【昭和講談】林正之助「大衆を喜ばすんや!」 最終回(全三回)

 さて、ようやく出演禁止が解けた桂春團治。南地花月の高座に上がると、その春團治見たさに、お客が寄席に殺到いたします。

 だがしかし、そんな盛上がりがあったとは言え、寄席の主役はもう、落語から萬歳へと移り変わろうとしておりました。
 その萬歳の中心が、コンビを組んでまだ二年余りというエンタツ・アチャコでございます。

 さらに吉本は、このエンタツ・アチャコの萬歳の斬新さを印象付けるため「萬歳」の文字を刷新いたします。これまでの草かんむりの「萬歳」から「漫談」の「漫」の字を用いた「漫才」をあてたのでございます。
 これを提案したのが吉本興業文芸部・宣伝部の部長、橋本鐵彦。

「御大。この『漫』の字には『広いさま』や『欲しいまま』とか、『氾濫する』『はびこる』『しまりがない』といった意味があります。これこそ、これからの漫才をよく表しているんじゃないでしょうか。何よりもエンタツ・アチャコには旧い『萬歳』は似つかわしくない。御大の力で新しい漫才を作りませんか」
「なるほど、新しい漫才か……。よし分かった、これからはこの字にするで」

 橋本鐵彦の「御大の手で新しい漫才を」という、この言葉に正之助も一気に心が動いた。

「せやけど、エンタツ・アチャコの漫才をもっと広めんとあかんで。さて、どうするかや…。そや、ラジオや。ラジオで漫才を流すのはどうや」

 こうと決めたら正之助、機を見るに敏。
 早速、春團治の事件以来冷戦状態だったNHK大阪、通称BKに、和解話を持掛けて、吉本芸人のラジオ出演を解禁致します。

 そして、時は昭和九年六月十日。エンタツ・アチャコの漫才が寄席から中継されることになったのでございます。

 ここで、話は横道へと入りますが、この時の漫才の表記は、「二人漫談」だったそうで、これは、新しくなった「漫才」の表記についてBKの方が難色を示したということでございます。
 BKとしては、旧い「萬歳」の表記は時代にそぐわないとしながらも、しかし、新しい「漫才」の表記では、まだ一般に浸透していない、そこでの妥協点が「二人漫談」だったそうでございます。

 そんな背景もあった、エンタツ・アチャコの初のラジオ漫才でございますが、舞台にかけたその演題が、名作の誉も高い、あの「早慶戦」でございます。
 昭和八年の秋、神宮球場の早慶戦を見たエンタツが作り上げ、寄席では爆笑に次ぐ爆笑の鉄板ネタでございます。

 六月十日の放送当日、寄席には中継の機材が持込まれ、客入れも済み、会場がざわつく中、林正之助、舞台横で見守ると、舞台上手から登場するは、待ってましたのエンタツ・アチャコ。
 いよいよ「早慶戦」が始まった。が、しかし、何かおかしい。林正之助が首をひねった。

「なんや、全然笑いが起こらんやないか、どういうこっちゃ」

 普段なら爆笑と拍手の渦が寄席中に響き渡るはずが、客席はシンとしている。わずかに笑い声が起こってもすぐ静まる。

 これはおかしいと正之助、客席に廻り舞台を見てみると、舞台袖には、客席に向かってよく観える様に、大きな紙が貼られている。
 そこに書かれていたのはなんと、「放送中はお静かに」の文字。

「あかんわ、これではお客が笑わん訳や。舞台の漫才師よりも客の方が緊張しとるわ」

 流石の正之助もこれには文句を付けられない。
 しかし、ラジオ中継の力は絶大で、日本中にエンタツ・アチャコの「早慶戦」が流れると、寄席には二人見たさにお客さんが殺到した。
 これを契機に漫才人気は全国区へと波及したのでございます。

 ラジオ放送が大成功し、その余韻に浸っている昭和九年の八月の暑い盛りのことでございます。
 アチャコが東京巡業後に中耳炎で入院した。さらにその入院中に、今度はエンタツが林正之助の下を訪ねて来た。

「御大、すいません。アチャコとのコンビを解消させてもらいます」
「ど、どういうこっちゃ。ひょっとして、お前まで謀反を起こす気かい」
「そやおまへんがな御大。このエンタツ・アチャコ、私が自分ら二人の台本を書いておますやろ」
「おう、そうや」
「にも拘らず、ギャラはと言えば五分五分の折半やおまへんか。幾ら何でもこれは納得できまへんで」

 これには「ううむ」と唸るしかない正之助。ここでエンタツのギャラを上げると、今度はアチャコが何をいうか分からない。それはそれで、また火種となることは明らかでございます。

 その正之助の逡巡を見て、ここぞとばかりエンタツ、畳みかけた。

「もう次の相方も決めてますよってに。若いけど、見込みのある杉浦エノスケに話はもう通しておます」

エンタツは既に若手の杉浦エノスケを口説き落としてコンビ結成の約束をしていた。これを聞いた正之助。

「何ちゅうやっちゃ。どうせ、若いエノスケやったらギャラも七三にできると踏んでのことやろ。もうええ。もうこうなったら、何を言うてもどうぜ聴かんやろ」

 正之助もあきれ果て、あっさりとコンビ解消を承諾した。
 しかし、可哀そうなのはアチャコでございます。病院のベッドでコンビ解消を正之助に聞かされて、「そんな、それは殺生でっせ」と泣いたと伝わっております。

