【昭和講談】三波春夫「歌の道、ひたすらに」 最終回(全三回)

 浪曲師から歌手へと転向した三波春夫。三波の歌唱力と共に、和服姿で振出す所作の見事さも好評で、和服で歌うスタイルは、もはや三波春夫の代名詞となりました。

 そして、昭和三十四年六月、歌の合間に啖呵を入れたレコード「大利根無常」を吹き込んだ。
 この「大利根無常」、世捨て人の素浪人・平手神酒の物語でございますが、その平手神酒の心情を、三波自身が書き入れた啖呵と呼ばれる台詞で表した。
 しかも、その啖呵が名台詞、

「止めてくださるな妙芯どの、落ちぶれ果てても平手は武士、行かねばならぬ、行かねばならぬのじゃ」

 この見事な啖呵が、三波のファンに大いに受けた。

「おい、聴いたかい『大利根無常』。今度のレコードは浪曲みたいだぞ」

 そう評判になり大ヒット。三波自身も、より深く人間を表せたと、大いに納得できる作品となったのでございます。

 さて、昭和三十四年八月。大阪、大劇場でのワンマンショー公演で在阪していた三波春夫は、テイチク宣伝部社員と共に、関西有力興行主、千土地興行の松尾國三社長の招きを受けた。

 松尾國三、元は歌舞伎役者ながら、プロデューサーへ転向し、成功収め「昭和の興行師」の異名もつほどの男でございます。
 元役者だけあって、口もと目元に涼し気な品と風格兼ね備えた、実に爽やかな紳士。

「やあ、わざわざすまないね」

 社長室で出迎えた松尾は、三波たちを招き入れ、応接ソファに深々と座ると、上半身は前のめりに三波を観た。

「三波君、大劇のショーを観たけど、君はお芝居もいけるねぇ」
「いや、まだまだ修行中でございます」

 「大利根無常」を出してから芝居にも力を入れている三波春夫でございますが、相手は元歌舞伎役者、この評価に畏まる。

「いや、本当に良かったよ。それに、人間を表現しようという君の気概も十分に感じるね」

 そう付け加え、これからの舞台について、さらに三波と熱く語りあうと、それを聴いたテイチクの榊原部長、グイッと話を切り出した。

「社長、どうでしょう。ここで三波にお土産など頂けないでしょうか」
「何だい、お土産とは……」
「はい、この三波に、新歌舞伎座での、歌とお芝居の一か月公演など頂ければと思うのですが」

 さあ、この一言で、社長室の空気が引き締まった。さらに畳み込む榊原部長。

「三波の力は本物です。歌手の実演と言えば映画と歌が定番ですが、ここで三波の力を発揮させて頂きたたいのです。歌とお芝居、日本版のミュージカルショーという舞台を築き上げたいのです」
「なるほど、日本版ミュージカルか。それは斬新だ。それを、ウチの…」
「はい、新土地興行様の新歌舞伎座で創り上げたいのです。どうでしょう!」
「ううむ、新歌舞伎座で日本版ミュージカルか…。それは面白い、やってみよう!」

 こうして始まった歌と芝居の三波春夫のワンマンショー。舞台は大阪きっての檜舞台、新歌舞伎座でございます。

 さてそこでの問題は、芝居の外題をどうするかですが、三波にはぜひともやりたい外題があった。

「やるのでしたら、長谷川伸先生の『一本刀土俵入』に挑戦したいと思います」

 日本を代表する劇作家、長谷川伸の代表作「一本刀土俵入」。
 力士を夢見ながらやくざに身を落とした男が、自分に説教してくれた人妻女郎を助けるというお話で、涙に恋と、人の心に訴える要素が詰まった名作でございます。

 松尾社長にテイチクも、三波の案に賛同した。
 しかし、肝心の作者である長谷川伸からストップがかかったのでございます。その理由はこうだった。
「過去現在、名優たちが演じているこの作品に三波君はまだ向かない」

 つまりは芝居を始めたばかりの三波春夫にはまだ早いという訳でございます。
 この後、三年後に長谷川伸から上演の許しを得ることになりますが、芝居に足を踏み入れたばかりの、この頃の三波に対し、まだ時期尚早と判断されたのでございます。

 長谷川伸と面識のある三波、作者の厳しい判断に、

「長谷川先生には、きっと深いお考えがあるに違いない。先生のご忠告、この身にしっかりと刻み込みたいと思います」

 そう返答し「一本刀土俵入」を断念いたします。
 では、「一本刀土俵入」に代わる演題はどうするか。必死になって考える日々、そして三波、ある題材をハッと思い出した。

「桃中軒雲右衛門ではどうだろうか」

 桃中軒雲右衛門とは、明治から大正にかけての浪花節の大看板で、浪花節を大道芸から舞台芸へと押し上げた功労者でございます。
 はやる気持ちをそのままに、千土地興行の松尾社長に、その旨を報告に上がる。

