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【考察】水星の魔女、精神現象学を描こうとしている?18話まで見た所感

まず初めに、私は哲学者じゃないし、5月に放送されていたNHKの100分de名著の解説を見ただけで、本当に全然、原典を参照したわけでもないのですが、ヘーゲルの記した「精神現象学」のエッセンスが使われていて、18話からはこれを明確に主題として持ってきているのではないか?と感じたので、記していきたいと思います。

初めに精神現象学とはなんぞやってところなんですが、ドイツ出身の哲学者ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770-1831)が1807年に刊行した哲学書です。背景として、これが記された時代はフランス革命やナポレオンの台頭が起きた混迷と人々の分断が起きた時代で、ヘーゲルはこの分断を乗り越える思想として精神現象学をおこしました。つまり、それまでの絶対的で伝統的な価値観が破壊され、人々が自由を手に入れるとともに、思想の対立と分断、それによる殺し合いが起きた世界を、解決する手引書ですね。

そして水星の魔女の世界も、分断や思想の対立が大きな問題として立ちふさがり、主人公をはじめとした数々のキャラクターがその解決のために奔走しています。この対立構造も、精神現象学の弁証法によく似ていて、キャラクターの関係や課題についても、精神現象学を読むと、問題の発生とその解決のプロセスが似ているのではないかと。

ただ重ねて申し上げますが、私は哲学者でもないし哲学を深く勉強したこともないし、ソースは100分de名著だけですし(原点は哲学書の中でも難しいと言われていますし、他の解説本を調べる時間もなく…)これを解説した東京大学准教授斎藤幸平さんの思考がかなり影響を及ぼしているでしょうから、調査は本当に不足していて、一個人の思考の域を出ることのないものであることは、あらかじめご了承ください。あと解説本を読んだ上でさらに私なりにかみ砕いて説明している(そうじゃないとすごく長いので…)ので、そういう見方もあるのね~程度で…

では、どうぞ。

※2023/6/4追記 スレッタとラウダが手を取り合うどころか接触すらしていませんでしたね!ご破算!

弁証法の世界、AとBの無限の対立


水星の魔女世界は、実際はもちろんもっと細かいでしょうが、大きく二つの対立、という対立構造が数多くあります。

アーシアンとスペーシアン
子供と親
Gund-armとその他のMS(メーカー)
穏健派と武闘派

弁証法もこういった大きくAとBの思想の対立が起き、それらを統合したCという新しい思想が生まれることを、弁証法的な運動としています。大事なのは、Cという新しい思想が生まれ、AとBそれぞれが納得してCという新しい思想を共有することですが、重要なのはAとBどちらにも「矛盾」がある、一面ではどちらも正しく一面ではどちらも正しくない、という点です。

例えばアド・ステラ世界において最大の対立であるアーシアンとスペーシアンですが、アーシアンにとってスペーシアンは絶対的な悪で、それを倒すことを正義としていて、スペーシアンはアーシアンを劣等種族と蔑み、彼らを弾圧して蹂躙して当然と思っています。

被差別階級であり、主人公の味方が地球寮というアーシアン側なので、その主張は正しいような気もしますが、しかし間違ってもいるはずです。

作中でもそれが表されていて、それを体現したのがチュチュです。

チュチュはラウダたちというスペーシアンからの感謝を受けて、地球と宇宙の架け橋になりたいと夢見て行動をしていたニカの気持ちが少しわかったと言っています。
チュチュはアーシアンの過激派の代表のようなキャラクターで、「スペーシアン」というだけでその人間性のすべてを否定し、自分たちを差別する絶対的な敵だと認識し、それを排除することに全力を傾けてきました。

しかし、そんな敵であり自分たちを差別することしかしないはずのスペーシアンから、感謝という正のフィードバックを受けた。きっかけはチュチュが彼らの命を救ったことなので、感謝は受けて当然のものですが、しかしそんな背景なのでチュチュは感謝されることはないどころか、憎まれ口すら叩かれるんじゃないかと思っていたと思います。ところが、ふたを開けてみれば、彼らはちゃんと自分たちが助けられたということを認識して、地球寮のではなくチュアチュリー・パンランチという個人名を出して、感謝の意を示してくれた。そこでチュチュは、アーシアンだからと対話も感謝もやめることなく、ちゃんと見ることができるスペーシアンもいる。最初からわかり合ったり言葉を交わすことをやめてしまうのは間違っているのだ、という自分の思想の変化を起こした。

これがまさに弁証法で、ラウダたちがお前はスペーシアンだから、というのは言いませんでしたが、チュチュの中ではスペーシアンは絶対的に自分たちを差別している、というスペーシアン側の思想Aが常に頭にあり、それに反対するアーシアン側の思想Bを絶対的な正義だとしていた。その正義が間違っていて、新しく「対話をしてみよう」という思想Cを生み出し、それに従って行動を起こした。

この弁証法で生み出される思想というのは妥協点とかではなく、まず自分の思想が間違っているのだ、という気づきから生まれる、つまり自己否定という痛みが必ず伴われるものである、とヘーゲルはしているので、チュチュにとって最初のその気付きは恐らく4話でスレッタとミオリネを受け入れる段階で、それを自覚的に受け入れたのが今回の18話であるのかなと思います。

ただ完全にAとBを捨て去るのではなく、良いところは残し、悪かった部分を捨てて、良い部分同士をくっつけて生み出されるのがCなので、チュチュがアーシアンパンチを捨て去った。ということではないと思います。ガム吐き捨ててくる女の子たちには普通に怒っていいですからね。

