【昭和講談】永田雅一「砂上の映画楼閣』」 第一回(全三回)

 昨今、インターネットが日常になりまして、調べものだけでなく、ネットショップやネット予約など、様々な所でインターネットのお世話になっております。
 「娯楽」についてもそうでございまして、ネットゲームやネットでの動画鑑賞なんていうものも日常的になって参りました。

 ひと昔前は「娯楽」と言えば「テレビ」が主流でございましたが、時代の変遷も早いものでございます。

 そのテレビが登場したのが昭和二十八年でございまして、その当時の娯楽と言えば、それは「映画」でございます。
 週末の新作封切りを楽しみにしていたファンも大勢おり、映画館に沢山の人が押し寄せたものでございます。

 それが三十年代に入りますと、その勢いは陰りを見せ、昭和四十年代には、もう「娯楽」は「テレビ」という時代となり、こうしてメディアの代替わりが起こった訳でございます。 

 そんな「時代の趨勢」の中で己が人生を映画に捧げた男がおりました。それが今回の演題、映画界の風雲児・永田雅一でございます。


 永田雅一、生まれは明治三十九年、京都市でございます。
 その容姿と言えば、それこそネットでもご確認頂けますが、オールバックの広い額、鋭い目つきに眼鏡をかけて、口ひげという面構えでございます。

 日活の庶務課見習いを振出しに、持って生まれた巧みな話術で頭角を現した永田青年は、

「映画は庶民の夢だが、俺の夢でもある。俺はこの映画界で男になって見せる」

 そう豪語し、映画の道を真っすぐに突き進んだのでございます。

 そして、終戦も過ぎた昭和二十二年、紆余曲折を経て永田雅一は四十一歳でとうとう「大映株式会社」の社長に昇り詰めますと、

「大映での私の使命、それは良質の日本映画を世に送り出すことである」

 そう公言し、映画にその生涯を捧げたのでございます。

 さあ、その永田大映の名作といえば……、これがまあ、少し挙げるだけでも、手足の指では全く足りない。
 軽くご紹介いたしますれば、先ず、ベニス映画祭グランプリは黒澤明の「羅生門」、カンヌ映画祭グランプリは「地獄門」。
 勝新太郎を売り出した「悪名」に「兵隊やくざ」「座頭市物語」。市川雷蔵大当たりは「破戒」「ぼんち」に「眠狂四郎」。昭和のクールガイ田宮二郎は「暴れ犬」に「『女の小箱』より 夫が見た」そして「黒の試走車」。
 巨匠作品も数多く、溝口健二メガホンは「雨月物語」「山椒大夫」に「赤線地帯」。あの市川崑なら「おとうと」に「野火」「炎上」がある。文芸作品挙げるなら、山崎豊子原作で「女系家族」に「女の勲章」「白い巨塔」。
 親子で楽しむ特撮なら「大怪獣ガメラ」に「大魔神」と、今も名を聴く名画の数々。永田大映、名作の宝庫でございます。

 その永田雅一の売出しは、やはり「羅生門」でございます。
 時は昭和二十五年、東宝の労働争議で一人の若手監督が放り出され、永田は彼を大映へと引き取った。それがあの黒澤明で、彼が温めていた企画が「羅生門」でございます。

 永田雅一は「羅生門」のタイトルを聴いて大いに期待し撮影を許可しましたが、出来上がった作品を観て閉口いたします。
「これは何だか難しくてよく解らん。こんなもの売れんぞ」

 しかし、その映像美は見事なもので、永田の心に強く引っ掛かる。
「これは日本では売れんが海外なら日本の美として受け入れられるかも知れんな」

 そこで永田は「羅生門」を企画宣伝部に回し、「海外に出せる様やっといてくれ」と丸投げしたのでございます。

 さて、翌年の昭和二十五年九月、社長室で労働組合と賃金交渉会議の最中でございます。宣伝担当がそっと永田の下にやって参ります。

「社長、すいません。記者の方たちがどうしても社長の言葉が頂きたいとのことでロビーに集まっておるんですが……」
「何? 何の言葉だ」
「それがあの……、例の映画祭のことだそうで……」

 何のことかさっぱり分からず会議を中座して永田がロビーに降りると、待っていた新聞記者が十数名、皆拍手をして出迎えた。
「これは一体何事だ」
「社長、グランプリおめでとうございます」
「何だ、そのグラーンプーリというのは?」
「グランプリですよ」
「だから、それは何だと言っているんだ!」

 永田は記者たちに馬鹿にされたと思い社長室に戻って参ります。
 実は、あの「羅生門」、企画宣伝部が海外販売に向け、先ずは、海外はイタリア、ベニスの映画祭へ出品していたのです。それが見事にグランプリに輝いたということで、その報せが届いたばかりだったのでございます。

 永田本人はこの件を丸投げしたために、全く頭から抜け落ちており、担当から説明を受け、ようやく納得すると、すぐさまロビーに引き返した。
 残っていた記者を見つけ、手を振り声をかける。

「いやあ、皆、取材ご苦労。グランプリ受賞だが、やはり私の目に狂いはなかったということだよ」

 もう喜色満面有頂天でございます。
「どうだ、世界の映画祭が日本の映画を認めたのだ。いや、この永田大映が認めさせた訳だ」

 得意顔で記者たちに喋り続ける永田雅一でございますが、実は、記者を前にしての、この吹聴・宣伝は、永田の真骨頂でもあった訳でございます。

 大映の社長に就任した時にも、永田雅一はぐるり囲んだ記者に向かって、調子のいい言葉で大映を高らかに喧伝しておりました。

「いいか、君たちも大映の株を購入したまえ。配当は五割は出す。しかも、売る時は倍の金額になっておるぞ」
「今、東映は二本立てなどと映画を安売りしとる。だが、大映は違う。本格映画を一本で売り出す。東映の特売饅頭がいいか、大映の高級カステラがいいか、勝負だよ」

 勢いよく出るこの永田の言葉にマスコミはここぞとばかりに飛びつき、そしてあだ名をつけた。そのついたあだ名が「永田ラッパ」でございます。
 時に力強く、時に流暢に吹かれる「永田ラッパ」は新聞や週刊誌を賑わしますが、当の永田雅一は上機嫌でございます。

「ラッパ。実に上等ではないか。私のラッパはホラではないぞ。社員をやる気にさせ、大いに盛り上げる。まさに高らかに吹かれる進軍ラッパだ」

 こうして、永田雅一は日本映画界を大いに盛り上げた訳でございます。


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