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筆48 コロナ・ショックは、「身の丈」にあった世界を目指す契機

国家という枠組みの限界
新型コロナウイルスの感染が世界的に拡大し、人類社会は現下、暗然たる状況にある。

移動して集合することにより、相互の信頼関係を通じて文明を築いてきた私たち。その、特徴的である手段が今、阻まれている。

幸いにも、私たちは「言語」という手段を有しているから、これを以てこの、巨大な文明は充分に維持できよう。一方で、言語は私たちに分断をもたらしもする— 新型コロナウイルスは、私たちの弱点を炙り出すのである。

分断は、絶え間なく各所に差別や偏見を生んできた。言語によって私たちは一つにまとまることもできるが、反対に、他者とのあいだにある差違を際立たせ、壁を生んだり縄張りを広げたりすることもできる。それらは言語の作用だが、うち後者の一例として「国家」が挙げられよう—「国家を単位とした世界システム」と呼んでも好い。国家という枠組みのなかに生存することを基調とするなかで、私たちはどのようにして有意につながり合うことができるのだろう。

私たちは、言語によってか、他者とつながるとき、どうしても相手の文化や出自を意識する。つまり、自他とのあいだの差違を取り立てる。国家の存在やその働きは、これを助長する。国籍は最たる例である— 有形化されたパスポートなるものは、視覚的に助長するものだ。

新型コロナウイルスの脅威に私たち皆が直面しても、国家を単位とした、現行の世界システムを従来のまま採用しつづける限り、私たちが“ワンチーム”となろうとすることは空論に帰するだろう。国家は原則として、それ自体の利益に適う選択を採る。たとえ、その最高法規において、国際社会の安定を求めると高らかに謳っていても、自国の利益に反する場合には、協調のための選択も、原則として採らない。であるならば、私たちがワンチームとなれる見込みは限りなく薄く、そのバラバラな“まとまり”に入った多くの間隙から、強かであるウイルスは、私たちの都合など顧みないで忍び入ってくるだろう。そうして、私たちの抱える分断を、より深くするのである。

社会の縮小を試みる
では、どうすることに私たちは望みを見出せば良いのか。明確な解答はほぼどこにもないが、しかし、個人的にキーワードとなり得ると考えることは「身の丈」である。

私たちは嘗て起こった種々の革命を機に、さまざまな面で拡大を果たしてきた。そのうち経済的な拡大は、物理的な犠牲を多く払った— 精神的な、いわゆる自己犠牲もまた多大であるが。結果としては、自然の有り様が著しく変容させられ、それに依拠する私たちはネガティヴな反動を強く受けた。現代の歴史を見れば、私たちがこれに自覚的なときはあったし、現に今もあるが、未だ充分ではない;今なお貪欲に拡大を追求しつづけ、私たちの住処である、この惑星に重大な犠牲を払わせていることに、見ざる振りをしている。今般のパンデミックは、そのツケを実に分かりやすく示している。

私たちは太り過ぎた。そろそろ本気で, “ダイエット”をしなければならない。この危機が私たちを見舞っても、人口は相変わらず増えつづけるだろう。しかしそれが、あらゆる不調を地球に、そして私たち自身にもたらすであろうことは、この危機から学び得る教訓が、痛いほど教えてくれる。

私たちにとって、地球は暮らすに足り過ぎるのかも知れない。仮に人類社会が、身の丈にあった”体重”までダイエットできたとしたら、そのとき国家という枠組みが必要なのか、あるいは有用かは明らかでない。もっと原始的な枠組みで、豊かに生活ができるのかも知れない。

これまで、国際連合やヨーロッパ連合、各種EPA/FTAなど、諸々の取組みは政治の役割のもと施されてきた。だが、結局のところ、言語が私たちにとって天与である「個性」の力を発揮させ、逆説的ながら、まとまることを志向させて自ずと分かつことを促している。

私たちが同盟を組むのはなぜだろう。私たちがワンチームを目指すのはなぜだろう。

そこに敵がいるからだ;闘いがあるからだ;勝ち取らねばならぬものがあるからなのだ!

斯くいう私自身も、私たちが身の丈に合った在り方を志向することで、分断が解消されるかは知らない。けれども、私たちが今抱えている諸問題のほとんどは、不必要なまでの「拡大」の歴史に端を発している、ということは確かだと思う。どの程度の規模が身の丈なのか、どのようにしたら身の丈になれるのか、身の丈になれば果たして諸問題は氷解するのか、そもそも一度拡大したものは— 宇宙論における一説のように— 縮小することはできないのか……はたまた、縮小すること以外に“正しき”途(みち)があるのか。

何れにせよ,「お前らはこの惑星で出しゃばり過ぎだ!ここらでちょっと引っ込め!」と、新型コロナウイルスの感染拡大によって、自然から手厳しいお叱りを受けていると捉えることが、道徳的にいって、倫理的にいって、哲学的にいって妥当であると、このところ私は感じるのである。

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