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私たちは簡単にころせる
ねえ、青い歌うたおうよ。青春みたいなやつ
そう言って隣の女の子に甘えたように抱きついて、顔を見上げる。抱きつかれた真ん中の女の子も更にとなりの女の子も座っているのに跳ねているようなエネルギー。笑い声が弾ける。
えー?青い歌ってどんなの?
学校でアンジェラアキ?歌ったよ
電車の座席シート3人ぶん。その空間は紛れもなく女の子たちだけの世界で、そこだけ何だか光って見えた。
たぶんわずかな瞬間にしか立ち会えなくて、過ぎ去った者にはもう味わえない類いのもの。
今のご時世に鑑みれば、密であるし、騒がしい。
だから簡単だ。彼女たちの青春をころすのは。
ひとこと、「こんなときに何を考えているんだ!くっついて騒ぐな!」と言ってしまえばいい。彼女たちの儚い座席シート3人ぶんの世界はいとも容易く壊れてしまうだろう。
実際に彼女たちをころした人はいなかったけれど、堂々と私は正しいことをしているとあっさりと、ころしてみせる人は確かに存在している。
常識では確かに正しいのだから、もしも女の子たちが責められていたら文句は言えない。
子どもは親を頼って生きていくしかないのだから、どんな虐待をされても愛するしかない。
強い立場からの暴力という容易いことをすごいことのように見せて一般の代表者然としているひとはいる。
正義は現在の強者への言葉だ。強いから正しいのだと他のものへは振り返らない。
杉原千畝みたいに未来から見たら正義である行動も、その瞬間は正義とみなされていなかったのではないか。大きな正義のうねりのなかで抗った一粒の信念。
私は学生のころ青い歌をうたおうよ、なんて言わなかったし、言われなかった。だから余計に彼女たちが輝いて見えて、彼女たちを利用して美しい夢をみたような気になっている。
本当は盛り上がっていたのは、歌おうよと言った女の子だけで、他の2人はそんなに歌いたくはなかったのかもしれない。ひとりはこれから彼氏と会うんだけどなーとか思っていたかもしれない。別れたあと寝る前に他の2人はLINEで「あの子電車なのにうるさくて困ったよねー」「カラオケも用事あったから行きたくなかったんだけど」とかやり合っていたかもしれない。
その2人との温度差に気づいたとき、青い歌をうたいたかった女の子の何処かがころされる。
それともただ一人だけが冷めた視点で佇んでいて、私は冷たい人間なのかなと密やかにうろたえているかもしれない。
彼女は自分の冷たい部分を必死にころしているのかもしれない。
私は常に何かをころして生きている。食べものは生きていたもので、生きているものだ。スーパーに並んでいるものは誰かが私の代わりにころしてくれたのだ。
自分の細胞に取り込みやすいように胃が食べものを溶かして細かくしているだけで、私の中で食べものだったものは生きている。
新しく細胞になるものと、排泄され更に微生物が食べて分解し土になり養分となるものと。そして私にとっての食べものが育つ。
完全に「無」になるものは存在しない。すべては流動的で境目などないのに、何故こんなにも穴が開いたような寂しさは起こるのだろう。ドーナツのような円環。
その、穴の空いたところが自分が感じる人生とやらなんだろうか?
環状線を果てなくまわりつづけるような。原宿駅に何百回、何千回と停まり続けて、何処から乗ったのだか もう分からない。
私は幾年もこの場所に停まっている。でもすぐ流されていく。
流れ着く先は ない。
時間が直線だなんて思い込みで、本当はきっとずいぶんとグニャグニャして曖昧模糊なものだ。
果ては果てだと思ったときに行き着く。過ぎ去るものは本当はない。
彼女たちのうたは青いのだろう。何をうたってもきっと青くなる。それはとても美しい。
彼女たちは何処かの駅で降りただろう。ちがう電車にも乗るだろう。
私も何処かで降りる。 青い海でも見に。
こちらの企画に参加いたしました。好き勝手に書いてみたのに自分の書きたいことには全然到達しないなあ、と歯がゆくもあり、楽しくもありでした。素敵な企画をありがとうございます。みなさまの素晴らしい文章に打ちのめされております。
つけヒゲに憧れているのでつけヒゲ資金に充てたいです。購入の暁には最高のつけヒゲ写真を撮る所存です。