 結局、エンタツは杉浦エノスケと、アチャコは以前に組んでいた千歳家今男と再びコンビとなり、伝説のエンタツ・アチャコは四年四か月ほどで終止符を打ったのでございます。

 漫才に革命を起こしたエンタツ・アチャコですから、その解散は大きなニュースとなり、街ではその噂で持ち切りとなった。

「御大、エンタツ・アチャコの解散は痛手でございましたな」
「そんな過ぎたこと、いつまでもグチャグチャ言うても進まへんで」
「せやけど御大、もうあの二人の漫才は見られまへんで」
「花月の舞台では、あの漫才はもう観られへんが、映画やったらどないや。映画の共演で、二人が揃うこともできるやろ。客は二人の復活やと思って観に来るで」

 この提案で製作したのが、エンタツ・アチャコが共演した映画「あきれた連中」で、エンタツとアチャコのコンビ芸が随所に盛り込まれたコメディ映画でございます。

 昭和十一年の正月興行で「あきれた連中」が封切られると評判が評判を呼び、漫才ファンと映画ファンの二つが映画館に押し寄せ、正之助の目論見通り映画は当りに当たったのでございます。

「どや、大衆の欲しがるものを満を持して提供する。これこそが吉本興業や」

 得意満面の正之助でございます。
 しかしながら、昭和に入り漫才を確立し、ラジオで漫才を頂点に押し上げ、映画で演芸との相乗効果を引き出すという、その手腕は興行師として本物だった訳でございます。

 だが、そんな林正之助の快進撃に待ったをかけたのが、あの太平洋戦争でございます。
 大阪、神戸の大空襲で吉本の小屋はほぼ壊滅。これでは寄席興行は出来ないと、林正之助、吉本所属の芸人を、アチャコを残し、全員解雇いたします。
 その苦渋の決断に際し、吉本としては前代未聞、芸人たちの借金を全てチャラにして、開放したということでございます。

 さて、全てを失った吉本興業のその戦後の動きをざっとご紹介いたしますと、戦後すぐの混乱期に銀行から借金を致しまして、映画経営とキャバレー経営に乗り出しますと、戦後、娯楽に飢えていた大衆は映画に殺到し、映画館経営が軌道に乗り、さらに、会社形態を株式会社とし、姉の吉本せいが会長、弟、林正之助が社長に収まった、という動きがございました。

 しかし、昭和二十五年三月十四日、吉本の大黒柱、精神的支柱だった吉本せいが亡くなった。
 この深い悲しみの底で、林正之助、とてつもない重圧と責任が圧し掛かってくるのを感じたのでございます。

 戦後の映画館経営に活路を見出した吉本に対し、松竹は昭和二十二年九月に寄席劇場「戎橋松竹」を開場し、着実に演芸復興の一歩を踏んでおりました。

 さらに、昭和二十四年九月からはNHKがラジオ「上方演芸界」、さらに二十年代後半に入るとアチャコ主演の「アチャコ青春手帖」「お父さんはお人好し」が放送され、ラジオ演芸が隆盛を極めておりました。
 この状況の中で、吉本興業会長、林正之助は動かなかった。いや、動けなかったのでございます。

「もう芸人を世話するのは勘弁してくれ。あの戦争で、寄席もできずに芸人達を街に放した。あの辛い記憶がまだ残っとるんや」

 しかし、昭和三十三年に松竹が座席数一〇〇〇というマンモス演芸場「角座」を建てると、松竹との間に大きな溝を開けられ、吉本も黙ってはいられなくなった。

 松竹の角座の盛況、これを見て、吉本興業事業部長の八田竹男が正之助に直談判した。

「社長、梅田花月の映画館を演芸場に改装して、吉本も演芸の御旗、吉本の『花のれん』を掲げんと、松竹との差は開きっぱなしでっせ。吉本も演芸へ復帰すべきのと違いますか」
「ドアホ。松竹の角座にはキラ星の様な芸人が出てるが、吉本はアチャコ一人だけやないか」
「角座に出てる芸人のほとんどが吉本の譜代です。本家が演芸の旗印を上げれば彼らは必ずこちらへやってきます」
「そこまで言うんならやってみい。そやけど、言っとくで、赤字を出したらお前ら、淀川の堤で切腹さすで」

 渋ってはいるが正之助、八田の熱意に内心、欣喜雀躍、胸躍る気持ちでございます。

 そうなると話は早い、梅田花月を劇場に改装し、かつての吉本芸人に片っ端から声を掛け、鳳啓助・京唄子、玉松ワカナ・一郎、東五九童・蝶子らをかき集め、それでも数が足りないので、演芸と喜劇の二本立てにして、アチャコを中心に座組をし、脚本には人気作家の花登筐を招聘し、そのつながりで東宝芸能から佐々十郎、大村崑らを引入れて、吉本上層部が吟味に吟味を重ね、これ以上ない豪華なメンバー取り揃え、まさに「皇国の興廃この一戦」のその覚悟で、昭和三十四年三月一日、「吉本ヴァラエティ」と銘打って、席数六〇〇の梅田花月が華々しく開演したのでございます。

