そう言うとビーバーは川のなかにとびこみ、およいでどこかへ行ってしましました。
お母さんグマはいなくなったビーバーをまっているあいだ、口にくわえていた赤ちゃんを下におろしました。すると、いままでおとなしくしていた赤ちゃんが急にぐずついて泣きだしてしまいました。おなかがすいたのかもしれないとおもったお母さんグマは、赤ちゃんにお乳をあげることにしました。そして、安心しながらお乳をのむ赤ちゃんを見ながら、こんなことを考えていました。
(こんなにかわいい子が、大きくなったらわたしたちにとって危険な、おそろしいいきものになるのかしら……)
お乳をのみ終えた赤ちゃんは、またすやすやとねむってしまいました。
しばらくして、ビーバーが五匹ほどなかまをつれてもどってきました。
「おいらたち相談したんだけど、この川をおよがずにわたるには、ひとつしか方法がないとおもうんだ」
「どんな方法?」
「まあまちなよ。いまからやってみせるから」
そういうとビーバーたちは岸辺にはえているいちばん大きくて高くのびている木の根もとまで走っていきました。そしてその木のまわりをかこむと、根もとの幹をそのするどいりっぱな前歯でガリガリとかじりはじめました。木の幹はみるみるうちに細くなり、やがてミシミシと音をたてながら、木はズシンとたおれてしまいました。するとどうでしょう、木はちょうどむかいがわの岸辺にとどくようにたおれ、お母さんグマがわたれる橋ができたではありませんか。
「ほら、これで川をわたれるよ。赤ちゃんをぶじ人間たちのところへかえしてあげられるといいねえ」
「ありがとう、ビーバーさんたち、ありがとう」
お母さんグマはなんどもお礼を言って、たおれた木の上をしんちょうにそろりそろりとわたりました。
さあ、川をわたれば、人間たちがすむ町まであとすこしです。
川辺をはなれ、ふたたびうっそうと草木が生いしげる森のなかを歩いていたとき、ふとお母さんグマの足が止まりました。
お母さんグマの敏感な鼻が、みょうなにおいを嗅ぎとったからです。なんともいえない生ぐさい、大きな動物が通ったあとのにおいでした。
地面を見てみると、その動物の足あととおもわれるものが、いたるところで見つかりました。お母さんグマはその足あとを見ただけで、その動物がなにかわかりました。そうです、お母さんグマとおなじ、クマの足あとにまちがいありませんでした。足あとの大きさからみて、おそらくオスのクマだとおもわれます。
この時期、こんな人里ちかい山のふもとをうろついているオスのクマは、よほどおなかをすかせている若いクマか、畑や民家からたべものをぬすんだりする、手ぐせのわるいクマでしょう。
なんにせよ、ここでオスのクマと出会うのはさけたいところでした。ところが、そんなときにかぎって、不安が現実になったりするものです。
しげみのおくから、大きなオスのクマがこちらにむかってのっしのっしとやってくるのが見えました。
「おい、そこのおまえ、どこへいくつもりだ。このへんは人間どもがたくさんうろついている。さっさと森のおくへかえれ」
大きなオスのクマは低くうなるような声でそう言いました。
「わたしはどうしても人間たちのすむところへ、この赤ちゃんをとどけなくてはなりません。おねがいですからここを通してください」
「なに? 赤んぼうだと?」
オスのクマは、お母さんグマが口にくわえている人間の赤ちゃんをみると、おどろいてこう言いました。
「どうしてこんなところに人間の赤ちゃんがいる? おまえがぬすんだのか?」
「ぬすんでなんかいません。この子は、森のなかで泣いているところを見つけて、わたしがしばらくめんどうをみていたのです」
「そんなばかな。人間の赤んぼうが、森のなかにいるわけがない」
「でも、ほんとうなんです。だけどこの子は、森のなかでくらしていくわけにはいきません。人間たちのところにかえしてあげるのが、いちばんいいんです」
「だめだだめだ。人間の赤んぼうを口にくわえて人間たちのすむところへいってみろ。おっかない武器で殺されてしまうのがおちだ。その赤ちゃんはおいていけ。おれがめんどうをみてやる」
なんと言われようと、お母さんグマは引き下がるつもりはありませんでした。おなかをすかせたオスのクマにこの赤ちゃんをわたすなんて、そんなあぶないこと、できるわけがありません。
「この子をあなたにわたすつもりはありません。この子は、わたしがかならず人間たちのところへかえします」
「ならん、ならん。その赤んぼうをおれにわたせ、わたせ」
オスのクマはいまにもおそいかかろうとせんばかりに近よってきました。お母さんグマもおもわず身構えてあとずさりします。
