【昭和講談】長谷川一夫「傷と引き換えた映画界の近代化」 最終回(全三話)

 息子・成年の初舞台の費用は確かに会社から借りた金。しかし、もともとこの舞台は松竹からの勧めであり、その時のやり取りで「返済はいつでも良いから」という話だったと記憶していた長二郎。
 「ちょ、ちょっと待って下さい。いきなりそんなことを言われても……。そうだ、舞台費用は映画の出演料から毎月引いて頂けないでしょうか。私の給料がまだまだ安いことはご存じでしょう。時間はかかりますがそれで返済させて頂きますから」。

 懇願する長二郎、しかし、松竹の仲野は首を縦に振らない。「林さん、舞台の方は松竹の演劇部での話。映画のお話は松竹のキネマ部での話、つまり別勘定なのです。全く別のお話とご理解下さい」。
 松竹には演劇部と映画のキネマ部があり、林長二郎の映画での活躍や会社への後見はキネマ部のことで、長男成年の初舞台で貸した費用は演劇部持ちになる訳です。
 別勘定だから演劇部へすぐ返済してもらいたい、この申し出に長二郎は落胆します。「私をここまで育ててくれた恩義はあるが、会社のこの仕打ち、あまりにも酷いのと違うんか」。

 がっくりと肩を落とす長二郎、この苦しい胸の内をたまらず母・マスに打ち明けると、意外な返事が返ってきた。「あんた、松竹から東宝へ移る気はないか」。
 東宝とは、あの阪急電鉄を興した小林一三が興したまだ新しい映画会社・東京宝塚、略して「東宝」です。
 アメリカから最新の撮影機材を仕入れ、社員への待遇や福利厚生もアメリカを見習ったというもので、後は、映画スターがいれば一気に飛躍しようかという段階でした。
 そこで東宝はこれからの映画スター林長二郎に目を付け、外堀から埋めようと、東宝への移籍話先を先ず母親のマスの所に持ち掛けれていた訳です。
 この誘いに長二郎は、舞台費用の返済から解放される安堵、さらに、新しい会社の飛躍と自分が重なって見え、その決断は早かったと申します。

 この移籍話は当然、松竹の耳に入ります。子飼いだった稼ぎ頭を引き抜かれ松竹は怒髪衝天。会社を通じて抗議致しますが東宝は沈黙を貫き通す。そして、林長二郎は昭和十二年十月十四日、東宝へ移籍します。

 東宝へ移籍し、ひと月ほどの十一月十二日、長二郎は京都の撮影所を出て、大島の着流しにマフラー姿で、二人の連れと共に、住まいにしていた東宝専務の大澤善夫の別邸へ歩いてたどり着きます。時刻は夕方六時頃、十一月の六時ともなると、辺りはもう暗くなっております。

 門前に着いた長二郎にふっと後ろから声がかかる、「もし、林さん」。その声にふっと振り向いた瞬間、長二郎が「あっ!」と声を上げた。
 左の頬に痛みとも熱さともつかない感覚が走り、思わず手をやる長二郎。手が真っ赤な血に染まる。左頬に激痛が走る。剃刀の様な鋭利な刃で切り付けられた。
 しかも、人差し指と中指に一枚挟み、中指と薬指で一枚と、計二枚の刃で切り付けられたことで、左の耳元から口元への一筋、左の目元から口元までの一筋と、二筋の深いえぐり傷になったといいます。

 俳優の命ともいえる顔への刃傷事件。駅では号外が配られ、世間は一斉に報じます。果たして、顔の傷は治るのか。
 京都の病院から、専門医のいる大阪の府立病院への転院が功を奏し、顔の傷は化粧をすればさほど目立たないという所まで回復したのでありました。

 さあ、その間世間は、犯人捜しです。実行犯はすぐ捕まります、すると次は、その首謀者探しへと動きます。新聞、週刊誌と各社、社を挙げ記事に致します。

 しかし、被害者である当の林長二郎本人は、警察の事情聴取に対し「犯人捜しは結構です。全ては私の不徳の致すところです」と申して口をつぐんだといいます。
 今回の事の始まりは、元はと言えば松竹から東宝への移籍話。しかも、自分が周りと相談もせず推し進めたこと。事の重大さ、特に、恨み・辛みの奥深さに、長二郎自身が嫌になるほど痛感したといいます。

 さらに、松竹から藝名「林長二郎」の返還を求められます。元々は大師匠である中村鴈治郎からもらった大恩のある名前。松竹から去るのなら、これを戻せという訳です。長二郎はこれも承諾し、以後は本名の長谷川一夫を名乗ります。

 結局事件は、実行犯二人の逮捕だけとなりました。この事件の真相を暴こうと様々な記者、取材者が訪れますが、彼は一切口を開かなかったそうです。
 
 後に長谷川一夫はこの事件について振り返る時があったそうで、「あの事件以降、俳優の進退が血に塗られたものでなくなりました。義理や恩義で仕事をするんやのうて、契約がきちんと取り交わされる様になった。映画界が近代化するきっかけになったんやないでしょうか」と、語ったといいます。

 さて、長谷川一夫となった彼の活躍ですが、華々しく俳優業を全う致します。その詳しい内容は皆さま方がそれぞれネットで調べて頂ければと思います。では、本日はこれにて。
                             終わり

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