今回はもっとミクロ的な問題。スペーシアンの中には話の分かる奴らもいる。ぐらいのものではあるでしょう。

ただこの思想の転換というのが、この世界はほとんどできていない。

特に親子間がわかりやすいですが、ミオリネやグエルから見て、デリングとヴィムはわかりやすい毒になる親で、愛情を自分たちに持っていないんだろうと子供たちに思わせるようなダメダメな親なんですが、一方で彼らは確かな愛情を持って子供たちを守ろうと努力していた。そしてミオリネやグエルもまた、ダメなところもあった。絶対的な正義ではないAとBであった。

結果として、デリングとミオリネはわかり合えたもののデリングは意識不明の状態で混迷の中娘を放り出す結果となり、ヴィムとグエルは最後の最期で愛を伝え合えたものの息子の手でヴィムを殺害させてしまうという最悪の結果を招き、Cという新しい関係を築くことができなくなってしまいます。デリングはまだチャンスがありますが、プロスペラの復讐が何かもわからないし…

スレッタとプロスペラも、AI判定を信じるペイルとエランも、サリウスとシャディクはサリウス側の意識は私は愛があると思うんですがまだはっきりとはしていませんので保留としても、恐らく矛盾するAとBの関係で、新しい関係Cがまだ構築されていないどころか、スレッタとプロスペラ以外はまだ弁証法的な運動も起きていないんでしょう。そしてそれは、世界全体がそうです。

アーシアンとスペーシアン
子供と親
Gund-armとその他のMS(とそのメーカー)
穏健派と武闘派

互いが互いを正義だと信じ込み、相手を悪だと信じ込み、それに疑問を抱かないすべてが分断された世界。それが18話までのアド・ステラ世界です。

主(ミオリネとグエル)と従者(スレッタとラウダ)


精神現象学の中では、「主人と奴隷」という概念が登場します。

まず動物ですが、彼らは我慢するという概念はありません。そこに食べ物があれば食べられるだけ食べようとしますし、それが自分の好物で、食べすぎたら危険だとしても食べます。

しかし人間は「食べ過ぎるといけないから大盛りは我慢しよう」とか「今は仕事中だから休憩時間まで我慢しよう」というように、欲望から自覚的に遠ざかることができます。そして遠ざかることができるのは、欲望を反省しなりたい「私」になろうとする自己意識があるから。としています。

そしてこの自己意識を獲得した人間は、それを現実に証明したいと考えます。私はこのような人間である。という表明ですね。

私たちは世界のルールという名の他人の目だったりで、「私」を本当に表現することはできません。それをするためには世界、他人を変える必要があり、他人もまた「私」を持っていたら、どちらも変えようとしてくるので、それは命を賭した闘争となります。勝者は正しく、敗者は正しくない。

ただし、敗者は敗者でも死んでしまったら勝者である自分が正しいということもまた証明ができなくなってしまう。なので勝者は敗者を生かし、奴隷として支配します。敗者もまた、死んでしまえば何もなくなってしまうので、勝者の奴隷として支配されることを受け入れる。

これは概念的な思考実験ですが、現実として「成功者」と「そのケアをする人」、日本風に言うと縁の下の力持ちがこの関係性になります。

そしてこの関係性は絶対のように思えますが、実際問題「成功者」は果たして何ができるのか?

彼らは成功者ではありますが、ケアをする人に自分のフォローや、あるいは食事の支度などを任せていたら、そのケアをする人がいなくなったら、途端に瓦解する存在です。

代わりにケアをする人は、華々しい活躍をする裏の地道な仕事の実績があり、身の回りを円滑に回す能力もある。つまり成功者がいなくても、一人で生きていけるだけの力が備わっている。

ここでまた弁証法が起こります。

ピントがズレるので成功者を主人、ケアをする人を奴隷として再び呼称しますが、主人は次第に自分が何も備わっていない奴隷がいなければこうして生きることができない存在であることに気づきます。奴隷は自分は一人で生きる能力があり、主人は自分がいなければ生きていけないことを知ります。

つまり主人は奴隷に依存した存在であり、逆に奴隷は主人がいなくとも生きていける自立した存在である、と主人と奴隷の立場が逆転します。

じゃあ奴隷が主人を今度は奴隷にしたり、そういう運動が起こるかというと、そういうわけにもいきません。

現代社会においても、雇用契約だったり雇用者は雇用者で全く別のスキルが必要で、主人と奴隷にはそれぞれの役割があります。なので必要なのは完全な逆転ではなく、主人と奴隷という立場の非対称をできる限り解決することです。

「問題は、主人と奴隷のあいだに成立している関係の「非対称性」です。奴隷は主人の自律性や絶対性を承認していますが、主人は(自分が非自立的な存在だったと絶望はしても)奴隷の自律性を承認しているわけではありません。このような関係が続く限り、どちらも「自立した自由な存在」にはなれません。」(100分de名著ヘーゲル精神現象学 斎藤幸平著 P42より引用)