お母さんグマは、クマのなかでもからだが大きいほうですが、あいてのオスのクマはそれよりもまだ大きく、力もつよいのです。取っ組み合いになれば、勝ち目がないことはわかっています。それでもお母さんグマは、赤ちゃんを手放すつもりはありませんでした。
と、そのとき、オスグマのようすがかわりました。耳をそばだて、鼻をくんくんとさせ、あたりをきょろきょろと見まわしています。そして、なにかの気配を察知すると、あわててどこかへ行ってしまいました。
お母さんグマも警戒して、あたりに注意をはらっていると、遠くでだれかがぼそぼそと話す声と、自動車が走るエンジンの音がきこえてきました。おそらく、この近くを人間が通りかかったのでしょう。オスのクマもそれに気がついて、いそいで逃げていったのだと思われます。
なにはともあれ、お母さんグマはほっと一息つきました。オスのクマがもどってこないうちに、この場からはなれたほうがよいでしょう。しかし、このあたりをうろついている人間たちに見つかってしまうわけにもいきませんから、お母さんグマはしんちょうにそろりそろりと歩きながら、森のなかを進んでいきました。
やがて、人間たちのすむ町が見えてきました。
お母さんグマは町にくるのははじめてです。赤ちゃんを人間たちのところにかえすにしても、そのためにどこへむかえばよいのか、さっぱりわかりませんでした。
しかたなく、お母さんグマは町はずれの閑散とした住宅地にある、一軒の家をめざして歩きだしました。
すると、その家の中から一人のおばあちゃんが出てきて、クマのすがたを見るなり腰をぬかしてたおれ、さけびながら逃げていきました。びっくりしたのはお母さんグマもいっしょです。とびはねてその場から走り去っていきました。
ところが、逃げまわったさきざきで人間たちに遭遇してしまい、あっちで悲鳴、こっちでも悲鳴、散歩をしていたおじいさんはおどろいたあまり、入れ歯が口からとびだしてしまい、道ばたで談笑していた主婦たちは悲鳴をあげて家のなかにとびこみ、近所であそんでいたちいさな子どもたちは、はじめて見るクマにはしゃいでいましたが、それに気がついた保護者たちがあわてて子どもをつかまえ、脱兎のごとくどこかへ行ってしまいました。
そして、さわぎはどんどん大きくなり、とうとう町のなかにクマが出たという通報をうけた警察官が、パトカーにのってやってきました。
お母さんグマはさんざん逃げまわったあげく、とうとう逃げ場のない行き止まりに入ってしまいました。そのあとを三台のパトカーがやってきて、少し距離をおいたところに車をとめると、警察官たちがぞろぞろと出てきました。
「ようやく追いつめたぞ。それにしてもでかいクマだ」
年配の警察官がそう言いました。
「この町でいちばん腕がたつ猟師の方に連絡しました。到着するまでもう少し時間がかかるそうです。あとは専門家にまかせましょう」
「うむ……、いや、ちょっとまて。あのクマ、口になにかくわえているぞ」
警察官たちは、お母さんグマが口にくわえている白い布にくるまれた赤ちゃんに気がつきました。
「おい、あのクマ、人間の赤ちゃんを口にくわえているぞ!」
現場はいっしゅんにして緊迫した空気につつまれました。
「まずいな。これでは、うかつに手を出すことはできん」
「どうにかしてあの赤ちゃんをクマから引きはなさないと……」
とはいえ、お母さんグマはすっかりおびえて落ちつきがありません。警察官たちも、おそわれることを警戒してクマに近づくことができません。
こうしてお母さんグマと警察官たちは、おたがい身動きがとれないまま、時間だけが過ぎていきました。
やがて、警察官から連絡をうけてかけつけてきた猟師がやってきました。練達の老猟師は、クマを一目見ただけで、このクマはメスのクマで、出産を終えたばかりの母グマだということを見抜きました。
その話をきいて、警察官たちのなかでいちばん若い女性警察官が、猟師にたずねました。
「出産を終えたお母さんグマが、人間の赤ちゃんに危害をくわえることはあるのでしょうか?」
猟師は少しことばをにごして、こう答えました。
「うん、まあしかし、出産を終えたばかりの母グマは気が立っていることもある。それに、むりやりあの赤んぼうを引きはなそうとすると、母性本能がはたらいてあばれるかもしれん。ここはやはり、赤んぼうにはじゅうぶん気をくばって、麻酔銃でひとまずおとなしくさせるしかあるまい」
警察官たちは、この老猟師の判断と腕前にすべてをゆだねることにしました。
猟師が麻酔銃に弾をこめ、ねらいをさだめようとした、そのときでした。
