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私は一人で生きていける、大丈夫(課された使命)

 ひつじの刻、母親から電話を寄越せとのメッセージ。大抵こういうとき、内容は陸でもない。思うに無視するが最善だ。
私はこの類のメッセージをもらうとき、嘗ては大いに思い悩んでいた。そして、割かし正直に応えていた── 親は自身の要求や願望を、大方、否応なしに押し付けてくる。然るに最近は、自ら励まし、動揺する心を落ち着かせられるようになった──「自分は一人で生きていける、大丈夫」と。
相変わらず同類のメッセージを確認した瞬間と以降の暫時は、今でも多少は思い悩む。が、それは緩やかに内観され鎮められていく── 自分を安心させる術が身に付いたと言えるだろうか。せっかくなので「自分に備わった強さに自覚的になってきた」と信じてみる

 いつまでも、どこまでも、愛の偏った親は子につきまとう── 心理的に、時に身体的に。そこから逃れるのは容易でない。親子関係というのは、実に攻略し難い。幾ら時間と労力を掛けても、改善されず寧ろ悪化していく気にすらさせられる。
いわゆる”毒親”への最善の対処法は距離を取ることだが、親子であるが故に英断に踏み切れず、いつになっても親の射程のなかをウロウロするだけのことが如何に多いか。恐れが邪魔をし、親の影響力を振り切れない。親が植え付けた批判・否定の精神は、しっかりと子のなかで根を張っていて、根こそぎ除去するのは至難の業。いつもイイところで、肝心なところで、時としてどうでもイイところで、不意に且つ執拗に芽を出してくる。摘んでも摘んでも、ひょっこり懲りずに芽を出してくる。親の持つ愛の偏り振りは、驚くほど巧みに内部化されている。これを融解して洗浄するには、およそ”人格の再構成”ともいうべき大事業を成す覚悟を要する。
しかし、偏向した自己愛という負の遺産を次世代へ継がないためには、それが唯一の手段である、と断言せざるを得ない……経験則がそう私にいわせる。ゆえに、大げさではない── 私の感覚が歪んでいなければ。親の見えざる手は、ちょっとやそっとでは振り払えない。ある種の自己改革が必要である。それには他者の助けが必要だろう── 決して終始、独力では成し得ないだろう。しかも,「他者の助け」といっても、適切な「他者」によるものでなければならない── しっかりと自立した、自他の境界の線引きを知っている者である。

 私は平生「自分は一人で生きていける、大丈夫」と(密かに)声を掛けている。そう思えるのはやはり他者の影響があるから── さまざまな書物などから受けた影響だ。けれども、長期に亘って継続するには、もっと大きな影響力がきっと必要である。一人でも先天的な強さを発揮はできるが、それでも、ある面においては脆く危うい。
私が今やろうとしていることは、極めて偉大なことだ。なぜなら、親ができなかったことだからだ。親が成し得なかったことを、私は遂行しようとしている。だから偉大なのだ。私は、きっとできる!と信じている。いや、最早できなければならないのだ:私に課された使命を、まっとうするために


※「吐露ノート」28篇目(2020年7月9日(木)執筆)より

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