というわけで、長々ながと主人と奴隷について解説してきましたが、これよりもマイルドですがこれと似た関係性が本編であります。

それがミオリネとスレッタ、グエルとラウダです。

主人と奴隷と言うと、そこまで絶対的なものではないので、主(ミオリネとグエル)と従者(スレッタとラウダ)としましょう。

この主と従者は、主側は「自分についてこい」「自分に従え」という自己意識を持ち、従者はそんな主に望んで付き従っている状態です。

ミオリネとスレッタの関係は、最初は契約から始まりましたが、その契約自体がミオリネを助けたことから始まったスレッタ側の不利益で、ミオリネがスレッタを助けるためではあったものの勝手に決闘を取り付けたり、自分の花婿としてスレッタを認めて、シャディク戦ではまさにスレッタに断ることなくシャディクとの決闘を取りつけます。スレッタもそんなミオリネを受け入れ、支えることを自分の目標とするようになり、彼女の花婿としての誇りを持ちます。
この二人の関係性は、主=花嫁、従者=花婿、という役割です。

グエルとラウダは、最初から兄弟という主と従者の役割を担って生まれてきた存在でもあり、グエルはドミニコスのエースパイロットという夢を掲げて、そのサポートをラウダに任せていて、ラウダの忠告を聞かなかったり少々傲慢なところが見えるので、まさに主として振る舞っている。ラウダもそれを受け入れて、生まれた時からの役割である兄を支えることを誇りにして、人生の大部分を彼に捧げています。
この二人の関係性は、主=兄、従者=弟、という役割です。

主と従者の関係性は、弁証法によって暴かれなければ、その立場が逆転することはありません。

しかし、ミオリネもグエルも強制的に自分たちが何も持っていないのだということを突き付けられてしまった。そして、自分たちの従者はそんな自分たちに変わらず主を求めてしまっていることを。

それが第一期の最終12話、そして再会してからの対話です。

グエルは言わずもがな、父親を殺害してしまったことで、誇りであったモビルスーツの操縦技術ですら意味のないものとなってしまった。

ミオリネは人間を叩き殺したスレッタを拒絶してしまい、総裁である父親が意識不明になると、表舞台に出ることも容易ではなくなった。プロスペラからは父親の意思を継ぐことを要求された、彼女の価値は彼女自身ではなく父親が残している総裁の娘という威光です。(ラジャンがいるだけマシかもしれませんが)

このことは二人にとって深い悔恨となって苦しめます。ミオリネはスレッタに「ごめんなさい」とすぐに謝ったり助けられたことのお礼を言えないで拒絶してしまったことを。グエルはラウダから父親を奪って、そして一人で頑張らせてしまっていたことを。

そして再会して、ミオリネはスレッタに謝罪をするとともに、彼女が根っからの従者気質であることに気づいた。しかし同時に、彼女は従者としての縛りを持つと共に、彼女自身の願いや欲望、中身を持っていることにも気づいた。

ミオリネの価値は父親の残した価値。スレッタの価値はスレッタの中身の価値。張りぼての価値で中身は空虚なミオリネと、見た目には価値がなくても中身に価値があるスレッタ。主であるミオリネと従者であるスレッタとで立場が逆転した。

グエルの場合は、父親を殺したことで彼の価値はすべてが無価値へと反転した。そしてそんな中で父親からも責任からも逃げずに立ち向かって、会社や仲間を守っているラウダの価値が相対的にも事実としてもグエルを上回っている。告白に対しての返事に主従の逆転を見たミオリネに対し、最初からグエルはラウダと主従が逆転した状態で再会した。

だけれどもグエルがCEOという立場になっているので、再び主の立場に返り咲いているようにも見えますが、どちらかと言うとグエルは肉の盾になるためにCEOとなっただけで、ラウダが今いるジェタークの主の座を取ってしまうつもりはないのではないか。

要するに、グエルは肩書だけは主となり、実質的な主はラウダとして従者の立場になるつもりだった。つまり、会社経営についてはラウダの指示通りに行い、もし何か問題が起こったり、今ラウダがやられているように矢面に立って攻撃される役割を引き継ぎ、ラウダとジェターク社を守るつもりだった。

これは「俺たちでなんとかしないと」という、ラウダと二人でジェターク社を守る、というグエルの発言と一致します。

ただ、これが崩れてしまった。なぜならグエルはミオリネをビジネスパートナーとして選び、ラウダは学園に残しているので、このプランを諦めている。

それはなぜかと言えば、ラウダが従者となる宣言をしたからです。

「僕はこれからも兄さんを支えるよ。初めて会った時にも言ったろ」

この二人にとって、兄=主の図式であり、支えるというのは主に仕える従者の役割です。「今まで悪かった」「どうして謝るのさ?」というラウダの問いに、「兄らしいこと、何もできていなかった」と答えて、その返答としてラウダは上記のことを答えます。

兄らしいこと=主らしいこと、というように読み解くと、主としての不甲斐なさをグエルは一番ラウダに謝罪したかったし、悪かったと思っていた。それに対してのラウダの返答は、主としてグエルが失格であろうとも従者であり続ける。というものになります。

私としてはこの宣言は「兄らしいことができていなかったから、これからは兄として頑張る」という意味なのかなと思っていましたが、主従論に当てはめると、グエルとしてはラウダに鼻で笑って欲しかった、「ほんとだよ」と責めて欲しかったのかもしれないな、と思います。

主として不甲斐ない自分を認め、これからは見せかけの主として、主体性のあるラウダを真の主としてジェターク社を立て直していくつもりだった。ところがラウダの返答は、子供の頃とずっと一緒の純真さで、グエルを正真正銘の主として仰いでいく。これからも、ずっと。という宣言だった。

