【昭和講談】永田雅一「砂上の映画楼閣』」 最終回(全三回)

 映画産業が転換点を迎えたのが昭和三十三年でございまして、この年に映画の入場者数が頂点となって以降、映画の入場者は下り坂となっていく訳でございます。

 その少し前から、永田雅一が研究を始めたのが70ミリフィルム映画でございます。

 普段の映画が35ミリフィルムでございますから、70ミリフィルムとなれば、映像はより大きく、音は立体音響で響くという、その迫力は圧倒的でございます。
 映画の本場アメリカでは、この70ミリフィルムでローマ時代を描いた「ベン・ハー」が、ロングラン上映になるほどの大好評でございました。

 時は昭和三十五年九月、東京京橋の本社、企画会議でのことでございます。その席上、永田は幹部連中に言い放った。
「おい、以前より温めていた『釈迦』を製作するぞ」

 永田は熱心な日蓮宗の信者ですから、仏教への造詣も深く、いずれ「釈迦」の映画は撮るだろうと誰もが思っておりました。だが、次の言葉に会議室の幹部連中もざわついた。
「良いか、この『釈迦』は70ミリで撮るぞ。大映映画の力を見せてやるんだ」

 翌年、昭和三十六年一月、帝国ホテルでの新聞記者会見で、永田は全身に自信をみなぎらせ一席ぶちます。
「最近、映画の斜陽化と言われているが、決してそんなことはない。私は映画の発展に生涯を打ち込んできた。その思いを今度の『釈迦』で存分にお見せすることになるだろう」

 久々の永田ラッパに記者たちも色めき立つとラッパはさらに鳴り響く。
「テレビは既に六百万台普及し、三十七年度末には一千台になるとも言われているが、映画の迫力に及ばない。しっかりした内容の映画を大映が提供する限り、日本映画はいつでも盛り返すことができる」

 そして十一月、映画「釈迦」が公開いたします。東京有楽町の有楽座は公開初日から大入りの満員。土日ともなれば、入場者の列がビルを二回りするほどで、結局、四十五日興行だった予定が八十日まで延期になるという人気ぶりでございました。

 この成功の裏で、永田は車での移動の度に「有楽座を通ってくれ」と言いつけ、自慢のロールスロイスで有楽座を一回りさせていたということで、人の列が映画館に入っていく様を見て、何度も頷いていたということでございます。


 しかし、そんな永田の思いとは裏腹にテレビの勢いは凄まじく、それは冬枯れの草原に火を放つが如く、ゴウゴウと燃え広がるのでございます。

 テレビ誕生が昭和の二十八年で、そこから二年、昭和三十年代はまさにテレビの成長期。
 即時性がテレビの特徴なら、野球中継、相撲中継、プロレス中継と注目を引き、止めは昭和三十四年の皇太子ご成婚パレード。この中継に日本中がテレビに噛り付いた。
 それだけではございません、次から次へと出てくる番組の充実ぶりも凄まじく、バラエティなら「私の秘密」に「夢で逢いましょう」「おとなの漫画」に「シャボン玉ホリデー」。
 テレビドラマは「事件記者」に「七人の刑事」、「バス通り裏」に「三匹の侍」。三十八年には「花の生涯」で大河ドラマがスタートする。
 子供向けなら「月光仮面」に「少年ジェット」、「七色仮面」に「遊星王子」。三十八年アニメも始まる。「鉄腕アトム」に「オオカミ少年ケン」、「ビッグX」に「鉄人28号」。
 海外ドラマも見逃せない「名犬ラッシー」に「ララミー牧場」、「スーパーマン」に「パパは何でも知っている」。
 忘れちゃいけない大阪コメディ。「やりくりアパート」に「番頭はんと丁稚どん」、「当たり前田のクラッカー」藤田まことの「てなもんや三度笠」と、傑作、名作揃いの三十年代。
 ケネディ暗殺も三十八年でございまして、庶民市民がテレビの前に釘付けになるのも無理はない。

 さあ、この勢いには映画五社は青息吐息。町の映画館がボーリング場へと変わり始め、会社の方は不動産、タクシー業と、今で言うなら副業に精を出し、存続の活路を見出します。

