【昭和講談】加藤喜美枝「お嬢、存分に歌いなさい」 最終回(全三回)

 大けがを負った和枝と、母親の喜美枝が高知から帰って参りますと、予想通り増吉は激怒し、もう歌手の真似事などならんと喜美枝にきつく言い渡します。

 喜美枝としても可愛い娘をあんな目に遭わせたのですから従わない訳には参りません。
 しかし、和枝の方はもう人前で歌が歌えないことに落胆し、まるでしおれた花の様にしょんぼりした毎日を送ることになったのでございます。

 しかし、昭和二十三年、桜も咲き誇る四月に入り、一人の男が喜美枝の所に訪ねて参ります。
 玄関で素っ気ない態度を取る喜美枝。
「あの、どなた様でございましょうか」
「すいません、私はこういう者です」

 男が差し出す名刺には「横浜国際劇場支配人 福島博」とある。
 横浜国際劇場、喜美枝にとっては家族で出かけたこともある、名劇場でございます。この名刺を観て、喜美枝は慌てて座り直した。
「大変失礼しました。あの、どの様なご用でしょうか……」
「実は、美空和枝さんに、私どもの劇場に出演して頂きたくて、今日は参りました」

 福島という男の話を聴けば、人気女性歌手の小唄勝太郎の舞台で、勝太郎の袖を引きながら一緒に舞台に上がる子供を探しているとのことで、さらに、引いて上がった後に一曲歌えるとのことでございます。
 それを聴いた喜美枝は、

「もちろん、喜んで出演させて頂きます!」

 即座に二つ返事で引き受けた。
 これまでは客として入っていた横浜国際劇場に出演できる。これには増吉も喜んで賛成いたします。
 この時、喜美枝は働盛りの三十四歳、

「よし、もう一度仕切り直して、この子に思う存分歌わせてやろう」

 喜美枝はそう心に誓ったのであります。

 そして、昭和二十三年五月一日、横浜国際劇場での初舞台でごいます。
 ほんの端役とは言え、スポットライトを受けて歌えるとあって、和枝も大いに張り切り、しかも舞台の反響は上々でございます。
 わずか五日間の出演でしたが、七月の公演にも呼ばれ、そして、横浜国際劇場の専属にと、美空和枝は順調に仕事を拡げて参ります。

 さあこれから、という時でございます。和枝を誘った支配人の福島博が劇場を辞めると打明けてきた。さらに、喜美枝に向かって、一緒にやらないかと持ち掛けた。
「加藤さん、美空和枝は凄い才能ですよ。私がマネージャーを務めますから一緒にやりましょう」

その言葉に喜美枝も決意する。
「わかりました。よろしくお願いします」

 新しいマネージャーを迎え、美空和枝の芸能活動は本格的に動き出したのでございます。


 昭和二十三年の十月。横浜国際劇場の専属を辞めた和枝は、今度は日劇小劇場のショーの舞台に立つチャンスを掴みます。
 しかし、その舞台の座長である喜劇役者・伴淳三郎がぽつりともらした。
「美空和枝じゃ、なんか大きさを感じられないなあ。もっといい名前ないかい?」

 その伴淳三郎の言葉を聴いた喜美枝は、即座に切り返した。

「じゃあ、美空ひばりでどうでしょう。この子は五月生まれですし、五月のきれいな空を自由にひばりが歌い飛び回るなんていいじゃないですか。ひばりだけでは商売女みたいですけど、『美空ひばり』なら聞いた感じもいいですし」

 これには楽屋にいた面々も大いに賛同。まさに、美空ひばりが誕生し、飛び立つ瞬間でございます。

 そして、命名者の喜美枝は、和枝を「自分の娘」という立場から一歩引いた目でみるために、和枝のことを「お嬢」と呼び始めます。
「自分の娘を『お嬢さん』と呼ぶのはおかしいからね。だから、『さん』を取って『お嬢』ね。お嬢、これからも存分に歌いなさい」

 さあ、名前が良かったのか、それとも美空ひばりの実力か。日劇小劇場から、今度は日劇の舞台に立ち、さらに、映画にも出演するという、トントン拍子で美空ひばりは出世して参ります。

 映画「のど自慢狂時代」で台詞を貰い、続いての「踊る竜宮城」ではオリジナルソング「河童ブギウギ」を歌い、それはレコードにも吹き込まれた。
 そして、昭和二十四年十月十日、美空ひばりが主題歌も担当する映画「悲しき口笛」が封切りいたします。

 その「悲しき口笛」が公開され、数日たったある日のことでございます。
「おい、聴いたぞ、聴いたぞ」

 増吉が慌てて家に飛び込んで来た。
「さっき魚河岸へ行こうとした途中でレコードが聴こえてきて、それがお前、和枝の『悲しき口笛』じゃねえか。河岸へついたら若い衆が俺に挨拶に来るんだよ『増さん、いい歌ありがとう』って。俺も涙が出てきちまったよ」