ほほ笑むラウダに対してグエルはうつむき気味で、「行ってくる」という声の真摯さとは裏腹に寂しそうな、諦めたような顔をしていたのは、まぁそりゃそうなんですよね。

ヘーゲルは逆転現象の起きた主人と奴隷は、奴隷が自立していて主人は自立していない状態にあるとしています。つまり主人は奴隷がいなければ生きていけない、奴隷に依存している存在で、奴隷は主人に依存していない自分で生きられる存在です。

ところがラウダは、未だに自分は「従者であり自立していない」と定義している。本当は自立した存在であるのに。

そうなってしまうと、グエルの選択としては、それがラウダの選択として再び主体性のない従者として受け入れるか、それともいっそ自立している存在であるラウダの生きる力を、いずれ自分の方が自立していてグエルの存在は必須ではないのだと気づくことを信じて、手放すか。そしてグエルは後者を選んだのだと思います。

それがミオリネに対するグエルの態度にも表れていて、彼はミオリネをラウダに代わる新たな自分の主としていて、だから彼女に会社の今後を相談するし決定に強く反対しない。できない。自立していない自分より、自立している彼女の方が正しいから。

ミオリネはミオリネで、スレッタを手放しました。それは彼女を信じたと言うより、自分やプロスペラよりも良い主を見つけてくれることを願ったから、なのではないかなと。スレッタは最後の最後までミオリネを求めているし、彼女は誰かを主として行動倫理を決めていく、主に依存してしまうタイプの従者なので、主を求められるのは恐らくやめられない。でも、地球寮にはマルタンたちもいるので、誰かを自分たちの代わりに主としたのなら、きっとスレッタはその主のよき従者として生きられる。

グエルはラウダを従者という立場からの解放を願って手放し、ミオリネは自分がスレッタの主として不適だから手放したと、この二人はやった結果は同じでも内容は違いそうですね。

だから何だよ、とラウダもスレッタも思ってるわけですが。

主人と奴隷が、どちらも自立して自由な存在となるためにどうすればいいか、ヘーゲルは三つの条件を上げています。

1.主人も奴隷も同じやり方で相互承認をして、対称的な関係にする。
2.それはそれとして相手の自立性も一定程度否定し、好き勝手に振る舞うようにはさせない。
3.ただし否定しすぎてしまわないように、自分の自立性も同時に自己否定する。

今のところは、3は四人ともできていますが、まずクリアすべき1がスレッタとラウダはできていなくて、2はミオリネができていますがやり過ぎてしまいあとの三人はでてきていない。

総じて自己否定しすぎ、という感じですね。ただ主と従者の関係がいったん解消されたことにより、ラウダとスレッタの中で強制的に主従の逆転や矛盾に向き合わなければならない展開はきているのだと思います。

自立と矛盾に怯える従者たち


ラウダもスレッタも自分のことを「何も持っていない」空っぽであると定義していますが、本編描写中でもそんなことはない。

スレッタにはもちろん地球寮の仲間がいて、水星で培った操縦技術があって、やりたいことリストも持っている。何より母親に言われてもすぐには従わなかった人殺しをはじめとした倫理規範はすでに持っている。

ラウダも、グエルがいなくてもジェターク社もジェターク寮も守るだけの能力は備わっていて、グエルとは違う絆を後輩たちと築いて、ジェターク社に害をなすテロリストがまだ捕まっていないと聞けば自分事のように憤る愛社精神も持ち合わせている。

けれどもスレッタは気づいていないで、ラウダは薄々気づいているけれど認められないでいる。

今回ラウダが明確にグエルと違い何も持っていないことにコンプレックスを持っている、実は愛人の子という自分が家族の中で特異な存在であることにかなり引け目を感じ、それを重荷に生きていると判明したわけなんですが、これが彼が頑なに自分に何もないと思っている理由なんだろうなと思います。

彼には最初から何もなかった。設定画によると、自分の母親はともかくグエルの母親まで家を出て行っているので、グエルの家をめちゃくちゃにしてしまったという認識があったとしたら、何かを求めることすら彼の中ではタブーなのかもしれない。

でもラウダはグエルを深く愛していて、その人生に深く関わりたいという願望を幼い時分から持っている。その中で彼が編み出したのが「支える」というという役割で、それだけが彼の中で持ち続けていいワガママだった。

グエルを支えるのが役割だから、グエルのやりたいことを全力でフォローして、グエルの夢を全力でサポートをして、グエルの人生を「弟=従者」として見守り続ける。そのことに免罪符はいらなくて、自分か彼が死ぬまで途切れることのない繋がりです。

別にグエルの隣にいる必要もなかった。三歩後ろで、あるいはもっと遠いところでも、彼の人生に関わり続けられれば恐らく、ラウダの心は満たされた。

ところがその均衡が崩れてしまう。

そのきっかけは父親の死で、兄弟二人でジェターク社を支えなければならなくて、その通りグエルはジェターク社CEOとなり、ラウダは役職としてはなんなのかちょっとわかんないんですが、いずれにせよ一緒の会社で、一番近い距離でグエルを支える権利を得られた。

どのくらい浮かれてたのかは、17話を見ていただけるとわかるんですが、ラウダとしてはどんな形であれグエルを支えられるだけで満足だったのに、直接支えることができるというわけで、もうウハウハで、我が世の春だった。んですけど。

恐らく相談もなくその位置にミオリネを据えることをグエルが決めてしまった。

ラウダとしては寝耳に水の出来事であり、何より一度与えられた、手が届く位置にあり、グエルもそう望んでくれた、認めてくれた最高のポジションが奪われてしまった。

ラウダにとってはミオリネが婚約者というのは、兄弟でそれが与えられるわけがないので誰が座ろうが口を出すものではないんですが、グエルの隣で支えられるポジションというのは、それは本来「僕のもの」であるはずなんですよ。これだけは絶対に誰にも譲りたくない、ラウダにとっての大切な宝物のはずです。

