【昭和講談】三波春夫「歌の道、ひたすらに」 第二回(全三回)

 シベリアから復員し、東京へとようよう戻った北詰文司は、居ても立ってもいられずに、早速、浪曲師・南条文若に戻りまして巡業へと出立いたします。

 そんな折、昭和二十六年、南条文若二十八歳の時でございます。座組の一人から見合いの話が持ち上がった。

「すいません座長。ウチに見合い好きの叔母がいるんですが、その叔母が申しますには、何でも相手は三味線の上手な方なんだそうで、座長に是非どうかと言うんですよ」
「何だって、それは本当かい?」

 「三味線の上手な相手」。この一言に南条文若、前のめりになった。
 浪曲というのは、唄う浪曲師と、三味線で伴奏をする曲師、この形が基本でございまして、曲師の三味線の音で浪曲師は音程を取り、逆に、浪曲師が節の調子を変えても、曲師が節に合わせて弾いていくという、まさに人馬一体、一心同体、それほどまでに浪曲師と曲師の関係は深く、重要なものでございます。

 南条文若も予てより力のある曲師を渇望しており、そこに腕のいい曲師の話、二つ返事で、話を進めてもらったのでございます。

 さて、その見合い相手はといえば、野村ゆきと申しまして、女盛りの二十六。歌舞伎舞踊を始めとする、五十人を抱える藝能集団「港家演藝団」の花形という、歳は若いが、初舞台は九歳という、三味線の手練れでございます。それに鼻筋の通った美人ときた。

 南条文若、この野村ゆきに会ったとたんにぞっこん惚れ込んだ。

「ゆきさん。私はね、浪花節の一座の座長として、全国を回っておりましてね。浪花節というのは、本当にいいものですよ」

 猪突猛進、南条文若の猛アタックが始まった。そして一年後、南条文若と野村ゆき、晴れて婚約という運びとなったのでございます。

 ただ、この野村ゆきさん、南条文若に負けず劣らず、いや、それ以上に芸に厳しい人だった。
 浪曲の三味線は未経験ながら、聴いて惚れ惚れする力強い音締めで文若の声をぐいぐい引っ張っていくと、その後で、

「南条さんは音が外れるわね」
「南条さんは声を大きく出し過ぎるところがありますね」

 文若にズケズケと芸についての進言をした。
 これにまだ若い南条文若も黙っておれない。三味線の音が外れると板をドンドン踏鳴らし、怒りを表すという、まさに芸に厳しい二人による、精進の道が始まったのでございます。

 互いに高め合い、認め合い、芸を極めんと結婚した二人。これで南条文若一座は、頼もしい曲師を迎え、より一層、巡業に精を出して参ります。
 しかし、芸の精進に邁進する二人に時代の波が、静かに、されど確かに、押し寄せていたのでございます。


 この頃、南条一座は浪曲が主な演目でございますが、そればかりではお客が飽きると、民謡やちょっとした寸劇などを盛り込んだバラエティに富んだ舞台を演じておりました。

 昭和三十一年、秋の巡業のことでございます。
花道を通り会場の拍手を一身に受けている南条文若に一人の老婆が叫んだ。

「南条さんよ! 浪曲はチッとでええから、今日は歌をいっぱい歌ってくれな」

 浪曲よりも民謡や流行歌を望む声。これに文若ショックを受けた。

「日本の心を歌う浪花節が、民謡や歌謡曲に押されているのか」

 あの老婆の声をどう受け取るのか、南条文若の思い悩む日々、それに答えを出しのたのが、あのシベリアでの日々。北詰文司の浪曲や演劇に眼を輝かせた仲間たちの姿でございます。

「そうだ、あの、浪花節に熱狂し、演劇で参加を熱望した仲間たちの熱気。大衆演芸が大衆の求めに応じなくてどうする。大衆の求めに応じ、私が変わらなくてはならないはずだ!」