「私には歌謡曲の他にも浪曲があります。浪曲とドラマの融合、これこそ私のやりたかったことです。ぜひ、桃中軒雲衛門でやらせて頂きたいのです」
「うむ、桃中軒雲衛門か、なるほど、それはいい。三波君、期待しているよ」
「はい、頑張ります!」

 こうして、芝居の骨子が決定したのでございます。

 そして、昭和三十五年三月一日、大阪、新歌舞伎座。
 歌舞伎座では初となる、歌手によるひと月間の連続公演。内容は、歌と芝居の歌謡ショー、昼夜二回の休み無し、二十八日間の連続公演でございます。

 いよいよ迎えたその初日。オーケストラの大演奏が鳴り響き、スッと舞台の幕が上がると、三波春夫が登場する。さあ、客席からは、割れんばかりの拍手の渦でございます。
 しかし、三波が客席に眼をやると、「あっ」。心の中で声が出た。
 空席があったのでございます。

 お客の顔を観ようとすれば、座面が上がったままの席がある、この落胆。
 だがしかし、それも覚悟の内ではないかと、一声、一曲、一公演と、全身全霊込めて演じていくと、途中、十五日ごろには満席に、さらに終わり頃には補助席が出る大入りとなった。

 そして、盛況の内に千秋楽。楽屋を訪れた千土地興行の松尾社長、三波の手を握り、

「よかった、本当に良かったよ、三波君、ご苦労様。新しいことに挑戦して見事やり遂げた。私も鼻が高いが、君も男を上げたね」
「社長、ありがとうございます。本当にありがとうございます」

 松尾社長の最大の賛辞を三波春夫は、手を強く握り返し、応えたのでございます。
 今では当たり前となった歌と芝居の歌謡ショー、その原点を探れば、そこには三波春夫の挑戦の足跡があったという訳でございます。

 その後も挑戦を続ける三波春夫。昭和三十八年六月二十三日には東京五輪音頭の吹込みがございました。

 皆さま、東京五輪音頭と言えば三波春夫の代表曲の様に思われておられますが、実はこの曲、多くの歌手が歌っております。
 作曲の古賀政男は当時、コロムビアの専属でございましたが、この五輪音頭に限っては、その録音権を各レコード会社に開放した。これにより、各社がそれぞれ歌手を擁してレコードに吹込んだという訳でございます。

 三橋美智也がキングレコードから、橋幸夫はビクター、坂本九は東芝、北島三郎・畠山みどりがコロムビアといった具合に、合計六社が「東京五輪音頭」を出した訳でございます。

 そして、テイチクは三波春夫で吹き込んだのでございます。
 この時の三波の意気込みは並々ならぬものがございました。

「私は、この東京五輪音頭に、日本は、日本人は、頑張ってこんなに戦後復興を遂げたんですよ、ということを、戦後初めて世界に示すイベントである、その東京五輪をなんとしても成功してもらいたいという気持ちを込めて歌いたいんです」

 三波のこの思いはレコードの販売枚数に現れ、東京五輪本番までに百三十万枚という六社一番の売上を叩き出した。
 レコード売上一番という栄誉に輝いた後も、その熱意、その思いは止まることなく、ついには、「東京五輪音頭」は三波春夫の代表曲となったのでございます。
 歌の心、日本の心を第一に考える三波春夫らしいお話でございます。

 さて、もう一つ、三波春夫にまつわるエピソードとしては、同じく浪曲から歌手へと転向した、村田英雄さんとのライバル関係でございます。
 それぞれ自分の歌の藝を磨き合い、互いを認める、三波、村田のライバル関係。

 ある舞台で共演した時のこと。台本を貰った村田英雄がその内容を確認すると、二人の登場の場面の説明がある。
 舞台の幕が上がる、三波・上手、村田・下手、二人同時に登場する、と書いてある。
 村田英雄、これを見て、演出担当に怒鳴り込んだ。
「何で、三波が“じょうず”で、俺が“ヘタ”なんだ。きちんと説明しろ!」

 まあ、これは後の人が書いたネタでございましょう。当の二人は、共にゴルフに出かけるという実に親密な関係で、村田英雄は最後まで先輩である三波春夫を尊敬していたということでございます。

