その自力解決は孤学ではありませんか?

課題提示→自力解決→グループ学習→全体共有→ふりかえり

これは、よくあるパッケージ型授業の流れではないでしょうか。
もちろん、このような型を学び、身につけることは大切だと思います。型があるから破ることができるわけですし、型がなければ、「かたなし」になってしまうと思います。
しかし、
このパッケージ型授業の課題提示後の自力解決についてはいささか疑問を感じます。
授業者の中には、
・自分で考える時間を設定しないと考える力が伸びない
・すぐにグループにしてしまうと、自分で考えずにすぐに相談したり、友達の考えを写したりしてしまう
・一人で考えることが自力解決なのだ
と考えている方もいるかと思います。
しかし、これらは本当なのでしょうか。
逆に、
・解決の糸口を見つけることができずに思考が止まっている
・あっという間に解けてしまいすることがなくなっている
・本当は相談したいのにできないで困っている
こんな姿はないでしょうか。

そう考えると、課題提示後すぐの自力解決は「孤学」になる可能性が高いのではないでしょうか。
石井順治氏は「「学び合う学び」を生きる ”まなざし”と”内省的実践”がつくる授業」で次のように述べています。
「なんとしても避けなければならないことがある。それは、学びを「孤学」にすることである。
自力学習とか個別最適とかという用語を一面的にとらえ、一人ひとりを分断してしまうと、学びに格差が生まれ、学ぶ意欲が薄まるとともに、他者関係の築けない人間をつくってしまうことになる。
人は一人では生きられない。人生は他者と協同することによって豊かさを増す。学びも同様である。困難さに向き合ったとき、学びに行き詰ったとき、ともに学ぶ他者、支え合える仲間がいることで、その学びを全うできる。 学びには子ども相互のつながりが必須なのである。最大の敵は「孤学」である。」
また、
「教師は、自らの職を自覚すればするほど、「教える」ことに偏る危険性を有している。どの子どもも分かるようにしたい、できるようにしたい、そうした思いが過ぎると、どう教えるか、どう分からせるかという方向に走ってしまうからである。そうなると、授業における学習は、子どもにとって、与えられるもの、教えられるものになってしまう。
楽にすむこと、すぐに分かることは、深まりにくい。すぐにではできないこと、分からないこと、困難なことに挑み取り組むから学びが生まれ、人として成長することができる。
だから、どんなに善意から発したこであっても、分かりやすくすることだけに陥って、子どもの育ちを妨げるようなことになってはならない。教師の仕事は、安易に教えるのではなく、子どもの取り組みを生み出し、見守り、方向づけ、そこから生まれた子ども自身の疑問や考え・気づきに基づいて、子どもによる学びを促し、子どもが自ら発見できるようにしていくものでなければならない。」
とも述べています。

パッケージ化された授業は、教師の考えたレールの上を子どもたちが進むことになる可能性が高くなります。また、石井氏が述べているように「教える」ことに偏る可能性も高くなります。
授業の中の自力解決が、本当に子どもたちのためになっているのか、「孤学」になっていないか、見つめ直す必要があるのではないかと思います。

参考引用文献
「学び合う学び」を生きる ”まなざし”と”内省的実践”がつくる授業 2022 石井順治 ぎょうせい
note 子どもたちの「今ここ」を出発点にしよう 村山豪
note 「45分」は「子どもたちの時間」第100回e-cala cafe  村山豪
note それって子どものためになっているのかな? 村山豪
note 子どもをどう見るかが大切 村山豪
note 協働的な学びの中に個別最適学びがある 村山豪

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