「おかあさん、おかあさん!」
いままでどこにかくれていたのか、警察官たちの背後から、ちいさなクマがとびだしてきたのです。
「ぼうや、どうしてここに!」
警察官や猟師がびっくりしたのはもちろんですが、お母さんグマのおどろきはそんなものではありませんでした。
お母さんグマが巣穴を出発してまもなく、子グマは目をさましました。はじめから、ねむったふりをしていたのです。そして、お母さんグマのうしろをこっそりとついてきていたのでした。もし見つかってしまったら、おこられて巣穴までつれもどされるのはわかっていましたから、息をひそめてついていくのはとてもくろうしました。それに、ここまでずいぶんと長い距離を歩いてきたため、子グマはもうつかれてクタクタだったのです。
ですが、いま目の前でお母さんグマに危険がせまっていることを感じとった子グマは、がまんできずにとびだしてきたのでした。
お母さんグマは子グマをかばうようにからだをすりよせて、覚悟をきめました。じぶんはどうなっても、子グマだけは守ろうとしたのです。
そのとき、さきほど猟師と話し合っていた女性警察官が、同僚の警察官たちの制止もきかず、お母さんグマのほうにむかって歩いていきました。そして、女性警察官はお母さんグマのちかくでかがみこむと、やさしく話しかけました。
「あなた、とってもやさしいお母さんだったのね。ひょっとして、その赤ちゃんをだれかにあずけるために、ここまでやってきたのかしら? もしそうなら、もうあんしんしていいわ。その赤ちゃんはわたしたちがあずかります。あなたたちは森におかえりなさい」
はたして、そのことばがお母さんグマにちゃんと通じたのか、はっきりしたことはわかりません。ですが、お母さんグマは口にくわえていた赤ちゃんをそっと下におろすと、一歩、二歩と、うしろにさがったのでした。
女性警察官は赤ちゃんをかかえあげると、やさしくあやしてあげながら、なかまの警察官たちのところまでもどってきました。そして、みんなで相談をしているようでした。
猟師はかまえていた猟銃をおろして、弾をぬきとりました。警察官たちもしばらく話し合ったすえ、たがいにうなずきあうと、なにごともなかったかのようにパトカーにのりこみ、その場から去っていきました。
お母さんグマはからだがすくんで、しばらく動くことができませんでしたが、人間たちがみんないなくなってしまうと、ようやくあんしんして、
「さあ、ぼうや、わたしたちも森にかえりましょう」と言いました。
そのまえに、お母さんグマはかってについてきた子グマをしかってやろうとおもいましたが、やっぱりやめました。だってそうでしょう? あのとき子グマがとびだしてこなければ、お母さんグマは銃でうたれていたのかもしれないのですから。
「ねえねえ、あの子、どこへいったの?」
「あの子は、人間たちのところへかえっていったのよ。それが、あの子のために、いちばんいいことなの」
「ふうん」子グマはすこしざんねんそうにしました。「ぼく、あの子ともっとなかよくなりたかったな。おしえてあげたいことも、たくさんあったのに」
「ええ、そうね」
お母さんグマは子グマの顔に鼻をすりつけながら言いました。
「ねえ、おかあさん、あの子、しあわせになれるかなあ?」
「そうねえ、しあわせになれるといいわねえ」
お母さんグマはそう答えると、クマの親子は森へとかえっていきました。
――それから時はながれて……
「リトルベア―、じゅんびはできたかい?」
快活な男の人の声が、へやのなかにひびきわたりました。
「うん、できたよ。さあ、はやく行こうよ」
リトルベア―とよばれた少年が、ばたばたと走りまわりながら、元気いっぱいにそう答えました。
このリトルベア―というのは、もちろんこの少年のほんとうの名前ではありません。ほんとうの名前はマックスというのですが、少年となかのいい人たちは、みんな彼のことを「リトルベア―」とよんでいたのでした。
その理由はたんじゅんでした。八年前、町のなかに大きなクマが出没して、そのクマが口にくわえていた白い布にくるまれた赤ちゃんが、この少年だったからです。
この話はあまりにも有名で、当時は新聞にものりましたし、テレビのニュースでも報じられたりして、少年はこの町ではちょっとした有名人でした。
あのとき、クマにくわえられていた赤ちゃんは警察署で保護され、身元がしらべられましたが、親はいったいどこのだれなのか、名乗り出てくる人は一人もおらず、まるで見当がつきませんでした。