ただ昔だったら。何もないのだとグエルの影法師に徹していた頃だったら、これも諦めていたのかもしれません。グエルを支えるだけの力がないのだから仕方ない、自分よりもミオリネの方が持っているのだから仕方ない。

しかし今のラウダは、グエルがいなくても支障はなかったという実績がある。彼を支えられるだけの力も能力もあるということを知っている状態です。つまり単なる従者ではなく、自立した従者であるという自覚です。

ここで弁証法が再び起きます。矛盾するAとBの対立です。

ラウダの中の凝り固まった概念として、「自分には何もないからグエルの決定を妨げてはいけない」Aと、「自分には力も能力もあるのだからグエルの決定に従う必要はない」Bという思想があり、それは矛盾している。そしてこの思想のいい面、悪い面を吟味し、いい面を繋いだ新しい思想Cを獲得する必要があるんですが、どちらの思想も認めるのはラウダにとって非常に苦痛を伴う行為です。

自分には何もないことを認めているラウダにとって、それが間違っている面があるというのは今までずっと信じてきた自己の否定です。グエルの決定に従う必要はない、という面を認めてしまうのも、これまたグエルの存在を絶対として自分を下にしていた、これまでの全てを否定することに繋がる。

だからラウダはスレッタに八つ当たりのようなことをしに行っているのだと思います。自分が気づきつつある真実から目をそらすために、ミオリネが自分からグエルの婚約者に戻るなんていう変容をさせた原因に文句を言うために、そして同じく大切な存在から傷つけられた心を傷つけるために。

ラウダは今岐路として、見て見ないふりをするか、それとも矛盾と対峙して自分を否定するか、どちらを選ぶのかの選択を迫られています。水星の魔女風に言えば、逃げるか、進むか。

そしてこれは、スレッタも同じです。

彼女もまた、岐路に立たされている。自我の叫ぶままにミオリネを求めるか、それとも彼女の幸せを祈って学園で仮初めの幸せを楽しむか。進むか、逃げるかを。

今のスレッタは恐らく逃げに傾いています。進むことが恐ろしくなり、今まで得ていたと思っていたすべてが剝ぎ取られて、彼女は水星にいた頃よりも何もない状態にされている。

何もない、だから何も求められないというAと、そんなことはない、だから求めていいというB。

ただスレッタもラウダも新しいCという思想を求める必要があり、個人的には、「何もない、それでも求めていい」というのがCなんじゃないかなと思います。二人は何もないわけではない。けれどそれがミオリネとグエルに必要な何かというわけではない。地球寮もジェタークもミオリネとグエルはすでに持っているものですから。

そういう意味で、スレッタもラウダも大切な人に捧げられる特別な何かは持ち合わせていない。だから必須ではないわけです。

しかしそれでも、人は人の側にいていいはずですし、側にいて欲しいと欲していいはずです。求める何かを持たないからアプローチをやめる、というのは違う。

なぜなら、他者を承認するかしないかは、相手に委ねられていることだからです。

告白→赦し→相互承認の繰り返し


精神現象学において、矛盾をはらむ思想や人と人との対立は、相互承認によって解決できるはずであるとしています。

相互承認とは、AとB(非A)が対立して、互いの主張をぶつけ合っている状態の時、Aが「然り!」すなわち「確かに自分のAにはこのような悪いところがある。私は間違っていた」と告白をし、Bもまたその告白を受けて「然り!」すなわち「いや、私もこのような部分が悪かった。私も間違っていたんだ」という赦しを与える。

このプロセスが相互承認であり、相互承認を繰り返すことによって、AとBによる対立はなくなっていく。

しかし、対立は決して0にはなりません。今度は新たに生んだはずのCと非Cとの対立が起きるかもしれないし、全く新しいDとEの対立が起きるかもしれない。これはなにも、人間が愚かしいから起きるのではなく、時代が変わることや人々の認識が変わっていくから起きることでもあります。価値観の違いというやつですね。

例えば古くは男性が圧倒的な優位性を備えていました。しかし女性の人権がないのはおかしいという価値観が出てきて是正されました。そうしたら今度は障がいのある人の権利はどうなる、と、新たな差別や不足していた問題が出てきて、どうすればいいか、という議論は今も行われています。

このように、矛盾するAとBの対立は人間が自由で自立した存在である限り永遠に続き、相互承認もまた延々と繰り返されていきます。しかし、もし相互承認が起きなければ、今度はまた主人と奴隷の関係にまで戻らなければならなくなる。つまり自分が正しく相手が間違っているのだから、倒して服従させろという暴力による弾圧の時代です。

話が世界的なものに広がりましたが、相互承認はまず一人の人間と一人の人間の間で行われます。

Aの思想を持つ人と、Bの思想を持つ人、この二人が相互承認をして、Cの思想を持つ二人になる。個人と個人が、思想を同じにする仲間になって共同体となる。これを精神現象学では個人を「私」共同体を「私たち」と称しています。

