【昭和講談】長谷川一夫「傷と引き換えた映画界の近代化」 第二回(全三話)

 恐る恐る部屋に入ると、そこには鴈治郎の他に二人のスーツ姿の男性が座っていました。
 一人は茶色のスーツに手にはフェルト帽という紳士で、これが松竹株式会社の若旦那とも呼ばれる、松竹映画下賀茂撮影所の所長・白井信太郎。そして、もう一人はやせ型中背でロイド眼鏡が目立つ神経質そうな男、実はこれが映画監督の衣笠貞之助です。

 長丸にとって、衣笠は初対面。何が起こるか全く想像のつかなかった長丸に鴈治郎が口を開きます。「なあ長丸、お前、映画の方でやってみいへんか」。この提案に長丸は吃驚。

 さあその真意というのはこうです。何とか映画で売り出したい松竹のキネマ部、そのためにはどうしてもスターが必要だと、白井は常日頃から思っておりました。その矢先、長丸の舞台を観た白井が衝撃を受け、長丸にほれ込み、どうしても松竹でスターにしたいという訳です。
 そこで衣笠監督まで連れ出して長丸の、言わば「首実検」をしようという、とことん本気の映画への勧誘でした。「どうや、衣笠君、将来性充分やろ」「ええそうですね」「手え出したらあかんで」「よう言いませんわ」。

 そんなやり取りがあったかどうかは別として、いきなりそんなことを言われた長丸は何と答えて良いか分かりません。
 まごまご、まごまごしていると、鴈治郎が長丸、白井のどちらにも言うでもなく「映画の方に貸す言うても徴兵まで。念を押しとくで」。

 昭和の初めといえば、まだ日本軍があり、軍は兵隊集めに徴兵制を取っており、二十歳になれば全国の男子に徴兵検査がありました。つまり二十歳になったらまた歌舞伎に戻すぞ、という念押しです。
 この提案に長丸は安堵します、「また舞台に戻って来られる。大旦那さんは私のことをしっかりと考えてくれてはる」。長丸の目には知らず覚えず涙が頬を伝ったといいます。
 こうして、長丸は一時的とはいえ映画の世界へと転身いたします。その時に、成駒屋から林長二郎という名前まで頂きます。

 長丸改め、林長二郎のデビュー作は若侍が剣を振るうという「稚児の剣法」。映画は初体験、しかし、化粧を施し、カメラの前に立つ姿は颯爽として眉目秀麗。見学に来ていた松竹の白井信太郎も「これで撮影所は安泰だ」と太鼓判を押したというほど。

 デビュー作「稚児の剣法」は無事クランクアップ。封切りを待つことになりましたが、ここが天王山とみた松竹映画は、この「稚児の剣法」の大々的な宣伝に乗り出します。ポスター、チラシはもちろん、石鹸や手ぬぐい、櫛などの景品を山の様に製造、しかも成駒屋から花菱紋の許可をもらい、その景品すべてに家紋を付けたという派手な趣向です。

 この宣伝費の総額が、当時の金額で二万五千円。これは映画三本分の費用だったそうです。その甲斐あってか林長二郎のデビュー作「稚児の剣法」は見事大ヒット! 松竹の映画関係者は皆歓喜に沸いたと申します。
 しかし、一番喜んだのは若干二十歳の林長丸本人でしょう、映画役者への不安がこれで自信に、さらに確信へと変わる訳です。

 映画に転向した林長二郎。デビュー作「稚児の剣法」がヒットし、その後も映画は大入り続き。こうなると二十歳の徴兵検査までという約束など何処吹く風で、映画にのめり込んでいきます。

 そして、昭和五年、長二郎二十二。大師匠である中村鴈治郎の強い勧めで、なんと鴈治郎の次女・たみ子と結婚。翌年には長男の成年を授かります。
 しかし、昭和十年の二月、義理の父となった中村鴈治郎が他界し、その二年後の昭和十二年の二月、鴈治郎の追善公演が行われます。

 この追善公演、興行主の松竹の強い薦めで、長二郎は六つになった息子成年の初舞台とします。これが当たり、大入りの大盛況。長二郎と妻のたみ子の二親とも大いに安堵し満足した訳です。

 ところがその一月後、映画撮影の楽屋に、松竹から演劇部会計課課長の仲野敦という男が訪ねて参ります。「林さん、申し上げ難いのですが、松竹がお貸しした息子さんの初舞台の費用、いつ頃お返し頂けますでしょうか」。この申し出に長二郎は驚いた。

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