おそらく、あの赤ちゃんは無責任な親が森のなかにおきざりにして、それをクマがぐうぜん見つけ、人間たちのすむところまでとどけにきたにちがいない――なんだかちょっとありえないような話ですが、多くの人たちは、きっとそうだと信じていました。
身元不明の赤ちゃんは、しかたなく養護施設にあずけられることになりました。ところが、そのとき、赤ちゃんを引き取って養子にしたいと申し出た人がいました。
それは、クマから赤ちゃんをゆずりうけた女性警察官でした。
彼女はその後、学生時代の同級生と結婚し、警察官を退職しました。そして、夫婦で協力して、引き取った赤ちゃんをそだてることにしたのです。
そして今年、リトルベア―少年は八歳になりました。
少年はいそいで自動車の後部座席にのりこむと、運転席で自動車のキーをさがしているお父さんにむかって、せかすように言いました。
「ねえ、まだ? いそがないと、遅れちゃうよ」
お父さんはわらいながら答えます。
「だいじょうぶ。赤ちゃんは逃げたりかくれたりしないよ」
そうです。今日、リトルベア―少年はお兄ちゃんになるのです。
いっこくもはやく赤ちゃんに会いたいと、この日を心待ちにしていたのでした。
「おっと、ようやくクルマのキーがみつかったぞ。さあ、病院にいそがないと。ひょっとしたら、もう赤ちゃんがうまれちゃってるかもしれない」
「ちぇっ、お父さんがのんびりしているからだよ」
「ごめんごめん、さあ、出発しよう」
お母さんが入院している病院まで、自動車で二十分という距離でした。そのあいだ、リトルベア―少年は赤ちゃんのことばかり考えていました。
少年は、じぶんが赤ちゃんのころ森のなかにおきざりにされ、クマにひろわれたことも、じぶんの両親が、じつはほんとうの親ではないことも、ぜんぶきかされて知っていました。
ですが、そのことが少年の性格にわるい影響をおよぼしたことは、ひとつもありませんでした。少年はありとあらゆる動物がだいすきでしたし、じぶんをそだててくれた両親のことも、だいすきでした。
でも、少年はふと考えることがあるのです。――森のなかにおきざりされていたじぶんをひろってくれたクマは、なぜ、たすけてくれたのだろう――その理由が、今日、赤ちゃんに会うことでわかるような気がしたのです。
病院につくと、少年とお父さんはまっさきにお母さんがいるへやにむかいました。
すでに赤ちゃんはぶじうまれていて、母子ともに健康だということでした。少年とお父さんはそれをきいて、ひとまずほっとむねをなでおろしました。
へやのなかに入ると、すぐに少年は赤ちゃんのすがたをさがしましたが、どこにも赤ちゃんはいませんでした。
するとお父さんが、
「うまれたばかりの赤ちゃんは、ちがうへやでしばらくようすをみてもらっているんだよ」と言いました。
「ぼく、はやく赤ちゃんに会いたいのに……」
お父さんとお母さんは顔を見合わせてわらいました。
「よし、それじゃあ、お父さんといっしょに、赤ちゃんに会いに行こうか」
そう言うと、お父さんと少年はお母さんに手をふって、赤ちゃんがいるへやへとむかいました。
そこには、ガラスごしにたくさんの赤ちゃんが、あたたかいふとんにくるまれて、しずかにねむっていました。
「うーん、いったいどの子が、ぼくたちの赤ちゃんなんだろうねえ」
お父さんがこまったように言いました。
たしかに、うまれたばかりの赤ちゃんは、どの子もおなじくらいの大きさで、顔もすこし似ています。
「あっ、あの子だ。きっとあの子だよ、お父さん」
少年がとびはねながらゆびをさして言いました。
「へえ、どうしてわかるの?」
「わかるよ。だってぼく、お兄ちゃんだもの」
二人はその赤ちゃんがもっとよく見えるところまで行きました。すると、その赤ちゃんのそばに名札がかかっていて、その名札に書かれてある名前は、たしかにじぶんたちとおなじ名字でした。
「女の子なんだね」
お父さんがそう言いました。
「うん、とってもかわいいね」
少年もそう返事をします。
「ぼくが赤ちゃんのときも、こんな感じだったのかな?」
少年がそうたずねると、お父さんはやさしくわらいながら答えました。
「お母さんは、はじめてきみをみたとき、『まるで天使みたいだった』って言ってたよ。きっと、きみをひろって、ぼくたちのところまでつれてきてくれたクマも、おなじことをおもったんじゃないかな」
「ぼく、いいお兄ちゃんになれるようにがんばるよ。赤ちゃんは、きっとぼくが守るよ」
そのとき、ねむっていた赤ちゃんがすこしだけ動いて、うっすらと目があいたように見えました。
そして、赤ちゃんは少年とお父さんにむかって、ゆっくりと手をさしのべるようなしぐさをしました。
(おわり)