相互承認のキーは告白と赦しです。互いに自分を自己反省し、歩み寄っていく。

18話では相互承認には至らないし不完全ではあるものの、スレッタとラウダとチュチュとフェルシーが告白と赦しをしています。

ラウダはスレッタに「空っぽである」と主張Aをぶつけた。
チュチュはそれに怒り「てめぇら!やろうってのか!」という主張Bをぶつけた。
ラウダはそれに対して「君は助けてくれた。だから礼を言う」フェルシーも「ありがとな」と明確な言葉にしてチュチュに赦しを与える。
スレッタはラウダの主張Aに「その通りだ」と告白をする。
チュチュはそれに「んなわけねーじゃん」と赦しを与える。

まぁ書いててストレートではないよな、という感じですが、チュチュの瞬間的な怒りにはスレッタへ侮辱する敵という意識もありますが、大前提としてラウダたちがスペーシアンであるからこそここまで怒りが大きくなっているという側面もあります。スレッタの告白は、本来チュチュではなくラウダに向けられるべきですが、チュチュが代わりの赦しを与えている。

一応相互承認のプロセスは踏んでいるのですが、あくまで今回は間接的で当人同士のものではないですし、ラウダからスレッタへの赦しはなかったので、不完全なものでしかありません。スレッタはチュチュの新しい思想Cに従ってはいますが、恐らく最後まで自分の思想としては持っていないはずです。

だから多分ですが、精神現象学に従うのなら、これからラウダとスレッタはちゃんとした相互承認を行うはずであると思っています。そしてその始まりは、ラウダからの赦し、いや告白から始まるのではないかと。

この二人は明確にラウダからの対立関係を結んでいて、スレッタはラウダのそれを表明されていないので知らないから告白も赦しもしていないんですが、今回初めて彼からの主張を受けて、それに対して告白をした。今回は逆にラウダがスレッタからの告白を聞いていない状況で、もうこの二人の接触で残っているのは、相互に告白と赦しを改めて行い、相互承認を行い、新しい思想を共有した共同体を形成する。

精神現象学における最後にして最も大切なプロセスです。

主にラウダが激しく拒絶している、二人が手を組む未来などなさそうな積み重ねがきていますが、しかし少なくともスレッタはラウダに対して告白をしているので、あとはラウダが自分の思想にしがみついて拒絶するか、自己否定して赦しを与えられるか、ラウダのリアクション次第なのかなと思います。

それでま~、ちょっとメタが入りますが、この告白と赦しは、グエルとミオリネも似たようなことをやっているんですよね。決闘に負けてその代償として温室での狼藉を謝罪する。

ただこれはグエルはもちろん自発的な謝罪ではなく、ミオリネも適当にそれを受け入れる。全くもって表層的なものです。

その対比として、ラウダが温室での振る舞いをスレッタに謝罪、告白をし、スレッタもラウダの主張と自己否定を踏まえた赦しを与える。真の共同体を形成する。

あと温室での振る舞いは、グエルは抵抗できないミオリネに身体の暴力をふるい、ラウダは抵抗できないスレッタに言葉の暴力をふるった、ということで、二人とも暴力をふるって相手を傷つけてしまっている。という対比もできる。

グエルとミオリネが共同体を形成しているのと同時に、ラウダとスレッタもまた共同体を形成する。そしてグエルとミオリネの共同体は、恐らく本当の共同体というわけではない、というわけではないのではないかと思います。

「私たち」と「私たち」ではなく、まず「私」と「私」が必要


軽く「私」とは個人のことであり、「私たち」とは共同体である、と触れましたが、現在ミオリネは「私」ではなく「私たち」で行動をしようとしています。

ベネリットグループとして、暴動を起こしている恐らく代表と話し合いをするつもりなのですが、本当にそれは正しいのでしょうか?

彼女は戦いを止めてみせる、これからのグループは人を救う、その表明として暴動を止める。しかし止めた後は?

それはこれからまるっと解決していくのかもしれませんが、彼らがベネリットグループ憎しという旗印を掲げて行っていた場合、ベネリットグループとして相対するミオリネは、まるごと全部「憎い」というカテゴリーに入ってしまいます。

この強固な思想を共有して、仲間内で閉じこもって外の世界の思想を絶対に受け付けない、という状態の集団を形成することを「教団」化と呼びます。

この教団化した集団との対峙と、それの相互承認というのは非常に厄介です。それは新興宗教団体を見たり、最近だと反マスク団体などを見ているとわかりますが、彼らにとっては自分の思想とはすなわち絶対的な正義で、それに意見をするものは絶対的な悪です。これが教団と化した全員が共通理念として保有している。

これは精神現象学では言っていない私の持論ですが、それに私たちという同じく複数人いる共同体で相対すれば、私たち対私たちの対立となり、これはすなわち主人と奴隷の関係の焼き直しになります。なぜなら自己否定は自分の価値観の否定であり、自分の「死」であるので、それを認めたら共同体全体が死んでしまうことになる。だから絶対に認めることはできないのです。

そしてミオリネもまた「教団」と化しています。戦いを止める、という主張は正しい。正しいのです。そこの土台を否定されてしまったら、ベネリットグループもまた戦うしかなくなってしまう。妥協してしまえば、今度はベネリットグループが死ぬ側になってしまう。

ベネリットグループの存在そのものが憎い、スペーシアンの存在そのものが憎い。だから死んでほしいとか、もう二度と関わらないでほしいという主張をされたら、関わろうとしたミオリネたちの主張は死んでしまう。自己否定をして、告白をして、赦しを与える、というプロセスに入れればいいが、集団が望むのは集団の安定であり、それがアーシアンという地球全体の話にもし波及してしまえば、「今すぐ地球を救ってくれ」という究極論になる可能性もある。