 しかし、幕が上がれば、客はたったの十七人。信じられない程の不入りとなった。この緊急事態に正之助、

「ドアホ! もう劇場なんて閉めてまえ! お前ら全員打ち首獄門じゃ」

 大喝一声、社員を並べて叱り飛ばすと、自ら陣頭に立って改革に着手した。その日の夜から劇場には、正之助の怒声が響き渡ったのでございます。

「おい、金のかからん奴はおらんのか! 高い役者はもういらん。役者がおらんなら、表歩いているおもろそうな奴を舞台上げ。それなら金掛からんやろ。それに脚本にも金を使うな、安くせい!」

 すると、演出補助をしていた、東宝から吉本に入った竹本浩三に声をかけた。

「おい、お前名前は?」
「はい、竹本と言います」
「お前、これから本書け、花登はんの脚本は高いさかい」
「私は東宝でコントしか書いてませんけど、書けますやろか…」
「ええから書け。社員なら書き賃いらんやろ」
「はい…、分かりました」

 こうして、後に吉本新喜劇へと続く専属作家の竹本浩三が誕生したのでございます。

「竹本、ええか、松竹の、あの喜劇を真似したらアカンで。あんなもんに敵うかい。ええか、吉本はドタバタ喜劇や。テンポよく、全員が舞台をドタバタ動き回る運動会みたいな喜劇にしい」
「はい、分かりました」

 この正之助の言葉が、後の吉本新喜劇の骨子となった訳でございます。
梅田花月の初日は、目も当てられない程の大失敗でございましたが、実は、林正之助には、そんなこと、既にお見通しでございました。

 さらに正之助、これよりずっと以前に手を打っていた。その一つが、劇団員の補充でございます。
 梅田花月開場の昭和三十四年、この年の吉本入社に、素人同然の芸人候補を大量に入社させておりました。

 ざっと名前を挙げれば、花紀京、平参平、白羽大介、岡八郎、藤井信子、桑原和男、ルーキー新一、原哲男と、後の新喜劇を支えるメンバーがこの頃に吉本に入社しております。

 さらに、宣伝については、林正之助、開局間もないテレビ放送に眼を付けていた。
 梅田花月が始まる前年、昭和三十三年の冬でございます。花月開場に向け忙しい八田竹男に、正之助が声をかけた。

「なあ八田君。君、大阪テレビに伝手あるか?」
「はい。ありますが」
「ええこっちゃ。ほんなら、テレビで吉本の中継ができないか調べておいといてくれ」

 この一言が吉本の人生を大きく変えるのでございます。
 数日して、八田竹男は喜び勇んで社長室に駆け込んできた。

「社長、大阪テレビですが、来年、毎日放送と朝日放送の二つに分かれるんだそうです。そして、毎日放送は来年の三月開局だそうです」
「よし、三月なら、梅田花月も開場できるやろ。君に任すから、毎日放送に寄席中継を打診してみい。ええな、くれぐれも言うとくで、金は使うなよ」
「分かっとります」
「ほんならええ」

 正之助は、ラジオでのエンタツ・アチャコの中継を思い出していたのでございます。

「よし、テレビで中継されたら、最初は苦しくともお客は吉本の劇場に来るやろ」

 この狙いが的中いたします。
 日曜お昼に放送される吉本ヴァラエティの画面に現れた「うめだ花月から中継」のテロップ。これを観た視聴者が「うめだ花月ってどこや」と警察に電話を掛け、日曜の放送時間は警察署の電話がいつもパンクした。

 ついには、業を煮やした警察から「ウチは吉本の出先機関ちゃうで」と苦情が吉本に届いた。慌てて、中継の画面に梅田花月の住所を入れると、お客が徐々に増えていった。

 こうした数々の準備のお陰で、徐々に結果を出すと、梅田花月が開場して一年も満たない昭和三十五年の正月興行には、席数六〇〇の劇場に、なんと、入場者三五〇〇を記録した。
 この盛況ぶりを見て林正之助。八田竹男ら幹部を並べて、

「どや、演芸の吉本の復活や。梅田花月を開けて良かったやろ」

 初日の失敗はどこへやら。得意満面の林正之助、その鼻は、劇場の天井にまで届いていたということでございます。

 ユニークな人柄が伝えられる吉本興業の会長、林正之助でございますが、時代の流れを実に敏感に読み取り、その時代のメディアを巧みに活用した、その「仕掛け人の手腕」こそ、林正之助の神髄でございます。

 今のネット時代、林正之助が見たならば、果たして何と言っているのか、大いに興味のあるところでございます。
 吉本興業会長・林正之助の長い一席、お付き合い下さいまして、まことにありがとうございます。

                             完

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