 これを契機に南条文若、浪曲師から歌謡曲を歌う歌手への転向を決意した。
 これを妻のゆきに打明け、そして、座員たちにも説明すると、

「あのう、南条座長。私の知り合いに作曲家の先生がいまして、流行歌というよりも、日本調の座長向きの音楽をしている人なんですが……」

 この言葉に南条文若思わず、

「それだ!」

 早速、紹介された家へと向かうと、笑顔で応じてくれたのは、佐々木章という作曲家でございます。
 この先生、三橋美智也も教えたというほどの凄い方でございますが、実に気さくに南条文若に話し掛けた。

「やあ、南条先生、話は聞いてますよ」
「私が先生?」
「いやだって、あなたは既に浪曲師として座長も務められていると聞いていますよ。『先生』で当たり前ですよ」
「いえ、恐縮です。こちらこそ佐々木先生、よろしくお願いします」
「こちらこそお願いします。早速ですけど、何曲か、君の喉を聴かせてくれませんか」

 佐々木先生のピアノの音で音程を取りながら南条文若、佐渡おけさ、よさこい節と民謡を何曲か歌うと、それを聴いた佐々木章は驚いて、

「これは凄い。これなら一年どころか、半年、いや、三か月でいけるよ」
「本当ですか! 是非お願いします」

家に帰ると、妻のゆきに経緯を話すと、ゆきの方も覚悟を決めた様子で、

「解りました。南条文若は一年病気になったと思い、私も全力で歌手活動を支えます」

 芸人の夫が病の床に臥せるというのは、一家の収入が途絶えたと同じ事でございます。
 既に長男を授かり、家計の心配が増した中、旦那の決断を支えるという、ゆきの言葉。南条文若、この良妻賢母の堅い覚悟を胸にしっかと刻み込む。こうして、夫婦の覚悟と絆は、より一層深いものとなった訳でございます。

 そして南条文若の歌手修行が始まると、ここでも南条文若の粘り強さが際立った。
 人よりも早く先生宅を訪ねては、他の練習生の授業もじっと椅子に座り見学し、自分の番になれば一心不乱に歌い込む。
 一日中佐々木先生宅に居座り続けると、最後は、座り過ぎから痔を患うという逸話まで作ったというほどでございます。

 そして、指折り数え三か月後でございます。

「南条さん、もうこれで歌手として充分ですよ」
「ありがとうございます、先生!」
「ところでですけど、歌手デビューは何処のレコード会社からと、その辺りは考えているのですか?」
「はい。実は、歌手陣の手薄そうなテイチクがいいかと思っているんですが」

 それを聴いて佐々木は早速知り合いのディレクターに電話した。

「ああどうも萩原さん、実は将来有望な歌手が、あなたのテイチクでのデビューをご所望でね」

 こうして、南条文若のデビュー話が進んでいったのでございます。

 時は昭和三十六年三月、そこはテイチクの会議室でございます。
そこにいるのは、南条文若に、宣伝部の部長、萩原四郎他三名が、文若のデビュー曲の譜面を見つめております。
 テイチクでのテストを通過し、デビュー曲が「チャンチキおけさ」に決まっての会議。部長の萩原が改めてデビュー曲への期待を口にする。

「南条君、君の声や歌、その浪曲の感じと、営業部の方が君のことを高く評価していてね、新人には珍しく普通盤での発売となりますから、是非頑張って下さい」
「ありがとうございます」
「この『チャンチキおけさ』も越後生まれの君にはもってこいの歌じゃないかな」
「ええ、本当にいい詩です。頑張ります」

 ええ…、ここで私がひとつ三波春夫のデビュー曲「チャンチキおけさ」を唄い、どんな歌かを、ご紹介したい所でございますが、三波春夫のイメージを壊してはいけませんから、歌詞の一部の紹介でどうぞご勘弁頂きたいと申します。

 「ちゃんちきおけさ」、作詞は門井八郎でございまして、出だしが「月がわびしい 路地裏の 屋台の酒のほろ苦さ」というものでございます。
 サビはもうお馴染みの「知らぬ同士が小皿叩いてチャンチキおけさ」。
これは実に、人間の寂しさ悲しさを実に簡潔に表現した素晴らしい詩でございます。