 さて、話を元に戻すといたしましょう。
 歌藝に研鑽を重ねてきた三波春夫の、忘れてならない功績が、長編歌謡浪曲でございます。

 時は、昭和三十五年の秋。新曲の打合せの席で、三波が一つ献言した。

「『大利根無常』で台詞の入った曲を作りましたが、浪曲を入れた曲も是非やりたいと思うのですが、いかがでしょうか」

 この提案に、その場にいたテイチクの全員が面食らった。

 浪曲は、浪曲師と曲師による歌でございますが、浪曲師の節は、浪曲師の思いのままに変化いたします。さらに、その伴奏の三味線にも譜面はなく、曲師の手で幾らでも変化いたします。つまりは、二人の即興作品でございます。
 それをオーケストラで代用するなんて話、誰も想像ができません。
 だが、三波の理想は高かった。

「だからこそ、楽譜に、譜面に残る様にしたいのです。そうすれば、浪曲は後世で、誰でも歌える歌になるはずです。また、『大利根無常』で、台詞を入れて、人間ドラマに厚みが増しました。歌謡曲と浪曲が重ねれば、また、より厚い人間ドラマが生まれるに違いないと、私はそう確信しています」

 この三波の熱意が歌謡曲の新たな扉を開いたのでございます。

 そして始まった歌謡浪曲プロジェクトでございますが、何よりも前代未聞の試みだけに、全くの手探りでの作業でございます。
 そこで三波は先ず浪曲を制作した。浪曲の詞章を仕上げ、それを、妻のゆきの三味線で唄い、それをカセットテープに録音すると、それを作曲家の長津義司へと渡したのでございます。

 長津は、その浪曲テープを採譜する。そうは言っても、過去に「ちゃんちきおけさ」「大利根無常」を作曲した長津義司でも、浪曲にドレミをあてて、音符に直すというのは、これは想像以上の難事でございます。

 そして、三波との打合せの約束の日。
 朝から落着かず、そわそわする三波春夫。そして、自宅の門の呼出しが鳴り、長津の到着を知ると、居ても立ってもおられず、三波は玄関を開け、ひょいっと顔を出して外を見た。
 すると、玄関までの石段を長津義司が息せき切って駆けてくる。その顔見れば満面の笑顔でございます。

「三波さん、奥さん、やりました、出来ましたよ!」
「ああ長津先生、ささ、どうぞ、どうぞ中へ」

 早速、応接室で譜面を確認すると、ブツブツ小言で唄う三波、それが終わるとガバと顔を上げ、満面の笑顔で、

「先生、ありがとうございます!」

 長編歌謡浪曲へ、大きな一歩が踏み出されたのでございます。

 そして、第一回目のレコーディング。
 長津の指示でオーケストラが音を出す。浪曲を奏でるオーケストラなど前代未聞ですから、それは時間のかかる作業となりますが、何時間過ぎようとも、三波春夫は何とも嬉しそうなニコニコ顔でございます。

 その様子を観て、テイチクの社員が思わず尋ねた。

「三波先生、なんだか楽しそうですね」
「ええ、楽しいです。私はレコーディングが一番楽しいんです。新しいものを作るというのはワクワクしませんか」

 これから生まれる歌謡浪曲への期待を隠そうとしない三波でございます。

 そして生まれたのが昭和三十七年一月に出た「曽我物語」でございます。
 ここで、この「曽我物語」を唄う所でございますが、私が歌っては三波春夫のイメージが崩れてしまいますから、ここは歌詞のご紹介で勘弁のほど願いします。

 曲の始まりは歌謡曲でございます。「雨風強き 真夜中に 忍ぶみの笠 影二つ」。曽我兄弟の情景を歌い、2コーラス。

 そして、台詞部分の啖呵が入る。その頭の部分を抜き出せば、「あいや、そこな両名、頼朝公本陣近くを怪しげに徘徊するは何用あってのことか」。

 大舎人の台詞の後は、浪曲の唄、節の部分でございます。
 その頭の読み上げは、「咎められたるその時に、十郎答えて我々は」と、これから段々盛り上がるという具合で、これがオーケストラの伴奏で力強く歌い上げられる訳でございます。

 歌謡曲であり浪曲でもあり、浪曲でもあり、歌謡曲でもある、この長編歌謡浪曲は、その後、一年に一度の間隔で吹き込まれると、昭和三十九年には、名曲「長編歌謡浪曲 元禄名槍譜 俵星玄蕃」が出され、この曲が、同年の紅白歌合戦で大トリを飾るヒット曲に登り詰めたのでございます。

 今でも歌い継がれる長編歌謡浪曲、今では三波春夫のお嬢さんである八島美夕紀さんによって新曲も生まれております。

 その原点を辿れば、「常に新しいものを、常に新しい歌を」と、日々研鑽してきた、昭和時代を代表する歌手、三波春夫に辿り着くという、歌の藝をひたすらに磨いてきた三波春夫の物語。
 長い一席お付き合い下さりありがとうございます。

                               完

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