あるいは暴動側が一方的に条件を突き付け、ベネリットグループがそれを叶えるという展開になれば、要求の際限がなくなる、かもしれない。

私たちと私たちという集団同士では相互承認に限界がある。

しかし、私と私という個人間では、もっと話はシンプルです。ここからは精神現象学に入ります。というのも、ヘーゲルは共同体と共同体が激突するのではなく、個人と個人の相互承認から共同体が形成されるというプロセスを論じているので、それを解体するのもまずは個人と個人になります。

それで、例え強烈な思想を共有した集団であっても、新しい情報を手に入れて「あれ?こう信じていたけれども、本当は違うのか?」ということに気づく個人が必ず現れます。そしてその個人の中には、勇気をもって行動する人もまた現れるでしょう。

それに対して、人々は「そんなことをしても意味はない」「間違っている」と嘲笑ったり非難したりします。

この行動する意識を「行為する意識」、嘲笑ったりするのを「評価する意識」とします。

この意識はどちらも「良心」にのっとって行動します。行為する意識はいわずもがな自分が正しいと思った良心ですね。評価する意識もまた自分が正しいと思った良心です。

「行為する意識は、自分の義務だと思うことを、自分の良心にしたがって実行に移します。それに対して、評価する意識は他者の行為を吟味して批評することこそが大切だと考えます。その際、批評や批判も一つの良き行いであると考えるわけです。」(100分de名著ヘーゲル精神現象学 斎藤幸平著 P113より引用)

ここで行為する意識も評価する意識も絶対的に自分が正しいと真っ向対立する。と、何も変わらないので、評価する意識からくる批評を、行為する意識が受け止めて告白をする。そして評価する意識がその告白を聞いて赦しを与える。という相互承認が行われる。

現実はそんな生易しくない、とは思いますが、それでも行為する意識が先に告白をする可能性の方が高い。彼らは本当に心から問題を解決したいと思っているので、批評をアドバイスとして聞くことができるからです。

もちろん、その批評が的外れでないという前提条件がつくでしょうが、それでも「何の意味もない」という冷笑に「そうかもしれない」と返事をできるのも、「ここの部分が問題だ。やり方を変えた方がいい」という批判に「その通りだ」と考えを改めるのも、「お前は裏切り者だ」という断罪にも「確かにそうだ」と認めるのも、行為した意識でなければできないことです。

そして自分の批判を受け止めた相手を、「そーら」と馬鹿にするのではなく、「そこまで本気なのにしたり顔で言ってしまってすまない」「自分は行動していないのに行動しているきみは素晴らしい」と言えるのもまた評価する意識しかできないことです。

ここで重要なのは、どちらも相手の主張を盲目的に受け止めたり、自分の主張が完全に間違っていたんだと手放すことではなく、やはり相互承認なのです。

「きみは正しい」「きみも正しい」「「じゃあどうしていこう」」という思考ですね。

そしてこれはいきなりはい、共同体ドン!ではなく、個人と個人の間でまず行われ、それが徐々に広まっていく、という形式でないと難しいだろうな、と思います。まず弁証法という自己矛盾に気づく過程が必要になるので、そうなるとまとめて変えることは絶対にできない。どこかで反発がある。

でももうそれを終えた人間が集団を作るのなら、それは思想をあらかじめ共有した共同体なので、最初からスムーズです。

それでそういう個人的な相互承認をミオリネとグエルができるか、というと、彼らはもう共同体の責任者なので、思想を下ろすことができないし、彼ら自身が「私たち」という共同体の代表という意識が強すぎて、「私」という個人的な感情を極端に狭くしているようなので、難しいんじゃないかな~と思います。

あれほど行きたがっていた地球行きがベネリットグループのステータス作りになったり、トラウマだろう地球行きを強固に反対しなかったり、ミオリネもグエルも個人としての喜びや楽しみよりも、ベネリットグループ、ジェターク社、が大切なものになっているのはもちろん、そういう心の柔らかい部分を自分の大切なものを守るという部分に使っている、スレッタとラウダに捧げているので、自分事として捉える弁証法とは相性が悪い。

だから、ここの部分はスレッタとラウダが担っている、と考えた方が自然なのかな~と。

スレッタとラウダは今徹底的に二人の共同体の外に置かれているので、今もっとも「私」を持っている二人です。本来であれば、ミオリネの隣にスレッタがいて、グエルの隣にラウダがいたはずなので、一緒に共同体の責任者となっていたはずが、それから離されてしまっている以上、彼らは責任を負わなくていい。

しかし同時にスレッタはミオリネの元花婿で、ラウダは今でもグエルの弟なので、責任者に一番近い立場であり、彼女彼を最も理解している存在、「私」である彼らを今でも覚えている存在でもある。

ニカならばこうするだろうと思ったチュチュと同じように、二人はこうしたいのではないか?という、個人としての願いを気づくことができる立場でもあります。

スレッタはともかくラウダはさ~、という懸念はあるんですが、それでもストーリーとして見ても、こうして見てみても、スレッタとラウダが協力する動線は引かれているような気がするので、今のところはそう信じたいところです。28日現在日曜なので、もうそんな夢もついえるかもしれませんが!ヘケ!

まとめ


水星の魔女は精神現象学を参考としていて、AとBの対立と、それを解決するための弁証法、相互承認についてを本格的にやろうとしてるのではないか?
またそうした観点で見ると、キャラクターの動きがまさにそのプロセスを踏んでいて、より理解できるのでは?

