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共同体の温かさは排除から生まれる(バカと無知より)

バカと無知 橘玲著

バカと無知に、共同体について記載された箇所を抜き出してみました。
”きょうどうたい”という響きから感じる柔らかなイメージとは、随分違います。
一方、ヒトが進化して行く過程で、絶対必要なものでした。


 わたしたちはどんな理由でも、グループ分けされたとたんに、たちまち「内集団」を形成し、そのメンバーに対して、「外集団」よりもずっと親切に振る舞う。

(中略)

 共同体が内集団そのものであることには、ほとんど触れない。大好きな「人情」や「ぬくもり」、あるいは「誇り」や「自己犠牲」は、進化の過程でヒトの脳に埋め込まれた公社会性、すなわち「身びいき」から生まれるのだ。
 内集団が成立するには、原理的に外集団が存在しなければならない。家族や地域、学校や会社、国家や民族などの共同体からもたらされる安心感やあたたかさは、共同体のメンバーでないものを排除することから生じる。保守であれリベラルであれ、すべての共同体主義は「排外主義」の一形態なのだ。

(中略)

 現代の進化論では、ヒトが内集団に対してやさしくなることと、外集団に対して残酷になることは、同じコインの裏表だと考える。外集団との抗争に敗れて皆殺しにされないためには、内集団の結束を固めなくてはならない。仲間との絆は、仲間でない者たちを排除し、限りある資源を確保するために進化した。

(中略)

 人類の歴史の大半は「リベラル」でなかったのだから、弱い集団が強い集団に絶滅させられ、その遺伝子の痕跡だけが残ることが頻繁に起きただろう。その軌跡はいま、古代骨のDNA解析で明らかにされつつある。
 人類の歴史のなかで内集団の規模は拡大し、近代以降は基本単位が国家になった。だが、残念なことに、内集団が外集団を必要とする以上、「人類という家族」になることはない。

(中略)

 人類はいまだに進化の呪縛にとらわれていて、だからこそ、いつになっても同じ愚行を繰り返すのかもしれない。


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