【昭和講談】長谷川一夫「傷と引き換えた映画界の近代化」 第一回(全三話)

 「昭和講談」第一回目に取り上げるお題が、昭和が生んだ二枚目俳優「長谷川一夫」でございます。
 この長谷川一夫さん、昭和五十九年二月に七十六歳でお亡くなりになりますが、そのふた月後に国民栄誉賞を授かるということで、まさに「国が認めた二枚目俳優」と言ってもいい訳であります。

 長谷川一夫が活躍し始めた昭和の初めは大衆の娯楽と言えば、テレビではなくラジオや映画という時代。その中で映画は毎週末に2本、3本新作が封切りされるという盛況ぶりで、「映画スター」という言葉が生まれ、ちやほやしていたのもこの頃でございます。
 その中でも長谷川一夫の人気ぶりは頭抜けたもので、涼しげな眼もとにシュッと筋の通った鼻、哀愁を帯びた唇、特に正面向かって右斜めから映した長谷川一夫の左おもては、流し目も美しく、スクリーンに映し出される度に、世の女性たちは熱い視線を送り、映画館は雪の降る真冬でも暖を取る必要がないほどだったとか。
 そんな「銀幕の寵児」長谷川一夫。実は彼には世間を驚かした傷害事件の被害者だった過去もあったという訳です……。

 時は明治四十一年、二月二十七日、長谷川一夫は京都・紀伊郡堀内村、今の宇治市六地蔵で生まれます。その叔父が伏見で造り酒屋を営み、道楽で芝居小屋を経営していたというから、一夫は幼いころから芝居の沼にはまります。
 五つで「菅原伝授手習鑑」寺子屋の管秀才で初舞台を踏むと、六つで関西歌舞伎・中村福円一座に加わり、九つで東京の舞台にも立つという出世ぶり。この早世ぶりを目の当たりした母親のマス、「この子は役者で大成するで。早いとこ出世させよと思たら一番有名なところに弟子入りさせなあかん」と一夫の手を取り大阪へ向かいます。まあ随分と積極的なお母さんがあったもんで。

 一夫を連れて向かった先は、今の東心斎橋・宗右衛門町、大正当時は大坂・玉屋町。訪ねたお宅の主というのが、上方歌舞伎の大看板、初代中村鴈治郎でございます。
 道頓堀はうどんの名店「今井」の店先に今でも岸本水府の鴈治郎を詠んだ句碑が建つ。「頬かむりの中に日本一の顔」。これは鴈治郎の当たり役「心中天網島」河庄の紙屋治兵衛の頬かむりをして花道に佇む姿のこと。
 頬かむりで隠しても、その中は隠しようの無い日本一の顔があるという、岸本水府の粋な句で、初代鴈治郎の人気ぶりを今に伝えております。

 長谷川一夫と母マスは客間に通され、そのすぐ後に入って来た鴈治郎。歳の頃なら五十過ぎ、ひょろりと痩せた中背で細い目に鼻筋の通った細面、着流しに兵児帯姿で実にリラックスした様子でよいしょっと長火鉢の隣に座ります。その隣には絣の着物に角帯締めた、息子・長三郎が折り目正しく座る。
 鴈治郎が訪ねます「話には聴いてるで、随分と芝居が好きやってな。お前さんの名は?」「あーいぃ、わっちの名は長谷川一夫と申しますぅ……」「こりゃ相当やで」。
 そんなこんなで長谷川一夫は、鴈治郎の長男、林長三郎を師匠として、林長丸の名前をもらい、晴れて成駒屋の一員となりました。

 さあ、長谷川一夫改め、林長丸は晴れて成駒屋の住込みの弟子となりました。しかし、しかし華やかな世界とは裏腹に、歌舞伎の弟子修行の厳しさというのは想像以上。
 朝早くから師匠はもちろん、大旦那の鴈治郎の身支度から荷物運びに始まり、楽屋掃除に化粧前の準備、舞台の後見に自分の出番、さらには師匠の息子の相手から、新地のクラブのライン予約……は、まだ出来ない。今ならブラックとも呼ばれるような朝から晩までの忙しい毎日。しかし、名人鴈治郎の芸を間近に観て吸収出来る訳ですから、長丸本人は大層充実しておりました。
 九つで弟子入りし、来る日も歌舞伎に明け暮れた長丸も気づけば十八。大正十五年の十月のこと、突然大旦那である中村鴈治郎に呼ばれます。

                        第二回へ続く……

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