本当はもっとキャラクター個人に注目して深掘りしていくつもりだったんですが、気づいたら書かずにはいられないお年頃…。

軽く触れると、愛人の子であったり捨てられたりということをラウダが気にしていて、振り返るとグエルもラウダも愛情についてトラウマを抱えていて、グエルは愛情は対象が変わっていって自分に永遠に向けられるものではない、と思っていて、ラウダは誰かの一番愛する対象にはなれない、と思っている。

それでペトラはこのラウダの「本当は誰かの一番になりたいのではないか」という疑問を想起する役割を持っている、それを奪われたことに対して悔しくないのか、と彼の欲望を自覚させる役割を持っているんではないかな~と。

それでオルコットが再びグエルと接触する可能性もあるんですが、もうフォルドの夜明けって構成員が多分ナジとオルコットしかいないので、大掛かりな暴動はできないだろう、と思っているし、グエルが結局ラウダのことをどう思っているのか、という説明が弱いと思うので、その補足としてラウダと行動を共にする可能性もあるんじゃないかな~と私は思っているんですが。

というのも、グエルが「ジェターク社を立て直したいんだ。あそこだけが、俺と父さんの繋がりだから」と言っていて、「ジェターク社「だけ」がグエルとヴィムを繋ぐものである」と認識しているんですよね。でも彼が思い出していたのはラウダも含めた家族であるはずで、そしてそれを受けて「俺と父さんを繋ぐもの」と宇宙へ戻る決意をしていたはずなんですが、いつの間にかヴィムとグエルを繋ぐものとしてラウダが弾かれているんですよね。

弟のことをスレッタに話すのもというのも、「ジェターク社を立て直したいんだ。あそこは、俺と父さんの繋がりだから」と、わざわざ「だけ」と話さなくても伝わる。

ということは、グエルにとってはラウダは別枠で大切なものになっているんですよね。自分と父親を繋ぐものではない。だけど失いたくない大切なもの。それにラウダがなっている。

で、宇宙に行こうと思った頃にはまだそう思っていなかったけれど、宇宙に行ってからはもう明確に「そう」なっているとしたら、この間の期間にグエルの中でラウダがもっと特別になった何かがある。

これは願望含めた予想ですが、グエルは軌道エレベーターに行くまでにジェターク社の詳しい情報を絶対知りたいはずなので、そこで頑張るラウダの姿やそういう記事を目撃しているはず。それであの時のグエルは、軽い栄養失調+脱水症状+慢性的な睡眠不足+ダメ押しの徹夜+激しい運動と精神的ショックと、体も心もボロボロな状態なので、軌道エレベーターに着くまで寝てるか、それともハイになって起きてるか、という状態だったろうと思うんですよね。

ロードムービーが、というのは残念ではありましたし、そういう交流あるんだろうなと思っていたんですが、多分そういう交流はなくて、オルコットにラウダがどれだけ頑張り屋なのか、自慢の弟なのかということをずーっと喋ってたんじゃないですかね?グエルが自分のパーソナリティを語るのもそれは父親の死とか自分が無価値であるというところに結び付くし、地球の現状というのも重苦しい話だし、グエルがずっと起きていられるぐらいテンション上げて喋れる話題は、あの時はラウダの話ぐらいしかなかったんじゃないかな~と。

だから再会した時に落ち着いた顔をしていて、「元気だったか?」と素っ頓狂なことを言ってるのは、あれ話しているうちにお兄ちゃんスイッチがべた踏みアクセル全開になっちゃった結果なのかな~と。

それでそれが正しいとしたら、そういうグエルがラウダのことを一番愛しているということを伝えられるのは、現状オルコットだけなんですよね。ミオリネも多分知らない。知る必要ないし。

それでラウダはどうしてグエルが自分を遠ざけているのかというのが、自分がいらないからだ、という結論だけしか今持っていなくて、愛しているからなんだ、ということには気づけない。しかしオルコットは息子を失っていて、連れてこなければ、どれだけ言おうが安全なところに置いてきていれば、という後悔をずっと持っているだろうから、箱庭に閉じ込めるのは愛しているからだ、という回答ができる。

これはスレッタも多分同じで、二人は愛しているから支えたい、叶うならずっと側に置いて欲しい、と思うタイプなので、そういう機微がわからないんですよね。

なので今度はラウダがオルコットに教えられるのかな~と。

あとナジの背景がわからないんですが、まぁたまたまですけど拠点が学校だったり、まず何よりも食料を確保しようとじゃがいも栽培したり、先のことを考えて見通す人なので、元は教師だった可能性もあるよな~と。だとすると、スレッタと今度は関われるし、もしかしたらプロスペラとの関わりだとかのカウンセラーをやってくれる、かもしれない。

なので、ラウダはオルコットに、スレッタはナジに、蒙を啓いてもらう展開できそうだよな~と。

…ここまでお読みいただいた方は、もうお分かりだと思いますが、ここら辺を言いたいがためにすんごい精神現象学のところは突貫でやっております!
いや、おろそかにしているつもりはありませんが、それでも突貫工事であることは否めない!申し訳ない!それでもどうしても、19話が来る前にやっておきたかったんです!持論展開!!それを最後にするな?おっしゃる通りです…申し訳が立たねぇ…。

誤字脱字とか、荒いところがあったら本当に申し訳…手直しが入るかもしれません。

まぁ19話の「一番じゃないやり方」はどう考えてもスレッタとラウダが奮起するまでやるだろ!と思ってますが、グエルもエアリアルも出てくるし、もうわからんな!!