 増吉の言葉通り、商店街に響く「悲しき口笛」の唄。この状況を証明するかの様にレコードは十万枚を超える大ヒットでございます。
 まさに、喜美枝とひばりが待ちに待っていたヒット曲。まだ十二歳ながら、美空ひばりは、夢のスターへの一歩を踏み出したのでございます。


 しかし、喜びもつかの間、翌年の昭和二十五年一月の朝の事でございます。新聞に、美空ひばりについての批判コラムが掲載された。
 タイトルは「ブギウギこども」、当時、流行していたブギウギと、それを唄う十二歳の美空ひばりを指している訳でございます。

“近頃でボクの嫌いなものはブギウギを唄う少女幼女だ。一度聴いたら(というより見たら)やりきれなくなった。あれはゲテモノのたぐいだ。あれをやらしてトクトクとしている親のことを思うと寒気がする。あれをかけて興行している奴のことを思うと張り倒したくなる。あんなものは見に行くものではない。みんなが見に行かなければ自然と消えていくだろう”

 美空ひばりとその家族を巻き込んでの酷いけなし様でございます。
 酷評したのは、詩人で作詞家のサトウハチロー。あの「リンゴの唄」を書いた有名作詞家でございます。

 そのサトウハチローが新聞紙上で、十二歳の女の子が色気振り撒き、情感たっぷりにブギを唄う姿を痛烈にこき下ろしたのでございます。

 これに増吉は激怒いたします。
「この野郎! 俺は娘に養ってもらってるわけじゃねえ。何にも知らないくせに好き勝手言いやがって。面白え、ひとつ殴り込みに行ってやらあ」

 怒り収まらぬ増吉にひばりが聞いた。
「ねえお父さん、ゲテモノって何?」
「ゲテモノってのはなあ。伊勢佐木町に行ってみな。ゲテモノ屋ってのがあって、そこではイモリやらマムシやら、そんなのを食わせるんだ。そんなものを喰って喜んでやがるのをゲテモノ好きっていうんだ」

 これにはひばりもショックを受けてしょげ返る。
 それを見た喜美枝は何を思ったか、鋏を持ち出してそのコラムを切り抜いて毎年参詣する成田山のお守りに詰め込んだ。

「お嬢、これをいつまでも持ってなさい。こんなことでくじけてはいけないよ。この悔しさをばねにして、いつかこの詩人先生も認める立派な歌手になるんだよ」

 そう言ってひばりを強く抱きしめると、ひばりも喜美枝の胸の中で泣き出したのでございました。

 それから十二年の月日が流れ、昭和三十七年のことでございます。
 美空ひばりは二十五歳となり、幾つもヒット曲を生み、レコードは五千枚を超えるセールスを記録。すっかり日本中に親しまれ、国民的歌手と呼ばれるほどになっております。

 そんな中、新曲レコーディングのための、レコード会社、コロムビアでの打合せの折でございます。

 そこで、喜美枝はコロムビアの担当者から渡された歌詞を見て心の中で驚いた。何と、そこには作詞・サトウハチローとある。
 喜美枝は担当に尋ねた。

「これは美空ひばりに唄わせるのを承知で書かれた歌詞でしょうね」
「はい、そうでございます」
「間違いないでしょうね?」
「はい、間違いございません」

 喜美枝は心の中で「勝った」と一人満悦したと申します。
 こうして昭和三十七年、レコード「わが母の姿は」と「ほんとかしら」がリリースされた訳でございます。


 美空ひばりの活躍ぶりはもうネットでいくつも検索出来ましょうが、そのマネージャーであり、プロデューサーとして彼女を支えてきた母・喜美枝は、美空ひばりについて聞かれた時、よくこう語っていたそうでございます。

「皆さんは、私がお嬢の才能を見出し、伸ばしたとよく言われますけど、私にはいつも、押し入れの奥で蓄音機を抱きかかえる様にして聴いていたあの子の姿が思い浮かぶんです。それで、『ああ、そんなに歌が好きなら、それなら歌手にしてあげよう』と、そう決意したんです。私はお嬢の好きなことを思う存分やらせてあげただけなんです」

 加藤喜美枝は昭和五十六年に脳腫瘍のため、六十八で亡くなりましたが、火葬の際に美空ひばりが大きな声を上げながらかまどに向かおうとしたところを高倉健、萬屋錦之介の二人に強く引き止められたと言います。
 これも、喜美枝と和枝、母と娘の深い絆の表れでございましょう。

 自分の子に、好きな道を思う存分歩かせた母の物語でございました。
 長い一席、お付き合い頂き、まことにありがとうございます。


                                完

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