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お経とプログラミングと哲学とAI、そして対話

最近、出会いに恵まれてるなと思うことが多い。
こんな田舎のお寺に暮らしているわけですが、SNSがあったり、誰かが紹介してくれたりで、出会うはずもないようなトップランナーたちと次々とご縁を結ぶことができました。

誰かと出会うと自分の興味の幅が広がります。実はこの1年間はけっこう勉強しておりまして、スピリチュアルに興味を持ってから、物理学、歴史、哲学あたりが面白いなと思いながら、一周まわって、仏教(浄土真宗の七高僧、インド中国の歴史の流れ)にテンションがあがり、ここに来てプログラミング熱も上がり始めております。

カオスです。欲張りすぎです。
とてもじゃないけど、この一つ一つはパパっと勉強できるものではない。でも、脳内多動状態の僕にとっては、いろんな情報をバーッと頭に詰め込んで、あとは無意識がなんやかんやといい感じにつないでくれるなんじゃないかと期待しています。

論理と語り合うこと

こんな性質なので研究者には向いていません。研究はしっかりと論理的に積み重ねないといけないので、もっと綿密で慎重な思考が必要になります。僕の論理は飛躍したり、自由な妄想がさしはさまりますので厳密性には欠けてしまいます。

研究者の方の思考をみて劣等感を抱くことは少なくありません。僕もそういう力がもっと欲しいなと思わなくもありません。20代のときはなんとかしようと頑張ってもみましたが、どうも自分には合わないようです。

しかしながら、しばらく時間が経つと、自分のこの感じがだんだんとしっくりくるようになってきました。僕は一人でできることはあまりありませんが、たくさんの人と出会って語り合い、その中で楽しいことを見つけるのが好きなようです。

お経はプログラミング?

プログラミングはパソコンの言語で、プログラミングを書くことでパソコンが動いてくれます。アプリが動くのも、HPが見れるのも、noteだってプログラミングがあるおかげで便利に使うことができます。
お経とプログラミンは実は似ていて、どちらも言語で論理を構築しているというのは同じです。プログラミングの言語は、パソコンが理解しやすくなるようにとてもシンプル。ルールを覚えるのは大変ですが、私たちが日常で使っている言葉と比べると、構造化が高く理解はしやすい。パソコンで動かしたいことをなるべくシンプルに表現します。

お経も実は同じ。人間というもののプログラミングをしているようなものです。人間がどのように動いていて、どう動けばより生きやすくなるのかを教えてくれます。シンプルに書いてあるところもあれば、比喩表現がされることもあります。難しい言葉で、複雑な分類がなされているところもあって、これは難しい。

結局、どちらも学んで理解しようとするのはとても大変ですし、難しい。もちろん、専門家としてはどちらもしっかり理解する必要がある。なんだけど、普段、パソコンやスマホを使っている私はまったくプログラミングのことは分かっていない。分かっていないけど、noteは使えるのです。
人生も同じ。仏教はまったく分かっていなくても、それは進みます。それなりに楽しいこともあるし、つらいことの乗り越え方もなんとなく身についている。十分といえば十分なのです。

もう一歩、深みを覗きたいという欲求

最近、哲学やAIを学ぶことがちょっとしたマイブームです。
プログラミングに何度も挫折している僕にとっては、自然言語でプログラミング的なことができるようになるAIはとても魅力的で、これは楽しすぎます。でもAIを学べば学ぶほど「人間ってなんだっけ?」となります。

AIは人間の脳の思考過程を再現してくれます。もはや人間よりも早いし、クオリティも高い。もちろん専門家のそれと比べると不十分なところもありますが、私自身の脳みそと比べるとはるかにレベルが高い。
最初は興奮して使っていました。しかし、ふと気づいたんです。

「自分っていらなくない?」

今まで一生懸命勉強したり、身に着けてきたもの。これから頑張りたいと思っていること、すべてAIにはかなわない。AIに勝てるような能力を持っている人はよほどの天才か、おそろしい努力を積み重ねた人だけ。自分がちょっとそうなれるような気はしない。

そもそもプログラミングを学びたいと思ったのは、ゲームが好きだったから。自分でも作ってみたいという気持ちは子どものころからあった。ワードプレスでHPができたときは嬉しかった。HTMLやCSSもなんとなく勉強はしていたが、自分で作れる気配はなかった。

人間ってなんだっけ?となってから哲学も気になるようになってきた。長い歴史のなかで今の自分と同じような気持ちになって、天才的な頭脳で考え抜いた人たちのアイディアを知ることができる。自分等では思いつかないような視点がたくさんある。

私たちが、「まなびたい」と思うのは、今の現状では満足できずに、もう一歩、深みを覗きたいという欲求が湧き上がってくるからである。
今のままでいいや、と思っている人に勉強させたり、教えようとしてもそれはあまりうまくいかない。自分から知りたい、と思う気持ちが人を動かす。

私は僧侶としては仏教をみんなにおススメするのが役割だ。でも、みんなが興味を持つかどうかはタイミング次第で、自分にはどうすることもできない。たぶん、今の日常に満足できず、なにかにモヤモヤしているときに、もう一歩奥に答えがあるような、ワクワクするような怖いような、その先をちょっと覗いてみたいという欲求があるときに仏教はおもしろいんじゃなかろうか。
そして、そこでは厳密な論理を追っていく人もいれば、僕のように自由に連想を広げるきっかけにするという人もいると思う。プログラミングもそうだけど、ちゃんと動くかどうかは試してみないと分からない。書き方は実はたくさんある。
その人にあった、論理を繋ぎ合わせて、自分の人生にとってうまく作動するかどうか試行錯誤する。そんな感じではなかろうか。

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