 しかし、永田大映は、そんな副業に甘んじることなく、あくまで映画で勝負を仕掛ける心意気でございます。
「組合の労働争議もあり、映画作りも儘ならぬところもあるが、気にするな。少数精鋭で商売になる映画を作ろう」

 だがそれが仇となり益々赤字を膨らませ、さらに追い込まれていく訳でございます。

 時は過ぎ、昭和四十五年、大映の経営がいよいよ崖っぷちという中、永田雅一喜びの一瞬が訪れます。
 プロ野球ロッテオリオンズのパ・リーグ優勝でございます。

 大の野球好きだった永田は、昭和二十一年の大映ユニオンズからオーナーを務め、以来、ずっと球団の社長を務めておりました。
 本業が苦しい中でもロッテと提携し、ロッテオリオンズ社長を務めていた永田雅一。
 そのオリオンズのペナントレース制覇で、しかも、優勝を決めた所が、自身の財産を投げ打ってまで建てた東京スタジアム。本人の喜びも一入でございます。

 優勝決定の瞬間、グラウンドに飛び出す永田雅一。同じくなだれ込んだファンに捕まると、監督よりも先に胴上げされた。
 球場のカクテルライトに照らされて一回、二回と宙に舞う永田にファンから喜びの声が上がる。
「オリオンズ優勝ありがとう」
「永田オーナーおめでとう」
「これからもオリオンズを頼むよ」

 ファンからの暖かい言葉にグラウンドで泣き腫らした永田雅一。
しかし、その翌年の昭和四十六年一月、大映は、オリオンズのロッテへの譲渡を発表致します。理由はもちろん資金難でございます。
 これで永田のプロ野球のオーナー人生も幕を下ろしたのでございます。

 会見で、選手の名前を読み上げた永田。
「オリオンズの選手たちよ、成田、木樽、山崎、有藤……」
 涙にくれながら選手を呼ぶ姿は今も球史に残るものでございます。

 その会見で一人の記者から質問が飛んだ。
「永田社長、あなたは映画より野球の方へ進むべきではないですか」
「いや。オリオンズはいわばワシの弟みたいなものだ。別れるのは忍びない。だが映画はワシ自身だ。切り離すことなどできんのだ」

 どこまでも映画に生きた男でございます。


 そして、時は昭和四十六年十月。京橋の大映本社ビルの会議室。
朝九時から永田社長はじめ役員が集まり、会議が執り行われた。議題はもちろん大映の進路でございます。
 この年の経常損失は二十九億六千万を計上し、これまでに不動産、有価証券など、処分した資産が六十一億。それでも残った負債が五十億円と、ここまで来ればもう先は見えております。

 永田は会議中、時に宙を観て、時に項垂れて、押し黙って皆の意見を聞いておりました。
 会議の流れも決まり、皆、社長の一言を待っておりますと、永田はゆっくりと立ち上がった。
「皆、ここまで本当にご苦労だった。良い映画を、庶民が喜ぶ映画を作ろうと三十年近く頑張ってきたが……」

 言葉に詰まると、永田の体が震え出す。
「まさかテレビに、あんなテレビごときに、……」

 見る間に顔が紅潮し、机をバンバンと叩き出した。
「あんなテレビごときに。番組を垂れ流すだけの作品への思いも感じられん、あんなテレビごときに大映の映画が負けるなど!」

 そこまで言って卒倒する永田雅一。周りの者に慌てて抱えられると、そのまま病院に運ばれた。病院で目を覚ました永田は、病室で会議の最終結論を知らされて、

「映画は……、映画だけは手放したくなかったな」

そうつぶやき、静かに涙を流したということでございます。

 ふた月後の十二月二十八日、会社は上場廃止となり、永田の無念を詰め込んで大映はとうとう倒産いたします。
 その倒産の速報がテレビで流されたというのは皮肉でございましょう。

 大正から昭和にかけ、庶民の娯楽として君臨した映画でしたが、テレビという時代に飲み込まれていく様は、まさに砂上に建った楼閣が沈み込んでいく様でございましょう。

 そんな砂上の楼閣で孤軍奮闘した映画界の風雲児、永田雅一の物語。
 長い一席でございましたがお付き合い下さり、まことにありがとうございます。


                                完

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