 三波春夫のデビュー曲は、この「チャンチキおけさ」と「船方さんよ」の二曲でございますが、それと並行し、もう一つ、問題がございました。それが、南条文若の新しい芸名についてでございます。

「南条さん、どうだろう、せっかく浪曲から歌謡曲へと転身するのだから、名前も新しくしたらどうだろう。実は、名前について、こちらでも考えていてね、その名前というのが“三崎春夫”というのだが、どうだろう」

 三崎春夫、三つの崎で三崎、春の夫で春夫でございます。これを聴いた南条文若。

「そうですね……、一度考えさせて頂いてよろしいでしょうか」

即答せずに持ち帰った。そして翌日。

「私の芸名ですが、三波春夫ではいかがでしょうか。南は、テイチクの社長のお名前が南口、私の南条から南としたいのです。ただ、ミナミは三つの波の三波と書きたいと思います。人生の変転の波、歌のメロディの波、その波に、石の上にも三年の三を付けて三波としたいのです」

 これを聞いた萩原部長、
「それはいい。“三波春夫”、うん、いいね、いいよ。決まった、決まったよ」

 テイチク宣伝部一同、快諾となったのでございます。

 そして待望の三波春夫デビューでございます。昭和三十二年六月、デビュー曲「チャンチキおけさ」と「船方さんよ」が発売され、デビュー曲は、半年たたない十一月には二十万枚を超え、結局、二百万枚を超える大ヒットでございます。

 デビュー曲の大ヒットで歌謡界への転身を見事に成功させた三波春夫でございますが、その歌への姿勢は、浪曲師時代と変わらずでございまして、それは「人前で歌う」ことで。これを心掛けたものでございました。

 その当時、歌手といえば、レコード吹込みを主体としておりまして、人前で歌うことは二の次という風潮でございまして、しかし、三波は積極的に人前で歌う、昔の言葉でいう「実演」に精を出したのでございます。

 さらに、その舞台の設定も、南条文若時代の浪曲と同様、客席を暗くせず、照明を付けたままだったということでございます。
 これにはテイチクの宣伝部も驚いたが、三波は当然という顔で、

「お客様の喜ぶ顔を観ることが大事なんです。本当にお客様が喜んでおられるか、顔を観える様にするために明るくするんです」

 そして、三波の前例破りのもう一つが、衣装でございます。
 時は昭和三十二年の十二月、浅草の国際劇場でのこと、六月のデビューから背広姿で歌っていた三波春夫でございますが、それを良しとしない者がおりました。妻のゆきでございます。

「三波の歌の世界にスーツなど似合っていない。何よりも、この人は洋服の顔じゃない」

 変な勧め方があったものでございますが、当の三波春夫も同じことを考えておりました。しかし、テイチク側が断固反対した。

「何を仰ってるんです! 歌手はスーツと決まっているのです。そんな変なことをしたらファンが離れていきますよ」

 しかし、三波春夫とゆきが決めたら、どんなことがあっても覆る訳がない。
 その時、丁度、余興のために新調した、北詰の家紋である「下り藤」を散らして入れた着物があった。それを見たゆき、

「あなた、これでどうでしょう」
「うん、いいね。それで行こう」

 三波春夫も頷くと、早速、舞台衣装を切り替えた。
幕が上がると、上手から袴姿の三波春夫が、ゆっくりと、そして堂々と登場した。一瞬の間があり、その後、ワアッと拍手と歓声の渦が三波春夫を包み込んだ。
 ここに、男性歌手として初となる和服歌手が誕生したのでございます。

 浪曲師から歌手へと、派手な転身を果たした三波春夫でございますが、それまでの浪曲師としての生き様を、少しずつ歌謡界へと融合させ、三波春夫、着実に自分の歌藝を創り上げていったのでございます。


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